性善説の経営を実現するためには、単に従業員のよい行いを期待するだけではなく、従業員が正直に行動しやすい状況や環境を経営が積極的に整える作業が必要ではないか、というのが「性善説の経営科学《中編》」の基本的な論旨でした。また、従業員が正直に行動しやすい状況や環境を提供するということは、従業員が気持ちに余裕を持てるような物理的状況を整備する(無理なシフトを組まない、余裕を持って人を配置するなど)仕組みが必要だと述べました。

あまり一般的な認識ではないかも知れませんが、このような「整備」の大半は財務的的には「投資」と同義でもあり(当然のことですが、シフトに余裕を持たせたり人員を増やすことは費用が生じます)、これによる直接・間接の効果(リターン)や影響の多面的なイメージを把握してバランスを取ることができれば、経営効率が爆発的に高まるというのが私の経験です。このような「投資」効果は一般的に数量化することが困難で、例えば収支計画などでこれが数量的に表現されることはありません。そのため一般的な経営者の「事業のパズル」からははずれがちだと思うのですが、精緻に数量化できないからといって財務的でないとは限りません。むしろきちんと数量化されない財務的経営行動(収益を生じる経営行動)は事業の現場に溢れています。 ・・・経営者がイメージする「事業の生態系」と財務収益の繋がりは、事業経営の中でも特に重要なテーマだと思いますが、本稿の主要テーマではないので、この論点についての詳しい議論は別の稿に譲ります。

経営者が変わるとサービスが変わる
しかしながら、従業員にとって最も大きな「環境」は経営者の価値観そのものでしょう。性善説の経営を実現しようとするとき、経営が従業員の善意を信じ行動することで生じる変化の大きさと成果には本当に驚かされます。よく、「従業員は経営者の鏡」と言われますが、つくづくその通りではないかと思います。鏡をいくら叩いても磨いても鏡に映るその姿は何も変わりません。鏡の中の姿を変えたいときには、自分を変えることが何よりも効果的なのです。同様に、従業員が思いやりを持って人に接するようになるためには、経営者が従業員に思いやりを持って接すること以上に効果のある方法はないのではないかと思います。

むしろ検討すべきは、「経営が従業員の善意を信じ行動する」ということの具体的な意味です。この解釈次第ではまるで異なる結果になってしまいますし、性善説の経営の運用に問題が生じたり、効果が思うように上がらなかったりする場合は、原因の殆どがこの点に集約するのではないかと思います。経営者が従業員の善意を信じて行動する方法は無数にあると思いますが、私が経験した一例をご紹介します。

UG
ホテル業界には「UG」というコードがあります。これはUndesiable Guest(望まれざるゲスト)の略称で、例えば宿泊料金の支払を行わずにチェックアウトしたり、無銭飲食をしたことのあるゲストがこれに該当します。ホテルチェーンなどではUGのパーソナルデータをグループホテル間で共有し、このような事故の再発を防止するのです。チェーンの他のホテルでUGが発生するとそのデータが回覧されて来ますので、それをプリントアウトしてフロントデスクの裏やオフィスの掲示板に掲示されることになります。

経営的な観点で考えると、物事にはすべからく二面性があり、両者を特定した上で定性的・定量的に比較し判断することが効率的です。一般的に、UG管理をすることのマイナス面は殆どないかせいぜいデータを管理・回覧する手間であることに対して、プラス面は、UGの存在によって、沖縄という地域性やサンマリーナの顧客属性では、年間最大2件10万円程度の損失が生じる可能性があるため、UGリストを共有することで少なくともこの損失の一部を防ぐことができる、と考えられるのだと思います。

