信じるということ・伝えるということ(pdf)

本稿は概念的に、「信じるということ」と対になるものです。前稿では、経営者が「信じる」ということ、「伝える」ということを(実質的に)どのように理解し行動しているかが事業において非常に重要な要素であるとし、「信じる」ということの意味についてコメントしました。同様に、本稿では「伝える」ということの意味を経営的な観点で考察します。経営の現場において「伝える」ということの意味は「機能させる」という結果を目的とするため、本稿のテーマは機能(機能させるための伝達)の問題であるともいえます。

一般的な企業経営において、「何を伝えるか」についての議論は溢れているように感じます。例えば、「どのような価値観を共有するか」、「どのようなルールを徹底するか」、「どのような人材が評価されるか」、などです。経営はメッセージの内容、すなわち「何を伝えるか」は重要視して吟味するのですが、メッセージの伝達については比較的機械的な対処をしがちではないでしょうか。反面、現実の事業においては、メッセージの内容もさることながら、それと同様またはそれ以上に、メッセージがどのように伝わるか、どれだけ伝わるか、どこまで伝わるか、誰から伝わるか、という点が非常に重要なのです(後述します)。

最近の事例では、1910年の創業以来100年近くの歴史がある株式会社不二家の食品衛生管理上(現実には人災だと思いますが)、企業倫理上の問題が表面化しています。不二家の経営理念は、『常により良い商品と最善のサービスを通じて、お客様に、おいしさ、楽しさ、便利さ、満足を提供し、社会に貢献することが不二家の使命である』、とされていることからも、メッセージの内容が問題でないことが明らかです。たまたま不二家の例を挙げましたが、今時どこの企業も立派な経営理念や運営ガイドラインを持っていることは珍しいことではありません。つまり、どの企業も何を伝えるかということは大方申し分ない状態にあるのです。やはり問題は、そもそも伝えるとはどういうことか、そして、どのようにして伝える、かという点に集約するように思えます。

伝えるということ
一口に「伝える」と表現されることも、その解釈は多様かつ曖昧です。代表的なパターンは、「伝える」とは、「文書化・回覧すること」と考える人、「受信者がメッセージの意味を理解したこと」と考える人、「メッセージ受信者の同意を得ること」と考える人、などではないでしょうか。しかしながら、メッセージの伝達は経営的に機能して始めて意味を持つと考えるべきでしょう。「経営的に機能する」とは、受信者がメッセージを起因とした行動を起こす、という意味です。上記の事例、「文書化・回覧する」、「メッセージ受信者がその内容を理解する」、「メッセージ受信者の同意がある」、というだけではこの意味で「経営的に機能する」とは全く限らないため、どのようなメッセージの伝達の仕方が人を動かすか、という観点から「伝える」ということの意味を定義することが最も合理的だと思います。

以上の前提で、僕はメッセージが受信者に、①理解され、②共感され、初めてメッセージが「伝わった」と解釈するべきではないかと思っています。別の表現では、受信者が「そうそう!」と感じる状態が「伝わる」ということだと定義するのです。これは前述の、「文書化・回覧すること」「メッセージ受信者がその内容を理解したこと」「メッセージ受信者の同意を得ること」とは相当異なる概念で、「伝わる」ということの意味を、「物理的な情報の伝達」とは考えずに、「人を動かす共感の伝達」として捕らえています。

「そうそう!」で繋がる
目には見えませんが、「そうそう!」の繋がりで「メッセージを伝える」ことの効果は相当なものです。第一に、メッセージ受信者の主体的な行動が著しく促される点です。「同意」と「納得」は似て非なるものです。特に、コミュニケーションを、単なる情報伝達ではなく事業機能のひとつとして捕らえると、両者の間には相当な隔たりがあります。前者は「理解と利害」によるもので、後者は「そうそう!」による繋がりです。そして、人は「同意」したときよりも「納得」したときの方が遥かに行動力を伴い、大きな力を発揮します。物事を機能させることを重要視するならば(すなわち経営的な観点では)、コミュニケーションにおける相手の納得感が何より重要ではないでしょうか。

