10月から、沖縄県内のある企業の研修を担当させていただいています。以下はその概要をまとめたものです。

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リーダー研修の目的とプログラムの基本的な考え方

外的動機付け

事業経営において最も重要なことのひとつは、従業員の力を最大限に引き出すことである。多くの経営者は、このためには、いわゆる「アメとムチ」こそが、従業員の動機を掻き立てる有効な方法だと考えており、実際、現代経営はその原理によって労務管理されている。従業員に対して「外的な動機付け」を与えてコントロールするという手法である。この考え方に基づく運用はシンプルである。①仕事の範囲と望ましい成果を明確にし、②好ましい行動と結果に対して褒賞を与える、というものだ。

しかしながら、この方法の欠点は、言葉は悪いが、オットセイに芸を仕込む方法と原理的にはまったく同じだということだ。オットセイにサカナをあげることで、ありとあらゆる芸をさせることができるが、同時に、サカナを渡さなければ、オットセイはピクリともしなくなる。経営が成果(サカナ)を強調すればするほど、従業員は成果を出さんがために近道を選ぶようになり、例えば長い時間をかけて顧客との信頼関係を築く作業など、本質的かつ重要だが地味なプロセスを省いてしまったり、場合によっては成果を形にするために不正を行ったりする。上司が見ていない場所では仕事への意欲を失い、何よりも、仕事そのものの楽しさを感じることが難しくなる。

内的動機付け

一方で、多くの研究と実証実験によって明らかになっている重要な経営科学的事実で、経営の現場においてはほぼ完全に無視されていることがある。「人間は外から動機付けられるよりも、自分で自分を動機づける方が、忍耐力、創造性、誠実さ、責任感、集中力、行動力、持続性、つまり、生産性についてのありとあらゆる観点において圧倒的に優れている」という事実である。*(注1)。このような、「内発的動機付け」は組織の生産性に極めて重要な影響をあたえる要素でありながら、経営の現場では未だにこの重要性が真剣に受け止められていない。

*(注1) 例えば、教育心理学の研究において、外的動機付けではなく、内的動機付けに促された場合の方が、学生たちは概念をより正確に理解し、テストの成績に優れ、記憶が持続し、思考力、集中力、直観力、作業の創造性や質が高まるなど、優れた学習が成立することがわかっている。そして、なによりも、外的動機付けによる学習では、学生はその学習自体を楽しむことができないのだ。

統制だらけの社会

一般的には、自律的な意識と行動が妨げられるような「統制」が存在する場合、人は内的動機付けを失ってしまう。統制とは力による強制を意味するが、そのマイナスの効果は、明確な指示や言葉や規制はもちろん、それらに寄らなくても、非常に微妙なニュアンスや見えない意図が存在するだけで生じてしまう。統制の例は、金銭報酬、うまくいかなかったときに罰すると(暗黙に)告げること、締め切りの設定、目標の押し付け、監視、評価、競争などであり、これらのすべてが内発的動機付けを低下させる。つまり、人に圧力をかける行為は、ことごとく自律性を失わせ、物事に対する興味や熱意を奪ってゆく。さらに、経営が従業員を統制することで、内的動機付けが奪われた従業員は、その部下を外的動機付けによって統制する傾向が強く、結果として組織全体の成長を大きく阻んでしまうことになる。そもそも、経営者自身が内発的動機によって毎朝出勤していないということが、根源的な問題を生み出してもいる。

さらに、私たちの日常は、内発的動機付けを低下させる事柄に溢れている。目覚まし時計、時間通りに仕事場に到着すること、成果報酬、締め切り、ペナルティや評価など、私たちは統制圧力にさらされながら生きている。さらに言えば、経営計画の進捗管理も基本的に統制的であり、経営や管理職が良かれと思って実行しているこの管理体制そのものが、企業の生産性を低下させている可能性が高い。一般的な企業で働く多くの従業員たちが内的動機付けを失い、統制され、アメとムチに追われるように働き、自分自身を生きられないのは当然のことかもしれない。

オットセイ

内発的な動機付けを失った従業員は、まさにオットセイのような状態で毎日を過ごすことになる。報酬のため、または、自分の居場所を失わないために最小限の仕事をソツなくこなすが、自発的に仕事に取り組まなくなる。失敗を恐れ、挑戦を避け、創造性を発揮することができなくなる。創造的であるためには、多くの失敗が許容されなければならないからだ。成果が思うように上がらず、イノベーションを生み出すことができなければ、やがて自分に自信を失い、自己肯定感が低下し、現状維持を目的とするようになり、やる気のある部下にやんわりブレーキをかけ、組織全体の生産性を水面下で破壊してしまう。このすべては目に見えない変化なので、一般的な経営は認識することができない。こうして組織が蝕まれ、事業は苦しみの現場となり、毎日の課題をこなすだけの連続になっていく。

このような状態の従業員を「管理」しようとする経営者は、情熱のない、やる気のない、生産性の低い従業員を働かせるために、アメとムチがなくてはならないものだと考えるようになる。実際、アメとムチがなければ、従業員は適切に機能しないように見えるのだ。

しかし現実は、この経営者の統制的な管理行為自体が、従業員の内発的動機をさらに奪い、生産性を低下させ、企業内部の数々の問題を生じさせてしまっている。売り上げが上がらないこと、営業が目標を達成できないこと、コンペで競争相手に負けること、退職率が高いこと、人が集まらないこと、などは表面的な問題に過ぎず、これらの「問題」にどれだけ対処しても、目に見えない動機付けという根源的な問題に向き合わない限り、現場の作業量は等比級数的に増加する一方である。

リーダー研修の目的

逆に考えれば、経営の生産性を飛躍的に向上させるためのカギは、現場の従業員の、そしてひいては従業員に接する数々の関係者、取引業者たちの「内発的な動機付け」を奪わないこと(回復させること)、そしてその原理を理解し、現場において、自ら従業員の内的動機付けに働きかけるリーダーを育成することである。強い言葉を使えば、従業員を、オットセイとしてではなく、人間として扱う習慣を、経営者以下、組織全体に根付かせる必要がある。本リーダー研修プログラムの最大の目的はここにある。

「鏡」のプログラム

だから、私たち現場の人間がすべきことは、新たな対策などではない。そもそも、社会科学的にも心理学的にも経営科学的にも間違った統制的な管理経営をやめるだけで良い。良薬を飲む前に、毒薬を飲むことをやめれば人は健康になるのと同じ原理である。

このとき最大の障壁となるのが、リーダー自身の自己認識である。統制しないやり方で、従業員を内的に動機づけるためには、心からの誠実さが求められるが、それがなかなか難しい。人に対して誠実であるためには、なによりもまず、人に対して深い関心を持たなければならないからだ。一般に、地位のある立場にいる人ほど、自分が普段いかに人に関心を示していないか、普段いかに人の話に耳を傾けていないか、という事実を(まったく)認識していない。

「子どもを深く愛している」、「子どもの人生にとても関心がある」と心から信じている親も、実際子どもに関心があるとはまったく限らない。「従業員の声に耳を傾けている」と胸を張る経営者も、従業員に問うてみれば、同じ答えが返ってくることの方が少ない。最も厄介なことは、リーダー自身が「自分は人に関心を持っており、誰よりも人の声に耳を傾けている」と信じていることである。

同様に、自分は統制的ではなく、従業員の自由意志を尊重していると確信しているリーダーも、実際には統制的に振舞っていることの方が多い。「人を褒めたり、例を示して導いたり、人が本当に欲しいものや必要なものを与えているだけで、決して彼らを型にはめようとなどしていない」、と考える経営者であっても、第三者が注意深く観察してみれば、実際には人々に心理的な圧力をかけるために、あの手この手の報酬と懲罰を利用しているのである。

そもそも、「動機付けが本人の中から生まれない人たちに対して、どのように動機付けたらいいのだろう」。このように問いを立てたのでは、この重要な質問に答えを導くことはできない。正しい問いは、「他者をどのように動機づけるか」ではない。「どのようにすれば他者が自ら動機づける条件を生み出せるか」と問わなければならない。

本リーダー研修では、リーダーが自分自身の姿を写す「鏡」として機能することを重視している。もしその「鏡」の中に、非効率な自分を見つけることができれば、初めて自分の行動を「内発的に」修正することができるからだ。

リーダーに必要なことは、突き詰めれば三つしかないのではないか。

第一に、問題を特定すること。

第二に、人を信じること。

第三に、執着しないこと。

いずれも経営者の(心の)問題だが、不断の修練によってこの力を磨くことができれば、いわゆる経営努力とよばれるもののほとんどすべては不要になると思う。

その意味を多少補足すると、「問題を特定する」とは、100の問題を見つけるということではない。問題がどれほど多くても、それぞれの原因を辿って行くことで、少数の根源的な問題を特定することができる。ひとつ直せば100の問題が解消するような、根源的な問題である。言葉を変えれば、ひとつの問題を直すことで、ほとんどすべての問題が解消しない「問題解決」は、ボタンを押し間違えている。

また、多くの人は、症状を解消することが問題解決だと考えている。このような「問題解決」は対症療法に過ぎず、新たな問題を作り上げるだけで、社会や組織にほとんど寄与しない。例えば、クレーム処理が問題解決ではない。クレームが生じる組織的な原因を特定して根絶することが本当の問題解決であるが、現実にはほとんどの人はこれに関心を示さない。

「人を信じる」とは、「信頼に値する人間を選別して、自分の判断が正しいことを祈る」という意味ではない。信じるに値するかどうか分らない状態でありながら、無条件に相手の善意を信じて「騙される覚悟をする」という意味である。

しかしまた、これは相手に対して盲目的になることでもない。相手の善意を信じて、人間関係の行方を相手に委ね、正面から向き合うことで、相手の心の真実 が初めて明らかになるのだ。相手の心の真実が、結果として、悪意であろうと善意であろうと、得られた真実には千金の価値があるが、それは相手に身を投じて 「信じた」後にしか得られない。

「執着しない」とは、夢をあきらめるということではない。大きなことを望まないということでもない。人が聞いたら呆れるほど壮大な夢を、人生賭けて真剣に追うべきである。ただし、それがどれほど重要なものに見えても、結果に執着しないということである。人生をかけて積み上げたものであっても、必要に応じて惜しげもなく手放すということだ。

【樋口耕太郎】

政治家が政策やビジョンを語るとき、いつも違和感を感じていたのだが、その理由を自分なりに考えてみた。私は、ビジョンには4つの要素が不可欠だと思う。

第一に、ビジョンとは社会全体に寄与するものであるべき。例えば、沖縄のビジョンとは、沖縄を良くするためのものではなく、沖縄がいかに日本と世界に役に立つか、という視点に立つべきであり、それがひいては沖縄をもっとも繁栄に導くことになる。

第二に、「量」はビジョンではない。ビジョンとは常に「質」の議論でなければならない。「観光客を1,000万人にする」というのはビジョンではない。「10年以内に月への有人飛行を実現する」ことはビジョンである。

第三に、「何を」するかはビジョンではない。「なぜ」それをするかがビジョンである。「基地返還」はビジョンではない。「基地跡地で我々が何に挑戦するか」がビジョンである。アポロ計画が人を感動させたのは、ロケットを飛ばしたからではない。もっとも困難なことに挑戦することの象徴だったからだ。

第四に、実現できないものはビジョンではない。ビジョンを実現するための具体的な方法と有効な戦略は、ビジョンの重要な一部である。なぜそれが実現できるか、合理的に説明できないものはビジョンではないということだ。

記憶にある限り、私が個人的に、ビジョンと呼ぶに相応しい政策を目にしたことがないと感じるのは以上の理由による。我々の社会を毎日少しずつ良いものにするために、「ビジョン」を語ろうではないか。

・・・その中でも、我々が特に改めなければならない考え方がある。「経済成長が問題を解決する」という大前提である。

経済成長はビジョンではない。仮に経済成長を目指すとして、それによって何を実現したいのか、がビジョンである。

そして、次に問うべきことは、「それは経済成長以外では実現不可能か?」ということだ。現実には、経済成長がなくても実現できるビジョンが非常に多いことに気がつくのではないだろうか。

ところで、沖縄県には、県がまとめた沖縄21世紀ビジョン、内閣府総合事務局の沖縄経済産業ビジョン、沖縄経済同友会の沖縄21世紀経済ビジョン、民主党の沖縄ビジョンなどなど・・・沖縄は「ビジョン」花盛りだ。

それぞれの文章を何度も読み返しているのだが、まったく日本語の意味が分からず苦労している。・・・「地域資源などの掘り起こしや磨き上げによって、それ らを地域の宝・財産として共有します。また、地域社会を構成する住民や多様な主体の連携により、共助・共創型のまちづくりを進めます」・・・「都市再生の観点から跡地利用を推進し、人と自然が調和する生活空間を回復します」・・・

これだけ曖昧かつ意味不明の日本語を並べておけば、沖縄の将来がどのようになっても、「ビジョンが実現した」といえるに違いない。結局これをまとめた人たちは、沖縄の将来を「信じて」などいないのだ。信念が存在しないから心に響かない。これが山ほどある沖縄ビジョンの最大の欠点だと思う。

【樋口耕太郎】

現代社会の企業や組織において、従業員はどれだけ働いても幸福になりません。これは、幸福の実現が難しいからではなく、目的と手段を混同しているからではないでしょうか? 問題解決でも、経営計画でも、事業戦略でも、組織改革でも、でも、それが組織のほんとうの「目的」として相応しいかどうかを突き詰めて考えている経営者に、私は殆どお会いした記憶がないのですが、それは偶然ではないと思います。

ほんとうの目的を特定するために私が試みるアプローチのひとつは、現在の超・高望み、自分の中の究極の目標が120%実現した世界を想像してみることです。沖縄大学の同僚が先日、「どんなに綺麗ごとをいっても、母校の学力水準が低ければ、やはり胸を張れない自分がいる」とおっしゃっていました。私は、 「沖縄大学が数年後、2位以下を大きく引き離した沖縄随一の教育水準に到達し、入試難易度、志願倍率、偏差値、就職率、沖縄県政への人材輩出度、その他すべての面において、琉球大学を遥かに超える存在になったとして、それは、ほんとうに、私たちが望むことでしょうか?それが実現したとき、私たちは琉球大学よりも幸福になっているでしょうか?」と申し上げました。「必死で努力した数年間の後、今度は東京大学に対して、かつて我々が琉球大学に抱いていた気持ちを投影し直すだけにならないでしょうか?」

・・・現代に生きる私たちの大問題は、「私たちの思いどおりにならない現実」にあるのではなく、「私たちの願望は、私たちを幸福にしない」ということではないでしょうか? 自分のやりたいことがあり、貫くべき正義があり、それらの実現を妨げる制約が「問題」と定義され、その「問題」を取り除くプロセスが 「問題解決」だとされています。しかし、前述の通り、その「実現すべきこと」とは、ほんとうに価値のあることなのでしょうか? 排除すべき「問題」は、本当に私たちに有害なものでしょうか?

もっとも典型的なものは「経済成長」でしょう。私たちの社会は随分長い間、経済成長が社会問題の万能薬であるかの如く振る舞ってきましたが、どれだけ一人当たりのGDPが増加しても、私たちの幸福度は上昇しないどころか、低下し続けているという事実があります。自然を破壊し、人を飽くなき労働に駆り立て、家族を分断し、共同体を解体し、社会を疲弊させながら、人々の幸福にも寄与しないのであれば、私たちは一体何のためにそれをしているのでしょう?この問いに答えることができる政治家や経済学者はどこかにいるのでしょうか?

私たちは、お金を稼ぐのも、偏差値を上げるのも、結婚するのも、就職するのも、人間関係を改善するのも、おいしいものを食べるのも・・・それらのすべては、つきつめると、誰しもが幸せになりたいという「目的」のための「手段」であるはずなのですが、現実には殆どの場合、それ自体が目的となってしまっているように見えるのです。大学経営でも同じで、教育改革、組織改革、ナントカ改革、対策、管理・・・そのすべてが目的化している以上、学生と教職員の幸福という最も肝心なことは、永遠に先延ばしされています。

私の発想では、シンプルに、その逆をすればよいと思うのです。ひとり一人が幸せになるために、経営のすべて、仕事のすべてを行うということ。それがどんなに小さなことであっても、当たり前の日常業務に思えても、もう一度自分の仕事や、人間関係を見直して、いま、この作業が、目の前の人を、あるいは、その他大勢を長期的かつ本質的に幸せにするだろうか? つまり、「いま、愛なら何をするだろうか?」を人間関係のあらゆる接点において問い続けること。そして、 自分の言葉や行動が、人を幸福にしないのであれば、それがどれだけ重要なものに思えても、それを停止するということです。

そして、経営がすべきことは、この一見突飛な発想を肯定すること、みんなのこの作業を応援して背中を押すこと。みんなを勇気づけること、怖れを取り除くこと、結果に責任を取ること、これだけです。このような見方で、日常業務を見直すと、私たちがやるべきこと、やめるべきことが随分はっきりしてくると思うのです。

【樋口耕太郎】

一般に、私たちは「問題解決は難しい」と考えていると思います。でも、ほんとうにそうでしょうか? 実は、殆どすべてのケースにおいて、問題が解決する時は「簡単に」解決しています。確かに、社会には未解決の問題が山積みですが、解決した問題を振り返ってみると、解決までの苦労とは裏腹に、結局最後は簡単に問題解決がなされているということはないでしょうか。言葉を変えると、問題解決への長い道のりは、問題解決方法を見つけるまでの、試行錯誤のことを言い、問題解決自体は、ほんの僅か(簡単)なのだと思うのです。簡単な方法でしか問題解決することはできない、すなわち、問題解決自体は常に簡単である、という発想が成り立ちます。

これはちょっと禁煙に似ています。実は、苦労して、意思の力でタバコを止めた人は殆どいません。タバコをやめた時は、殆どの人が簡単に止めていますし、止められないときにのみ、禁煙が難しく、どこまでも意思の力が必要だと感じるのだと思います。禁煙に成功した人に話を聞くと、それまで、試した100回の禁煙は「難しくて」失敗したかも知れないけれど、成功した一回は、例外無く「簡単だった」と。禁煙は難しいものです。誰もが、100万回でも禁煙に失敗します。しかしながら、誰にとっても、例外無く、成功するのは(簡単な)たった一回の禁煙なのです。

同様に、殆どの経営者は、「経営は難しい」と口にしますが、少なくとも私の経験では、それはまったく事実ではありません。経営は極めて簡単なものですし、 再生しない組織など殆ど存在しません。経営を難しくしている経営者が存在するだけです。組織の中で、経営が難しいと言いふらしているのは、多くの場合経営者自身です。経営者が経営を激務だとか、難しいとか言いたがるのは、それによって自分の居場所が安定するからで、多くの従業員はその経営者の言葉を信じているという悲劇性(喜劇性?)があります。

そして、一般的な経営者が、経営における問題解決に成功しないのは、問題解決が難しいからではなく、そもそも、ほんとうの問題を知らない(特定していない)からでしょう。その証拠に、経営者に対して、「組織のもっとも重要な問題、これが解決すれば殆どの問題が解決するような、最大のカギは何か?」と聞いてみると、どんなに言葉を飾ろうと、その問いを突き詰めた先には、結局「分からない」という趣旨の回答が帰って来ます。それでも正直に「分からない」と答えるのはかなり誠実な方で、十中八九「経営はそんなに単純ではない」「あなたは、経営の本質を理解していない」「あなたは、経営がいかに激務かを知らな い」・・・といった答えを聞くことがになります。彼らは「いかに経営が難しいか」を説明しながら胸を張りますが、その発想こそが、「ほんとうの問題を特定することには関心がない」と告白しているようなものでしょう。そして、この世の中で、ほんとうの問題を知らずに、問題解決ができる経営者はいないのです。

現在選挙真っ最中ですが、どの政党にも共通しているのは、それぞれのマニフェストが100%実現したとして、豊かな理想社会がイメージできないという点で しょう。同様に、どの組織にも、経営計画・戦略が存在しますが、仮に、現在の経営方針が100%実現したとしても、残念ながら組織の明るい将来が開けるとは思えないものばかりです。それならば、そもそも、なぜそれが経営の目標なのでしょう?・・・問題解決を妨げている最大の問題は、私たちが問題を知らないということなのです。

すなわち、問題解決をする前に、そもそも論として、ほんとうの問題を特定するという根源的なプロセスが必要になるのですが、なぜ、これほど自明なことが、 殆どの組織でなされないかと言えば、組織の問題の大半の原因は、経営者自身によるものだからです。経営者は、自分以外のすべてを変えることで「問題解決」 を図ろうとする人種ですが、それは、ほんとうの問題(つまり経営者)の特定を避けるために、もっとも有効だという側面があります。以上の理由から、一般的な組織のなかで、ほんとうの問題解決をもっとも避けているのは、経営者であり、問題解決の試行錯誤のために大半の時間が費やされ、組織に無駄な仕事が増え、従業員は疲弊し、出口のない坂を下るような、二百三高地を戦うような現場が生まれているのです。そんな状態で、どれだけ問題解決を図っても、なるほ ど、「問題解決は難しい」といい続けて、経営者は任期を無事全うすることになります。テレビドラマ『坂の上の雲』で、日本海海戦を指揮して、当時世界最強水準のロシアのバルチック艦隊と戦い、奇跡の勝利を日本にもたらした、参謀秋山真之の台詞「無識の指揮者は殺人犯である」がリアリティを持ちます。

自分の「常識」から抜け出し、経営者が真剣に自分自身を変える決意をした瞬間、いかなる組織も短期間で再生します。禁煙と同じで、人が変わるということはとても難しいことですが、変わる時には、いつも簡単に成功するのです。ほんとうの問題は、誰にとっても辛い現実ですが、それから目を伏せると大きくなり、 向き合って直視すると溶けてなくなります。組織の再生でまずすべきことは、ほんとうの問題をまず見つめるということなのです。

【樋口耕太郎】

先日NHKドラマ「坂の上の雲」の総集編が放送された。海軍大学校における秋山真之の就任挨拶の台詞が話題になっているようだ。

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「ここに、戦術の講究を開催するに先立ち、諸君に明らかにしておく。私から戦術を学ぼうと、思わんでください。学んだ戦術はしょせん借り物でありますから、 いざという時に応用が効かん。したがって、みなが個々に、自分の戦術を打ち立てることが肝心であります。

