『トリニティのリーダーシップ論《その3》』では、スターウォーズには重要なモチーフが少なくとも三つ存在し、その一つ目は、目に見えない大いなる力「フォースの存在」、二つ目は「善と悪の関係」、三つ目は「善と悪を分ける決断」ではないか、とコメントしました。特に「この世の善と悪を分けるものは何か」という三つ目のモチーフについては、アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちてダースベイダーとなるプロセスにヒントがあると感じて以来、彼がなぜダークサイドに落ちたのかということについて色々考えずにはいられませんでした。そして、現時点での僕なりの結論は次の通りです。

善人がダークサイドに落ちるとき
第一に、アナキンは母親を愛し、妻(パドメ・アミダラ)を愛する人間であり、彼がダークサイドに落ちた原因は、彼が「悪」であったからではなく、むしろ彼の深い「愛」*(1) に起因しているということです。第二に、悪の象徴であるダース・シディアスが、善良なアナキンを、あるいは後のダース・ベイダーが、善良なルークをダークサイドに誘惑する方法は、善人の強い「愛情」*(1) を裏づけとした復讐心などを駆り立て、怒りと恐れに身を委ねるように仕向けるのです。第三に、それがたとえ悪に向けられた正義の義憤であったとしても、善人がこの怒りに負けて相手を叩き潰(コントロール)したときに自分もダークサイドに落ちる、というメカニズムが表現されているのではないでしょうか。特に、①フォースは知識と防御のみに利用するべきもので、これを攻撃の手段としたときにダークサイドに落ちるとされていること(エピソードV)、②ルークが修行の最中、怒りと恐怖に負けて、想像上のダース・ベイダーを打ち倒したとき、倒された相手の姿は自分自身であったこと(同)、③ルークが修行の最後にダース・ベイダーと対決し、自分の怒りや恐れを制御することを学ばなければ、ジェダイ騎士になることができないとされていること、すなわち、どんな「正当性」があっても他人をコントロールせず、怒りや恐れではなく常に愛によって行動することを学ぶことでジェダイ・マスターになること(エピソードVI)、④エピソードVIのサブタイトルは、当初「ジェダイの復讐」とされていたのですが、ジェダイは復讐をしない、という根拠により「ジェダイの帰還」に変更された経緯があります、はいずれも第三のモチーフに関する僕の分析と整合性を持つように思います。

攻撃はダークサイドへの道
ダークサイドに陥る原因は、優しさの有無ではなく、正義の有無ではなく、恐れと怒りを制御できるかに依るということだと思います。恐れと怒りは自分の心の中で生まれるものですが、人は往々にしてその原因が自分以外にあるように感じてしまうものです。そして、恐れと怒りに負けた瞬間、人は自分自身の中にある原因に向き合うことを放棄し、他人を攻撃(要求)する行為に及び、ダースベイダーとなって世の中の無数の問題を引き起こす原因となります。スターウォーズは大きな物語として構成されているため、ダースベイダーは特別な人格と思われがちですが、神話や伝説には相当なリアリティが含まれています。現実の社会には無数のダースベイダーが存在しますし、たとえ「善良」な人であっても一日に何度もダースベイダーとして振舞ってしまうのが人間というものかも知れません。それどころかより善良で、より正義感の強い人ほど、そして自分に正当性があると思える時ほど、ダークサイドに落ちやすいのです。例えば、人に裏切られたとき、それがひどい裏切りであるほど相手に報復をする「正当性」に抗することは難しくなりますし、事故の被害者が加害者に厳刑を望むことは、社会的にも許容される「正義」で、これに法の裏づけがあればなおさらです。この自分の心の中の恐れと怒りを他人に向けたとき人はダースベイダーとなり、自分と向き合うことでジェダイとなるのです。したがって、ジェダイにとっては、「なにが正義か」という議論にあまり意味がなく、「人に要求せずに自分と向きあう」という自己作業が何よりも重要だということになります。自分と向き合うことは、誰にとってもとても苦しい作業なのですが、ジェダイはこのプロセスを通じて自分の幸福と、そして自分の幸福を通じて他人の幸福を生み出す存在なのだと思います。どこから引用したのか、自分でも忘れてしまったのですが、次のような素敵な挿話があります。