なお、「納得」は心の問題なので、メッセージ受信者の外側からは全く見分けがつきません。場合によっては本人が「同意」を「納得」と誤解しているケースも珍しくありません。例えば、気乗りのしない仕事を命じられた社員が、「この仕事をしなければ自分の評価が下がる」から合意する場合と、「この仕事は自分に与えられたチャンス」だから合意する場合では、前者が「同意」であり、後者が「納得」と考えられるのですが、実際にはどちらもあの社員は「納得した」と解釈されがちです。

第二の効果は、事業の運用効率が圧倒的に高まる、具体的には履行管理が殆ど不要になる点です。「同意」によってメッセージが「伝達」されるケースでは、メッセージの「伝達」だけでは履行が保証されないため、そのメッセージの内容を履行する当事者や責任者が特定され、メッセージの発信者がその履行や進捗を管理することになります。伝達、履行、履行管理、進捗管理が別々に機能する必要が生じるのです。これに対して、「そうそう!」によってメッセージが伝達される場合は、その瞬間から履行管理が事実上不要になります。一般的な経営の現場では、指示を出した後、その指示が的確に履行されるかどうかの履行管理に相当な意識と労力が投入されていることを考えると、その効率の差は莫大なものです。

第三の効果は、恐らく最大の効果だと思います。「そうそう!」の繋がりが組織的に機能し始めると、メッセージの伝達が連鎖する現象が生じ、経営の労働効率が極めて高まる(つまり、経営者がとても暇になるということでもありますが…)のです。抽象的な表現なので、この説明だけでイメージすることは難しいかもしれませんが、このテーマの詳細は別の稿に譲ります。

「そうそう!」コミュニケーションの原則
それでは、「そうそう!」のコミュニケーションが実現するためには原則があるのでしょうか。僕の経験と直感によるところが多いのですが、経営の現場において伝達効率の高い(「そうそう!」)メッセージには、伝える内容よりも、①誰が伝えるか、②それが本気(真実)であるか、③行動と一貫しているか、がより大きな意味を持つような気がします。

誰が伝えるか
これは誰しもが日常的に経験していることかもしれません。親が口を酸っぱくして「勉強しなさい」というよりも、自分が憧れている(例えばクラブの)先輩が、勉強することの重要性を一言二言語るだけで、俄然と勉強をする気になった、といった経験は誰にでもありそうです。これは経営者でも、営業マンでも、教師でも、親でも、相手に何か伝えたいと考えるとき、メッセージの説明自体に時間をかけるよりも、相手との信頼関係の構築に時間をかけた方が遥かに効率的だということを示唆しています。そして、信頼関係の構築に最も重要なことは、そもそも信頼に値する人格を持つかどうか、ということに集約するような気がします。

これに対して、「それでは信頼に値しない人は、メッセージを発するべきではないのか」という議論になりそうですが、経営的にはこのような議論をするよりも、この事実をどのように事業に応用するかを考えることが建設的だと思います。すなわち、より信頼に値する人をリーダーに登用する組み(人事考課と運用)、従業員が信頼に値する人になるような成長機会を提供する環境(このような機会を事業的に最優先する仕組み)、を経営が整備することで従業員の幸福度が高く、かつ経営効率の高い事業環境を実現することができます。この経営的な仕組みの詳細は本稿のテーマではありませんので、別の稿に譲ります。

本気であるか
そのメッセージが「本気」であるということは、それ以外に優先する別の意図がない(あるいは、同様の意味ですが、政治的でない)、という意味であり、また、そのメッセージに対して経営がコミットする意思の強さを意味します。

行動とメッセージの法則
メッセージが伝達力を持つために(「そうそう!」伝達するために)、メッセージの発信者の行動以上に重要な要素はないかもしれません。そして、ある人が発するメッセージと、その人の行動との間には、次のような法則があると思います。

(i) 行動は言葉よりも遥かに強いメッセージである。行動で裏付けられた言葉は非常に強力なメッセージとなる。どんなに小さな行動でもメッセージ伝達機能を持つ。例えば、稟議や支出の決済なども、重要なメッセージを伝達するために非常に有効である。
(ii) 行動と言葉が矛盾するとき、行動によるメッセージが優先して伝わる。同時に「メッセンジャーの言葉にはうそがある」、というメッセージが同時に伝わる。
(iii) すべての行動はメッセージである。そして、行動は二種類のメッセージ伝達効果がある。すなわち、言葉通りのメッセージを行動で強化する効果。言葉と矛盾するメッセージを伝え、メッセンジャーの「うそ」の存在を伝える効果。このとき、行動をしないという行為も行動であり、メッセージを発しない瞬間は存在しない。