然るにまず、あらゆる戦術書を読み、万巻の戦史を読み解いてみる。どう戦えばよいか、原理原則は自ずと引き出されてこよう。

実に我々指揮官が、乗員全員の命を預かっておる。すなわち、我々が判断ひとつ間違えば、無益に多くの血が流れる。実戦ともなれば、身を切るような判断を次々と迫られる。苦闘の連続です。私自身、己の足らざるに時として戦慄します。無識の指揮官は殺人犯なり。

我々を信頼して死を顧みず、働く部下たちを決して犬死させてはならんのであります。もし自分がその場の指揮官だったらどうするのか。いかにすれば正しい判断が下せるようになるのか。その答えを求めて、皆と一緒に考えていくのが私の授業です。」

(NHKドラマ「坂の上の雲」より)

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リーダーとマネージャーは根本的に異なる概念なのだが、一般に、この違いはよく理解されていないように見える。マネジメントは甲板を掃除するにあたり、その作業が整然と、最小限のコストで、最大の効果を生むよう、ヒト・モノ・カネをコントロールする機能である。リーダーシップは、その船が沈みかかっているかどうかを認識し、もしそうであるならば、甲板にいる全員の作業を即刻止めさせ、船底で水を食い止める作業を始める機能である。

マネージャーの「正解」は、部分最適解であり、リーダーシップの世界観、すなわち、全体最適の概念に照らし合わせると、もっとも非効率な作業であるかも知れない。

問題は、マネージャーは、自分が「正しいこと」をしていると誠実に信じていることであり(実際、彼は「正しいこと」をしているのだ)、リーダーは、ときにマネージャーの「誠意」と反対の決断を行わなければならないという点だろう。現場からは「非常識」、場合によっては「裏切り」と捉えられるかもしれないし、リーダーの「誠実さ」に疑問符が呈されたり、中には「頭がおかしい」と解釈されることもある。

それでも、リーダーが舵を切るのは、乗員全員の命を守るためだ。リーダーシップの本質とは、大量の選択肢の中から、正しい一つの選択を見つけるための知性と洞察力であり、それを実現する智慧と行動力のことだ。それがどれほど魅力的に感じられても、ほんとうに正しい一つの選択肢以外に対して、NOというのがリーダーの最も重要な仕事のひとつだ。誰しもがいやがる、重いNOを言うためには、心の中に燃えるような信念がなければならない。

リーダーシップが存在しないマネジメント組織では、有能なマネージャーの存在が却って組織の崩壊を早めることがある。沈みゆくタイタニックの甲板を「効率よく」掃除するようなもので、現場には報われない仕事が大量生産される。

リーダーシップの欠如は、マネジメントで補うことができないため、現場は部分最適を求める作業で埋め尽くされ、経営者は、「正しい」ことをしているのに、なぜ思うように機能しないのかと、いぶかしがる。多くの場合その原因は現場にあると結論づけられるが、自分は「正しい」ことをしているのだから、ある意味論理的だ。

マネジメント経営が、少なくとも長期的に機能しないことは、構造的な必然なのだが、問題が生じる度に、「予想外の市場変化」「不幸なアクシデント」「現場の人材不足」「取引先との予期せぬトラブル」などと説明されるのは、ニュースヘッドラインのお決まりパターンと言って良い。

逆に考えれば、沈まない(と考えられている)船にリーダーシップは不要である。(恐らく、日露戦争以降の)政治家や役人に、リーダーが存在しないのは、むしろ当然のことであり、規制された環境の中で、長きに渡って右肩上がりの成長を遂げてきた日本の経済界も、一般的にはリーダーを必要としてこなかったと言えそうだ。

例えば、電力、航空、金融などの典型的な規制業種や財閥の系列企業はもちろん、一般的な上場企業にもリーダーは不在だった。日本で上場企業の破綻が日常的になったのは、ほんの最近(恐らく95年前後以降)のことである。かなり乱暴に表現すると、日本という国において、リーダーシップという機能は、高度成長期以降それほど必要とされてこなかったのかも知れない。経営者といえばマネージャーのことであり、リーダーシップという概念は含まれていない。

経営が安定しており、リーダーシップを必要としない組織が、官僚化、形式化することはことのならいであり、実際「経営判断」とは、統合的・戦略的な視点を持たない、対症療法の連続であり、真に戦略的な結果を生み出す要素が組織内部に存在しない。

それでも、経営的に余裕がある時代においては、組織に多少の窮屈さはありながら、盤石な経営が揺るぐ要素はなかったのだが、ここに来て、人口動態と市場の質的な変化が急激に生じ、利益が急速に失われている現実に対して、政治、行政、経営者らは対応すべき糸口を掴めずにいる。

我々が直面している、経済、政治、財政、医療、教育、農業など、ありとあらゆる社会問題は、見かけのような問題ではなく、本質的にリーダーシップの問題なのではないか?マネージャーたちがいくら「解決」しようとしても、社会が混乱する一方であるように見えるのは、私だけだろうか?

例えば、90年代の野村證券NY本社。私が働いていた不動産金融部門は、600億円の利益をたたき出し、一時期全世界の野村グループの半分の利益を、たった一部門で賄っていた。今振り返ると、それはリスクを取り過ぎていた結果なのだが、誰も舵を切ることはできなかった。利益があり過ぎたのだ。一時期は、日系企業でありながら、ウォール街の大手を制して、不動産証券化市場のトップを走っていたこの部門は、後に、1999年のロシア金融危機に伴う債券の暴落によって、1000億円前後の損失を出し、ほぼ一夜にして崩壊する。

マネージャーは、利益を生み出している部門から撤退できない。個人の利益と立場の維持を目的として働いているためだ。リーダーは、自分のやるべきことと、 個人的な利益をまったく別のこととして認識する。自分が泥を被ろうと、金銭的に損であろうと、評判が傷つこうと、それよりも重要なことがあるのだ。

日本ではガリバーと呼ばれ、先進的な人材を輩出し、業界のトップを走ってきた野村證券ですら、当時から既にリーダーシップは存在しなかったのだ。それから約10年。2008年のリーマンショックに端を発した国際金融危機で、野村證券NYは再び数千億単位の巨額損失を被る。デジャ・ヴュかとも思えるその記者会見において、当時の古賀社長は「絶対に予測不可能な市場の変化」による損失であると説明していたのが印象的だった。

念のために申し上げるが、私は今でも心から野村證券を愛するOBの一人である。逆に、あれほど市場の先端で勝負していた野村證券でさえリーダーシップ不在なのだと、考えるべきだと思っている。それほど、この国におけるリーダーシップの問題は深く、かつ、目に見えない。

「坂の上の雲」で描かれた、秋山真之が輝いて見えるのは、リーダーという存在が社会から消滅してしまっていることの裏返しのように感じられる。リーダーとは、自分の損得とはまったく異なる価値基準で生きる者たちの総称である。どれだけ自分が傷つこうと、どれだけ損な役回りであっても、信念にしたがって行動する。本当の意味でその人のためになることであれば、本人から嫌われることも厭わない。誰に評価されなくても、不可能に見えても、全く滑稽に見えても、大義のために自分のできることを毎日突き詰めて生きる。散々厳しい生き方を歩みながら、誰にも評価されず、人知れず社会から消えて行くことを、覚悟して生きる。そんな無名の人たちのことなのだ。

【樋口耕太郎】

私が考える経営の本質とは、例えば、第一に、資本と事業とは無関係であるということ、第二に、企業価値と収益は無関係であること、第三に、コント ロールと生産性は無関係であることだ。逆に言えば、事業の問題の大半は、経営者がこれらの要素を混同しているところから生じていると思う。

資本と事業は別のものだ。殆どの経営者は、資本がなければ事業が成り立たないと考えているように見えるのだが、この発想は非効率なだけでなく、事業リスクを不用意に高める効果がある。

沖縄のように補助金が溢れているマーケットにおいてはこの弊害が特に大きい。若手事業家が起業するとまず補助金を獲得しようと考えるし、沖縄で「事業」を行うNPOやコンサルタントの大半は、何の生産性も生まずに、ただ補助金を消費するだけの存在になってしまっている。

商品があるにも拘らず、不況で少しばかり売れ行きが鈍ると、弱気になって資金繰りのために低利の特別融資や特別支援に頼る。この経営者は、「モノを作って売る」のが事業ではないということを理解していない。事業とは「売れるものを作る」こと、あるいは「作ったものを売る」ことをいうのだ。

補助金が大量に降り注ぐ基地経済のために、沖縄は恐らく日本で一番お金が調達しやすい地域だ。そのため資金繰りに窮すると簡単に融資に頼るが、「在庫を売る」ということが最も効果的なファイナンス(資金調達)のひとつなのだ。「資金繰りが・・・」と青い顔をして、条件のユルいお金を追いかける暇があったら、寸暇を惜しんで、火の玉になって、全情熱をかけて自分の商品を売るべきだろう。

ある「起業家」が、「お金がないために商品を仕入れることができません。どうしたら良いでしょう?」と相談に来たことがある。十分な前提が揃わなければ事業が成り立たないと考えている時点で、彼は事業家の魂を失っている。「商品がなくても、まず売れば良いではないか。誠実に振る舞い、お客様に信用頂いて、契約を取った後で、手付けを頂いた後で、必死になって商品を仕入れれば良いではないか。」

翻って、補助金が溢れる沖縄では、まずお金が存在し、のんびり給与をもらいながら思い思いの商品を作る。売れるかどうか不確かなであっても、もともと事業リスクをとっていないのだから真剣味はない。かくして売れないことが分かった段階で、急に弱気になり、延命のために追加融資を追いかける。

事業の本質は、100のものを110にすることではない。事業取引とは100→100と、0→10が合成されたものであり、付加価値とは常にゼロから生まれるものを言うのだ。100→110が事業だという世界観をもつ「事業家」は、まず100を集めようとする。100がなければ事業そのものが成り立たないと考えるからだ。そして、規模や資本や営業ネットワークの大きい事業ほど有利だと考える。・・・これらの発想は事業の本質とは異なるのだ。

第二に、企業価値と収益は無関係である。一般的な経営者は、このまるで異質な二つの要素を区別していないように思える。・・・収益を上げることが企業価値を高めることだと混同して解釈しているのだろう。企業価値が上がれば、結果として収益が生まれるが、逆は必ずしも真ではない。収益を上げながら企業価値を下げる経営事例は溢れているし、むしろ、そのようなケースの方が多いくらいではないか?そして当然ながら、経営者の重要な仕事は、企業価値を高めることであり、結果として収益を生み出す事業力を整えることであり、一義的に収益を生み出すことではない。

企業を本当に強くする要素とは何だろう?収益だろうか?資産の規模だろうか?資産に占める現金の比率だろうか?純資産の厚みだろうか?利益率だろうか?・・・一般的に企業価値の要素とされるこれらの一切は、私は、企業価値の本質とは無関係だと思う。実際、大企業や成長企業が高収益をあげながら、一瞬にして破綻する事例は珍しくない。これらの要素が本当に企業価値を表しているのであれば、なぜこのようなことが生じ得るのだろう?

それらのすべては(保有資産も含めて)過去のものであり、将来この企業が何をするか、何者になるかということとは本来非連続なものなのだ。

先日航空会社の幹部の方と議論した際にお聞きしたことだが、最近の「事業戦略」の重点は、経費削減と資本効率、特に機材の利用効率を高めるための「改革」だと言う。確かに、経費を削減すれば利益に直結する。1日3便飛ばしていた機材を4便・5便と飛ばせば当然資産あたりの収益が高まる。

利益が上がれば、フリーキャッシュフローが増加し、企業価値が増加すると解釈するのは、企業金融のイロハなのだが、本当にそうだろうか?

資産の回転率を上げれば数字上の利益は生まれるのだが、その影で従業員の作業負担は高まる。同時に人件費が削られ、増員が凍結され、現場の情熱に水がかけられる。同じ仕事でも一旦情熱を失ってしまえば、とても辛い「作業」になるのだが、これら一切の要素は経営(財務)上無視されるのだ。

フランチャイズビジネスでも、ポートフォリオをどんどん増やしながら事業を「拡大」するファンドでも同様のパターンが見られるのだが、競合などによって、 例えば単一ホテルの収益率が下がる時、企業全体の収益を維持するために、もう一つホテルを購入するというパターンが余りに一般的だ。

機材の回転率向上、ポートフォリオの拡大、経費の削減・・・、これらの一切は利益を生むが、企業価値を高める行為とは無関係である可能性が高い。企業価値に寄与しなければ、一時の利益を上げたとしても、競合が進めばやがて利益率は低減し元の木阿弥になる。長期的には現場が疲弊しただけだ。

先の航空会社の幹部に申し上げたことは、機材の回転率も良いのだが、思考実験として、世の中すべての航空会社がそれぞれ一社一機一路線しか運営していない状況を考える・・・。その時顧客が、他社ではなく、この路線をこの価格(又はそれ以上の価格)で利用するための理由とは何だろう?その理由を生み出すために、今日何をしただろう?明日何をするだろう?・・・これが企業価値に寄与する真の経営課題だと思う。

その「理由」がはっきりと理解できて、その「理由」をしっかり生み出すことができて、経営バランスが実現できて、それから機材効率、経費の見直し、ポートフォリをの拡大を検討するべきではないか?

マイナスの企業価値の上塗りはマイナスに過ぎない。問題は、マイナスの企業価値でも収益がプラスである場合、マイナス企業価値(=プラスの収益)を積上げて目先の利益を確保しようとする経営者が余りに一般的なのだ。

第三に、コントロールと生産性は無関係だ。企業を永遠に経営するという長期視野を前提とすると、生産性とは費用を削ることでも、資本回転率を上げることでも、まして従業員を長時間働かせることでもない。これらにはすべて上限があるため、永遠の持続性を担保することができないためである。

イノベーションは飛躍的な生産性の上昇をもたらす現象を言うが、その本質は世界観の転換である。例えば、今まで「マル」と思っていたものを「シカク」にしてみれば、生産量が著しく向上すると同時に、「マル」にするために必要とされていた資本や労力や顧客管理が不要になるかも知れない。

そのためには「マル」という成功体験と、現在「マル」が生み出している利益やシェアを手放す必要があるかもしれない。そこに(主として従業員に対する)コントロールの要素は存在しないどころか、その対極の現象が必要なのだ。

多くの経営者は、既存の成功を手放すことを恐れるばかりに、世界観の転換とイノベーションを恐れがちだ。競合によって企業収支の帳尻を合わせなければならないプレッシャーが生まれると、従業員と現場をコントロールして「生産性」を高めようとする。

結局自分の恐れを従業員に転嫁しているだけなのだが、経営者は自分の中にではなく、現場に問題が存在するという前提で、コントロールを更に強化する。不幸なことに、この方法でも短期的には十分に利益が確保できるのだ。その「成果」を根拠に経営者は自分の居場所を確保し、従業員をさらに管理する・・・。

一言で言えば、経営の現場は科学的でも合理的でも論理的でもないのだが、それは決して経営者の頭がおかしいからではない。彼らの恐れが真の合理性にもとづく判断を妨げているのだ。

リーダーシップの本質とは、覚悟する力、自分のエゴよりも人と社会を優先する力、理想を実現する情熱、嘘をつかない勇気・・・といったものなのだが、現代社会ではこれらの要素が顧みられなくなって久しい。私は、このことが企業価値を高めることを妨げている最大の要素だと思う。

企業価値を高めるために、利益ではなくてあらゆる人間関係と思いやりを優先し、成果ではなく人格でリーダーを登用する企業が生まれれば、それが持続性を失った我々の社会を変える一枚目のドミノになるだろう。

【樋口耕太郎】

トリニティのリーダーシップ論(pdf)

『トリニティのリーダーシップ論』は本稿で《その9》になります。リーダーシップについてもう半年書き続けていることになりますが、これほど長期間に亘っているのは、リーダーシップが経営バランスの概念と並んで、トリニティ経営最大のテーマであるためです。僕にとっては、リーダーシップについて集中的に考える機会を得、多くのことに思いを巡らすことができました。どのエントリーもそうですが、最終的な原稿をアップするためには、論理的な整合性があり、(実行する意志がありさえすれば)誰でも実行可能であり、現場で機能し、経営科学的に合理性が認められる内容であることは勿論、はっきりとしたインスピレーションがない限りは行わないように心がけています。また、事業を生態系になぞらえて理解するトリニティ経営理論において、ひとつのテーマは必然的にその他の多面的な概念に関連するため、多様な側面から複眼的に捉える必要があり、とても良い頭の体操になります。リーダーシップ、経営バランスの二大テーマは、特に包括的な概念であるため、より多面的に思考する必要があったと言えるかも知れません。

2007年7月30日のエントリー『経営バランス《その1》』で、トリニティ経営の概念を3Dジグソーパズルに例えましたが、パズルの各ピースが、マーケティング、金融財務、人事などの個別理論、パズルの組み合わせに相当する概念が「経営バランス」、完成したパズルを実際に動かすためのマニュアルが「リーダーシップ論」といったところでしょうか。僕が勝手にそう読んでいる、トリニティ経営の三部作、『トリニティ経営理論』『サンマリーナホテル人事考課に関する経営方針』『トリニティの企業金融論』は、それぞれ、包括的かつ基本的な概念、経営者と従業員の関係に関する概念、経営者と株主の関係に関する概念、を主にまとめたものです。ここまでのトリニティアップデイトの各エントリーは、比較的抽象的なこれらの概念を補足し、実際の事例やケーススタディ、例え話などを交えて、概念のメカニズムを具体的な経営現場のイメージと重ねて表現することで、現実的な応用を容易にする目的で構成されています。

トリニティ経営理論の一連の概念はノウハウではありませんので、「このようにすれば同様の事業的結果が生じる」ということを一義的な目的にしていません。サンマリーナで生じた現象をインスピレーションとして、事業経営の新しいフレームワークを経営科学的に構築する作業であり、その汎用的な世界観を提示するものです。地動説と天動説で例えると、「天が動いている」という従来の世界観の中で「合理性」を追求する作業ではなく、今まで僕たちが考えていた世界観そのものを「地動説」へと修正することで、何が「合理的」か、ということの意味を根本的に見直そう、という試みですので、経営合理性に関する説明が従来の価値観とことごとく異なるのはむしろ当然です。重要なポイントは、地動説、天動説のいずれもが正解だということです。…というよりも、全てが相対性の宇宙において、地球が動くということはそれ以外の天が動くということですので、地動説、天動説は同一の自然現象であり、両者の違いはひとつの現象をどのような世界観で解釈するかという、観察者の視点の違いに過ぎません*(1)。コペルニクスの以前も以後も自然現象としての太陽は東から昇り、西に沈むという点にはなんら変化はないのです。

反面、人間の行動科学では、視点を変えることで世界観が変わり、世界観が変わることで行動の全てが変わる、というパワフルなメカニズムが存在します。トリニティ経営理論の仮説のひとつに、「経営判断の大半は、経営者の個別の世界観に照らし合わせて合理的である」、というものがあります。経営者が経営判断を「誤る」のは、判断に「合理性」や「適切さ」が欠如しているためではなく、判断の前提となる世界観が「非効率」であるためで、この前提においては、個別の経営手法よりも、事業的に最も効率の高い「世界観」を構築する作業が、経営理論において重要な要素ということになります。天動説の世界観を常識とする多くの経営者は、経営判断を実現する手段として、マニュアルや規律や罰則や褒章や進捗管理などを駆使して組織行動を変化させることが一般的ですが、これらの方法は膨大な労力と時間を要し、効果も限定的で、一貫性に乏しく、「対症療法」的で根本的な「治癒」に至らない、という傾向があります。これに対して、経営者の正直で一貫した言動を通じて、組織の視点と、行動の意味を変え、新たな世界観を構築する作業に成功すると、その後の運用は殆ど自動的で、費用や労力は殆どかかりません*(2)

マスターリーダーシップの効果
さて、前稿までに「正直なリーダーは事業的に効率的である」という議論を展開し、その前提で、最も有効なリーダーのあり方を「マスター」と表現し、このようなマスターを組織のリーダーとして大量かつ反復継続的に(すなわちシステマティックに)発掘、育成、選別、登用するための組織論をまとめてきました。このようなマスターが「事業的に効率的である」ということの意味を補足したいと思います。

第一に、正直なリーダーシップは重要な事業戦略(特に営業、広告、商品戦略)になり得ることです。経営者やリーダーの価値観や人柄、リーダーシップのあり方、ひいては企業の意図が顧客に与える影響力は、一般的な経営理論において過小評価されています。例えばリーダーの価値観によって商品の売れ行きが変化する、という要素は殆ど考慮されていないと思うのですが、現実には、経営者の人柄がホテルの雰囲気やレストランの料理に如実に反映されます。ホテルの総支配人やレストランのシェフが変わったときは勿論、良い出来事があってチームの雰囲気が変化したとき、人事考課の方針が変化したとき、あるいはリーダーの意識の変化ひとつで、商品としてのサービスは確実に変化している筈です。現象が「目に見えない」、「数量化できない」というだけで、そこには事業の実体が存在すると考えるべきでしょう。

サンマリーナホテルでは、成果主義を全面的かつ完全に廃止し、①どれだけ人の役に立ったか、②どれだけ人間的に成長したか、という二つの考課を導入したその月から、顧客の満足度が著しくかつ継続的に向上するという現象が生じました。僕の仮説ですが、収益目標が全廃され、従業員はサービスの現場で「収益という真の意図を顧客に隠す」必要がなくなり、企業の在り方に嘘がなくなり、従業員と顧客の正直な人間関係の純度が一定水準を超え、顧客が圧倒的に反応するというメカニズムが存在するような気がします。人間関係において、もし誰かが親切な言葉を使いながらも、相手に冷たくしようという意図があれば、言葉よりも意図の方が確実に伝わりますし、どんなに高価な贈り物も愛情が欠けていることの埋め合わせにならないことは、誰もが経験することです。私たちは直感的に相手の意図が正直なものか、ごまかしなのかがわかるのです。真の意図が非常に伝わりやすいものである以上、いっそ経営者の意図は瞬時に全ての顧客に伝わる、すなわち企業は顧客に対して何ひとつ隠しごとができない、という前提で経営を行う方がよほど機能的だと思うのですが如何でしょう。