確かに「目に見える現象」はこの考え方の通りで過不足ないのですが、「目に見えない現象」を含めるとマイナス点は相当なものです。すなわち、サンマリーナに宿泊する年間14万人のお客様(の大半に)対して、ほんの少しであってもフロント担当者が「この顧客はUGではないか?」という懸念を抱いて接することになる点、また何か小さなトラブルが生じたとき、ホテル担当者がUGの可能性を疑いながら顧客に接することになる点、経営が実質的に「全ての顧客を疑え」というメッセージを従業員に対して発している点、経営が「顧客を大事にする」というメッセージを従業員に伝達している場合は、これと矛盾する仕組みのために組織の価値観が混乱すること、などです。特に、人間の特質としてポジティブな発想とネガティブな発想を同時に持つことは困難であるという分析がありますが、これがその通りだとすると顧客を疑いながら思いやりをかけるということは、そもそも生理学的にも不可能なことかもしれないのです。 ・・・もちろん、「目に見えないことは存在しない」という考え方を選択する場合には、以上のポイントはなんらマイナス点ではありえないので、どちらを経営の現実と考えるかは、まさしく経営者の価値観次第ということになります。

UGの廃止
私はサンマリーナホテルの経営を担当していたときに、このUGリストというものを始めて知り、その意味を従業員に確認した後にこのシステムを全廃しました。想像通り、社内にはこの決定によってUGを見逃し、ホテルが損失を被るかもしれないと心配する向きもありました。組織(実際には「責任者」)というものは、ダメージの多寡にかかわらず「事故」というものを嫌い、他の物事とのバランスの如何に関わらず完全に排除しようとする傾向があります。事故の発生は担当者の「責任」になるというのが一般的な企業慣習であるためです。

サンマリーナではUG廃止に際して、次のような趣旨の通達を同時に発表しています。『お客様が皆さんに言った言葉は100%正直な内容であると信じて行動して下さい。このような皆さんの行動の結果としてホテルに損失が生じた場合、会社は個人の非を一切問いません(ただし、事故報告書の提出は欠かさないで下さい)』 これは例えば、「自動販売機に入れたお金が1,000円戻ってこない」と顧客が自己申告した場合、機械を開けるまでもなく、即刻1,000円を顧客に払い戻す手続きをして下さい、という意味です。そして、「UG」が発生した場合は次のような「対策」をすることに決め従業員に伝えました。『もしお客様が何らかの理由で正当な支払を行わずホテルを立ち去る場合でも、お客様が支払をしていないという事実は全く無視して、やはりお客様に思いやりをもって接するよう心がけてみてください。また、そのお客様が再度ホテルにいらっしゃった場合も、過去の事実を全く無視して、その他のお客様と同様に接してください。傍目にはどんなに明らかなように見えても、実は見かけからは想像もつかない、やむを得ぬ事情がお客様にあるかも知れません(見かけと実際が異なることはよくあるものです)。言葉は悪いのですが、お客様に騙されても構いませんし、同じお客様に何回騙されても構いません。』

フロント担当を中心としたホテル職員で、本当は顧客を疑いたいと思っている人は殆どいません。顧客はみな善意であると信じて接する方がよほど気持ちが楽ですし、人にやさしくできますし、自分も楽しい時間が過ごせるからです。しかし、彼らのプロとしての義務感が、その業務を全うするために、少しではありますが確実に自分の心に負荷をかけることを強いているのです。この心の負荷は僅かなものですし、もちろん目に見えないものですが、その「小さな」心の負荷が軽くなることで従業員がどれほど元気になったかは、傍からみているだけでも本当に感動的でした*(1)。この変化を顧客が感じないわけはありません。実際、ゲストコメントの内容と量の変化にはっきり現れています。それ以降は、年間14万人の顧客に対して疑いを持たずに、気持ちに大きな余裕を持つ社員が0人から250人(全従業員数)に増えたと考えてもそれほどの誇張ではないと思います。経営的には、「人の善意を100%信じることで、個人的に損失を被るかもしれない」という従業員の恐れを取り除くしくみを提供したことになります。

性善説の経営と事業性
突飛な例に聞こえるかもしれませんが、ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』の冒頭に登場するミリエル司教は、一晩泊めてあげたにも拘らず銀の食器を盗んだジャン・バルジャンに対して、断罪することではなく、彼を肯定し、彼の心の中の善意を信じて銀の燭台を手渡すことで彼の人生を永遠に変えました。9年後ジャン・バルジャンがモントルイユ・シュル・メール市の市長になり、福祉の整った善政を行いこの地方を非常に豊かにするきっかけは、わずか200フランの銀の燭台だったのです。もちろん本人は自覚していなかったと思いますが、ミリエル司教は優れた「投資家」であったとも言えるのです。