神はこの世を創ったとき天使たちを集めてこういった。
「私は自分の姿に似せて人間を創る。彼らは想像性に溢れ、知的で善良だ。神聖なもののすべてが生まれながらの権利として彼らのものになる」
天使たちは言った。
「でも、彼らがその真実を知っていたら、人生がうまくいきすぎて退屈になるでしょう」
「ならば、私はその真実を一番高い山の頂上に隠そう」と神は言った。
「人間たちは簡単に一番高い山に登る方法を見つけるでしょう」と天使たちは言った。
「ならば、大海の一番深いところに沈めよう」と神は言った。
「人間は一番深い大海に潜水する方法を見つけることでしょう」と天使たちは言った。
そのような頭の良い生き物から真実を隠すのはどこがいいかという話し合いに熱がこもっていった。雲の中、月の上、遠い銀河の中…。やがて神はすばらしいアイディアを思いついた。
「わかった。」私は真実を人間の心の中に隠そう。そこは彼らがいちばん最後に探す場所だろうから」
天使たちは拍手した。そこで神はそうした。

オビ=ワンの死の謎
さて、スターウォーズには四つ目のモチーフが存在することに、ごく最近気がつくのですが、僕を最も悩ませたスターウォーズ最大の謎は、ジェダイ騎士であるオビ=ワン・ケノービがダースベイダーと戦って「死ぬ」とき(エピソードIV)、オビ=ワンは自ら最後の戦いを放棄して、敢えてダースベイダーに自分を殺させることを選んだように見える点です。この一瞬のカットは本当に長い間僕を悩ませました。初めてこのシーンを見たときからつい最近まで、実に25年以上に亘って、なぜ彼があのような死に方を選択したのかがずっと気になっていたのですが、最近ようやく僕なりの一つの結論に辿り着きました。

「ジェダイ騎士がフォースを防御のみに利用する」とは、マスターが(自分の正義や愛を根拠として)自分以外の誰かに何かを要求しないということであり、マスターの心の中に生じる怒りや恐れの原因を他人に求めない、ということの比喩だと思います。マスターは人間関係の接点で相手に一切要求をしないため、他人からの攻撃に対して反撃で対抗することはできない(しない)のですが、現実的な問題として、マスターは、恐れや怒りの原因を他人に求める世の中のダースベイダーたちの攻撃の対象になりがちです。この状態において争いを避け、問題を解決する最も効果的な方法は、自分が身を引く(相手の思うようにさせる)ことであり、これを実践する者がジェダイであり、オビ=ワンの死はこれを象徴しているのではないかと思います。

「捨てる」ということ
相手の攻撃に対して自分が「死ぬ」ことが、自分自身にとって最も効率的という発想は、相当常識はずれに聞こえるかもしれませんが、自分が「死ぬ」、あるいは「死」という表現に語弊があるならば、「自分が重要だと考えるものを捨てる」ことによって莫大な効果を生み出す事例は世の中にも、一人ひとりの人生の中にも溢れています。