ちょうどこれを書いている3月21日の朝日新聞の社会面に、「朝日新聞社が全国3千人を対象に2月から3月上旬に郵送で実施した全国世論調査(政治・社会意識基本調査)の結果、いまの日本には『信用できない企業が多い』と思っている人は60%、『信用できない人が多い』も64%で、企業や人への不信感が目立つ」、という記事が掲載されています*(3)。企業が信頼に値すると考えられていない以上、いかに事業的な経営努力を行っても、商品開発に力を入れても、従業員の研修に費用をかけても、販売ルートを拡充しても、サポートセンターに多額の投資を行っても、投資額に見合う程には顧客満足度が向上しないのはむしろ当然のことでしょう。顧客は商品の信頼度を計る際、「何を買うか」よりも「誰から買うか」をより重視するということだと思います。どんなに収益を上げる能力が高くても、不正直な経営者を擁する企業が顧客から信用されるとは思えませんし、企業が信頼に値するためには、正直で信頼できるリーダーを選抜する以外の方法はないような気がします。

第二に、マスターリーダーを育てる組織は、実質的に「人材を増やす」効果があります。マスターリーダーの最大唯一の仕事は「人の役に立つこと」であり、彼らは人間関係を重視することで組織運営に高い能力を発揮するため、専門分野に関わらずリーダーシップを発揮することができます。このため、 マスターリーダーを擁する企業は、部門間の人事異動や、事業部門の統廃合において、組織内に担当可能な候補者を実質的に多数擁することになり、 大きく専門性の異なる分野間の管理職の異動が柔軟に実現しやすくなり、このようなダイナミックな人事は、成功すると組織をとても前向きに活性化するという効果があり、 一人のリーダーを選別するためには、およそ10年の期間と最低10人の候補者が必要だとすると、一人のマスターリーダーの存在は100人力の効果がありそうです。

第三に、マスターリーダーは事業範囲(簿外資産)を拡大する効果があります。マスターはリーダーシップを発揮するにあたって、組織の枠組み、業務の専門性、権限、タイトルを必要としないため、企業の枠を超えた「事業を取り巻く生態系」に対しても実質的にリーダーシップを取ることができ、組織外の組織や人たちの役に立つことで、彼らからの積極的な協力を受けることができます。これは、組織外の多くの人たちを実質的に自分の部下とすることであり、事業的に大きな効率を生み出します(このままの表現では少々語弊があるかもしれません。組織外の人たちを実質的な部下とするのは事実ですが、それよりも先に彼らの役に立つという前提では、同時に彼らの部下として機能しているとも言えるのです。)。

第四に、マスターリーダーは決断力に優れています。事業経営は決断業ともいえる仕事ですが、効果的な決断をするためには、世界観の把握と、 「捨てる」勇気、が重要な要素でしょう。世界観の把握()とは、自分の決断がどのような意味をもち、事業の生態系に対してどのような効果を生み出すかを可能な限り正確に理解する力です。この内容は文字通り事業の生態系に関わり、対象はこれまでの多くの議論を含んで多岐に渡りますが、経営者自身の行動について、愛と執着を区別することなどはその一例です。愛は相手を自由にし、執着は相手の自由を奪うため、人間関係の接点において、両者を明確に区別することが重要なのですが、多くの場合、単なる執着に過ぎないものが「愛」と表現され、結果として「愛」の名のもとに相手の自由を収奪する人間関係があまりに一般的になってしまっています。経営者と従業員の関係においていも同様で、経営者が選択する行動について、「企業のため」「従業員のため」「顧客のため」と説明するとき、実際は、自分のエゴを発揮するための行動を、自覚的あるいは無自覚に行っているだけ、ということが少なくありません。もう一例を挙げると、「求めない」ということの意味を理解することも重要です。この概念はマスターがリーダーシップを発揮する際に、従業員との重要な接点になるからです。その詳細については『トリニティのリーダーシップ論《その5》』を参照頂きたいのですが、ここでの論点としては、「求めない」ということは、決断しないということではないということです。経営者の決断は常に存在し、その行動の手段のひとつとして「求めない」という概念を活用する、という関係にあると言えます。

マスターリーダーが発揮する「捨てる」勇気()の中で、経営的に最も重要なものは、辞任するための決断です(『トリニティのリーダーシップ論《その1》』参照下さい)。経営者に課せられる多くの決断の中でも、必要なときに辞任するという決断は、マスターにしかできない英断と言えるかも知れません。殆ど明確にされることはありませんが、一般的な経営者が自分の立場を維持する目的で費やす膨大な労力のうち、長期的な企業価値と相反する行為は、時に相当量に及ぶのではないかと思います。マスターリーダーによる経営は、このような弊害が生まれにくいという大きな利点があります。企業が悪くなる際の原因の大半は経営者にあるとするならば、マスターリーダーのこのクオリティは、企業にとって非常に価値の高いものです。また、「捨てる」勇気を持つマスターリーダーは、自分が心からしたいことをする、そして人のために役に立つ、ことを双方とも実行できる稀な人たちです。特に経営者の立場で、自分が心からしたいことをする、という決断は非常に勇気の要ることで、「捨てる」勇気がなければ到底実行できるものではありません(「したいことをする」とは、社長然として好き勝手に振舞う、という意味では勿論ありません)。

マスターリーダーシップの組織構造
トリニティ経営理論を実践するとして、どのような組織がゴールなのか、と聞かれることがあります。最終的には経営者がそれぞれ自由にデザインするべきものですが、僕が個人的にイメージしている組織構造は、一般的な組織論で議論されるピラミッド型やフラット型とも異なり、形式的な組織をはみ出したリング型をしています。経営者から役職者から従業員から業者さんから顧客まで一つの輪で繋がっていて、その繋がりのどこかが途切れても「和」を構成しない、というものです。事業の成長はこの輪を大きくすることによってもたらされ、その際最も重要な要素は、各構成員の個性が十分に活きていることと、全体のバランスが取れていることだと思っています。

僕が考えている目指すべき組織のイメージは、ドラえもんに出てくるような、小学2年生頃のクラスです。がり勉君もいれば、人気者もいれば、いじめっ子もいれば、いじめられっ子もいれば、ずるいスネ男もいます…。みんな不完全なまま、みんな個性的なまま。親の仕事や家柄は誰も気にしません。成績の良し悪しについてはみんなお互いの水準を知っていますが、最終的には人間性だけでお互いを理解します。学級委員も成績のいい子が選ばれがちではありますが、人柄だけで選ばれる人気者もちゃんと存在します。そして、良いことも悪いことも、自分のしたいことだけを存分にして、良いことをしたらみんなから尊敬され、悪いことをしたら先生に叱られ、誰が何をしているか皆が知っています。明日のことを一切考えずに、疲れを知らずに一生懸命「今」に集中する…。なぜこのような組織を目指すかといえば、それが最も現実的で、従業員を最も幸せにし、最も経営合理性を生むと考えるからです。

おわりに
トリニティのリーダーシップ論のまとめに際してのコメントです。第一に、これまで多くを述べてきたリーダーシップ作業の全て、人の役に立つために経営者ができることの100%は、ひとりできる、ということです。全ての行動は自分だけで完結し、誰かに指示を出して実行してもらう必要もありません。宇宙を動かすために必要なことは、自分が動くことであり、世界を変えるには自分を変えなければならない、ということだと思います。第二に、リーダーの発言、行動、意図、はその全てが、従業員と顧客を含む全てのステイクホルダーへの強烈なメッセージです。実際に口頭や文書で発言されたかどうかは殆ど問題にならず、隠された意図も結局は全て伝わると思われます。事業経営において嘘をつく必要がある大半の経営者にとっては厄介な問題かも知れませんが、真実を語る経営者にとっては、最大の武器になります。経営者が果す作業の中で、最もパワフルなものは、「物事の意味を変える」作業です。例えば、従業員に「何をするか」ではなく、「なぜするか」を問うことで、仕事という行為の意味を根本的に変える手助けをすることができるのです。この際、経営者が発するメッセージの全てが、この作業を後押しします。第三に、リーダーの成果をどのように計るかということです。勿論色々な方法が考えられますが、リーダーが本当に人の役に立っているかは従業員の顔つきによって知ることができ、そして、従業員の仕事の成果は顧客の顔つきによって知ることができるのではないかと思います。最後に、「人の役に立つ」ということは目的であり、手段ではありません。「従業員を大切にする」と表明している企業は少なくありませんが、その大半は「会社の発展と成長のためには、従業員(と顧客)を大事にすることが非常に重要」と考えているに過ぎないのではないかと思います。トリニティ経営理論の世界観では、そもそも「企業は従業員と社会の役に立つため、すなわち自分と他人の幸福のために存在する。そして、その目的を実現した企業が結果として収益を最大化する」と言うものです。この、言葉にすれば僅かな違いは、見かけは似ているのですが、イルカとマグロほど本質が異なるのではないでしょうか。

【2008.3.25 樋口耕太郎】

*『トリニティのリーダーシップ論』は本稿で終了です。

*(1) 「全てが相対性の宇宙において、地球が動くということはそれ以外の天が動くということ」という比喩は僕のお気に入りのひとつです。世の中の経営理論と多くの経営者は、天動説の世界観に基づいて、空の星をひとつずつ自分の思う方向に動かそうと大変な努力をしているように思えます。星をひとつずつではなく、例えば2つずつ動かす技術を開発するためにしのぎを削ったり、動かした星の数を管理するために膨大なシステム投資を行ったりしています。星を1つ動かすよりも2つ動かす人が「成功者」として賞賛され、権力者や大金持ちになってゆく世界においては、例えば星を10個まとめて動かすことなど想像もつきません。この世界観の問題は、非効率だということは勿論ですが、「巨大な宇宙に対して自分はあまりにも微力だ」、という概念を内包していることです。世の中の「成功者」が誰も、世界全体(宇宙)を良くする(動かす)ことに真剣になら(れ)ないのはこのような理由によるのかも知れません。

やがて天動説では自然現象を完全に説明できない、という証拠が少しずつ発見され始めますが、殆どの大人たちは、天動説に矛盾する証拠の存在を否定するか、そもそも社会は矛盾に満ちているものだ、と諦めるか、そんなことよりも生活が大事、と「現実」を優先するか、のいずれかで、天動説の世界観そのものを捨て去る決断をする人は滅多にいません。それでもごく稀に、「ひょっとしたら自分は宇宙の全てを動かす力を持っているかも知れない」、という「馬鹿げた」考えに取り付かれる人が歴史の中で突然変異のように現れることがあります。この「突然変異種」の大半は良くて狂人、多くの場合危険人物として、時代によっては社会から排除されたり殺されたりしています。その中でも時代の中を運よく生き延びた何人かは、彼らの信念によって「地動説」に辿りつき、…すなわち「自分を動かすことで、宇宙全体を動かし」、社会全体に新たな世界観を提供する役割を果すのです。

「自分の世界に住んでいる人はみんな狂っていることになるのよ。多重人格者、精神異常者、マニアのように。人と違うだけでね。 … まず、時間も空間もなく、あるのはその二つを合わせたものだと言っていたアインシュタインがいたでしょ? それから、世界の反対側にあるのは大きな溝ではなく、大陸だと固執したコロンブスがいるでしょ? 人がエベレストの山頂に到達できると信じていたエドムンド・ヒラリーがいるでしょ? それに、それまでと全く違う音楽を創り、全く違う時代の人みたいな格好をしてたビートルズもいたでしょ? そんな人たちと、他にも何千という人たちは、みんな自分の世界に住んでいたのよ」(パウロ・コエーリョ著『ベロニカは死ぬことにした』より)

蛇足ではありますが、本稿のリサーチの過程で、地動説とローマカトリック教会について面白い事実を見つけました。1962年、ローマ教皇ヨハネ23世は世界に散らばる約2,500人の司教をローマに招集した第2バチカン公会議で、「中世という時代は終わり、新しい時代を考えなくてはならない」と主張したそうです。その「刷新」の結果のひとつとして、ローマ教皇庁ならびにカトリック教会が正式に天動説を放棄し、地動説を承認したのは1992年です。元上智大学長でローマ・カトリック大司教ヨゼフ・ピタウ氏は、後にこの件について読売新聞のインタビューに答えて、「間違いを認めるのは大切。神様のお導きで間違いを認め、新たに始めることができる」と述べています。…神様のお導きで間違いを認めるのに、ガリレオの死から359年もかかった訳ですが、カトリック教会にとっての中世が1962年に終わったと考えると、「僅か」30年ということかも知れません(皮肉が過ぎるでしょうか)。…しかしある意味で「世界観」が人々の行動に与える強烈なパワーを裏付けるエピソードだと思います。

「王国全土を崩壊させようとした力のある魔法使いが、全国民が飲む井戸に魔法の薬を入れたの。その水を飲んだものはおかしくなるように。
次の朝、誰もがその井戸から水を飲み、みんなおかしくなったわ。王様とその家族以外はね。彼らには王族だけの井戸があり、魔法使いの毒薬は撒かれていなかったから。そこで心配した王様は安全を図り、公共の福祉を守るためにいくつかの勅令を発布したの。でも、警察官も、警部も、すでに毒の入った水を飲んでいたから、王様の決定を愚かだと思って、従わないことにしたの。
王国の臣民がその勅令を耳にした時も、みんな、王様がおかしくなって、バカげた命令を下しているんだって確信したの。彼らは城まで大挙して押し寄せ、その勅令の破棄を求めたわ。
絶望した王様は、王位から退く心づもりでいたけど、女王が彼を引き止めて言ったの。『さあ、みんなと同じ共同井戸の水を飲むのよ。そうすれば、みんなと同じようになるはずだから』。
そして彼らはそうしたの。王様と女王様は狂気の水を飲み、すぐに不条理なことを口走り始めた。彼らの臣民は、すぐに悔い改め、王様がすごい知恵を見せている今、このまま国を統治させようではないか、と思ったの。
その国は、近隣諸国よりもおかしな行動を取っていたけど、それから平和な日々を送り続けた。そしてその王様はその最後まで国を支配することができたとさ」(前掲『ベロニカは死ぬことにした』より)

*(2) 「経営理念」や「企業文化」の浸透を促すなどの方法によって、従業員の行動の意味や世界観を変え、組織行動を変化させようという発想が広まりつつあるのは、一定の合理性があります。現実は、理念を「重視する」としている大半の企業で、事業の目的と経営理念と経営者の在り方(行動)が頻繁に矛盾し、その「世界観」の整合性が失われているために、運用上殆どが機能していません。この原因を突き詰めて考えると、収益が企業の目的となっていること、 リーダー(経営者)が成果主義によって選別されること、という二点に行き当たるというのが僕の結論です。前者は事業目的(収益)と経営理念が矛盾する最大の原因ですし、後者は経営者の行動が経営理念と矛盾する最大の原因であるためです。以上の前提で、「企業が収益を目的とせず、経営者が人格的なリーダーシップによって選別されながら、企業収益を最大化する世界観」を構築することができれば、事業経営が飛躍的に向上すると考えられ、これがトリニティ経営理論のフレームワークです。これは、収益を目的としない方が収益が生まれる、成果主義を廃止した方が成果が生まれる、という経営バランスが現実に存在するか否か、という議論でもあります。

*(3) 企業・人「信用できない」6割 朝日新聞世論調査 2008年03月21日

いまの日本には「信用できない企業が多い」と思っている人は60%。「信用できない人が多い」も64%で、企業や人への不信感が目立つ ― 朝日新聞社が全国3千人を対象に2月~3月上旬に郵送で実施した全国世論調査(政治・社会意識基本調査)で、世の中の信用・信頼が揺らいでいる実態が浮き彫りになった。政治家や官僚への信用は18%と低く、教師や警察は60%台。裁判でさえ72%だが、家族には97%の人が信用をよせている。度重なる食品の偽装問題の影響もあってか、「信用できる企業が多い」は29%にとどまり、「信用できない企業が多い」は60%を占めた。日本で売られている食品について「ほとんど信頼できる」は4%と少ないが、「ある程度信頼できる」は63%あり、「信頼」は合わせて7割近い。「あまり」「ほとんど」信頼できないは計30%だった。一方で、偽装問題などで一度信用を失った会社の製品を再び「買ってもよい」と思う人は38%で「買いたくない」が55%と半数を超えた。「買ってもよい」は20代と30代では5割近いが、年代が上がるほど減り、70歳以上では23%しかない。仮に食品会社に勤めていたとして賞味期限の偽装の事実を見聞きしたとき、「上司や同僚に相談する」は70%に達し、「警察やマスコミに通報する」も13%あった。「とくに何もしない」は10%と少ない。いまの世の中には「信用できる人が多い」と思う人は24%で、「信用できない人が多い」が64%にのぼった。「たいていの人は、他人の役に立とうとしている」と受け止める人も22%と少なく、「自分のことだけ考えている」が67%を占めた。生活と密接な関係がある12の項目を挙げてどれくらい信用しているかを聞くと、「信用している」と「ある程度信用している」を合わせた信用度は、(1)家族97%、(2)天気予報94%、(3)新聞91%、(4)科学技術86%、(5)医者83%と上位5位が8割を超えたが、政治家と官僚はともに18%で最下位だった。

…新聞に対する信用度が、科学技術と医者を上回って91%というのは、さすがに新聞社の調査という気がしますが、新聞社も企業の一部だと考えると辻褄が合うのでしょうか。「新聞社の世論調査に対する信用度」という項目があればどのような数値になるか興味があります。

今までの議論を前提に、リーダーの唯一の役割が「人の役に立つ」ことだとして、どうすれば「人の役に立つ」ことができるのでしょう。この難しさであり面白さは、第一に、「人の役に立つか」どうかは、その「行為」で定義することが困難だということでしょう。例えば、ある人が事業に窮しているとき、資本を無償で提供する「行為」は同じでも、その経営者と事業を真に助けるかも知れませんし、会社を根本的にダメにしてしまうかも知れません。そして、第二に、(目先の)利害を提供することや、(見かけの)問題解決を手助けすることが、必ずしも「人の役に立つ」こととは限らないという点です。宝くじで大当たりした人の大半が「不幸」になると言われますが、同様に、補助金を大量に受け取る産業や自治体は、栄えるどころか自立する力を失って財務的に弱体化するだけでなく、文化的・社会的な質の低下を招く傾向が強いような気がします。

「人の役に立つ」ということ
何が「人の役に立つ」かは、行為によるよりもその動機と行動原則とによって定義する方が機能的かも知れません。トリニティ経営のフレームワークでは、人間関係の接点において、「いま、愛ならなにをするだろうか?」を自分に問いながら行動を選択するということ、すなわち、①うそをついたり隠し事をしない、②誰にも一切要求せず、皆のあるがままを受入れて裁かない、③ありのままの自分でいながら、人のためになることを、できることから実行する、という行動原則で人と接することが、最も「人の役に立つ」と解釈します。単純に考えても、愛をもって人と接するときに最も人の役に立つのは当然のことでしょう。愛をもって接する人が最も人の役に立ち、人の役に立つことがリーダーとしての唯一の役割であり、リーダーは愛の行動原則のみによって選別され、この行動原則と事業の目的と経営理念が三位一体を構成する経営構造は、非常にシンプルかつパワフルです。

「人の役に立つ」ということの意味を愛の行動原則で定義するということは、結果を手放すということでもあり、経営者にとっては、人の役に立とうとする従業員の具体的な行為よりも、その行為の前提となる行動原則とプロセスを優先するという概念に繋がります。このため、「いま、愛ならなにをするだろうか?」という原則に基づいて、どのような「行為」が「人の役に立つ」のかという具体的な判断は各従業員の自由に委ねられ、それが結果として「誤った」判断であったとしても尊重されることになります。この発想において、「人の役に立つ」ということの意味は、愛の原則を現実の人間関係に適用する思考錯誤と試行錯誤という自由なプロセスを含むことになります。個々人の自由なプロセスを理論として一般化することはできませんので、次善の策として、僕個人の試行錯誤の事例をお伝えしようと思います。個人的な事例ですので、これが正しいとも、唯一の方法だとも、まして模範事例だという意味でもありません。以下は、ホテル経営者という立場で最大限「人の役に立つ」ということはなんだろう、という個人的な解釈であり、その解釈に基づく試行錯誤の具体事例です。思い返してみると、僕がサンマリーナにおいて行った(行おうとした)経営行為の全ては、突き詰めると以下の四点に集約すると思います。

1. 不安を取り除く、愛を伝える
米国で出版され、スピリチュアルな知識層を中心に多大な影響を与えて続けている『A Course in Miracles』(邦訳未刊)によると、人間の感情を突き詰めていくと「愛」と「怖れ」の二つしかなく、「愛」とは全ての人がもって生まれたもの、「怖れ」とは人間の頭で創りあげたものだということです。「怖れ」とは「愛」の存在が感じられていない状態のことだともいっています。ある研究によると、人間の精神的なメカニズムは、ポジティブな感情とネガティブな感情を同時にもつことができないとされています。仮にこれらの原理の通りだとすると、従業員の怖れを取り除くことができれば、愛の行動原則はより効果的に機能する筈で、実際サンマリーナではその通りになりました。

サンマリーナでのあるパートさんとの面接での会話です。パートといってもサンマリーナでは勤続10年という方は珍しくなく、仕事の質は正社員となんら変わりありません。この方も60歳を過ぎて依然として現役で働いていらっしゃいました。詳しいことはあえてお聞きしませんでしたが、サンマリーナの近くにマンションを買われ、お一人で暮らしているとのことです。面接の中で、「私はいつまで働けるのでしょう」と質問されていました。パートのお給料で一人暮らしをされ、マンションを維持するのは楽なことではありません。年齢も60歳を越え将来のことがとても気にかかるのだとすぐわかりました。この方はご自身で車を運転なさらないので、実質的にサンマリーナ以外で働く人生を想定されていないことは明らかでした(沖縄のリゾート地域は公共交通機関の少ない土地柄です)。サンマリーナでパート職員の労働年齢に関する制限を撤廃したのは、この方との面接がきっかけでした。その方には、「サンマリーナでは74歳の方が現役で働いていらっしゃいます。つい最近72歳の嘱託の方を採用しました。このような方々が働いていらっしゃることは、サンマリーナにとってとても大きなプラスだと考えていますので、どなたでも働く意思をお持ちである限りにおいては、おいくつになるまででも働いていただいて全く構いません」とお伝えしました。