我々が一人の顧客に10回騙されれば、その顧客はその後、沖縄やホテル業界や社会の善意を信じて人生を送れるかもしれません。ホテルで年間5万円の予算を組む(損失を見積もるということですが)ことで万が一にもそのような人を「手助け」できるのであれば、ホテルや我々の仕事が人の役に立てるかもしれません。もちろんこの方針によってこのような「UG」を善人に変えようと考えているわけでもありませんし、現実にはその機会さえ殆どないかもしれません。しかし、このような信念が従業員に伝わるとき、組織が根本的に変化することを経験しました。

以上の考え方は性善説の価値観に基づくものですが、実は「きれいごと」に終わらない経営的(財務的)な裏づけが存在し、このような経営行動は極めて事業効率の高い判断である可能性があるのです。会社が被る損失は、仮に1回につき5万円の損失だったすると、10年間で10回騙されても年間5万円です。これに対して、顧客維持率を5%上げることで、利益が25%~125%アップするという調査*(2) があります。従業員の善意に共感し、リピートする顧客がどのくらいであるかを数量化することはできないものの、直感的にこのインパクトをイメージすると、僅か5万円の「投資」(機会損失)で得られるリターンは信じられない程の収益率を生むことが想像できるとおもいますし、その後のサンマリーナの収益はこの仮説を一部裏付けていると思います*(1)

【2007.1.22 樋口耕太郎】

*(1) 趣旨を分かりやすくするためにこのような単純な表現にしていますが、正確に表現すると、もちろんUGを廃止しただけではこのような効果は生じません。その他多くの細かい経営判断を性善説の価値観でバランスよく対処することで一貫性が生じ、最終的にこのような結果をもたらすというイメージです。

*(2) Frederich Reichheld, “The Loyalty Effect” (Harvard Business School Press, 1996). 売上高利益率の低い(すなわち、オペレーションレバレッジの高い)ホテルのような業態では、事業的な成果がこのようなレバレッジ効果を伴って顕在することがあります。この調査による「顧客維持率を5%上げることで、利益が25%~125%アップする」という水準は僕の個人的な実感ともおおよそ一致します。

「性善説の経営科学《前編》」では、「人の正直さは各人の人間的な性質による」という一般認識に対して、「正直さの多くは状況や環境に依存する」可能性と、この性質が経営に示唆する内容について述べました。このように、人間の性格は一貫的なものだと思い込む傾向を、心理学では「根本的属性認識錯誤(Fundamental Attribution Error)」と呼ぶそうです。人は他人の行動を解釈するとき、その性格的な特徴を過大評価し、状況や環境の重要性を過小評価するということを意味しています。どうやら人間の脳は状況的なヒントよりも人に関するヒントの方に敏感に反応するように調律されているようなのです。したがって、性善説の経営を実行するとき、従業員が正直に行動するような状況や環境を経営が整えることの重要性は高く、それこそが経営者が積極的に分担すべき仕事である。そしてその環境整備として最も効果が高い作業は「経営が従業員の善意を信じ、行動することそのもの」であろう、というのが前回の論旨でした。本稿では、性善説の経営に必要な環境整備とサービス事業への応用の可能性についてコメントします。再びマルコム・グラッドウェル著『なぜ、あの商品は急に売れ出したのか』からの引用です。

「善きサマリア人」の実験
『90年代にプリンストン大学の二人の心理学者、ジョン・ダーリーとダニエル・バッソンが「善きサマリア人」という聖書に出てくる話にヒントを得て、ある研究を企画した。この話は新約聖書のルカ福音書にあるエピソードだ。『ある旅人がエルサレムからエリコへ通じる道の途中で追いはぎに襲われ、半死半生のまま道端に打ち捨てられた。通りかかった司祭もレビも(どちらも人徳のある敬虔な人と見なされている)立ち止まらずに「道に反対側を通り過ぎていった」。ただ一人助けたのはサマリア人(軽蔑されていた少数民族の一員)で、「近寄って傷の手当をし」宿場まで連れて行った。』ダーリーとバッソンは、この話に基づく調査研究をプリンストン神学校で行うことにした。