僕は高校を卒業するまで岩手県の盛岡市で過しました。履歴だけを見れば、小中学校は国立大学教育学部付属の一環校、高校は県下有数の進学校ということではあるのですが、成績は小中高いずれも常に最下層の20%~40%あたりが僕の指定席で、高校入試に失敗し、世の中では珍しい(もっとも私立高校の少ない岩手県ではそれ程珍しいことではないのですが)中学浪人を経て高校に進学しました。中学時代の野球部のチームメイトが高校の野球部では皆僕の先輩となり、彼らから厳しい「指導」を受けることになります。中学校の数学の先生は野球部の監督でもあり、高校受験志望校に対して僕の成績があまりにひどいことに呆れていたと思います。期末テストのひどい点数の答案を僕に返すときの、先生の嫌味交じりの顔つきが今でも印象的です。その後クラスで答え合わせをします。答え合わせの際、もし採点の修正がある場合は先生に申告し、点数を訂正してもらうのですが、当然にして修正を申告する生徒の殆どは点数を上方修正することが目的でした。その中で、僕はそれ程深く考えもせず、採点の誤りに気がつくとそれが上方であれ下方であれ申告することが習慣となっていましたので、余計に変わった生徒と思われていたかもしれません。高校受験も後半戦となり、僕なりの追い込みが奏功し成績も上向きになり始め、勉強への真剣味が増すほどに期末テストの点数と内申書が気にかかる時期になりました。この、折角調子が出始めた時期、僕にしては相当力を入れて勉強して、少なからず結果を期待した数学の期末テストで、やはり散々な点数を取ってしまいました。更に答え合わせで下方修正箇所を見つけてしまい、このときばかりはそのまま黙っていようかどうか一瞬迷ったのですが、結局落胆しながらも先生にこの修正を申告しました。普段僕のことをあまり好きではない先生も、ひょっとしたら今回はこの潔さを褒めてくれるのではないかとぼんやり考えたりもしましたが、僕が修正箇所を申告すると先生は「これ以上下がるのか」と一言。そんなときの先生の表情はなかなか忘れられないものです。

ちょっと前、このときのことを(なぜか)オビ=ワンの死と重ねて考えたことがありました。思い至ったのは、数学の期末テストの答え合わせで僕が下方修正箇所に気付いた瞬間から、答案の修正申告を先生に決意するまでの一瞬は、いわば自分にとってなにか重要なことを「捨てた」瞬間だったのではないかということです。そう考えると、確かに、正直に行動することは、自分の大事なものを捨てる覚悟をすることなのです。期末テストの答案の下方修正申告を決めたとき、僕は、期末テストの点数を高く維持し内申書を少しでもよくしようという気持ちを「捨てて」います。それは、高校合格という目標のために積み上げている階段を数段放棄する決断、と言えば大袈裟に聞こえますが、少なくとも主観的な自分の意識の中では、この階段という、そのときの自分にとっては恐らく最も重要な「モノ」の一つを現実に「捨てる」という「行動」なのです。翻って、それがどんなに小さなものであっても、人が正直なことを決断するとき…、例えば、遊んでいてお母さんの大事な陶器を壊してしまったことを告白する瞬間、学校でのいたずらが問題に発展したときに「自分がやりました」と先生に名乗り出る瞬間、内定が取れないのではないかという不安を抑えて、就職活動で履歴書に偽りのない内容を書こうと決めた瞬間、苦しいノルマを背負い、この商品が売れなければ目標数値が達成できないという恐怖を堪えながら、お客様には偽りのない商品説明を行う瞬間、自分の利害を離れて会社全体のために戦略的な大型投資を決断する、あるいは取りやめる決断をする瞬間、会社の本決算を賭けた大きな案件が今期内に成立しないかもしれないと役員会で報告する瞬間…、どの瞬間も全く同じメカニズムが働いているような気がします。

正直であるということと捨てるということに、このような重大な繋がりがあるという発見は、僕にとっては非常に大きな出来事で、逆に表現すると、正直であるためには捨てる覚悟が必要だと言う気付きでもあります。そして、「捨てる」勇気と決断は、オビ=ワンとジェダイの持つ勇気と決断でもあり、見かけの重要性とは無関係に、全ての正直な決断の局面で全く同様のメカニズムが機能します。このため、小さな正直が実行できなければ、正直な経営を行うことは困難ですし、小さな正直を実行できる勇気は、事業における最大の決断と同様の意味を持ちます。少々大袈裟な言い回しに聞こえるかもしれませんが、数学の答案の下方修正を決断した瞬間は、僕の人生におけるとても重要な決断がなされた瞬間でもあるのです。少なくとも僕の場合、このような小さな勇気の数々によって、その後の人生がどれ程豊かになったか、また、もし小さな勇気を持たなかった場合のその後の人生を想像すると、本当に本当に重要なことだと思えるのです*(2)