従業員の勤務意欲や創造性や主体性や責任感、ひいては生産性の向上に頭を悩ませる経営者は少なくありません。一般的な対応として、人事を見直したり、業務マニュアルを整備したり、事業目標を明確化して厳しく進捗管理をしたり、労務管理を強化したり、インセンティブを工夫したり、企業理念の浸透をはかったり、社員研修の導入・拡充など、それこそ莫大な時間と費用が費やされています。更に、「会社のため」「従業員自身のため」という題目で、従業員の不安をかきたて、危機感を醸成し、信賞必罰の恐怖によって厳しく規律を保つ経営者が「切れ者」とされていたり、「従業員を安心させるため」に、事業の実体を隠すことが「誠意」と考えている経営者がむしろ一般的です。経営者自身が自覚しているか否かに関わらず、これらは経営者の個人的な怖れを従業員に転嫁する行為であり、皮肉なことに、従業員の怖れを取り除く行為とは正反対です。従業員を最大限活かすためには、従業員の不安を取り除くことの方が遥かに効果的で、従業員の不安がなくなれば、何の指示や管理もなく自主的かつ効率的な活動が組織の各所で勝手に生まれるだけでなく、費用も比較にならないほど安価(ほぼゼロ)です。人は自分の在るがままを受け入れてくれる環境では恐れを抱きにくいため、従業員を受け入れて不安を取り除くことができるリーダーは非常に機能的と言えるのです。

2. 心からしたいことのために「背中を押す」

エリート君は、人生の様々な局面において、「それをしなければならないから」、あるいは「それができるから」、という理由で常に物事を選択してきました。…徹夜でこれを仕上げなければならない、日曜日に出勤しなければならない、この商品をこの顧客に売らなければならない、明日は買い物に行かなればならない…。それらが本当にしなければならないことだったかと誰かに聞かれたとしても、今まではあまり考えたことがありませんでしたし、そんな現実味のないことは考えないようにしてきました。エリート君は、自分の偏差値で合格できるからという理由で一流大学を志望校とし、自分の学歴で入社できるからという理由で大手会社に就職を決め、自分に振り向いてくれるからという理由で家柄の良いお嬢さんと結婚を決めました。長年の働きづめが祟り、厄年に大病をして長期療養を余儀なくされたエリート君は、自分の人生を振り返る最高の機会を得、人生半ばにして、実は今までの人生において、自分が心からしたいことを殆ど選択せずに生きてきたことに気がついて愕然とします。

フォレスト・ガンプ君は、生まれつきちょっと頭の回転が遅いせいか、複雑に見える世の中の雑多な現象に細かく注意が回らないため、物事をとてもシンプルに考えることしかできません。自分が置かれた社会の現状や、人が「制約」「条件」と呼ぶ社会のルールがあまりよく理解できないため、いっそこれらを仮に完全に無視して(つまり、望めば全てが叶うという前提で)、自分が心からしたいことを考えることが大好きです。それが実現したらどのような気分になるかを想像すると毎日が楽しくなりますし、そもそも自分のしたいこと以外のことをする理由なんて、まるで思いつきません。徹夜してでも仕上げたい仕事に熱中し、日曜日にワクワクしながら出勤したくなる仕事を引き受け、自分のことを最も理解し最も信頼してくれる大事なお客様に是非買ってもらいたい、そして末永く使ってもらいたい商品を手作りし、どうしても買いに行きたい、一日も早く手に入れたいものがあれば喜んで買い物に出かけます。一度きりの青春時代を過ごしたいと閃いた大学に、その難易度も知らずに願書を出し、寝食を忘れて心から熱中できる仕事ができる会社の入社試験を受け、毎日のどの瞬間も一緒に過ごすことの幸せを感じる女性と一緒に暮らしています。

…エリート君もフォレスト・ガンプ君も同じ大学から同じ会社に入り同じような年恰好の女性と暮らし、外見は全く同じような人生に見えるのですが、実質的に全く異なる人生を歩んでいます。更に、この10年後にもう一度二人の人生を比べることができたら、外形的にも驚くほどの差になっていると誰でもが考えるのではないでしょうか。フォレスト・ガンプ君は生まれつき思考がシンプルなので、幸運で生産的な人生を送ることができるのですが、エリート君にとっては、したいことだけをするような人生は、何かいけないことのようで罪悪感を感じますし、誰に相談しても親切に「上司から目をつけられるぞ」「そんなリスクはとるな」「理想で飯が食えるか」「痛い思いをしないうちにやめておけ」「今の生活のどこが不満なのか」「経験もないお前にできるはずがない」とアドバイスされることばかりです。エリート君に限らず、人生を一生懸命送っている多くの人にとって、自分の心からしたいことを選択するのはとても勇気がいるだけでなく、最も怖ろしいことのひとつで、そもそも自分の心に正直に生きるなど、到底不可能だと考えるのがむしろ普通でしょう。それでも、どんなに小さなことでも、自分が心からしたいことを選択したいと思う人生の局面は、ひとそれぞれにやって来るものです。その瞬間、少しの勇気を出して一歩を踏み出すときに、その人の背中をそっと押してあげることができたら、その人の依存心を強めるのではなく、自立を助ける方法で支えることができたら、自分が心からしたいことを選択してもいいんだと応援してあげられたら、その人の人生のクオリティが大きく向上する手助けができるのではないでしょうか。

僕が経営を担当した当初のサンマリーナでは、カラオケルームを改装した本当に狭い場所を、エステサロンを経営する個人事業主に賃貸していました。「大手経営」のリゾートホテルと小さな個人事業主という立場の違いもあってか、彼女はホテルに相当遠慮気味ではありましたが、リゾートホテルのスパブームがはっきりしてきた時期でもあり、是非業態を拡大したいと申し出てきました。彼女のイメージは、もう一部屋スペースを増やしたい、というくらいだったと思います。僕が彼女に伝えたメッセージは、「まずは、改装・新築の費用や契約条件などの一切を忘れて下さい。自分がサンマリーナホテルのオーナーになって、1.8万坪の敷地と施設の全てを自由にできるつもりで、また、人材を含めて必要なサポートがホテルから十分に受けられるという前提で、自分が心から実行してみたいプランを提案して下さい」というものでした。その結果には驚かされました。彼女が提案してくれたプランは、一部に修正は必要だったものの、基本的には、僕を含め、社員は誰も気が付かなかった、しかし言われてみると最高のロケーションを発掘し、ホテル全体との事業バランスも良く、改装コストも実に効率的なものだったのです。まして、彼女は改装プランの作成・見積り、ホテル運営、事業計画の作成などに関しては全くの素人でありながら、本質的なプランを直感する力を証明してみせたのです。

その後間もなく、ほぼ彼女のプランどおりのスパを開業しましたが、仕上がりの良さに比較して、初期投資があまりに小額で済んだため、あっという間の資金回収が完了し、現在このプロジェクトに関する投資利回りは、恐らく年率100%を優に超える水準になっているのではないかと思います。しかし、事業投資の水準よりも何よりも、このプロジェクトが生んだ効果は、第一に、彼女の心からしたいことの少なくとも一部を引き出し、彼女の潜在的な可能性を形にすることができたこと、第二に、彼女との契約はホテルにとっては「社外の業者さん」との取引にあたりますが、「ホテルの経営から比較的「遠い」彼女のような立場であっても、心からしたいことを優先することで、資本の提供を含めた経営的な手助けが実現する。まして社員の提案であればどれだけのサポートが実現するだろうか」、というメッセージを全社員に伝える機会が生まれた点です。これらの効果ははっきり形に現れるものではありませんが、僕の実感としては社員の勇気を後押しするという意味で、相当効果のあったもののひとつです。また、このプロジェクトにおいて、もう一つ重要な点は、彼女との賃貸借契約の条件を以前よりも厳しくし、不用意に彼女の依存心を造成しない、しかし彼女にとっても結果として大きくメリットが生まれる内容に改定した点です。ホテル側が資本を投下するということの経済的な意味は、実質的に彼女に対して現金を手渡すことと同等です。確かに彼女のプランは光るものでしたが、プロの仕事としては非常に未熟でしたし、ホテル側からの人的サポートや、プロジェクトを公開コンペにしなかったこと自体もホテルが彼女に提供した無形の大きなメリットです。このような状態で単に彼女に「現金を渡す」契約内容を実行するだけでは、彼女にとって「たまたまの幸運な出来事」で終わってしまい、彼女の事業を強くすることにはなりません。反面、「この機を利用してホテル側により有利な条件に改定する」、というような意志は全くありませんでしたし、それどころか、如何にして彼女の依存心を育てずに最大限利益を提供できるか、ということしか考えていませんでしたので、このバランスをどのように取るか、厳しい条件を彼女に提示しながら彼女との信頼関係をどのように維持するか、そして、それを具体的な契約内容にどのように落とし込むか、という点が最もテクニカルかつ重要な点だったと思います。

3. 真実を語る機会を提供する
僕の個人的な経験ですので、業界の傾向として一般化できるとは限らないのですが、沖縄で、300人を超える従業員を擁する2件のホテル経営に携わることになり、それまで金融業しか知らなかった新米経営者(僕)がホテル業界で直面した現実は、ホテルという職場は意外に「犯罪」が多いということ、更に組織内でそのことがそれ程大きな問題とされていないことに驚きました。社内備品・食材の私物化や横流し、記帳を伴わない社員の飲食などは「犯罪」という認識すらないようでしたし、社員によるロッカー・寮・自販機荒らしや置き引きなどは可愛らしい方で、在庫の虚偽報告と事実上の粉飾記帳、仕入れ業者との癒着やリベートのやり取り、中には役職員が関連するトンネル会社からの大量仕入れや業務発注など…。僕の感覚ではこれだけの情熱を仕事に向ければよほど簡単に成功するだろうと思えるのですが、人それぞれ感じ方は異なるようです。(もっとも、業界ごとのコンプライアンスが整備されるまでは、どの分野においても似たような経緯を辿っているため、ホテル業界がそれ程特別とは言えません。今でこそ投資銀行と言われるかつての「株屋」も、利益相反、無断売買、損失補填、インサイダー取引などは日常的な出来事でしたし(バブルの頃までインサイダー取引は合法でした)、消費者金融業界の過剰貸し込み・過剰取立て、不動産業界の荒っぽさから比べると、むしろ相当穏やかな業界といえるかも知れません。)

その中でも非常に軽微な出来事でしたが、ホテルでアルバイトをしていた高校生2人がゲームセンターの小銭を盗んだという「事件」がありました。行為の一部始終が防犯カメラに写っていたので犯人はすぐ特定されましたが、本人と会話をする前にどのように対処すべきかの相談を含め、現場から報告がありました。「犯罪」という基準からすれば軽微なものかも知れませんが、高校生という年齢を考えると、この出来事においてホテルが彼らに伝えるメッセージは、彼らにとっては社会からのメッセージとほぼ同義であり、彼らが社会というものに対して、今後長期間持ち続けるであろう基本的な認識を強く規定する重要なメッセージになると感じました。この件に限りませんが、僕がサンマリーナで自覚的に選択する行動の全てにおいて最も重要視した点は、「その行動によってどのようなメッセージを伝えたいか」を明確にすることであり、 メッセージの伝達を何よりも重要視し、メッセージと矛盾しない対処を行うことです。このケースにおいてもまず考えたのは、僕は、すなわち、彼らの目から見た「社会」を代表するものとして、彼らにどのようなメッセージを送りたいか、ということです。 (i)犯罪の局面においても(すなわち無条件に)彼らを愛し、常に贈り物を用意する者が社会のどこかに存在する、 (ii)正直に告白する勇気と、自分の行為の結果と責任を受け入れる覚悟が人生を豊かにする、というメッセージを託し、これを最も効果的に伝えるために、彼らとどのように向き合えばいいかという、具体的な対処を決めます。(i)のメッセージを伝えるためには、会社の彼らに対する対処自体が、彼らへの具体的な贈り物であることが好ましいのですが、僕は、可能であれば、この機会を通じて彼らに「正直に告白する機会と勇気」をプレゼントできないかと考えました。もし、この機会を通じて彼らが自分たちの行為を正直に告白する勇気を発揮することができたら、彼らの今後の人生がとても豊かなものになるかも知れない(『トリニティのリーダーシップ論《その6》』参照下さい)と思えたのです。ですから、呼び出していきなり防犯カメラを見せ追求するのではなく、正直に働くということについて彼らと話し合う中で、彼らが自分から告白するための、僅かな瞬間を贈ることを担当者に提案しました。もちろん、その贈り物を彼らが受け取るかどうか(すなわち告白の勇気を実行するかどうか)は彼らの自由な選択です。なお、以上は世の中で一般的に言う「自白を促す」というニュアンスのものとは根本的に異なるものです。両者はほんの僅かな違いのようですが、この機会を単に「自白をすれば罪が軽減される」という趣旨のものにしてしまえば、「社会は常に取引をする場所である」ということが彼らへのメッセージになってしまいます。

4. 人を育てる
以上の3点は試行済みの事例ですが、4点目は現時点で実現半ばのテーマです。僕は、経営者としての最大の成果は「どれだけ多くの優れた経営者を育てたか」で計測されると思っています。リーダーの仕事は「人の役に立つこと」ですが、この中でも最高のマスターは、最も多くの部下が追随する者ではなく、最も多くのマスターを育てる者であり、より多くの人を自立させることであり、自分が存在しなくても成長し続ける組織を作ることであり、更に、これらが短期間で実現するほど優れた仕事なのです。言葉を変えると「リーダーの究極の目的は、自分自身を、組織において一刻も早く無価値にすること」、とも言えるのです。最も大きなものを捨てることができるマスターが最も機能的な経営者である、という所以です(『トリニティのリーダーシップ論《その7》』参照下さい)。リーダーシップをこのように理解すると、優れたリーダーほどとても損な役回りだと思う人が大半かも知れません。しかし、これを実行できるマスターは、育てた組織を手放すことで、誰よりも恵まれた大きな機会と幸せが自分に訪れることを疑いませんし、実際その通りになるものです。

「経営者やリーダーを育てる」ことは、組織全体の人事から独立した作業ではなく、結局社員全員の役に立とうとする試みの中から効率的に生じるような気がします。経営者を育てる最良の方法は、全ての社員の成長のために力を尽くすという、一見迂遠な作業なのですが、実はこの作業こそが経営者の最大の楽しみのひとつであり、人間関係の最高の醍醐味を味わえるプロセスではないかと感じます。従業員一人ひとりに将来の可能性を見出し、埋もれた人材に光を当てる「人材発掘」は、僕にとって経営の最大の楽しみのひとつです。サンマリーナでは、通常の人事とは別に「人材発掘会議」を計画していました。従業員一人ひとりの個性を思い出し、その人の長所を探し、現在とは違った業務や役割を担った姿を想像しながら、新たな責任分野の可能性を探る作業です。この作業の第一のポイントは、現在の人物イメージを当てはめるのではなく、(それが空想であっても)今までとは全く異なった水準の潜在能力を発揮した姿を頭の中でイメージし、それが現実に起こりうるかどうかを頭の中で検証していく、非常に創造的なプロセスである点で、これはとても効果がありました。本人も気がついていない、新たな水準まで成長した本人像を想像(創造)し、そのイメージに沿った登用をするとき、人事は退屈な管理業務から非常に創造的な、驚きと感動を伴ったイベントになるのだと思いました。第二のポイントは、一人ひとりの従業員の人間性を理解する努力です。人は自分のことを理解してくれる人のためには大きな力を発揮できるものです。すなわち、人を理解することは人に力を与えるということであり、経営者が従業員を理解するという行為そのものが、従業員一人ひとりの力になる最良の方法のひとつだと思います。特に、正直でありながら社会の成果主義人事に迎合できずに傷ついている人材、能力がありながら保守的な価値観に押しつぶされて自信を失っている人材、「要領の良い仕事」よりも「実質的な仕事」を優先してきたために人事的に取り残されている人材などに光を当て、本人が見違えるほどに息を吹き返す姿を見る楽しみは最高ですし、同時にそれらの人材が光を取り戻す姿を見て、周囲の人たちやひいては組織全体が活力を取り戻す現象は、本当に感動的です。第三のポイントは、「繰り返し」です。サンマリーナでは、人材を活かす目的で、本人との面接(半年に一回、一人当たり30分)はもちろん、従業員の名簿を何度見返したか判らないくらい繰り返しくり返し眺めながら人事をイメージしました。それでも見直すたびに違った発見があります。全員の名前と顔と人となりを知っていても、全員の潜在力を知ることができない以上、どこかに必ず見逃している人材がいるものです。

【2008.3.16 樋口耕太郎】

手を離す ― ロープのたとえ話
思い込みにしがみついている心は、ロープにすがりついている人に似ています。
もし手を離したら、落ちて死んでしまうと思って、自分の命のために一本のロープにしがみついています。両親や教師や他の沢山の人たちがそう教えたからです。そしてまわりを見まわすと、みんなも同じようにしがみついています。
彼に手を離しなさいと誘いかけるものは何もありません。
そこへ、一人の知恵のある婦人がやってきました。彼女は、しがみついている必要はない、そのような安全は幻想にすぎず、人を今いるところから動けなくしているだけだと知っていました。そこで、彼女は男を幻想から解き放ち、自由になるのを手伝う方法はないものかと考えました。
彼女は男に、本当の安全や、より深い喜びや、真の幸福、心の平和について話しました。そして、もしロープを握っている手の指を一本だけ離せば、それを味わうことができるのよ、と言いました。
「一本だけですね、喜びを味わうためだったら、それぐらいの危険はおかしてもいいな」と男は考え、最初のイニシエーションを受けることに決めました。指を一本離すと、彼は今までにない喜びと幸福と心の平和を味わいました。
しかし、それも長続きはしませんでした。
「もう一本指を離せば、もっと大きな喜びも幸せも心の平和もあなたのものよ」と彼女は言いました。
彼は自分に言いました。「これは前よりも難しいぞ。本当にできるだろうか。大丈夫だろうか。自分にそんな勇気があるのだろうか」彼は躊躇し、それから指の力を少し抜いて、どんな感じか試してから、思い切って指をもう一本離しました。
落ちずにすんだので彼はほっとしました。そしてもっと幸せで、心が平和になったことに気がつきました。
でも、もっと幸せになれるのでしょうか。
「私を信じなさい。今まであなたをだましたことがありましたか。あなたがこわがっているのもわかります。あなたの頭が何と言っているかも知っています。こんなことは気違いじみている。今まで習ってきたことに反するじゃないかって言っているのでしょう。でも、私を信じて下さい。私を見てごらんなさい。とても自由でしょう。絶対に安全だと約束します。あなたはもっと幸せになれます。そしてもっと満たされた気持ちになれますよ」と彼女は言いました。
「僕はそれほど、幸せと心の平和を望んでいるのだろうか」と彼は自問しました。「今まで一生懸命にしがみついてきたものを、全部手放してしまうだけの覚悟ができているのだろうか。原則的にはイエスだ。しかし、それが安全かどうか確信ができるのだろうか」こうして彼は自分の中の恐れを見始めました。恐れの原因を考え始め、自分が本当に何が欲しいのか探し始めました。少しずつ、ゆっくりと、彼の指から力が抜け、リラックスし始めました。彼は、自分にはできる、とわかったのです。そして、そうしなければならないことも知っていました。彼が握りしめていた指を離すのはもう時間の問題でした。そして、指を離してみると、もっと大きな平和の感覚が彼の内部に染みわたってゆきました。
「彼は今や一本の指でぶら下がっていました。理屈では、指がニ、三本しか残っていない時に、すでに落っこちていてもいいはずでした。しかしまだ落ちていません。「しがみついていること自体、まちがっているのだろうか」と彼は自問しました。「僕はこれまでずっとまちがっていたのだろうか」
「最後の一本はあなた次第よ」と彼女は言いました。「私はもうこれ以上助けられません。ただ、あなたの恐れはどれも根拠がないということだけは覚えておいて下さい」
自分の内なる静かな声を信じて、彼はゆっくり最後の一本の指を離しました。
何も起こりませんでした。
今までいた場所にそのままいました。
そしてそれがなぜか、彼はやっとわかりました。彼はずっと地面の上に立っていたのです。
地上を見渡した時、彼の心は真の平和で満たされたのでした。そして彼は、自分がもう二度と再びロープにしがみつくことはない、と知っていました。
(ピーター・ラッセル著、山川紘矢・亜希子訳、『ホワイトホール・イン・タイム』

ロープを手放したマスターたち
ピーター・ラッセルのロープのたとえ話は、経営やリーダーシップという観点に限らず、人生の諸問題の本質が象徴的に示されているような気がして、とても印象深い話の一つです。「捨てる(ロープを放す)」という、一見どのように考えても損だと思える行為が、なぜ最大のパフォーマンスを生むのか、ということが比喩的に、しかし非常に分かりやすく表現されているのではないでしょうか。トリニティ経営のフレームワークにおける「ロープ」は、例えば、収益の増加が企業価値を高める、事業の量的拡大が成功をもたらす、経営者が事業と従業員をコントロールすることが合理的である、目に見える合理性の追求が事業効率を生む、という「常識」に基づいた経営者の確信(思い込み)です。これらは自明とされ、一般的な経営者がこのような考え方を「捨てる」ことはあり得ませんし、文字通り自分の命と存在意義と生活を賭けてしがみつくべき最優先事項です。これに対して、マスターは「ロープ」を放すことを選択した人たちです。彼らによるリーダーシップは、事業の量的拡大と収益の追求を手放すことが事業の質を高める最大のポイントであり、事業の質的向上が事業価値の最大化と事業の成功をもたらす、従業員に奉仕する経営者が最も合理的な事業経営を達成する、合理性の追求は目に見えない実体を認識することで著しく効率的になる、という世界観を前提とするということでもあり、世の中で「常識」とされている膨大な経営作業が、実は企業価値を高めるための必要条件とは限らないという確信によってなされるものです。

「捨てる」ということ(再び)
前稿では、人が正直であるためには、自分の何か大事なものを「捨てる」覚悟が必要だ、とコメントをしましたが、「捨てる」ということは、正直であるためだけに限らず、あるいは経営においてのみならず、物事の革新、ブレイクスルー、悟り、ひらめきなどの根源であり、人生における学びと成長に非常に重要な役割を果していると言えないでしょうか。誰にでも似たような経験があると思いますが、初めて補助輪なしの自転車に乗って足を地面から離したとき、足が震えるほど緊張しながらも勇気を振り絞って初めて人前でスピーチをするとき、ずっと好きだった彼女に思い切って告白するとき、恐怖を乗り越えて初めての宙返りを成功させたとき、夏の大会の絶体絶命の場面で開き直るとき、営業で初めての取引を成立させたとき…。自分の殻を破るときはいつも自分の中の何かを「捨てる」ことによって新たな境地を切り開いて来たのではないでしょうか。非常に逆説的な表現ですが、ロープを手放すことで地に足が着くように(正確には、地に足が着いていたことを悟る、ということですが。)、どうも人生には「捨てることによって活かされる」というメカニズムが組み込まれているような気がするのです。