ダーリーとバッソンが用意した仕掛けは次の通り。ダーリーとバッソンは任意に選んだ神学生のひとりひとりに会って、聖書のテーマに基づく短い即興の説教を依頼する。そして、近くにある別の建物まで歩いていって、発表してもらう。神学生が会場まで行く途中で、道で行き倒れになっている人に出会う。頭を垂れ、目を閉じ、咳き込んだり呻いたりしている。さて、このとき誰が立ち止まり、助けようとするか?それが問題だ。

ダーリーとバッソンは、実験結果を更に意味のあるものにするために、三種類の変化を工夫した。①実験を開始する前に、神学生たちに神学研究を選んだ動機に関するアンケートを実施した。「宗教を個人の精神的な充足の手段だと思いますか? それとも日常生活に意味を見出すための実践的な手段だと思いますか?」 ②次に依頼する談話の主題に変化を持たせ、職業としての聖職者と宗教的使命の関係を主題にする神学生と、「善きサマリア人」のたとえ話を主題にする神学生に分けた。 ③最後に実験の主催者が神学生に出す指示にも変化をつけた。神学生を送り出すときに、時計を見ながら、「あ、遅刻だ。向こうでは数分前からきみを待っている。急いだほうがいい」という場合と、「まだ数分の間があるが、そろそろ出かけたほうがいいだろう」という場合に分けた。

さて、ここでどの神学生が「善きサマリア人」を演じるかを予想してもらうと、答えはかなり一貫したものになる。人助けのような実践的な手段として聖職者の道を選んだ神学生で、「善きサマリア人」のたとえ話を読んで思いやりの大切さをあらためて肝に銘じた神学生がそうだ、という答えが大半を占める。ほとんどの読者もこの答えに同意すると思う。ところが、実際はどちらの要素も大勢に影響を与えないのだ。「善きサマリア人のことを考えている人にとって、困った人を助けるという願ってもない状況があるというのに、それが行動に結びつかないとは想像し難い」とダーリーとバッソンは結論する。「ところが、これから善きサマリア人について話をしにいく神学生が、急ぐあまり文字通り被害者を飛び越えていくケースさえ見られた」

この実験で神学生の行動を唯一左右したのは、「急いでいるかどうか」ということだったのである。急いでいるグループで立ち止まったのは10%、数分の余裕があることを知っているグループの場合は63%だった。言い換えると、この実験が示唆しているのは、「行動の方向性を決めるにあたって、心に抱いている確信とか、今何を考えているかというようなことは、行動しているときのその場の背景ほど重要ではない」ということだ。「あ、遅刻だ」という言葉が、普段は哀れみ深い人を他人の苦しみに冷淡な人に変える働きをしたのだ。』

以上の実験結果は、ある意味当然かも知れません。よく、「人間は自分が幸福でなければ人を幸福に出来ない」、「顧客満足度は従業員満足度から」、「衣食を足りて礼節を知る」などといわれることがありますが、含意はこの実験結果とおおよそ符合します。逆に考えると、神学生たちの善き性質を引き出すためには、彼らが人助けをする機会に「恵まれた」とき、彼らの時間や気持ちに余裕のある環境を整備することが効果的であると考えられ、これが性善説の経営を実行するヒントになります。

サービスの現場では…
以上をサービス業の経営に当てはめると興味深いことになります。従業員が顧客に対して思いやりをもって接する、すなわち従業員が「善きサマリタン」として顧客に接するためには、従業員の「サービス能力」や、優しい性質や、共有した価値観や、気の利きようや、経験や、そしてお金と時間をかけた社員教育よりも、現場において従業員が「急いでいない」という状況、あるいは気持ちに余裕がある環境の方がよほど大きな影響をもたらす可能性があるのです。