実務への応用
以上、「伝える」ということの概念を考察し、情報の伝達という矮小化された行為ではなく、事業がより機能する伝達という、経営的な考え方を紹介しました。また「メッセージ」の概念についても、文書・口頭による「指示」という従来の、これも矮小化された範囲ではなく、情報発信者の行動および行動とメッセージの一貫性も含めた捕らえ方をしています。例えば、このような考え方に基づくと、人事考課、支出決済、人事異動、新規事業、広告宣伝などに限らず、経営者の決断や行動そのものが常にメッセージになるのです。この状態を「休まるときがない」と考えるか、「メッセージを伝達するチャンスに溢れている」と考えるかは、それぞれの経営者の価値観次第だと思います(また、このような概念で物事を捉えながら、経営者が精神的に少しも疲弊しない方法も存在するのです。…これも本稿のテーマではないので、別の稿に譲ります)。

そして、このような概念でコミュニケーションを捕らえるのは、これが経営効率を著しく高めるからです。僕が従業員約250名のサンマリーナホテルの経営を担当したときは、従業員とのコミュニケーションを深めようと色々試行錯誤を経験しました。パート職員を含む全従業員一人ひとりと面接をしたり、メッセージを回覧・掲示してもらったり、カードを送ったり、部署ごとの飲み会やビーチパーティーにに誘ってもらったり、いつでも従業員が僕に直接相談できる時間と場所を設けたり…。ある時点から、ひょっとしたらコミュニケーションの概念は今まで認識していたものよりももっともっと広いのではないか、また、メッセージをより効率的に伝達するためには、メッセージを繰り返すことなどとは根本的に異なった法則が存在するのではないかと考え始め、実行に移した頃から、爆発的に効率が高まったのを感じました。

【2007.1.25 樋口耕太郎】

ごく最近の小さな変化ですが、昨年末に近づいたあたりから大衆的な雑誌(例えば先日目にしたのは「JJ」です。)のトレンドが、伝統回帰、うわべよりもしっかりとした中身、物質よりも心に焦点を置き始めたような気がします。数年前まではガングロ、最近ではパリス・ヒルトンや倖田來未が紙面を埋め尽くし(彼女たちに偏見があるわけではありませんが…)ていたモード誌がこのような正統派スタイルを堂々と取り上げ始めるのは、僕の記憶にある限り初めてです。少なからずびっくりすると同時に、これはとても大きな変化の兆しではないかと勝手に想像しているところです。このような社会の意識変化によって、今年あたりから誠実な生き方を表現することがだんだん「かっこいい」と評価されるようになるかも知れません。

経営の概念が広がる
経営の世界でも、目に見える物事のみを前提とした、矮小化された「合理性」だけではなく、目には見えないが非常に広範囲な物事に注意を払う(例えば人間関係、心、価値観などです)ことで、逆説的ですが、より合理的な事業評価が可能になるという認識が広まるのではないでしょうか。例えば、僕は以前から、経営科学において経営者の個人的な価値観や生き方がもっともっと重要視されるべきではないかと考えています。経営者個人の人生や価値観は目に見えにくいということもあり、従来の経営科学のフレームワークからは殆ど無視されていますが、現実には経営者個人の価値観や人生観が事業に莫大な影響を与えることは誰の目にも明らかです。つまり、このような一見目に見えないが厳然と実態が存在している物事を含めて認識する「広い経営概念」を前提として、経営における合理性が議論されるべきではないかと思います。この場合前提が従来のフレームワークとは根本的に異なり、また比較にならないほど広範囲(従って莫大な潜在事業性)をカバーすることになりますので、正しく活用すれば飛躍的な成果を生み出す反面、従来の価値観からは非常識極まりないものと見えるのです。

以上の前提で、経営者の個人的な価値観のうち、「信じる」ことと「伝える」ことに注目してみました。つまり、経営者が「信じる」ということ、「伝える」ということを(実質的に)どのように理解し行動しているか、が事業において非常に重要な要素である、という考え方です。本稿ではまず「信じる」をテーマにしました。「伝える」についても非常に掘下げ甲斐のある良いテーマなのですが、分量が多くなりすぎるために別の稿に譲ります。このテーマは個人的なものと経営的なものが非常に重なるため、本稿においても僕の個人的な経験や価値観に触れていますが、この点ご了承いただければと思います。