何かを選択するということは、それ以外のものを「捨てる」ということですし、反対に、人が何かを「捨てる」とき、その人は必然的にに他の何かを選択していると言えます。そして、自分にとって重要なものを手放す覚悟なくして真剣な選択をすることは困難であるため、「捨てる」ことができるか否かは、優れたリーダーであるための重要なクオリティなのです。「経営者がすべき最も重要な仕事は、必要なときに辞任すること(トリニティのリーダーシップ論《その1》参照下さい。)」と述べましたが、それを現実に実行できる経営者は人生において学びを経たマスターです。マスターが人間関係の接点で選択する三つの行動原則は、その見かけと異なり、非常に積極的な人生の選択を意味するため、これらを実行するためにも「捨てる」という作業が必要となるのです*(1)

リーダーシップとは幸せであるということ
トリニティ経営の世界観では、誰もが自分が心からやりたいこと以外のことをする必要がありませんし、人に対してそのように求めることもありません。このような組織におけるリーダーの役割は「人の役に立つ」ということのみです。逆に表現すると、人の役に立つものがリーダーに選別され、リーダーとしての唯一の仕事が人の役に立つということなのですが、リーダーであっても、自分の心からやりたいこと以外のことをする必要はありません。リーダーは自分が心からやりたいことをしながら …すなわち自分を活かしながら… 人のためになるという選択を行う者であり、それが可能であることを自らの人生で実証する者と言えます。先のように、「捨てることによって活かされる」ことが仮に人生のメカニズムであるならば、捨てるという稀有な能力によってリーダーとなり、その行為を通じて誰よりも人の役に立ちながら、しかし自分が誰よりも活かされる、ということが現実に起こり得るのではないかと思います。すなわち、最も捨てることを厭わず、最も人の役に立つものが、最も幸福になる、ということが合理的に成立するのです。

【2008.1.28 樋口耕太郎】

*(1) このように、マスターは、いわば「捨てる」ことによってリーダーに選抜されるのですが、社会における一般的なリーダーは「得る」ことによって選抜されています。例えば、役員などへの昇進はサラリーマン生活のゴールではなく、更なるチャレンジと新たな任務を果たすためのスタートに過ぎないと思うのですが、現在の企業社会(特に大会社)では、取締役昇進というとなにか長年の勤務に対するご褒美のように考えている人や、重要なゴールに到達したと解釈されがちであるような気がします。この場合、地位やタイトルは「ご褒美」なので、自分はそれを保有する権利がある、あるいは権限を与えられたことの印、と考えたくなるのも無理はないかも知れません。このようなタイプの方々は、「捨てる」ことを最も苦手とする人であり、色々な局面で自分を正当化しがちですし、経営とは利害の調整を行うことと、人に指示をすることだと信じているようです。

…このようなテーマはとかく人格的、哲学的、倫理的、道徳的問題で議論されがちなのですが、経営科学的には、経営合理性を議論すれば足りると思いますし、トリニティ経営のフレームワークを前提とすると、「得る」ことで選別するリーダーは非効率だと考えられます。

『トリニティのリーダーシップ論《その3》』では、スターウォーズには重要なモチーフが少なくとも三つ存在し、その一つ目は、目に見えない大いなる力「フォースの存在」、二つ目は「善と悪の関係」、三つ目は「善と悪を分ける決断」ではないか、とコメントしました。特に「この世の善と悪を分けるものは何か」という三つ目のモチーフについては、アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちてダースベイダーとなるプロセスにヒントがあると感じて以来、彼がなぜダークサイドに落ちたのかということについて色々考えずにはいられませんでした。そして、現時点での僕なりの結論は次の通りです。

善人がダークサイドに落ちるとき
第一に、アナキンは母親を愛し、妻(パドメ・アミダラ)を愛する人間であり、彼がダークサイドに落ちた原因は、彼が「悪」であったからではなく、むしろ彼の深い「愛」*(1) に起因しているということです。第二に、悪の象徴であるダース・シディアスが、善良なアナキンを、あるいは後のダース・ベイダーが、善良なルークをダークサイドに誘惑する方法は、善人の強い「愛情」*(1) を裏づけとした復讐心などを駆り立て、怒りと恐れに身を委ねるように仕向けるのです。第三に、それがたとえ悪に向けられた正義の義憤であったとしても、善人がこの怒りに負けて相手を叩き潰(コントロール)したときに自分もダークサイドに落ちる、というメカニズムが表現されているのではないでしょうか。特に、①フォースは知識と防御のみに利用するべきもので、これを攻撃の手段としたときにダークサイドに落ちるとされていること(エピソードV)、②ルークが修行の最中、怒りと恐怖に負けて、想像上のダース・ベイダーを打ち倒したとき、倒された相手の姿は自分自身であったこと(同)、③ルークが修行の最後にダース・ベイダーと対決し、自分の怒りや恐れを制御することを学ばなければ、ジェダイ騎士になることができないとされていること、すなわち、どんな「正当性」があっても他人をコントロールせず、怒りや恐れではなく常に愛によって行動することを学ぶことでジェダイ・マスターになること(エピソードVI)、④エピソードVIのサブタイトルは、当初「ジェダイの復讐」とされていたのですが、ジェダイは復讐をしない、という根拠により「ジェダイの帰還」に変更された経緯があります、はいずれも第三のモチーフに関する僕の分析と整合性を持つように思います。

攻撃はダークサイドへの道
ダークサイドに陥る原因は、優しさの有無ではなく、正義の有無ではなく、恐れと怒りを制御できるかに依るということだと思います。恐れと怒りは自分の心の中で生まれるものですが、人は往々にしてその原因が自分以外にあるように感じてしまうものです。そして、恐れと怒りに負けた瞬間、人は自分自身の中にある原因に向き合うことを放棄し、他人を攻撃(要求)する行為に及び、ダースベイダーとなって世の中の無数の問題を引き起こす原因となります。スターウォーズは大きな物語として構成されているため、ダースベイダーは特別な人格と思われがちですが、神話や伝説には相当なリアリティが含まれています。現実の社会には無数のダースベイダーが存在しますし、たとえ「善良」な人であっても一日に何度もダースベイダーとして振舞ってしまうのが人間というものかも知れません。それどころかより善良で、より正義感の強い人ほど、そして自分に正当性があると思える時ほど、ダークサイドに落ちやすいのです。例えば、人に裏切られたとき、それがひどい裏切りであるほど相手に報復をする「正当性」に抗することは難しくなりますし、事故の被害者が加害者に厳刑を望むことは、社会的にも許容される「正義」で、これに法の裏づけがあればなおさらです。この自分の心の中の恐れと怒りを他人に向けたとき人はダースベイダーとなり、自分と向き合うことでジェダイとなるのです。したがって、ジェダイにとっては、「なにが正義か」という議論にあまり意味がなく、「人に要求せずに自分と向きあう」という自己作業が何よりも重要だということになります。自分と向き合うことは、誰にとってもとても苦しい作業なのですが、ジェダイはこのプロセスを通じて自分の幸福と、そして自分の幸福を通じて他人の幸福を生み出す存在なのだと思います。どこから引用したのか、自分でも忘れてしまったのですが、次のような素敵な挿話があります。

神はこの世を創ったとき天使たちを集めてこういった。
「私は自分の姿に似せて人間を創る。彼らは想像性に溢れ、知的で善良だ。神聖なもののすべてが生まれながらの権利として彼らのものになる」
天使たちは言った。
「でも、彼らがその真実を知っていたら、人生がうまくいきすぎて退屈になるでしょう」
「ならば、私はその真実を一番高い山の頂上に隠そう」と神は言った。
「人間たちは簡単に一番高い山に登る方法を見つけるでしょう」と天使たちは言った。
「ならば、大海の一番深いところに沈めよう」と神は言った。
「人間は一番深い大海に潜水する方法を見つけることでしょう」と天使たちは言った。
そのような頭の良い生き物から真実を隠すのはどこがいいかという話し合いに熱がこもっていった。雲の中、月の上、遠い銀河の中…。やがて神はすばらしいアイディアを思いついた。
「わかった。」私は真実を人間の心の中に隠そう。そこは彼らがいちばん最後に探す場所だろうから」
天使たちは拍手した。そこで神はそうした。

オビ=ワンの死の謎
さて、スターウォーズには四つ目のモチーフが存在することに、ごく最近気がつくのですが、僕を最も悩ませたスターウォーズ最大の謎は、ジェダイ騎士であるオビ=ワン・ケノービがダースベイダーと戦って「死ぬ」とき(エピソードIV)、オビ=ワンは自ら最後の戦いを放棄して、敢えてダースベイダーに自分を殺させることを選んだように見える点です。この一瞬のカットは本当に長い間僕を悩ませました。初めてこのシーンを見たときからつい最近まで、実に25年以上に亘って、なぜ彼があのような死に方を選択したのかがずっと気になっていたのですが、最近ようやく僕なりの一つの結論に辿り着きました。

「ジェダイ騎士がフォースを防御のみに利用する」とは、マスターが(自分の正義や愛を根拠として)自分以外の誰かに何かを要求しないということであり、マスターの心の中に生じる怒りや恐れの原因を他人に求めない、ということの比喩だと思います。マスターは人間関係の接点で相手に一切要求をしないため、他人からの攻撃に対して反撃で対抗することはできない(しない)のですが、現実的な問題として、マスターは、恐れや怒りの原因を他人に求める世の中のダースベイダーたちの攻撃の対象になりがちです。この状態において争いを避け、問題を解決する最も効果的な方法は、自分が身を引く(相手の思うようにさせる)ことであり、これを実践する者がジェダイであり、オビ=ワンの死はこれを象徴しているのではないかと思います。

「捨てる」ということ
相手の攻撃に対して自分が「死ぬ」ことが、自分自身にとって最も効率的という発想は、相当常識はずれに聞こえるかもしれませんが、自分が「死ぬ」、あるいは「死」という表現に語弊があるならば、「自分が重要だと考えるものを捨てる」ことによって莫大な効果を生み出す事例は世の中にも、一人ひとりの人生の中にも溢れています。

僕は高校を卒業するまで岩手県の盛岡市で過しました。履歴だけを見れば、小中学校は国立大学教育学部付属の一環校、高校は県下有数の進学校ということではあるのですが、成績は小中高いずれも常に最下層の20%~40%あたりが僕の指定席で、高校入試に失敗し、世の中では珍しい(もっとも私立高校の少ない岩手県ではそれ程珍しいことではないのですが)中学浪人を経て高校に進学しました。中学時代の野球部のチームメイトが高校の野球部では皆僕の先輩となり、彼らから厳しい「指導」を受けることになります。中学校の数学の先生は野球部の監督でもあり、高校受験志望校に対して僕の成績があまりにひどいことに呆れていたと思います。期末テストのひどい点数の答案を僕に返すときの、先生の嫌味交じりの顔つきが今でも印象的です。その後クラスで答え合わせをします。答え合わせの際、もし採点の修正がある場合は先生に申告し、点数を訂正してもらうのですが、当然にして修正を申告する生徒の殆どは点数を上方修正することが目的でした。その中で、僕はそれ程深く考えもせず、採点の誤りに気がつくとそれが上方であれ下方であれ申告することが習慣となっていましたので、余計に変わった生徒と思われていたかもしれません。高校受験も後半戦となり、僕なりの追い込みが奏功し成績も上向きになり始め、勉強への真剣味が増すほどに期末テストの点数と内申書が気にかかる時期になりました。この、折角調子が出始めた時期、僕にしては相当力を入れて勉強して、少なからず結果を期待した数学の期末テストで、やはり散々な点数を取ってしまいました。更に答え合わせで下方修正箇所を見つけてしまい、このときばかりはそのまま黙っていようかどうか一瞬迷ったのですが、結局落胆しながらも先生にこの修正を申告しました。普段僕のことをあまり好きではない先生も、ひょっとしたら今回はこの潔さを褒めてくれるのではないかとぼんやり考えたりもしましたが、僕が修正箇所を申告すると先生は「これ以上下がるのか」と一言。そんなときの先生の表情はなかなか忘れられないものです。

ちょっと前、このときのことを(なぜか)オビ=ワンの死と重ねて考えたことがありました。思い至ったのは、数学の期末テストの答え合わせで僕が下方修正箇所に気付いた瞬間から、答案の修正申告を先生に決意するまでの一瞬は、いわば自分にとってなにか重要なことを「捨てた」瞬間だったのではないかということです。そう考えると、確かに、正直に行動することは、自分の大事なものを捨てる覚悟をすることなのです。期末テストの答案の下方修正申告を決めたとき、僕は、期末テストの点数を高く維持し内申書を少しでもよくしようという気持ちを「捨てて」います。それは、高校合格という目標のために積み上げている階段を数段放棄する決断、と言えば大袈裟に聞こえますが、少なくとも主観的な自分の意識の中では、この階段という、そのときの自分にとっては恐らく最も重要な「モノ」の一つを現実に「捨てる」という「行動」なのです。翻って、それがどんなに小さなものであっても、人が正直なことを決断するとき…、例えば、遊んでいてお母さんの大事な陶器を壊してしまったことを告白する瞬間、学校でのいたずらが問題に発展したときに「自分がやりました」と先生に名乗り出る瞬間、内定が取れないのではないかという不安を抑えて、就職活動で履歴書に偽りのない内容を書こうと決めた瞬間、苦しいノルマを背負い、この商品が売れなければ目標数値が達成できないという恐怖を堪えながら、お客様には偽りのない商品説明を行う瞬間、自分の利害を離れて会社全体のために戦略的な大型投資を決断する、あるいは取りやめる決断をする瞬間、会社の本決算を賭けた大きな案件が今期内に成立しないかもしれないと役員会で報告する瞬間…、どの瞬間も全く同じメカニズムが働いているような気がします。

正直であるということと捨てるということに、このような重大な繋がりがあるという発見は、僕にとっては非常に大きな出来事で、逆に表現すると、正直であるためには捨てる覚悟が必要だと言う気付きでもあります。そして、「捨てる」勇気と決断は、オビ=ワンとジェダイの持つ勇気と決断でもあり、見かけの重要性とは無関係に、全ての正直な決断の局面で全く同様のメカニズムが機能します。このため、小さな正直が実行できなければ、正直な経営を行うことは困難ですし、小さな正直を実行できる勇気は、事業における最大の決断と同様の意味を持ちます。少々大袈裟な言い回しに聞こえるかもしれませんが、数学の答案の下方修正を決断した瞬間は、僕の人生におけるとても重要な決断がなされた瞬間でもあるのです。少なくとも僕の場合、このような小さな勇気の数々によって、その後の人生がどれ程豊かになったか、また、もし小さな勇気を持たなかった場合のその後の人生を想像すると、本当に本当に重要なことだと思えるのです*(2)

明治維新のジェダイたち
相手の攻撃に対して自分が「死ぬ」ことが最も効率的である、ということが最大限に実証された時代は、日本の幕末から明治維新ではないでしょうか。僕は個人的に、飛鳥時代と幕末・明治維新は、日本の歴史において最も重大な二つの転機だと思っているのですが、特に明治維新前後の時代は資料も豊富で、知れば知るほどどんどん引き込まれてしまいます。この時代は「捨てる」ことを決意した多数のジェダイが存在したことが大きな特徴です。明治維新という事実上の国家の大革命の真ん中で、例えば江戸城の無血開城や大政奉還という偉業が実現した奇跡は、「捨てる」ことによって多大な社会的損失を未然に防いだ行為の典型で、日本が世界に誇るべき史実の一つだと思います。これらが成立した影には、西郷隆盛、勝海舟をはじめ、勝海舟の全権使者として事実上交渉をまとめた山岡鉄舟、最終決断を行った十五代将軍徳川慶喜、家老板倉勝静、江戸城無血開城に先駆け自藩備中松山藩を無血開城した板倉勝静の懐刀備中松山藩家老山田方谷*(3)など、数々のジェダイが存在しています。

現代の「成功者」の定義は、おおよそ「多額のお金を得たもの」「有名になったもの」「権力を持つもの」という程度に成り下がってしまいました。人間関係を最も大事にするマスターは、社員をはじめ多くのステイクホルダーのために力を尽くし、自分が最も大事にするものを「捨てる」勇気をもつジェダイです。マスターによるリーダーシップは、その見かけに反して(一見穏やかで、弱々しく見えます)極めて効率が高く、そして何よりもそのような生き方が経営者自身を幸福にします。このような経営者が本当の成功者として若者の目標となり、社会的に尊敬される年になれば良いと思います。

【2008.1.2 樋口耕太郎】

*(1) 別の機会で詳細にコメントしようと思いますが、アナキンの「愛」を含め、一般に「愛」と理解されているものの大半は、「執着」に過ぎないことが多いような気がします。少なくとも本稿の愛の定義では、愛は他人に一切要求しないものであり、愛することによって相手を自由にします。相手に対して何かを求めることは相手の自由を奪う行為であり、愛ではなく単なる執着と呼ぶべきものでしょう。逆に表現すると、世の中で、あまりに多くの執着(他人に対する要求)が愛の名を借りて為されているために、非常に多くの問題が生じているのだと思います。この違いを理解することは非常に重要な意味をもちます。

*(2) このように書くと、なにやら美しいのですが、もちろん勇気を発揮できずに終わった無数の人間関係も同様に経験しています。ひょっとしたら、正直に行動できなかったことの方が多かったかも知れません。それでも何回かに一回発揮することができた小さな勇気は、僕のその後の人生を遥かに豊かにしたとは言えると思います。

*(3) 山田方谷(ほうこく)は、備中松山藩(現在の岡山県高梁市)が生んだ幕末の偉人で、歴史上あまり知られた人物ではありませんが、その偉大な功績は知れば知るほど底知れず、なぜこの人物が歴史の中に埋もれているのか僕には全く理解でません。方谷の人生をハイライトすると、とても一人の人物によってなされたとは思えないほど多様かつ重大な実績を残しています。

そして、方谷の本当の物凄さは、彼が為し遂げた一流の成果を、いとも簡単に捨て去ったことにあります。例えば方谷が整備した松山藩の農兵隊は、恐らく当時の日本としては最強水準で、方谷が松山城を無血開城しなければ、北越戦争を凌ぐ戊辰戦争の大戦になっていたに違いありません。通常軍備は戦うためのものと解されていますが、方谷は最強軍備を「捨てる」ことで、全く異なる政治的価値を生み出しています。また、彼ほどの実績と能力と洞察をもった偉人が、歴史に埋もれている理由の一つは、彼が自分自身を歴史から「捨てた」ことによるのではないかと思います。彼は備中松山藩の藩民を救うために、藩主板倉勝静にある意味反する行動をとっています(この両者には強い信頼関係があったとは言え、方谷は主君である勝静を事実上軟禁しています)。彼はこの一件について自分を歴史から捨て去ることで、君主への筋を通しながら藩民を救うという難題を両立させたのではないかと思います。

方谷は、末期とはいえ身分制度の厳しい封建時代に、農民出身でありながら備中松山藩の家老として藩政の全権を揮い、恐らく日本で最も優れた事業再生家であり(僕は、二宮尊徳や上杉鷹山を凌ぐのではないかと思います)、殖産興業を実現した政治家であり、通貨のメカニズムに精通した財政家であり、ケインズが登場する80年以上前にケインズ政策を実践したマクロ経済的洞察力を持ち、幕末時流を正確に読む戦略家であり、長州奇兵隊の十年も先に農民を中心とした西洋式の農兵隊を組織し、当時の日本において恐らく最強水準の兵力を整備し、その兵力は長州奇兵隊を遥かにしのぐと恐れられた軍事家であり(有名な高杉晋作の奇兵隊は、方谷の農兵隊を見た久坂玄瑞がこの兵力に衝撃を受け、長州でこれを真似たものです)、明治維新のクライマックスである江戸城開城に先駆けて、藩民を戦火から救うために備中松山城無血開城の英断を単独で行い、徳川慶喜の大政奉還の上奏文を起草した哲学家・文章家であり、封建の時代に生きながら藩民を守るために政治を行った君子であり、政治家として成功を収めながら私財の一切を開示して蓄財をせず、更に明治維新後も新政府から異例の出頭依頼を再三再四受けながら、その後一切の社会的地位を捨てて自ら農民に戻って田畑を耕し、時代の表舞台から自ら身を引いた人物です。

方谷と松山城無血開城に関する逸話で、備中松山藩のジェダイの死によって、大勢の藩民が救われた挿話があります。

鳥羽伏見の戦いに敗れ、将軍慶喜と共に夜陰にじょうじて江戸に逃れる直前の藩主板倉勝静(かつきよ)は、今まで勝静を護衛してきた熊田恰(あたか)にひとまず国元へ帰れと命じた。神影流の達人で師範役の熊田恰が護衛役の百五十余人の弟子をつれて船十四艘を雇い、混乱する大阪を出帆したのは一月七日のことであった。不運な彼等は連日の西風の強風に妨げられ難航を重ねて、ようよう玉島の備中松山の飛地にたどりついたのが十七日。突然、武装した百五十余名もの敗残兵が上陸してきて、玉島が騒然とした空気に包まれたのは言うまでもないことである。一月十七日といえば、松山城が無血開城を決め、松山藩士が城下街の外へ撤退作業を進めていた最後の日だった。

備前岡山に隣接する玉島に上陸した熊田恰の動静は、たちまち備前藩の知るところとなった。城の留守部隊のほぼ全軍が備中松山の玉島領土を包囲し銃砲を向けた。町内は阿鼻叫喚、右往左往の避難者の混乱で名状しがたい惨状と化した。鳥羽伏見の残党をおめおめ逃がしたとあっては、備前岡山の面子がつぶれてしまう。熊田部隊は完全に周囲を遮断され、文字通り袋の鼠そのものとなった。一月二十一日、玉砕覚悟の熊田恰のもとに、二人の雲水に身をやつした密使が方谷の密書をおびてしのんできた。
「百五十名の命にかえて死ね。」

火花を散らした二つの藩のぎりぎりの妥協線から生まれた結論であった。(中略)