翻って、世の中の一般的なサービス企業は、従業員が顧客に対して思いやりをもって接する、すなわち従業員が「善きサマリタン」として顧客に接する、あるいは少なくともそのフリができるようになるように(現実にはこのケースが大半かも知れませんが…)莫大な費用と時間と人材を投入します。このような、例えば人事評価制度を整備したり、有能な人材を選別したり、価値観を共有したり、研修をしたり、個人の「能力アップ」をサポートしたりする作業は、概して売上に直接結びつかない一般販管費ですので、企業価値と収益に直接のインパクトを与える、財務上重大なコストです。しかしながら、ダーリーとバッソンの実験結果が示唆することは、従業員が思いやりを持って顧客に接するという結果を導くために、経営が費やすこれらの作業や費用は、実のところあまり効果がないかも知れないのです。そして、「(気持ちが)急いでいない従業員」の方がよほど多くの善きサマリタンを生み出し顧客に感動を与えるかも知れないのです。

従業員が気持ちに余裕を持って顧客と接することができる環境とは、例えば余裕を持った人員配置(人数そのものを増やす)、柔軟で緩やかなシフト、期限を決めた仕事をしないこと、進捗状況の確認という名の下にプレッシャーがないこと、などを意味すると思いますが、これらはいずれも現代経営の価値観の中では「無駄」「非合理」「規律が取れていない」「管理されていない」と解釈され、真っ先に削減や合理化の対象になります。すなわち、一般的なサービス事業の現場で起こっていることは次のように解釈することができます。

①経営は「無駄」を排除するために、「適正な」人材配置を行い、可能な限り無駄な従業員やシフトをなくす努力を重ねます。のんびりしている従業員がいる現場やシフトは見直され、遠からず配置人員数が減らされることになるでしょう。収益に対応した売上等の目標の進捗はこま目に管理され、目標に遅れがあるときには責任者に対して厳しい指摘がなされるかもしれません。

②これによって、従業員が顧客に対して思いやりや善意を持って接するための最大の要因、すなわち「気持ちの余裕」、がことごとく現場環境から消滅していきます。

③反面、顧客に対して思いやりを示すことが経営から現場に対して強く求められ続けます。それにも拘らず、「合理性の追求」や「無駄の排除」によって、従業員が思いやりを発揮できる状況が現場環境からどんどん減少していきますので、現場従業員は経営からの(思いやりを示せという)要求と、自分の(余裕のない)本心がどんどん乖離することを感じるでしょう。

④これに伴って、現場は効率的に「思いやりを示すフリ」をする方法を習得して対処しますが、そのうちにこのような状態があまりに一般化してしまい、現場の従業員も本当の思いやりと思いやりのフリの区別が分からなくなってしまいます。一方、経営は一般的に従業員が顧客に示す本心からの思いやりと、思いやりのフリを区別しません。

⑤同時に経営は(経常利益と企業価値を直撃する)多額の費用と時間を投資して、企業理念と価値観をプロモートしてみたり、「優秀な人材」を確保し、人材開発、能力開発、研修、などの人事研修システムを整備します。

冗談みたいに聞こえるかも知れませんが、ひょっとすると現代の一般的な経営が胸を張って実行している行為は、従業員が顧客に対して思いやりを発揮する環境を「合理化」の元に非常な努力を持って削減し、効果の低い「人材投資」に莫大な費用と時間と人材を投下し、企業収益と企業価値を大幅に減じているだけなのかも知れません。・・・なるほど、多くの人が「ビジネスは戦いだ」と感じるのは当然でしょう。

【2007.1.17 樋口耕太郎】

「信じるということ」で表現しようとしたことは、経営において、仕組みを運用する立場(主に経営者)の意識や価値観が事業に与える影響です。経営論では目に見える仕組みに意識が集中しがちなのですが、私の個人的な経験と実感では、目に見えない経営者の価値観は相当大きな変数だと思えます。例えば、「従業員ロッカーにカギを設置する」という決定で、カギ管理のルール、費用、従業員のモラルへの影響など、が目に見える仕組みの議論、経営者がカギを設置する際の真意、が目に見えない価値観の議論です。経営者がどのような真意でカギを設置しようが、現場にカギが設置されることに変わりはなく、その事業的な効果に影響を与えない、と考えるのが「常識」だと思いますが、これに反して、経営者の真意によって事業の成果が異なる、ということを経営科学的に説明できるのではないかと思っているのです。本稿では経営における「性善説」をテーマとし、①そもそも経営における性善説とはなにか? ②性善説の経営は(どのようにして)可能か? ③性善説の経営が効果的であると合理的に考えることが可能か?という三つの問いにひとつの回答を試みました。