僕にとって「信じる」ということ
およそ3年前に沖縄で事業を開始してからは素晴らしい経験の連続です。その中でも、いくつかの経営的に重要な決断において、突き詰めて行くとどれも「合理的」な判断に基づいて「信じる」ことが不可能なものばかりだった、という経験をしました。例えば、ある判断が正しいという合理的な理由を見つけられないまま重要な決断をせざるを得なかった、というような事態です。そのときに思ったことは、自分が理解できる範囲のことを「信じる」のは比較的容易な作業。でもそれは本当に「信じて」いるのではなく、それが「分の良い選択」であることを確認しているに過ぎないのではないか、そして「信じている」という言葉の多くは、実は「分析している」という意味に過ぎないではないかということです。このような「分析」は、自分の認識と経験の範囲内における「合理的な」選択である以上、自分の過去の経験や現在の認識を超えることはできません。

現時点の僕にとって「信じる」という行為は、価値あると思えることに対して捨て身になること、すなわち、そこに一見何の合理性も無く、また現在の自分の能力や経験に基づいて理解、分析することができない状態であっても、その成功や正しさを継続的に確信するということです。このような判断は自分の経験や認識を超えることが多く、自分で正否を理解できる合理性が必然的に存在しないため、その正しさの確度を分析することは不可能です。つまり、この時点でその信念が正しいという確証は存在し得ないのです。このような状態(正否の判断不能な状態)において人や物事を「信じる」ためには、突き詰めると、言葉は悪いですが、その対象(人)に「騙される」、あるいは「破綻(必ずしも事業破綻とは限りません)を今の時点から受け入れる」というような自己作業が必要です。これによって「Aさんのことを信じていたのに…」ということは起こり得なくなり、ほぼ100%自己作業というか結構苦しい自分との戦いになります。

このような、一見わけもわからないものに対して自分を「危険に曝す」行為が多くの人にとってとても分が悪いことのように思えるのは理解できるのですが、少なくとも僕の経験においては、逆説的ですが、これほど爆発的な力と結果を引き起こす、すなわちとても合理性のある、そしてこれほど事業性を生む行為はないというのが経験による実感です。

供養における「信じるちから」
先日、奈良薬師寺の高田好胤管長(1998年遷化)の本を読んでいて、釈迦が最後の時期に受けた供養(お坊さんは、皆が尊敬の意をこめて提供する食物を受け取って生活するのですが、このことを「供養」を受けると言います。)の食べ物が傷んでいたために体調を大きく崩し、これが直接の原因となって死期を早めてしまう、というくだりがありました。釈迦はこの供養を行ったチュンダが最後の供養者になってくれたことに感謝した後にお亡くなりになります。

供養を受けるということは本来命がけ、自分の身を相手に預ける行為そのもので、これはまさしく「信じる」ことそのものだ、と感じました。これは大げさに言えば、合理的な根拠なしに(少なくとも目に見える状態ではない中)、自分の人生を担保に差し出すことであり、真剣に取り組むことができれば感動的なくらい誠実な行為になり得ます。

金脈の話と「信じるちから」
以前東京で働いていたとき、ある若手の営業マンが売上が伸びずに苦しんでいて、個人的に相談を受けたので、小さなアドバイスをしたことがあります。「今積み上げている努力は金脈(売上)を掘り当てるためにスコップで穴を掘る作業のようなものです。金脈にあと1センチで到達するかも知れないし、あと1キロ掘り下げなければならないかも知れない。けれど、1センチ前の時も、1キロ前の時も、掘っている人の不安な気持ちや暗中模索の状況は全く同じです。ですから、どこに金脈があるか、あとどれだけ掘れば金脈にあたるのかという議論には殆ど意味がなく(どの道分かりませんので)、この先に金脈があると信じて努力をし続けることができるかどうか、自分の成功を信じ続けることができるかどうか、つまり信じるちからを持ち続けることが一番重要だと思う」という内容です。