備前岡山藩主池田茂政は、熊田恰の自決を武士の亀鑑と称揚して、目録をそえて金十五両と米二十表を熊田家に贈った。備中松山藩士達に対する感情処理である。死して熊田は家老格を追贈された。年は四十四歳だった。戦火を免れた玉島市民は、羽黒山の頂に祠を建てて熊田恰を祀った。御神体は熊田の遺刀であった。

深山渓谷の長瀬の自宅で山田方谷は見事な熊田恰の最後の様子を聞いた。人前では泣かぬと言われた方谷が涙を流した。死ぬことを覚悟してきた方谷が生き残り、方谷の意をくんだ熊田恰が死んだ。百五十余名の熊田の部下は、彼の自決によって助命された。玉島の住民も又戦火をのがれることが出来た。尊い犠牲である。義と名誉のためには生命を棄てる武士道の時代、死なずに生きる道を選ぶ方がはるかに辛い苦痛を引きずることになる。求めた死に場所を天から拒否され、心ならずも生き残った老残の身には、落城した藩民の前途がずしりと重くのしかかっていた。(矢吹邦彦著『炎の陽明学 -山田方谷伝-』

山田方谷に関連して、方谷を生涯の師と仰いだ河井継之助も、その極めて高い能力に比してアンバランスな小藩越後長岡藩にこだわり続けた幕末の異才です。彼も「死ぬこと」が最大の効果を生むことを理解していた一人で、それが分かる挿話を引用します。

「殿様が将軍さまの御身辺をおまもりになるために上方へのぼられる」
継之助は城内にいて出陣の総指揮をとった。
「お供は六十人」
と、継之助は人数を限っていた。出陣とはいえ、服装は陣笠、陣羽織、義経袴、手甲脚絆に皮足袋といった火事装束に似たかっこうを継之助は指定した。いわば半戦闘服であった。
槍、鉄砲はもたない。
が、それは人目にめだたぬよう荷駄に梱包した。鉄砲はことごとく継之助自慢の最新式洋式銃であり、あつくこもをまいてわからぬようにした。
「六十人とはいえ、いざとなれば五百人の威力があるのだ」
と、継之助は自分の補佐役である三間市之進にもらした。
随行の士は、選抜方式をとった。幹部はことごとく気骨と才腕のあるものをえらび、士はことごとく武芸達者をえらんだ。
この夜、城の御三階に六十人をあつめ、
「京大阪には何者が横行しているか。口に尊王をとなえ、腹いっぱいに不平を蔵し、乱をのぞみ、おのれの名を知られんことを望んでいる連中ばかりである。朴歯の高下駄をはき、長大な刀を帯び、鳶肩をいからせ、目を鷹の目にすごませ、路上を横行し、暗殺暴行を事としている。それが、いわゆる尊王の士だ」
と、明快に規定した。
「が、それらの挑発に乗るな」
と、継之助は意外なことをいった。彼らが斬りかかってくればおとなしく斬られよ、死ね、と継之助はいった。
「さればこそ勇気のある者を選んだのだ」
という。かれらの挑発に乗れば将軍もわが藩公も朝敵にされる。それほど京はむずかしいのだ、と継之助はこの一点に念を押した。

いよいよ今夜上洛ときまった日の午後、継之助は一同をあつめてふたたび訓戒した。
「斬られよ」
という、例の訓戒である。
京は、無警察状態であった。幕府の警察組織はすでに京をひきはらっていた。新撰組も伏見へ退去したし、町奉行は大阪へ去り、京都守護職(会津藩)も大阪にひきあげており、市中を巡回するものは、薩摩、長州、土佐、芸州、尾張、あわせて五藩、いわゆる宮門守護藩の藩兵だけであった。徳川直系の越後長岡藩の藩主と藩兵が京には入れば、かれらは昂奮し、あるいは衝突事件がおこるかもしれない。かつ、市中を横行する者は、新政府樹立をきいて京に馳せ集まってきたいわゆる勤王を称する浮浪の徒で、かれらは好んで挑戦してくるに違いない。
「斬られよ」
というのはそのことであった。
「いっさい刀を抜くな。つかにも手をかけるでない。おとなしく斬られてしまえ」
と継之助はいう。
「もしもだ」
と、念を入れていった。それに応戦すればかれら薩長はその事件を言いがかりにして長岡藩主牧野忠訓を「朝敵」にし、さらに上様に累を及ぼさせ、徳川討伐のよき口実にするであろう、ということであった。(司馬遼太郎『峠』

①うそをついたり隠し事をしない、
②誰にも一切要求せず、皆のあるがままを受入れて裁かない、
③ありのままの自分でいながら、人のためになることを、できることから実行する。

これは、愛の定義であり、マスターの行動原則であり、リーダーの登用基準であり、人と組織と事業を動かすリーダーシップの原動力でもあるのですが、運用に際して、(i)正直な人材は必ずしも「有能」な人材とは限らないが、有能な人材を登用せずに組織や事業がまわるのか、(ii)従業員に一切要求せずに、組織を機能的に動かすことができるのか、(iii)自分が心からしたいことをしている人材が、本当に機能的と言えるのか、という三つの重要な疑問が提起されるのではないでしょうか。

善人はなまくら刀
(i)について、実際、一般的な経営者にとっては、従業員が正直かどうかに拘らず、単に「有能な」従業員を重用する方がよほど確実で、即効性があり、「合理的」な人事だと思われるに違いありません(そして、実際、世の中の殆どの企業ではそのように運用されています)。しかし、これまでの議論を前提とすると、長期的あるいは本質的な企業価値の向上においては、「有能」な人材よりも正直な人材をリーダーに登用する方がよほど効果的(かつ合理的)である可能性があり、もしそうであるならば、目先の効果に捉われずに正直な人材を組織で活かすことのできる者が、本当に力のある(成果をもたらす)経営者であると思います。

正直な従業員と「有能な」従業員の関係は、「良い売上」と「悪い売上」の関係にイメージが重なります(2007年4月16日のエントリー『売上論《前編》』をご参照下さい)。前者は企業を強くし、後者は短期的な収益を容易に生み出す代わりに企業価値を食いつぶす性質を持つという仮説ですが、この考え方は一般的な経営と人事の諸問題をうまく説明できるような気がします。人材の「能力」は収益を規定しますが、人材の「人格」は事業力と企業価値を規定します。したがって「能力」に偏重して人材を登用したり(いわゆる「実力主義」というものです)、売上の額や収益を第一に人事を考える経営者は「収益を見て事業を見ていない」状態に陥りがちで、短期的な(とはいえ、時にはこの「期間」は10年継続することもありますが)利益成長を遂げながら、企業の凋落を招くという現象が広範に生じます。そして、この仮説は、新聞を読めば明らかな事実ではないかという気がします。ごく最近の事例だけでも、船場吉兆、赤福、白い恋人、ミートホープ、コムスン…、その他僕の記憶にすぐ上がるものだけでも、大和銀行ニューヨーク支店(デリバティブによる大額損失と証拠隠滅)、シティバンク・プライベートバンキング(株価操縦やマネーロンダリングへの手助けなど)、西武鉄道(有価証券報告書の虚偽記載)、雪印、不二家、関西テレビ(発掘!あるある大事典)、三菱自動車(リコール隠し)…。きちんと調べ始めたらどれだけの量になるか想像もつきません。経営者やリーダーが正直でなかったために企業価値が大きく毀損したり、場合によって破綻に至る事例はあまりに一般的で、この異常な事態が「まあ普通ではないか」と錯覚してしまいそうなくらいです。

これに関連して、二宮尊徳は以下のような言葉を残しています。尊徳の言う「悪賢い連中」とは、有能でありながら正直でない人、すなわち能力本位で登用される一般企業の人材のイメージと重なります。

『善人はなまくら刀のようなもので、悪賢い連中を使いこなすことができない。けれども賢い君主があってこれを用いれば、善政が行われて人民は安息する。悪人は、良く切れる刀のようなもので、悪賢い連中を良く使いこなす。愚かな君主はこれを用いなければその国を支配することができないが、そうすれば悪政が行われて人民は困苦する。だから、わが興国安民法のごときは、悪人を退けて善人を挙用しなければ、その功業を為し遂げることはできないのだ。』(佐々井典比古訳注『二宮尊徳の教え』「語録」巻一 33)

正直であることは、なまくら刀のように即効性はないかもしれませんが、確実に企業価値を最大化する経営手段だと思います。尊徳はまた次のように表現しています。

『近頃の世の中は、嘘でも差し支えなく渡れるようだが、これは相手もやはり嘘だからだ。嘘と嘘同志だから、隙もなく、滞りもない。ちょうど雲助仲間の付き合いのようなものだ。しかし、もし嘘を持って誠に対するときは、すぐに差し支えるはずだ。例えば百枚の紙から一枚だけ取っても分からないようだが、九十九枚目まで数えれば不足する。百間の縄を五寸切っても同様、九十九間目になって足らないのが分かる。人の身代でも、一日に十文とって十五文使い、二十文とって二十五文使っていれば、年の暮れまでは分からなくとも、大晦日になってその不足が現れる。この通り、嘘は誠に対抗できないものだ。』(佐々井典比古訳注『二宮尊徳の教え』「夜話」第十篇 264)

経営における人事問題の本質は、第一に、正直な人材を優先しない能力本位の人事は、短期間でほぼ確実に効果が生まれること、第二に、したがって、短期間の事業的成果を生み出す手段として非常に容易であること(逆に、「愚かな君主はこれを用いなければその国を支配することができない」という所以です)、第三に、正直な人材の登用は、そもそも正直かつ優れたリーダーシップの基でなければ効果的に機能しないこと、第四に、なによりも、正直な人材を機能させることが企業価値を最大化するという事実が全く一般認識になっていない、ということかも知れません。

求めない経営
(ii)従業員に一切要求せずに、組織を機能的に動かすことができるのか、とは殆どの経営者が感じる疑問、…というより、ひょっとしたら恐怖に近い感情かもしれません。一般的な経営者の殆ど、特に「有能」といわれている経営者ほど、従業員と接する際の大半の時間を、「情報収集」と「決断」と「指示」に充てています。一般的な経営者が従業員に働きかける方法、決断に必要な情報収集は指示によってなされるため、指示という行為を行わなければ、情報収集ができず、したがって決断ができず、そして従業員と事業に対して働きかけ、影響を及ぼすことが出来なくなってしまいます。

サンマリーナホテルでの事例ですが、現場と従業員のことを配慮せず、教科書的な「常識」に基づいて、想いやりの乏しい(と僕には思えました)指示を従業員に対して連発していた総支配人に対して、指示というものを一切しないよう試みることを提案したことがありました。当時僕は社長でしたので、彼の上司にあたることになります。この時点では新・人事考課基準が施行され、「一切要求しない」ことがリーダーの要件と定義されており、僕が既にそうしていていたことと同様の行為を彼にも挑戦してもらうというのが趣旨です。

予想したことではありましたが、ホテル業界と企業社会の「常識」に基づいて30年以上働いてきた彼にとって、「指示をしない」という行為がどのようにしてリーダーシップ、まして総支配人という責任を果すことに繋がるのか、本当に理解に苦しんだようでした。ひょっとしたら僕からの提案は陰湿ないやがらせかも知れないと悩んだり、指示をしない自分が組織の中で無価値に思えたり、ホテルに良かれと思って行ってきた自分の努力や過去のキャリアと実績が否定されたように感じたり、仕事が目に見えて減った自分の姿がとても惨めに感じられたり、従業員から好奇の目で見られているような気がして辱めを受けているような気になったり…。彼が大きな不安と悩みに直面したであろうことは想像に難くありません。その後の彼は、傍から見ても気の毒なくらい当惑し、生気を失う期間が長く続きました。彼にとってみれば、いったい何がどんな理由で自分に起こっているのか、その目的はなんなのか、見当もつかなかったようです。恐らく、例えばこれが新入社員であればそれ程大きなことには感じられないのかもしれませんが、「常識的な」価値観に沿って優れた実績を上げ活躍してきた人ほど、「求めない経営」という発想があまりに突飛で、不条理で、非効率な考え方に思える傾向は強いはずです。両者の発想の間にはそれ程のギャップが存在するということは理解すべき点だと思います*(1)

一切求めず人を動かす
相手に一切求めずに、相手に影響を及ぼすことはどのようにして可能なのでしょうか。論理が循環して混ぜっ返すように聞こえるかもしれませんが、①~③の愛の行動原則を実行することによってです。この行動原則は三つの形をしていますが、一つのものです。例えば、経営者が従業員との人間関係において、正直に、物事の真実を明らかにし(①)、そして、従業員本人が心からしたいことに気付き、できることから実行することの手助けをすること(③)、そして更に、そのような手助けが経営者自身にとっても心からしたいことであることであるとき(③)、経営者は従業員対して指示をする必要がなくなり(②)、あるがままの従業員が極めて大きな生産性を発揮するのです。…一言で「相手に一切求めずに人を動かす」と表現すると手品のように聞こえますが、より正確には、「相手の望むことを実行する手助けを、自分ができる範囲で行う」ということに過ぎませんので、それが機能した場合、相手が自発的に生産性を発揮するのはむしろ当然でしょう。

一般的な経営者は、自分の事業イメージを実現するために、いかに組織と従業員をコントロールするかという発想をしがちですが(指示することはその一手段です)、その拠り所は自分がそれまでに身につけた「常識」「専門性」「実績」「経験」「成果」「プライド」「地位」などです。実際、世の中の経営理論の大半は、経営者は最も合理的な判断を行うことができ(逆に、最も合理的な判断を行えるからこそ経営者であり)、この判断をいかに効果的に組織全体に浸透させ、組織を機能させるか、という前提で構成されています。これに対して、愛の行動原則に従うということは、従業員をコントロールすることを止め、従業員を自由にする決断をするということであり、自分が最も合理的な回答を持つとは限らないと言う前提に立つということであり、一般的な経営者が最も重要視する拠り所の一切を手放すことを意味するため、社会的な成果を上げた、いわゆる実績のある地位の高い人であるほど困難な作業となり、前述の総支配人のように、経営作業や従業員との人間関係以前の問題として自分自身に向き合う必要が生じ、その過程で大きな壁に突き当たることになります*(2)

自分自身に向き合い、壁を乗り越えて、このような発想の転換を遂げた経営者の元では、必然的に個々の従業員が自発的かつ爆発的な生産性を生み出すのですが、その環境において経営者が果すべき役割は、「従業員一人ひとりの個性や組織の個性から個別に生まれる生産性を、最終的に事業的な付加価値に結びつくように事業の生態系をバランスすること」であり、その発想に経営者自身が至ったとき、高い水準で経営がバランスし、事業価値が飛躍的に高まるのです。このメカニズムの詳細と具体事例については別の稿に譲ります。

相手に求めないことの意味
相手に一切求めずに人を動かすということは、非常にパワフルな行為であり、人間関係と企業経営と社会において、極めて重要な意味を持ちます。

一般的な事業において、生産性がなく、莫大な金額が支出されながら、殆どの経営者が支出の事実をはっきり認識していない、という恐るべき二つのコストが存在すると思います。一つは「嘘のコスト」、もう一つは「争いのコスト」です。前者については今まで繰り返しコメントしてきたことですので、この場では主に「争いのコスト」(あるいは「人をコントロールするためのコスト」)についてコメントします。財務諸表のどこを見ても「争いのコスト」といった費用項目は存在しませんので、多くの経営者がその存在を自覚していない所以なのですが、具体的には、例えば、僕が経営を担当し始めたときのサンマリーナホテルでは、前オーナー側勢力の総務・管理部門と運営者であるJALホテル側勢力の営業・運営部門が事実上対立し、お互いを牽制するための有形無形の費用が至る所に生じていました。前述の通り、「争いのコスト」という費用項目はありませんが、その代わりに、機能が重なる管理職の人件費、複数の系統から指示された重複作業、情報が共有されないために費やされる機会損失や費用の二重支出などが、無数の勘定項目に分散記帳されることになります。更に、会社によっては人事的な対立を原因として、重複した事業が開始されたり、それに伴って子会社が設立されたりすることもありますので、この場合の「争いのコスト」は損益計算書ではなく、連結貸借対照表の資産項目に計上されることにもなります*(3)

人々に争いが生じるのは、当事者がそれぞれ自分の価値観に基づいて相手をコントロールしようとする、すなわち相手に何かを求めることが原因です。そして、その行為を正当化する根拠は、殆どの場合が「正義」です。つまり殆どの争いにおいては、当事者双方に必ずそれぞれの正義が存在するという構造になっているのです。突飛な例のように聞こえるかもしれませんが、史上稀に見る大虐殺を行ったヒトラーですら、その動機は彼の価値観に基づいた正義ですし、より重要なことに、少なくとも一定期間、何百万人もの人がその「正義」を現実に支持していたのです。多くの人にとって、正義を求めることは道義的で正しいことだと考えられていますが、現実には相手をコントロールする際に自分の行為を正当化する根拠として利用されることがあまりに多く、結果として正義が争いの最大の原因となっており、正義が存在しなければこの世から争いは消滅するのではないかと思えるほどです。経営的に重要な点は、以上を前提とすると、「企業の中で最も無駄な費用の一つ(「争いのコスト」)は、自分の正義を他人にも求めるために生じる」、逆に考えると「何が正義かという意識を手放すことで、最大の費用を減じ利益を生み出す」可能性があるのです。すなわち、相手に要求しないこと(愛の行動原則の②に該当します)は事業性を生むのです。…もっとも、このように言を尽くさなくても、組織や世の中から争いごとが消滅することで、どれほど組織や社会の効率が高まるかは、誰にとっても容易に想像できるのではないかと思います*(4)

念のためにコメントしますが、以上は、正義であること、あるいは正義を通すことが「良くない」という意味ではありません。何が正義であるか否かに関する自分なりのしっかりした価値観を持ち、行動することは本来とても有益なことだと思います。問題は、あまりに多くの組織や人間関係において、正義と執着(相手に対するコントロール欲求)が混同され、「正義によれば相手をコントロールしても良い」、更に「それは相手のためでもある(なぜならそれが「正義」だから)」と解釈されがちな点にあります。人は、自分の価値観における正義と目の前の現実が食い違うときに苛立ちを感じるものですが、更に「何かをされた」ときよりも、「何かをしてくれない」ことに大きな苛立ちを感じるため、非常に容易かつどのような相手に対してもコントロール欲求が生じる可能性があります。その結果、実体は「誰かが何かをしてくれない」ことに対する(個人的な)コントロール欲求に過ぎない感情が、「収益のため」「企業の成長のため」「よりよい社会のため」「神の意思により」といった正当性を後ろ盾に正義と呼ばれ、限りない争いを生み出し、経営資源や社会資源を大量に浪費している、という構造になってはいないでしょうか。

問題を更に深くしているのは、執着やコントロール欲求に基づいて、他人をコントロールしようとする人は、「私はあなたをコントロールしたい」とは言わずに、ほぼ例外なく「これが正義だから」「あなたを愛しているから」と表現します。一般的に「愛」と表現されているもの大半は、実は執着(コントロール欲求)に過ぎないものです。このように解釈すると、親から「愛」されているはずの子供が却って自由を失ったり、「愛」しあっている筈の夫婦がお互いを束縛しあったり、会社や経営者が「愛」しているはずの従業員がいくら働いても幸福にならない、という社会一般の現象が非常に良く説明できるような気がします。

動機の高さで登用する
(iii)自分が心からしたいことをしている人材は機能的である、ということを実証するためには、結局のところ、心からしたいことをしている従業員を実際に登用してみる以外に方法はないと思うのですが、そのためにはまず、従業員が本当に心からしたいことをしているかどうかを見極める必要があります。世の中の大半の企業は、従業員が生み出した事業的な成果に対して、それが正直な行動の結果かどうか、あるいは心からしたいことをしたことの結果かどうかの違いには関知しませんし、それが経営的に重要だという認識も殆どない状態です。しかしそれ以上に、肝心の従業員の認識が驚くほど乏しいのです。心からしたいことをすることが不適切、あるいは後ろめたく感じる、というくらいならまだ良い方で、自分が心からしたいことが分からない、あるいは、冗談のように聞こえますが、心からしたいことをするということ自体に無関心であることが珍しくありません。

従来企業では、上司の望む仕事をいやな顔一つ見せずに、熱意を持って取り組む従業員が高い評価を受けてきましたし、自分の正直な気持ちや感情に左右されずに精力的に仕事を成し遂げる人材は、人格的に優れていると考えられることが一般的でしたので、経営者が従業員に仕事をお願いすると、大半の社員は「是非やりたい」と答えますし、更に厄介なことに本人も頭ではそう信じているのです。しかしながら、僕のイメージではそのうちの9割以上は、それが心からやりたい仕事かどうかを考えもせず、経営者に対してほぼ反射的に、「熱意を持って」やりたいという意思表示をしているように思えますし、職位の高い人材ほどこの傾向が強いと思います。したがって、経営者が動機の高さで人材を登用しようと思っても、これらの障壁を乗り越えざるを得ませんし、また、皮肉なものですが、最も大きな障壁となるのは従業員という現象が生じます。

以上の前提で、サンマリーナホテルにおいて僕が従業員へプロジェクトをアサインする際の基準は、第一に、そのプロジェクトが従業員にとって本当にやりたいことかどうか確認する、第二に、やりたい気持ちの強さをもう一度認する、第三に、十分にやりたい気持ちが強い人材が現れない場合は、プロジェクトそのものを延期する、そして第四に、結果は本人に問わない、というものでした。そして、そのプロジェクトが採算にあうかどうかのバランスを取るのは経営の問題であり、担当者が責任を負うものではない、という基準を決めて実行しました。

尊徳は、『最良の働き者は、もっとも多くの仕事をするものではなく、もっとも高い動機で働く者』という言葉を残していますが、冒頭に挙げた三つの人材登用基準:

①うそをついたり隠し事をしない、
②誰にも一切要求せず、皆のあるがままを受入れて裁かない、
③ありのままの自分でいながら、人のためになることを、できることから実行する、