明治維新のジェダイたち
相手の攻撃に対して自分が「死ぬ」ことが最も効率的である、ということが最大限に実証された時代は、日本の幕末から明治維新ではないでしょうか。僕は個人的に、飛鳥時代と幕末・明治維新は、日本の歴史において最も重大な二つの転機だと思っているのですが、特に明治維新前後の時代は資料も豊富で、知れば知るほどどんどん引き込まれてしまいます。この時代は「捨てる」ことを決意した多数のジェダイが存在したことが大きな特徴です。明治維新という事実上の国家の大革命の真ん中で、例えば江戸城の無血開城や大政奉還という偉業が実現した奇跡は、「捨てる」ことによって多大な社会的損失を未然に防いだ行為の典型で、日本が世界に誇るべき史実の一つだと思います。これらが成立した影には、西郷隆盛、勝海舟をはじめ、勝海舟の全権使者として事実上交渉をまとめた山岡鉄舟、最終決断を行った十五代将軍徳川慶喜、家老板倉勝静、江戸城無血開城に先駆け自藩備中松山藩を無血開城した板倉勝静の懐刀備中松山藩家老山田方谷*(3)など、数々のジェダイが存在しています。

現代の「成功者」の定義は、おおよそ「多額のお金を得たもの」「有名になったもの」「権力を持つもの」という程度に成り下がってしまいました。人間関係を最も大事にするマスターは、社員をはじめ多くのステイクホルダーのために力を尽くし、自分が最も大事にするものを「捨てる」勇気をもつジェダイです。マスターによるリーダーシップは、その見かけに反して(一見穏やかで、弱々しく見えます)極めて効率が高く、そして何よりもそのような生き方が経営者自身を幸福にします。このような経営者が本当の成功者として若者の目標となり、社会的に尊敬される年になれば良いと思います。

【2008.1.2 樋口耕太郎】

*(1) 別の機会で詳細にコメントしようと思いますが、アナキンの「愛」を含め、一般に「愛」と理解されているものの大半は、「執着」に過ぎないことが多いような気がします。少なくとも本稿の愛の定義では、愛は他人に一切要求しないものであり、愛することによって相手を自由にします。相手に対して何かを求めることは相手の自由を奪う行為であり、愛ではなく単なる執着と呼ぶべきものでしょう。逆に表現すると、世の中で、あまりに多くの執着(他人に対する要求)が愛の名を借りて為されているために、非常に多くの問題が生じているのだと思います。この違いを理解することは非常に重要な意味をもちます。

*(2) このように書くと、なにやら美しいのですが、もちろん勇気を発揮できずに終わった無数の人間関係も同様に経験しています。ひょっとしたら、正直に行動できなかったことの方が多かったかも知れません。それでも何回かに一回発揮することができた小さな勇気は、僕のその後の人生を遥かに豊かにしたとは言えると思います。

*(3) 山田方谷(ほうこく)は、備中松山藩(現在の岡山県高梁市)が生んだ幕末の偉人で、歴史上あまり知られた人物ではありませんが、その偉大な功績は知れば知るほど底知れず、なぜこの人物が歴史の中に埋もれているのか僕には全く理解でません。方谷の人生をハイライトすると、とても一人の人物によってなされたとは思えないほど多様かつ重大な実績を残しています。

そして、方谷の本当の物凄さは、彼が為し遂げた一流の成果を、いとも簡単に捨て去ったことにあります。例えば方谷が整備した松山藩の農兵隊は、恐らく当時の日本としては最強水準で、方谷が松山城を無血開城しなければ、北越戦争を凌ぐ戊辰戦争の大戦になっていたに違いありません。通常軍備は戦うためのものと解されていますが、方谷は最強軍備を「捨てる」ことで、全く異なる政治的価値を生み出しています。また、彼ほどの実績と能力と洞察をもった偉人が、歴史に埋もれている理由の一つは、彼が自分自身を歴史から「捨てた」ことによるのではないかと思います。彼は備中松山藩の藩民を救うために、藩主板倉勝静にある意味反する行動をとっています(この両者には強い信頼関係があったとは言え、方谷は主君である勝静を事実上軟禁しています)。彼はこの一件について自分を歴史から捨て去ることで、君主への筋を通しながら藩民を救うという難題を両立させたのではないかと思います。