いつも思うのですが、僕のイメージとして、98%くらいの人間は自分のことを過小評価、それも著しく過小評価していると思っています。98%という数字が仮にその通りだとすると、これは自分を信じることがそれだけパワーを必要とするということだと思います。なぜこれほど自分を過小評価する人が多いのかといえば、それだけの比率の人が、目に見えること、目に見える他人の評価が自分の実力(潜在力)だと自ら納得(誤解)してしまうからでしょう。確かに、例えば30日間でも穴ばかり掘っていたら、大概の人間は萎えてしまって諦めます。周りの人も親切な人ほど「無駄なことは止めた方がいい」と優しくアドバイスをくれたり、また一般には「やっぱりその程度」と白い目で見てプレッシャーを与えたりします。

ある村での干ばつの話
細かい内容は忘れてしまいましたが、以前どこかで読んだ本の中で、このような感じのお話がありました。

『ある村で長い間雨が降らず、村人たちはとても困っていました。このままでは農作物が全滅してしまいます。そこで村人は全員で長老のところに相談に行きます。「長老、雨を降らすにはどうしたら良いか教えて欲しい。」長老は答えます「雨が降ることを信じて心から祈るのだ。その祈りが心からのものであるとき、必ず雨は降るだろう。」

村人全員はそれからの7日7晩というもの、雨が降ることを信じ、夜を徹して必死で祈り続けました。しかし7日過ぎても雨は一向に降る気配がありません。そこで村人は再び全員で長老のところに出向きます。「長老、私たちは7日7晩、一睡もせずに心から雨が降ることを信じて祈り続けました。誰一人の心にも偽りはありません。それなのに雨が降る気配はどこにもないではないですか。」それを聞いた長老は答えました。「いや、ここにいる者は誰も雨が降ることを『信じて』はいないようだ。それが証拠に、誰一人としてここに傘を持ってきた者はいないではないか。」』

長老の言う「信じる」ことと村人の「信じる」ことは似て非なるものだと思います。多くの事業(や人間関係)において、ある価値観をスローガンにしながら、「傘を持たない」経営がなされているケースは珍しくありません。

野茂英雄と「信じるちから」
ご本人とは一度もお会いしたことはありませんが、僕は日本の野球界で最も偉大な選手は野茂英雄だと思っているのです。野茂が日本人として始めて大リーグで成功したとたん、日本人大リーガーが続出したのは誰でも知っていることですが、冷静に考えてみると、野茂が大リーグに挑戦する前(before ノモ)と後(after ノモ)で日本プロ野球界のレベルは殆ど変わっていない筈。つまり、日本人が大リーグで活躍できたかどうかは能力の問題ではなく、できると思えるかどうかが重要だったということなのでしょう。野茂が発揮したのは「信じるちから」そのものだと思います。近鉄への退路を絶って野茂が大リーグに挑戦したとき、彼以外にこれだけの成果を上げることができると考えた人はいなかったと思いますし、彼自身にとっても自分自身を信じることは、一見何の合理性も無いことだったはずで、さぞや苦しかっただろうと思います。

「after ノモ」では、日本人大リーガーが続出しその多くが大活躍します。イチローは安打の世界記録を達成しますし、井口はチームのワールドシリーズ優勝に大きく貢献します。最近では松坂に60億円の値札がつくなど(この辺は非常識極まりないと個人的には思うのですが…)のニュースもありました。このため大リーグが日本人にとってあまりに面白くなってしまい、日本のプロ野球、特に巨人の人気が凋落します。日本テレビの男性アナウンサーは巨人戦の中継では必ずスーツを着用するという伝統があるほど日テレにとって重要であった巨人戦の視聴率の下落が止まらず、昨年は一部放映を取りやめるという「大事件」になっています。これをひとつのきっかけとして長期に亘って安泰だった日本テレビの業界での地位も大きく影響を受け、日本のメディア業界全体の再編が緒に就いた感があります。日本のメディア業界の再編を最も促した人物は、氏家さんでも、ホリエモンでも、三木谷さんでも、まして村上さんでもなく、野茂英雄ではなかったでしょうか。