はまさに動機の高さで人材を登用する際の基準でもあります。

【2007.12.11 樋口耕太郎】

*(1) 総支配人に対するこの対応は当時も賛否両論があり、僕にとっても重大な決断でした。当時僕と彼は組織上のナンバー1・2の関係であり、この人間関係が組織全体に与える影響は多大なものです。特に彼は僕よりもひと回り以上も年上だったということ、彼の派遣元であるホテル運営会社(JALホテルズ)との企業間の関係にも影響を与える可能性があること、彼は総支配人という機能に徹し、ある意味職務上当然の行為を、ホテルに取って良かれと思う観点から行っていたに過ぎず、常識的には彼に何の非もなかったこと、そしてなによりも、彼のプライドと、彼の価値観と、彼の人生に特別な影響を与えることが明らかだったためです。後日談としては、この決断は僕の想像を大きく超える結果を生みました。僕が宣言した三つの行動原則を、総支配人に対して例外なく適用したことを見た多くの従業員がこれに感動し、組織に大きな活力が生じたこと、そして、従業員にとっては、経営者の言葉と行動が一致するという、彼らにとっては初めての体験を通じて、信頼関係が非常に強固になったのです。総支配人との更にその後の後日談もありますが、別の機会があればご紹介することにします。

*(2) 自分の拠り所となっている一切を手放すということは、本当に容易なことではありませんが、反面実に簡単なこととも言えます。例えて言えばタバコを止めることのようなものだと思います(タバコを止めた経験のある方いらっしゃいますか?)。当事者にとって、タバコを止めることは本当に難しいものですが、禁煙を実現した人にとっては極めて容易な作業であり、逆に容易でなければ中々止められるものではありません。周りで禁煙に成功した人の話を聞くと、概して容易に止めたというような言い方をするのですが、これは偶然ではないはずです。禁煙に成功した人が10回目の禁煙で本当にタバコを止めたとしたら、初めの9回は苦しかったから止められず、10回目は容易だったから止められた可能性が高いと思うのです。

そして、タバコが止められない最大の理由は、僕は喪失感だと思います。「もし、このタバコを止めたら、もう一生タバコを吸うことができない、そうしたらタバコを吸うことで得られる楽しい気持ちも、今後二度と経験できなくなる」と言う、「失うことへの恐怖」が最大の原因ではないでしょうか。ところが、タバコをもともと吸わない人にとっては、タバコを吸うことで「得られる」楽しい気持ちなどそもそも必要としないので、このコメントがいかにも間の抜けたものに感じられる筈です。そして、タバコを止めることに成功した人は、後になって「自分は何であんなものをあれほど必要としていたのだろう」と感じることでしょう。

*(3) このように、経営の現場では、「実質的な費用」は必ずしも会計上の費用として計上されているとは限りません。別の費用項目に計上されていれば(例えば二重機能のために計上された「人件費」など)まだ分かりやすいほうですが、事例のように資産項目(とその資産から生まれる非効率な売上)として計上されていたり、機会損失や意欲損失による売上減においては、完全な「簿外費用」と言うことになります。これらはいずれも目に見える経営情報ではありませんので、経営者が事業の実体と生態系を理解しながら感性で把握し、少なくとも自分の持つイメージにおいて数量化すべき点です。経営者が現場を理解することの重要性の一つは、このような点にもあると思います。

*(4) 更に、これは非常に逆説的ですが、「相手に求めない」ことで自分の自由な行動範囲が著しく広がるという効果があります。「相手に求める」行動である限り、それが相手に対してどのような影響を与えるか、それに対する相手の意思はどのようなものか、などの確認や制約が必ず生じるのですが、「相手に求めない」行動であれば、基本的にこれらの制約は一切なくなることになります。尊徳は、これについて次のようにコメントしています。

『およそ人を利することは、相談に及ばない。餅があって、これを隣に贈るのに、何の相談が要ろう。それゆえ、人を利するものである限り、万事支障ができることはない。支障は、己を利するところに生ずるのだ。いま、農民に向かって、お前たちのために池の土手を築き、溝や堀を掘るのだといえば、誰一人として励まないものはない。工事に何の妨げも起こる訳はないのだ。』(佐々井典比古訳注『二宮尊徳の教え』「語録」巻五 411)

正直であることが、(倫理的には勿論のこと)経営合理性の観点からも経営者の必要条件だとして、優れた経営者であるためのクオリティはどのようなものでしょうか*(1)。僕は、人間関係の局面において常に三つの行動を選択する者が優れたリーダーであり、更に、この「三つの行動原則」と「経営バランス」を両立する者が経営者として相応しいと思っています。

①うそをついたり隠し事をしない、
②誰にも一切要求せず、皆のあるがままを受入れて裁かない、
③ありのままの自分でいながら、人のためになることを、できることから実行する。

これは、今までにも繰り返し登場している「愛の定義」であり、優れた …すなわち企業価値を最大化する… リーダーの定義は、「人間関係のあらゆる接点において、愛を選択する者」、と表現することもできるのです。仮に、「愛が事業性を生む」 …すなわち「三つの行動原則」が企業価値を最大化する… ことが現実であるならば、人間関係の接点で …すなわち企業の実体において… 愛を選択する者がリーダーとして機能するのはむしろ当然のことでしょう。「三つの行動原則」(すなわち愛)を人間関係のあらゆる局面で選択する者が理想的なリーダーであるとして、このような人物を仮に「マスター」と呼ぶことにしましょう。そして、「経営バランス」を習得したマスターが理想的な(すなわち経営合理的な)経営者としての機能を果すのです*(2)

トリニティ経営における「愛」について比較的誤解されがちな点をコメントします。第一に、愛の行動原則がリーダーの基準であるといっても、ダライ・ラマやマザー・テレサをリーダーにすべき、という意味ではありません。そんなことを言い出したら社会の大概の組織は成り立たなくなってしまい、それこそ合理性を欠いてしまいます。第二に、愛は「人間の性質」ではなく、「行動原則」として定義されており、人間性を評価・格付けするためのものではありません。したがって、リーダーもその人の不断の行動によって選別されることになります。第三に、上の三つの行動原則を「愛」と定義していますが、これはトリニティ経営のフレームワークの中で、この行動原則を「愛」と呼ぶことにした、また逆に、「愛」をそのように定義したという意味であり、「真実の愛とはなにか」、といった哲学的、宗教的、人間学的な議論とは異なるものです。そして、第四に、この行動原則をじっくり見て頂ければ分かりますが、どの内容も、そうしようと思いさえすれば、全ての人が(意外に簡単に)実行できるものばかりです。例えば、三つの行動原則で行動する際、嫌いな人を好きになる必要も、自分のしたくないことをする必要も、自分に嘘をつく必要も、他人を変える必要もありません。

マスターの人物像
人間関係の全ての局面において愛を選択する人物は、例えばどのような行動をとるのでしょうか。理想的なマスター経営者のイメージと人物像を具体的に表現することにします。念のため繰り返しますが、以下は「経営者かくあるべし」というものではありません。人間関係の接点で「三つの行動原則」を常に選択する人物はどのようなイメージの人物か、という趣旨でまとめています。「これらの要件を満たさなければ経営者として資質を欠いている」という意味ではなく、「マスター経営者であればこのような行動を取るであろう」という具体的なイメージに過ぎません。例えば、指示を出す経営者(後述参照下さい)は、マスターに比べれば確かに非効率かも知れませんが、不適切とは限らないのです。

第一に、マスターは、なによりも正直な人物です。現在の企業社会では、「法律に違反していない」、「後でばれる嘘をつかない」、「自分の真の意図を隠し通す技量をもつ」、という条件を満たすと「正直」、「誠実」、あるいは少なくとも「まじめ」な経営者と呼ばれるのではないでしょうか。当然ながら、これは本来の意味で正直であることとは無関係です。そして言動の一貫性。正直であるためには、経営者が発する言葉と真の意図が一致している必要があるのですが、経営者の真の意図は、言葉よりも何よりもその行動によって強力に伝達するため(『伝えるということ』参照下さい)、経営者の言葉と行動が一貫していることが正直であることの必要条件といえるのです。

例えば、事業における問題解決は、経営者の重要な仕事と一般に認識されていますが、問題を解決したかどうかもさることながら、問題を解決するために取った経営者の行動自体が従業員に対して重要なメッセージを伝達してしまう可能性があります。収益のプレッシャーを常に受けている一般的な経営者は、問題解決のプロセスという行動よりも、問題「解決」という結果そのものを優先しがちです。プロセスにおける一貫性(つまり正直さ)が失われるという、目には見えないけれども極めて大きな副作用については、矛盾点を隠蔽しながら目をつぶる、といった状況ではないでしょうか。企業の中外で日常的に為される、いわゆる「穏便な対処」の数々はこのパターンに該当しますが、たとえ声を上げてこれに異論を唱える従業員がいなくても、大半の従業員は行動から透けて見える経営者の真意をしっかり感じているものです。このような経営者は、言葉と矛盾する自らの行動によって、「自分は嘘つきだ」と社内に宣伝しているようなものです。「企業理念が浸透しない」、「自分の意図が従業員に伝わらない」、「従業員の意識改革が必要だ」と嘆く経営者は少なくありませんが、その最大の原因が経営者自身の行動にある可能性は殆ど考慮されません。 …この問題を解消する方法自体は非常にシンプルです。経営者が問題を収めるために行動するのではなく(つまり、問題「解決」を目的とするのではなく)、直面した問題に「三つの行動原則」で対処すること(つまり、プロセスを目的とすること)で、言動の一貫性を表現することができます。

第二に、マスターは、リーダーシップと権限は全く別のものだということを理解しており、リーダーシップを発揮するために権限を必要としません*(3)。一般的な組織における「権限」は、「権限が及ぶ範囲の人に対して、その意思とは異なる行動を、指示などによって強要する機能」と、「強要した行動が実行されない場合には、ペナルティを課す正当性」、を実質的に意味し、これらが付与されていることを象徴的に表したものが「地位」だと思います。勿論このメカニズムには一定の合理性があります。例えば、「有能」な人物がリーダーに選別されているという前提では、その「有能」な価値観と判断に多くの従業員が(黙って)従う方が、「合理的」であり、それを短時間かつ確実に実行するしくみが「権限」という機能です。リーダーになるためには地位と権限が必要だと考える人は一般的ですし(例えば、「もう少し権限があればもっと良い仕事ができるのに」と考えている中間管理者は少なくないと思います。僕には、そのような発想自体が良い仕事を妨げている最大の原因だと思えますが…。)、殆どのリーダーには実際に地位と権限が与えられていることから、権限と地位はリーダーであることの要件と考えられています。つまり、現代社会においては、従業員にその意思と異なる行動を強要することがリーダーシップの実質的機能であり、反対勢力にペナルティ課す権力を有している人物が「地位のある人物」として恐れられるため、これは一種の警察権と言えます。全ての警察権は「正義」をその根拠としますが、その「正義」は大方経営者側(と資本家側)に存在するというのが、現代企業社会の現状です。…多くの人が「偉くなりたい」と考えるのは、要はこの権力を手に入れたい、ということでしょう。

これに対して、「一切要求せず、従業員をあるがままに受け入れて裁かない」*(4)ことを行動原則としているマスター経営者は、例えば従業員に「指示」を出すことなく経営機能を果すことができる人物です。事業運営に際して、基本的に従業員の意に反することをさせる必要を感じないため、警察権(権限)を一切必要としません。 …この点が一般的な経営者から理解されることは稀かも知れません。特に、現場をよく理解し実績を上げている「有能な」経営者は、処理しなければならない問題を山のように抱え、時間に追われ、収益と成果実現のプレッシャーを受けながら日々決断と実行を繰り返す日常において、指示をしないということは、会社を放置することに等しいと感じるに違いありません。 …これに対して、マスターは、会社を放置するどころか指示や警察権よりも遥かに強力かつ効果的な方法(仮に「フォース」と呼びましょう。)でリーダーシップを発揮します。それは従業員との人間関係の全ての接点において、第一に、真実を明らかにすることであり、第二に、自分ができることを実行することであり、第三に、従業員の役に立つことであり、そして第四に、必要なときには「手放す」ことです。

「指示」という分かりやすい概念に対して、この四つの「フォース」は御伽噺であるかのように、抽象的で現実味がなく、まして実効性があるとはとても思えないかも知れません。しかし、企業経営のフレームワークにおいて一般的でない(ように見える)、というだけで「フォース」の効果は日常生活に溢れています。例えば、イソップ物語の『北風と太陽』*(5)は、警察権(北風)とフォース(太陽)の効果の違いについてのお話でもあります。問題や原因となる相手を一切変えようとしない方が、よほど効果的に変化をもたらすことができるということを象徴的に表現しています。そして、四つの「フォース」の要素は「三つの行動原則」が形を変えたもので、本質的に前述した定義による「愛」と同義です。すなわち愛がいかに人間関係において、ひいては事業においてパワーを発揮するかということのメカニズムを示しています。「フォース」の効果についての詳細は、別の稿に譲ります。

第三に、マスターは、人の役に立つことのうち、自分が心からしたいことを、できることから実行する人物です。物事には、人の役に立つこととそうでないことがあるとして、このそれぞれに対して、自分が心からやりたいこととそうでないことが存在します。つまり人は誰しも、①人の役立たずに、自分もしたくないこと、②人の役に立たずに、自分がしたいこと、③人の役に立ち、自分がしたくないこと、④人の役に立ち、自分も心からしたいこと、の四種類の行動パターンのどれかを無意識に、しかし常に選択しています*(6)。「常に人の役に立つ行動を優先する」とだけ言うと、何かしら説教じみていて、場合によっては偽善的に感じられるのですが、④を選択することで、自分が心からしたいことをしながら、人の役に立つ行動を優先することが現実に可能になります。

初めは人の役に立つ範囲も小さいかも知れませんが、このような視点で従業員との人間関係に向き合い、自分の役割を模索する経営者は、いずれどこかの時点で、「従業員がいなければ自分も自分の役割も無価値である」こと、「従業員を活かすことが自分を活かす最高の手段である」こと、そのためには、逆説的ですが、「自分をなによりも活かす必要がある」こと、というバランスを理解するようになるでしょう。そのときには、自分が心からしたいことと人の役に立つこと、すなわち、自分を活かすことと人を利することは、対立する概念ではなく、一つのものだと感じるはずです。このようなマスター経営者は、行動に私心がなく、最も人の役に立つ人物でありながら、最も自分の好きなことだけを追求する人物で、人に対して正直なだけでなく、自分に対しても嘘をつくことがありません*(7)。西郷隆盛はこのような人物を次のように表現しています。

『命も要らず、名も要らず、位も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのできる人物である。また、このような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である。』

【2007.11.15 樋口耕太郎】

*(1) 「優れた経営者であるためのクオリティ」といっても、世の中の経営者かくあるべし、という意味では全くありません。今まで多くのエントリーでコメントしてきたトリニティ経営の世界観による経営環境を前提とするとき、経営科学的に最も機能する経営者のクオリティはどのようなものであるか、という観点から「優れている」という意味です。

*(2) これを前提とすると、リーダーと経営者の選別基準とプロセスは非常にシンプルになります。第一に正直な人材をその行動から判断・選別し、第二に「愛の行動原則」に沿ってその人の行動を評価して人事考課を行い、第三にその中から経営バランスを習得した人物を経営者として選別するものです。これによって、人事考課、人材育成と個人の成長、リーダーの選別、経営者の選別、機能的な組織運営、企業統治(コーポレート・ガバナンス)の全てが一つのプロセスに統合され、非常にシンプルかつ明確な価値観によって、人事の一切と、更には理想的な企業統治を同時にかつ合理的に運用することができます。すなわち、「トリニティのリーダーシップ論」のメカニズムを運用することは、人事、組織運営(≒経営)、企業統治が一つの原則で統合されるという意味でもあるのです。

*(3) マスターは、リーダーシップを次のように解釈します。

・リーダーは権限を持ちません(仮に権限を付与されていても必要としません)。
・リーダーの役割は、「いかに自分らしく、人の役に立つか」のみです。
・リーダーとは、奉仕する能力が相対的に高い人物とその役割に対する呼称であり、タイトルや地位とは無関係です。
・リーダーにとって、タイトルや地位は能力は特権や褒章ではありません。また、競争によって「勝ち取る」性質のものでもありません。活用して何かの役に立たせるためのツールのようなものと言えるでしょう。

*(4) 「一切要求せず、従業員をあるがままに受け入れて裁かない」という行動原則は、「従業員の自由な行動と選択に介入せず、仮にそれが『誤った』ものであったとしても、従業員が自ら選択をする自由を尊重し、裁かない」、という意味でもあります。この議論の詳細については『トリニティの人事論《その5》』を参照下さい。

*(5) 『北風と太陽』

北風と太陽が、どちらが強いかで言い争っていました。議論ばかりしていても決まらないので、それでは力試しをして、旅人の着物を脱がせた方が勝ちと決めよう、ということになりました。北風が、初めにやりました。
北風は思いきり強く、「ビューッ!」と、吹きつけました。
旅人は震え上がって、着物をしっかり押さえました。
そこで北風は、一段と力を入れて「ビュビューッ!」と、吹きつけました。
すると旅人は、「うーっ、寒い。これはたまらん。もう1枚着よう」と、今まで着ていた着物の上に、もう1枚重ねて着てしまいました。
北風はがっかりして、「きみにまかせるよ」と、太陽に言いました。
太陽はまず初めに、ポカポカと暖かく照らしました。そして、旅人がさっき1枚余計に着た上着を脱ぐのを見ると、今度はもっと暑い、強い日射しを送りました。ジリジリと照りつける暑さに、旅人はたまらなくなって、着物を全部脱ぎ捨てると、近くの川へ水浴びに行きました。

人に何かをしてもらうには、北風のように、無理矢理ではうまくいきません。太陽のように、相手の気持ちになって考えれば、無理をしなくても人はちゃんと動いてくれます。

*(6) 例えば、上場した後も自分の持ち株を手放したがらず、自分の職(地位)に執着を持つオーナー経営者は、②に該当しそうですし、自分を殺しながら平和や真理という「正義」を語る組織宗教家は、③に近いかもしれません。偏見と風刺を交えたイメージでは、①はやくざと政治家とコンサルタント、②はベンチャー企業経営者とファンド投資家と外資系証券マン、③は官僚と宗教家とボランティア、の行動パターンと言ったら出来の悪いジョークになるでしょうか(勿論ここに上げたどの業界にも、誠実で立派な人は少なからず存在します)。

*(7) 本稿をドラフトしているときに、ある方から、「何が相手の役に立つかどうかを、他人である自分が判断できるのだろうか」、という質問をお受けしました。確かに、何が相手のためになるかは、本当の意味では分かりません。相手にとって良かれと思ってしたことが、逆の効果を生むということは、あまりに一般的なすれ違いです。それよりも、相手のためになるということにどれだけ真剣に向き合い、行動したか、ということの方がよほど大きな意味を持つと思います。

例えば、人が人を深く感動させるとき、あるいは人生において大きな影響を与えるとき、その共感が本物であればあるほど、何がどのタイミングでどのような作用で心に響くかどうかを予想することは実質的に不可能です。何かに真剣に向き合った人の一言や深い生き方から搾り出された一つのしぐさが、共感した人の人生を永遠に変えることがありますが、この効果自体を目的としたり演出しようとした時点で、目論見どおりに機能することはなくなるでしょう。

これが三つの『行動』原則として定義されている理由の一つでもあります。すなわち、何が正解かは建設的な問題提起ではなく(どのみち分かりませんので)、相手の立場に立って何が正解かを誠実に求めて行動すること自体が価値を生み出すという考え方です。そして、重要なことですが、「三つの行動原則」の全てを同時に適用すること、 …単に相手の役に立つということだけでなく、自分の行動は相手に対しても自分にとってもほんとうに嘘がないだろうか、自分は無意識にでも言外にでも相手に対して実質的に何かを要求したり裁いたりしていないだろうか、いま、愛なら何をするだろうか、 …と考えながら試行錯誤するプロセス自体が、人間関係において(したがって、事業において)成果を生みます。そのような意識で相手に接した結果、相手のためにならなかったと思える状況が生じた場合でも、自分にはもう一つ学ぶべきことがあった、ということに過ぎないと思います。

…蛇足のコメントですが、最近は「さりげなく感動を演出する」サービスが一流とされているようですが、演出できる範囲のサービスで人間がほんとうに共感したり感動したりするものか、僕はかなり疑問を感じているのです。

ハリウッド映画といえば能天気な作品の代名詞のようもに言われますが、中にはその見かけとは全く異なる普遍的なモチーフが秘められているものも少なからず存在し、アメリカという国の底力を感じることがあります。スターウォーズシリーズはその典型でしょう。1977年の第一作以来、斬新なシナリオと独創的なSFX技術が大きな話題を呼んで一大ブームを巻き起こしたのですが、僕はシリーズが大ヒットした本当の理由はそのモチーフにあると思っています。ジョージ・ルーカスの昔のインタビューで、彼がスターウォーズのシナリオを構成するときに、「世界中の神話や伝説を研究した」とコメントしていたのですが、それを聞いて納得しました。僕が勝手に考えるスターウォーズの隠れたモチーフは、第一に目に見えない大いなる力「フォースの存在」、二つ目は「善と悪の関係」、三つ目は「善と悪を分ける決断」だと思っています。

フォースの存在は目に見えませんが、それを信じる人にとっては現実であり、その力によって宇宙を動かすことも可能です(第一のモチーフ)。しかし、その力は力でしかなく、フォースを操るマスターの心の在り方ひとつで善にも悪にも利用され得るのです。逆に表現すると、善と悪の相違点は人の心の中にしかありません。ジェダイ騎士(ナイト)になるために厳しく長い修行が必要とされるのは、(信じる力を通じて)フォースの力を身につけることは勿論ですが、それ以上に善と悪の関係を理解し、自分自身を善の道におく心の在り方を学ぶためです。実際、フォースを制御する人の心が悪によって支配されるか、善によって導かれるかによって、ダークサイドに堕ち宇宙を蹂躙するダースベイダーになるか、宇宙を開放するルーク・スカイウォーカーになるか程の差が生まれるのです(第二のモチーフ)*(1)

冷静に考えると当然のことなのですが、どんなに優れた能力(フォース)を持っている経営者であっても、どんなに商売が上手な経営者であっても、それが企業価値の向上とステイクホルダーの幸福という目的に沿って利用されなければ全く意味を持たないどころか、大きな害をもたらすことになります。「羊の番をする狼」に望まれる第一の資質が能力ではなくて正直さであるということは個人の道徳と企業倫理の観点で議論されがちですが、経営合理性の議論においても極めて重要な意味を持つのです*(2)。ここから導かれる、機能する経営者の第一法則は:「正直であることが経営者の必要条件であり、この条件を満たさない者は、どれ程『能力』を有する者であろうと、いかに『実績』を上げていようと、経営機能を果す上では非効率である」。大多数の企業は、経営者の選別に当たって事業能力や企業への収益的な貢献度や実績を最重要視していますが、この方法は「能力」のあるダースベイダーを経営者として大量に選択しがちなメカニズムであり、著しく合理性を欠いている可能性があります。企業社会の現状はこれを実証しているように見えるのですが、如何でしょう。