方谷は、末期とはいえ身分制度の厳しい封建時代に、農民出身でありながら備中松山藩の家老として藩政の全権を揮い、恐らく日本で最も優れた事業再生家であり(僕は、二宮尊徳や上杉鷹山を凌ぐのではないかと思います)、殖産興業を実現した政治家であり、通貨のメカニズムに精通した財政家であり、ケインズが登場する80年以上前にケインズ政策を実践したマクロ経済的洞察力を持ち、幕末時流を正確に読む戦略家であり、長州奇兵隊の十年も先に農民を中心とした西洋式の農兵隊を組織し、当時の日本において恐らく最強水準の兵力を整備し、その兵力は長州奇兵隊を遥かにしのぐと恐れられた軍事家であり(有名な高杉晋作の奇兵隊は、方谷の農兵隊を見た久坂玄瑞がこの兵力に衝撃を受け、長州でこれを真似たものです)、明治維新のクライマックスである江戸城開城に先駆けて、藩民を戦火から救うために備中松山城無血開城の英断を単独で行い、徳川慶喜の大政奉還の上奏文を起草した哲学家・文章家であり、封建の時代に生きながら藩民を守るために政治を行った君子であり、政治家として成功を収めながら私財の一切を開示して蓄財をせず、更に明治維新後も新政府から異例の出頭依頼を再三再四受けながら、その後一切の社会的地位を捨てて自ら農民に戻って田畑を耕し、時代の表舞台から自ら身を引いた人物です。

方谷と松山城無血開城に関する逸話で、備中松山藩のジェダイの死によって、大勢の藩民が救われた挿話があります。

鳥羽伏見の戦いに敗れ、将軍慶喜と共に夜陰にじょうじて江戸に逃れる直前の藩主板倉勝静(かつきよ)は、今まで勝静を護衛してきた熊田恰(あたか)にひとまず国元へ帰れと命じた。神影流の達人で師範役の熊田恰が護衛役の百五十余人の弟子をつれて船十四艘を雇い、混乱する大阪を出帆したのは一月七日のことであった。不運な彼等は連日の西風の強風に妨げられ難航を重ねて、ようよう玉島の備中松山の飛地にたどりついたのが十七日。突然、武装した百五十余名もの敗残兵が上陸してきて、玉島が騒然とした空気に包まれたのは言うまでもないことである。一月十七日といえば、松山城が無血開城を決め、松山藩士が城下街の外へ撤退作業を進めていた最後の日だった。

備前岡山に隣接する玉島に上陸した熊田恰の動静は、たちまち備前藩の知るところとなった。城の留守部隊のほぼ全軍が備中松山の玉島領土を包囲し銃砲を向けた。町内は阿鼻叫喚、右往左往の避難者の混乱で名状しがたい惨状と化した。鳥羽伏見の残党をおめおめ逃がしたとあっては、備前岡山の面子がつぶれてしまう。熊田部隊は完全に周囲を遮断され、文字通り袋の鼠そのものとなった。一月二十一日、玉砕覚悟の熊田恰のもとに、二人の雲水に身をやつした密使が方谷の密書をおびてしのんできた。
「百五十名の命にかえて死ね。」

火花を散らした二つの藩のぎりぎりの妥協線から生まれた結論であった。(中略)

備前岡山藩主池田茂政は、熊田恰の自決を武士の亀鑑と称揚して、目録をそえて金十五両と米二十表を熊田家に贈った。備中松山藩士達に対する感情処理である。死して熊田は家老格を追贈された。年は四十四歳だった。戦火を免れた玉島市民は、羽黒山の頂に祠を建てて熊田恰を祀った。御神体は熊田の遺刀であった。