もちろん野茂本人はそんなことを目的にしてもいませんし、想定もしていなかったと思います。しかし逆に結果を求めなかったからこそ、自分の心からやりたいことを、自分ができることから行動したからこそ、他人に一切求めず自分の責任を全うしたからこそ、結果として多くの人に実質的に多大な影響を与えたのだと思います。野茂はもっともらしい社会の常識や、他人からの評価と戦って、全く違う信念を持ち続けた人なはずで、このような人こそが皆に「やればできる」と思える成果を提供し、社会を動かすことができるのだと思います。これが「信じるちから」の本当の威力であり、隠された莫大な事業性のイメージです。

「マトリックス」における信じるちから
映画「マトリックス」は本当に凄いです。主人公ネオがマトリックスから人類を解放する救世主かどうかが、まだコンピューターに支配されずに抵抗を続けているわずかな人間たちの間で大きな問題になります。ネオを救世主だと信じ続けるモーフィアスは、仲間から変人扱いされます。

物語の中で、ネオが救世主かどうかを確信したいがために、モーフィアスはネオをオラクルという予言者のところに連れて行きます。オラクルはネオと二人きりになった時、ネオに対して、「あなたが救世主かどうかは、あなた自身が感じるはず。あなたはそうだと思えますか?」と問い、ネオは「違うと思う」と。オラクルは同時に「それにも拘らず、モーフィアスはあなたが救世主だと固く信じ続けているがゆえに、近い将来、自分の命と引き換えにあなたのことを守ろうとするだろう。そのときにどうするか(自らを犠牲にするか、モーフィアスを見殺しにするか)はあなたの選択」とだけ告げます。

結局ネオは救世主であった(正確には救世主に「なった」のだと思います。理由は後述。)のですが、それではなぜオラクルは「ネオは救世主ではない」という予言をしたのでしょうか?この謎は、1999年に初めて映画を見て以来2004年にその答を思いつくまでの実に5年間、僕を悩ませました。5年越しの僕の結論は、真の予言者は「正しいことを告げる人」ではなく、「正しいことに導く人」だということです。これはつまり、正しい苦労をさせる人(その「苦労」がたとえ死や別れであっても)、と言うことも意味します。ネオには救世主になる「可能性」があったが、それを引き出すためには、その時点のオラクルの言葉を心から信じ、かつ身を犠牲にするという通過儀礼(体験を通した学び)が必要。オラクルが単に「あなたは救世主だ」と伝えただけでは、ネオはその通過儀礼を果たすことができません。また、モーフィアスが、ネオのことを盲目的に信じ続けることをしなければ、これもやはりネオが通過儀礼を果たすことはできなかったでしょう。つまり、オラクルは、モーフィアスの信じるちからを見抜き、ネオが自分の「誤った」予言を信じることを見抜き、これを勘案してネオに「命がけの選択肢」を手渡したのです。この「命がけの選択肢」のパラドックスは、自分の命を引き換えにすることで、ネオは救世主という新たな「命」を得るのです。この意味で、ネオを救世主に「した」のは、ネオとモーフィアス、二人の信じるちからによるところが大きいと言えます。あるいは、ネオとモーフィアスの信じるちからによって、ネオが救世主に「なった」と言う方がより適当かも知れません。もっと言えば、ネオは、信じるちからがあったから救世主になった、もっともっと言えば、信じるちからを持つものが救世主になる、ということかも知れません。

ポイントは、ネオが信じた予言自体は「誤り」だった、ということです。信じるちからは、信じる対象が正しいかどうかに関りなく、信じるということ、それ自体でとても大きな力を発揮する、ということへの示唆だと思えるのです(それこそが「信じる」ということの意味なのだと思います。)。

翻って考えると…
世の中には「何を信じるか」に関する情報に溢れています。数々の経営理論、評論、書籍、「専門家」のコメント、教育、法律、慣習、(編集も含めた)ニュース、映画、雑誌、流行、宗教…。しかしながら、そもそも「信じるとはなにか」ということは滅多に議論されません。

人それぞれ「信じる」ことの意味は違いますし、違って当然です。特段どれが正しいということもないと思います。ただし、経営者がなにかを「信じる」とき、それが実のところどういう意味であるかは事業に大きな影響を与えることになりますので、この意味を自覚的に理解することは色々な面で大きな手助けになるでしょう。あなたが経営者だとしたら、例えば自分のパートナーや部下を「信じる」とき、それは突き詰めるとあなたにとってどういう意味なのでしょうか?

【2007.1.3 樋口耕太郎】