「正直」の運用は可能か?
正直な経営者は効率的な経営機能を果し高い事業性を生む、ということが仮にその通りだったとして、現実に正直な人物を優先して組織的に選別・登用している企業はそれ程一般的ではありません。それにも関わらず殆どの企業が「わが社では既に誠実で正直な人物を経営者に選んでいる」と答えるのではないでしょうか。これらの企業にとって、正直さは選別基準として機能するためのものではなく、何らかの基準によって既に選別された経営者への枕詞になっている、と言ったら言い過ぎでしょうか。営利企業の組織では、収益をもたらす者を登用したいという意識がどうしても働くため、正直さを優先する人事を行うことは相当の勇気が必要で、前述のように収益を上げる人物を「誠実な人」と呼ぶことの方がよほど簡単だということがあるかもしれません。

現代の企業社会の価値観を常識とする人にとって「正直さ」という選別基準は、一見恣意的で、組織的にはとても運用できない、という反論も予想できそうですが、正直な人材や人格の高さによってリーダーを選別し登用することは、かつての(日露戦争頃までだと思います)日本ではむしろ常識的なものだった筈です。例えば、二宮尊徳は日本が生んだ偉大なターンアラウンド・マネージャー(事業再生家)ですが、尊徳の人事哲学も「最良の働き者は、最も多くの仕事をするものではなく、最も高い動機で働く者である」という言葉が象徴するように、能力や実績よりも人格と志を優先したものでした。

このような文化の基礎となる日本の教育現場においても、正直さや徳が最重要視されていました。以下は内村鑑三著『代表的日本人』(中江藤樹)からの引用です。

『私どもが学校教育で学ぶことは、力は正義ではないこと、天地は利己主義の上に成り立ってはいないこと、泥棒はいかなるものでもよろしくないこと、生命や財産は結局のところ私どもにとり最終目的にはならないこと。その他多くのことを知った。  学校教育の目的について、第一に、私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費が稼げるようになるとの目的で、学校に行かされたのではなく、真の人間になるためだった。それを、真の人、君子と称した。  さらに私どもは、同時に多くの異なる科目を教えられることはなかった。昔の教師は、わずかな年月に全知識を詰め込んではならないと考えていたのである。おもに教えられたのは「道徳」、それも実践道徳であった。』

…これらの価値観が古臭いと感じられるか、普遍的であると感じられるかは様々だと思いますが、少なくとも本稿の議論は、本質においてこれらと全く同様のことを別の言葉で表現しているに過ぎません。

「正直」の実践
正直な経営者を輩出し、選別する組織環境を実現するために、例えば次のような実践が可能だと思います。第一に、大半の企業情報をオープンにすること(『売上論《後編》』を参照下さい)。これは正直な人材登用を行う際の必要条件ではありませんが、実行できればこれを含めた経営全般作業を著しくスムーズにする効果があります*(3)。一般的な経営者や経営幹部は、(特に自分たちが独占している)経営情報を開示することに激しい抵抗感を持ち、「情報開示は経営に悪影響を及ぼす」という論調になりがちです。このような状況を乗り越えて、現実に徹底した情報開示を行う経営者はごくごく少数だとは思いますが、本気でこれを実行することができれば事業へのメリットは本当に莫大です。誇張だと思われるかもしれませんが、会社に存在する問題の大半が解消するといっても良いくらいです(更に、この解消にあたって、費用は殆どかかりません)。…これも皮肉なことに、経営者と経営幹部が会社の問題の大半を生み出している、そしてその改善をもっとも阻んでいる、という一般企業の現状に符合するような気がします。

第二に、恐らく何よりも重要なことだと思いますが、自分自身が正直であること、正直に行動すること…他人に対して、そしてそれ以上に自分に対して。正直さは優れた経営機能を発揮しますが、その本質は個人の生き方です。機能を果すために正直であろうとしても、そもそも経営者がそのような生き方をしたいと望まなければ意味のある効果は生じません。要は、経営者の生き方、あり方を芯から変えなければ機能しない性質のものなのです。かくして、「正直な人間であること」、「人間関係に誠実であること」は、経営者の全くパーソナルな問題でありながら、同時に企業存続の最重要経営課題になるのです。

【2007.10.29 樋口耕太郎】

*(1) アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちてダースベイダーとなる最大の原因は、彼の中の「悪」ではなく「愛」(の解釈)によるものではないだろうか…?第三のモチーフについては、後の稿でコメントします。

*(2) これから、「倫理的であることは経営合理性を持つ」、あるいはトリニティ的に表現すると「愛は極めて高い事業性を持つ」、という発想が生まれます。現代的な経営理論からは一見かけ離れる印象があるかも知れませんが、このような思想に基づく実践と事業の成功事例は意外に溢れいています。例えば、二宮尊徳の報徳思想では、徳と経済行為を同一のものと考え、関わる人々の徳を高く導くことによって数々の事業再生を成功させています。「道徳を忘れた経済は罪悪である。経済を忘れた道徳は寝言である。」という尊徳の言葉は、この哲学を象徴しています。

さらに、二宮尊徳のみならず、西郷隆盛、上杉鷹山、山田方谷などの日本が輩出した代表的マネージャー達が一様に同様の哲学と価値観に基づいて事業・国家再生を成功させており、非常に普遍的かつ実践的な手法と言えるのです。僕は、このような実践哲学の方が、流行によって目まぐるしく移り変わりがちなアメリカ型経営理論よりもよほどリアリティがあり機能的だと思っています。これからの経営理論は東アジア的な価値観に学ぶことが多くなるのではないでしょうか。以下は再び『代表的日本人』からの抜粋です。

『「左伝」にこう書かれている。徳は結果として財をもたらす本である。徳が多ければ、財はそれにしたがって生じる。徳が少なければ、同じように財もへる。財は国土をうるおし、国民に安らぎを与えることにより生じるものだからである。小人は自分を利するを目的とする。君子は民を利するを目的とする。前者は利己をはかってほろびる。後者は公の精神に立って栄える。生き方次第で、盛衰、貧困、興亡、生死がある。用心すべきではないか。世人は言う。「取れば富み、与えば失う」と。なんという間違いか!農業にたとえよう。けちな農夫は種を惜しんで蒔き、座して秋の収穫を待つ。もたらされるものは餓死のみである。良い農夫は良い種を蒔き、全力をつくして育てる。穀物は百倍の実りをもたらし、農夫の収穫はあり余る。ただ集めることを図るものは、収穫することを知るだけで、植え育てることを知らない。賢者は植え育てることに精を出すので、収穫は求めなくても訪れる。徳に励むものには、財は求めなくても生じる。したがって、世の人が損と呼ぶものは損ではなく、得と呼ぶものは得ではない。いにしえの聖人は、民を恵み、与えることを得とみて、民から取ることを損とみた。今は、まるで反対だ。』(西郷隆盛)

『東洋思想の一つの美点は、経済と道徳を分けない考え方であります。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。木に良く肥料をほどこすならば、労せずして確実に結果は実ります。「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう。「ゆえに賢者は木を考えて実をえる。小人は実を考えて実をえない。」』(上杉鷹山)

*(3) 高い水準で経営バランスが達成している状態は、事業の生態系が無理なく機能している状態です。このとき、事業の生態系に対して働きかける適切な経営行為は、生態系としてかみ合っている複数の事業要素に同時に効果を発揮します。例えば、このような状況で情報をオープンにすることは、情報管理の観点から優れているだけでなく、正直なリーダーの選別を前進させ、人事の公正感を高め、売上を価値のあるもの(「金色の売上」)にし、新規事業のアイディアを生み出し、顧客層を高めるなどなどの効果を生み出します。常識的には一つの事業的な目的を達成するために、一つまたは複数の経営行為が行われることが一般的ですが、トリニティ経営の発想では、一つの経営行為が複数の有効な結果をもたらすことはむしろ必然です。反対に、一つの経営行為が複数の結果を効果的に生まない状態は、適切な経営バランスが取れておらず、事業の生態系が何らかのダメージを受け、非効率な経営状態であることを強く示唆します。

経営者であることの条件を明確にする、すなわち、なぜ自分が経営者であるべきなのか、なぜ他人ではないのか、自分が果すべき経営機能とはなにか、という各問いに回答を出すためには、①リーダーが果すべき機能は何か(どのような機能を果すリーダーが企業価値を最大化するか)、②機能的なリーダーを選別するしくみとはどのようなものか、をそれぞれ検討することが効果的です。そして、トリニティ経営理論が機能するという前提では、この問いに対するシンプルな回答は、「より高い水準の経営バランスを取ること」であり、「高い水準の経営バランスを理解し、実現する力のある経営者を組織的に選出するしくみ」が企業に求められることになります。まず、これらを実現する要素を議論する前に、これらを阻害する構造と要因についてコメントすることにします。

経営者は狼?
前回のエントリーでコメントしたポイントですが、経営者のあり方次第で企業価値は著しく影響を受けるにもかかわらず、現実の企業社会では、経営者であることの条件(すなわち経営者が辞任する際の条件)が曖昧なまま放置され、経営者を評価するしくみと経営者を排除するしくみが殆ど機能していません。これは、現代企業社会の現実として、経営者は自分を含む全てのステイクホルダーの利害を最もコントロールしやすい立場にいること、そしてそれに対する牽制機能は事実上本人の価値観と良心のみ、ということでもあります。

言ってみれば、世の中の大半の企業は、特段の疑問も持たずに、狼に羊の番をさせているようなものです。株主(農場主)はその「対処」として、狼(経営者)がお腹をすかせないように、多額の報酬を与え(個人的には、世の中の経営者の報酬額は大方過大評価されていると思います)、従業員(羊)はほぼ無条件に狼の善意を信じようとします。皮肉な言い回しで恐縮ですが、世の中で一般的な企業統治の概念に基づいて株主と経営者の「利害の一致」を試みる作業は、まるで、有能な狼に対して、羊を食べなかったご褒美に、最高級ステーキを毎晩ご馳走するような状態です。それでもこのやり方が機能すればまだ良いのですが、通常お金持ちが最も欲するものはお金であり、「狼はお腹いっぱいであれば羊を襲わない」、という前提自体甚だ疑わしいものです。むしろ狼は、「ただそれができるから」という理由で、日常的に羊の食事を直接間接に自分の利益にすることがあまりに一般的であり、更に殆どの狼はその行為を「羊のため」または「農場のため」と表現し、場合によっては真剣に(誠実に)そう信じている者も少数ではないのです。中には自制心があり誠実に羊の番をする「誠実な」狼も社会に存在します。それでも経営者の心理としては、利益をむさぼろうと思えば出来たところを、自分はそれをしていない分、「より評価を受けるに相応しい」とどうしても思ってしまいがちです。「それができるから」という理由で利益を貪らないのは、特別な評価に値する成果ではなく、経営機能を果すための必要条件だ、と考える経営者を擁する企業は本当に幸運ですし、実際経営も非常に有効に機能するのではないかと思います。

重要なことなので、いつも繰り返しこのようなコメントをしますが、これらは一般的な経営者や、現在の企業経営のあり方や企業統治のしくみを批判しているのではありません。「経営者かくあるべし」という意見の陳述でもありませんし、経営者に相応しい人格を定義しようとしているわけでもありません。以上は、一般的な経営者がおかれている環境についての単なる現実認識の一つのアプローチであり、機能的な経営者のメカニズムと条件を分析するプロセス…このような現実を直視した上で、この環境で最も機能する経営メカニズムを見出す作業…に過ぎません。

経営者が嘘をつくとき
経営者を取り巻く環境がこのような状態では、一般的な経営者が、①経営者自身の利害と企業の利害を曖昧にし、②自分の利害となる数々の言動について、「従業員のため」「会社のため」「株主のため」と表現したくなるのは、むしろ構造的な必然と言うべきでしょう。より問題を複雑にしているのは、意外に多くの経営者はそれが会社のためになると本気で(ときには「誠実に」)考えている点です。経営者が真剣に語ることに対して、一部の従業員が直感的におかしいと感じても、組織の「権力者」に対して明確に反論することは非常に困難です。かくして、経営者の意図は会社の意図ととなるのですが、実際、最近の経営論では、経営者の意図が従業員に広く浸透している企業ほど「良い企業」と考えられているようです。

逆に考えると、経営機能を分析する際に、経営者個人の問題と経営(企業価値)の問題を明確に分離して認識することが有効ではないでしょうか。例えば、特に大きな会社に務めたことがある方なら誰でも経験があると思いますが、決算期や月末になると営業キャンペーンを行ったり、決算セールを行ったり、特に営業現場は相当慌しくなるのが常です。僕はずいぶん前から、これはいったい何のためなのだろうと漠然とした疑問を感じていました。もちろん、そんな疑問を実際に口にしたら、上司からは「会社のために決まっているだろう。お前は会社から給料を貰っているじゃないか」と言われるに決まっていますし、大体「やる気がない腑抜けた社員」と思われるに違いありません。でも、例えば、お客さんにとっては来月買う方が都合が良いのに、会社の都合でお願いして売上を前倒しすることが本当に意味のある仕事なのか、釈然としませんでした。反面、会社にとって重要な営業キャンペーンで成果を上げれば上げるだけ、賞与や昇給や昇進によって評価されることも事実で、「これは自分のためになることだ」と納得しようとしたこともありました。仮に同様の質問を経営者にぶつけると、恐らく回答は、「今期の収益目標の達成は会社が成長するための必要条件であり、競合他社に打ち勝ち業界ナンバーワンの座を維持するための利益であり、株主に対して会社が約束したものであり、これを達成することによって従業員の昇給と生活が確保できる」、という趣旨が返ってくるのではないでしょうか(もっとも、社員がそんな質問をした時点で、会社から相当な「異端」扱いされると思いますが、それはそれとして)。

しかしながら、…あくまで一つの事例としての議論ですが…会計上の期間収益を確保する行為と企業価値を高める経営行為は似て非なる概念です。例えば決算直前にディスカウントで在庫を処分し売上や会計上の期間収益を確保する行為は、もっと高い値段で売れるものを敢えて安売りするということですので、むしろ企業価値を低下させる可能性が高いのです。反面、一般的な経営者(特に上場企業の経営者)は、単年度決算(場合によっては四半期決算)に責任を持ち、この進捗状況によって自らの評価や進退が決定されるしくみになっています。すなわち、企業価値を高めるために適切な経営行為と、経営者の(進退を決する)個人的な事情とが真っ向から対立する状況が日常的に生じているのです。このように背反する選択肢に直面する場合、一般的な経営者は、ほぼ間違いなく会計上の予算達成を優先し、そしてそれを会社のため、成長のため、従業員のため、と表現して全従業員に達成を義務付けるでしょうし、達成に非協力的な社員は人事上ペナルティを課されることになります。会計上の期間収益の最大化が必ずしも企業価値の最大化を伴わないのであれば、期間収益の最大化を会社全体の目標にする行為は、やはり経営者の「個人的な事情」というべきですし、それを経営者が「会社のため」と表現するのは「嘘」以外の何者でもないと思います*(1)

以上の議論は、「企業は会計上の期間収益目標を設定するべきではない」という意味ではありませんし、収益目標を無視して経営者の立場が維持できるというような現実離れの議論をしたい訳でもありません。この目標設定は企業価値を必ずしも最大化せず、経営者の個人的な利害を優先する結果になる、という事実を表現しているに過ぎず、それ以上の意味もそれ以下の意味もありません。…これも現実認識の一つのアプローチです。

【2007.10.21 樋口耕太郎】

*(1) 「嘘」という言葉は一般に倫理的、道徳的価値観を伴って使われるため、少なからず感情的な反応を引き起こすことが一般的ですが、ここでは(というよりも「トリニティ経営」に関する議論全般において)、単純に「ある人や組織が本質的な目的としている結果と、その目的を達成するための行動について為される説明が異なること」という意味で使用しています。したがって、例えば「経営者の嘘」と言う時、その際に経営者に悪意があるかどうかという点は問題にしていません。これは、経営環境において、経営者が「嘘」をつくとき、それが悪意によるものか、無知や誤解によるものか、あるいは善意に基づくものかどうかは、経営的にあまり差異がない(どの道従業員には「嘘」として伝わりますので…)、という前提によるものです。この定義に従うと、自分自身や企業の本質的な目的を自覚的に認識していない経営者は、経営行為において頻繁に「嘘」をついてしまう可能性が非常に高まることになります。

事業環境において経営を機能させるのがリーダーだとすると、リーダーシップのない経営は、ガソリンの切れた車のようなものですし、経営を理解しないリーダーはハンドルのない車を運転しているドライバーのようなものでしょう。経営論はリーダーシップ論と一体のものとして捉えられるときに最も機能するはずで、世の中の経営論の数々がリーダーシップ論と対で語られないことは合理性を欠くのではないかと思うことがよくあります。別の表現では、事業と経営に関する多くの議論は、突き詰めるとリーダーがいかに行動し、いかに在るか、という選択を効果的に行うためにあるべきものではないかと思います。どんなに優れた経営理論の数々も、それらがリーダーによって機能的に実行されなければ意味をなさないからです。

経営とリーダーシップが一体のものであるという前提においては、事業をどのように定義するか次第で、「有効」なリーダーシップの形は幾通りも存在し、事業で機能するリーダーシップを定義するためには、「事業とは何か」という問いに回答しなければなりません。本稿でリーダーシップ論を取り上げる前に、経営とは、事業とは、売上とは、経済活動とは、マーケティングとは、などなどに関する数々のエントリーを必要としたのはこのためです。それぞれの概念は個別のものではなく、全てで一つのことを表現しようとしており、本稿のリーダーシップ論は、「トリニティ経営」が経営合理性をもつという前提において、これを機能させるために最も有効なリーダーシップとそのしくみを規定するという趣旨で構成しています。

経営者の最も重要な仕事
経営者が果すべき多くの機能の中で、何よりも重要なことは、経営者であることの条件を明確にすることだと思います。言葉を変えると、なぜ自分が経営者であるべきなのか、なぜ他人ではないのか、自分が果すべき経営機能とはなにか、という問いに対して、可能な限り明確に経営者自身が回答するという作業です。そして、この問いに回答を示すということは、経営者自身の辞任条件を明確にすることを意味します。

経営者に就任して初めにすべきこと、そして、経営者として最も重要な仕事は、自分が辞任する条件を特定し、少なくとも役員にその内容を伝えることであり(会社法の構成を突き詰めて考えると、取締役の最大にして唯一の仕事は経営者を罷免することです*(1))、経営者が常に考えるべきことは、自分の存在は従業員と企業のために最適か、企業価値を最大化するか、という問いであるべきです。経営者の存在が従業員と企業のためにならず、企業価値を最大化しない状況において、経営者が交代すること自体が最も適切な経営判断であるということはあまりに単純な原理なのですが、この原理が実際に機能している企業は現実には殆ど存在しないのではなでしょうか。つまり、現代企業社会においては、企業において最も重要な経営機能(=経営者)が果すべき、最も重要な仕事(=経営者の辞任)が事実上全く機能していないのです。この一点だけをとっても、社会中の企業がハンドルのない車を運転しているようなもので、企業社会が現在のような状態になってしまっているのは、むしろ当然のことかもしれません。

企業社会の「常識」を良く知る経営者にとって、以上の論点はあまりに突飛で、現実にはとても機能しないと感じられることと思います。しかし、もし可能であるならば、これが「常識的」か「現実的」かという観点を無理やりにでも一旦脇に置いて、仮にこのようなしくみが現実に機能した場合、経営効率は高まるだろうか、という純粋な経営機能と経営効率の観点から考えてみていただければと思います*(2)

産業再生機構でCOOを勤められた冨山和彦さんの最近の著書に『会社は頭から腐る』というタイトルの本がありますが、実際、企業における問題の大半(特に大きな問題)は経営者自身が原因だと思います。仮に経営者が会社の最大の危機をもたらすのであれば、経営者を排除するメカニズムは、企業経営上最も重要なテーマであるはずです。そして、経営者を排除する上で最も効率の高い方法は辞任に勝るものはありません。

経営者が辞任すべきとき
経営者の辞任条件を明確にするために、①経営者の役割(仕事)は何か、そして、②経営者の成果をどのように評価(自己評価も含む)するか、という議論が必要です。反面、企業において最も重要な人事考課は経営者に対するものである筈なのですが、経営者の評価基準とその運用方法が明確な企業は、これも稀だと思います。

トリニティ経営理論における、最も効果的かつ合理的な経営者とは、①企業において最も人間的な成長を遂げ、②企業内の誰よりも人(ステイクホルダーに対して)の役に立つ存在であり、結果として、(i)真実であること、隠し事のないこと、(ii)相手に一切要求せず、ありのままを受入れ裁かないこと、(iii)自分を活かし、相手のためになることを、できることから実行すること、が特徴的な行動となります。

したがって、経営者は、以上のクオリティが満たされなくなったと考えられるとき、社員やその他のステイクホルダーから必要とされなくなったとき、あるいは会社において最も人の役に立つ機能を果せなくなったときに辞任することが最適な経営判断と言えるでしょう。…企業経営が経営者自身の人格や価値観に大きく影響されるのはこのようなメカニズムによります。

【2007.10.8 樋口耕太郎】

*(1) リーダーシップ論は現実の企業統治において機能しなければ実践的経営論の意味を為さないため、経営論、リーダーシップ論と、企業統治に係る現行法との関係を理解することは非常に重要です。現在の会社法上の構成において、代表権のない取締役が法律的に持つ権限は取締役会において賛否(特に反対)意見を述べることのみであり、反対意見を主張するためにできる最大の行為は辞任です。すなわち、取締役の最大の仕事は、経営者が辞任/継続するか否かに係る意見を表明すること、そして究極的には辞任によって意見を主張すること、…つまり、取締役にとっても辞めることが最も重要な仕事と言えるのです。この論点に関する詳細な議論は『トリニティの企業金融論』の「企業統治」のセクションをご参照下さい。

*(2) 恐らく経営者以外の従業員に同じ問いをすると、比較的抵抗なく賛同する人が多いと思います。これは、経営者の個人的な立場と利害がいかに合理的な経営判断の妨げになるかという分かりやすい事例かもしれません。