深山渓谷の長瀬の自宅で山田方谷は見事な熊田恰の最後の様子を聞いた。人前では泣かぬと言われた方谷が涙を流した。死ぬことを覚悟してきた方谷が生き残り、方谷の意をくんだ熊田恰が死んだ。百五十余名の熊田の部下は、彼の自決によって助命された。玉島の住民も又戦火をのがれることが出来た。尊い犠牲である。義と名誉のためには生命を棄てる武士道の時代、死なずに生きる道を選ぶ方がはるかに辛い苦痛を引きずることになる。求めた死に場所を天から拒否され、心ならずも生き残った老残の身には、落城した藩民の前途がずしりと重くのしかかっていた。(矢吹邦彦著『炎の陽明学 -山田方谷伝-』

山田方谷に関連して、方谷を生涯の師と仰いだ河井継之助も、その極めて高い能力に比してアンバランスな小藩越後長岡藩にこだわり続けた幕末の異才です。彼も「死ぬこと」が最大の効果を生むことを理解していた一人で、それが分かる挿話を引用します。

「殿様が将軍さまの御身辺をおまもりになるために上方へのぼられる」
継之助は城内にいて出陣の総指揮をとった。
「お供は六十人」
と、継之助は人数を限っていた。出陣とはいえ、服装は陣笠、陣羽織、義経袴、手甲脚絆に皮足袋といった火事装束に似たかっこうを継之助は指定した。いわば半戦闘服であった。
槍、鉄砲はもたない。
が、それは人目にめだたぬよう荷駄に梱包した。鉄砲はことごとく継之助自慢の最新式洋式銃であり、あつくこもをまいてわからぬようにした。
「六十人とはいえ、いざとなれば五百人の威力があるのだ」
と、継之助は自分の補佐役である三間市之進にもらした。
随行の士は、選抜方式をとった。幹部はことごとく気骨と才腕のあるものをえらび、士はことごとく武芸達者をえらんだ。
この夜、城の御三階に六十人をあつめ、
「京大阪には何者が横行しているか。口に尊王をとなえ、腹いっぱいに不平を蔵し、乱をのぞみ、おのれの名を知られんことを望んでいる連中ばかりである。朴歯の高下駄をはき、長大な刀を帯び、鳶肩をいからせ、目を鷹の目にすごませ、路上を横行し、暗殺暴行を事としている。それが、いわゆる尊王の士だ」
と、明快に規定した。
「が、それらの挑発に乗るな」
と、継之助は意外なことをいった。彼らが斬りかかってくればおとなしく斬られよ、死ね、と継之助はいった。
「さればこそ勇気のある者を選んだのだ」
という。かれらの挑発に乗れば将軍もわが藩公も朝敵にされる。それほど京はむずかしいのだ、と継之助はこの一点に念を押した。

いよいよ今夜上洛ときまった日の午後、継之助は一同をあつめてふたたび訓戒した。
「斬られよ」
という、例の訓戒である。
京は、無警察状態であった。幕府の警察組織はすでに京をひきはらっていた。新撰組も伏見へ退去したし、町奉行は大阪へ去り、京都守護職(会津藩)も大阪にひきあげており、市中を巡回するものは、薩摩、長州、土佐、芸州、尾張、あわせて五藩、いわゆる宮門守護藩の藩兵だけであった。徳川直系の越後長岡藩の藩主と藩兵が京には入れば、かれらは昂奮し、あるいは衝突事件がおこるかもしれない。かつ、市中を横行する者は、新政府樹立をきいて京に馳せ集まってきたいわゆる勤王を称する浮浪の徒で、かれらは好んで挑戦してくるに違いない。
「斬られよ」
というのはそのことであった。
「いっさい刀を抜くな。つかにも手をかけるでない。おとなしく斬られてしまえ」
と継之助はいう。
「もしもだ」
と、念を入れていった。それに応戦すればかれら薩長はその事件を言いがかりにして長岡藩主牧野忠訓を「朝敵」にし、さらに上様に累を及ぼさせ、徳川討伐のよき口実にするであろう、ということであった。(司馬遼太郎『峠』