正直さは環境に依存する?
雑誌『ニューヨーカー』のスタッフ・ライターである、マルコム・グラッドウェル著『なぜあの商品は急に売れ出したのか』は、流行が生まれるときの爆発的な現象を心理科学的な側面から分析した興味深い本です。グラッドウェルはその中で、人間の心の状態は一般的に認識されている以上に外部環境に影響されると主張しています。ひとつの実証として次のような(少々意地悪な?)実験の事例が挙げられていますので引用します。

『ニューヨークを本拠とする二人の研究者、ヒュー・ハートショーンとM・Aメイが1920年に行った一連の画期的な実験がある。二人の研究者は、8歳から16歳まで、なんと約11,000人の生徒を対象にして、正直さを測るために考えられた、数え切れないほど様々な種類のテストを、数え切れないほど様々な状況で実施した。

例えばそのひとつとして、当時の教育研究所が開発した単純な適正テストが使われた。数学のテストでは、「砂糖の値段が1ポンド10セントであるとき、5ポンドではいくらになるか」というような問題が出され、余白に答えを書くようになっている。このテストでは通常の所定時間のほんの一部しか与えられないので、多くの問題が未回答のまま回収され、採点される。翌日は、問題は異なるが、難易度は同じ程度のテストが再び行われる。しかし今度は、監視を最小限にとどめ、自己採点をするように伝えられる。

言い換えると、ハートショーンとメイは良心を刺激する仕掛けをしたわけだ。正解が手元にあり、未回答の問題がたくさん残っていれば、生徒たちはいくらでもカンニングすることができる。ハートショーンとメイは、前日のテストの結果と比べて、それぞれの生徒がどれくらいカンニングしたかを判断することができる。その結果は最終的に三冊の分厚いファイルに収められた。

結果は予想にたがわず、こういうテストでは多くのカンニングが起こるということだった。カンニングが可能なところでテストした場合、平均すると「正直」な採点の50%も得点が高くなった。だが、カンニングのパターンと子供たちの属性に関して意味のある傾向は存在しないことがわかった。はっきりと特定できるカンニング・グループがあるわけでも、正直な生徒のグループがあるわけでもない。また、これらの条件、例えばテストの問題とか、テストを実施する状況、をひとつでも変えれば、カンニングする子供も変わってしまうのだ。

そこでハートショーンとメイは結論する。正直さというようなものは人の性質を決める根本的な特徴でもなければ、「一貫した」特徴でもない。正直さのような特徴は、状況に大きく左右されるものである。大多数の子供たちは、ある状況におかれれば人をだますが、別の状況ではそうではない。この調査で試されたテスト状況から判断する限り、ある任意の状況で子供が人をだますかどうかは、知性とか年齢とか家庭環境などの条件に一部しか依存していない。ハートショーンとメイの調査が示唆しているものは、「固有の性格という観点だけから判断し、状況の役割をなおざりにすると、人間の行動を決定している真の原因を見誤る」ということである。』

性善説の経営科学
もちろん、この調査を根拠に「環境だけが人間の正直さや行動を決める」と考えるのは偏りすぎでしょう。長い目で見れば正直な人間はやはり正直な一生を送るものです。しかしながら、人間の正直さはその人の性質や努力によるものだけではなく、環境による影響が大きい、特に我われが一般的に認識しているよりも大きい、という示唆は経営的に重要なものです。従業員が正直であることの要素は、恐らく「本人の性質によるもの」、「本人の努力によるもの」、「企業などの環境によるもの」、の三種類によると思われますが、経営者の立場では、従業員が正直でいられるための環境を整備して、正直であらんとする本人の努力を助ける、ことが経営合理的であると考えられるためです。すなわち、性善説の経営を実行するということは「人間の根源的な性質は何か」という大上段の議論に決着をつけるようなことでも、従業員の人間性のみに帰す問題でもありません。従業員の正直な行動を促すために経営が果すべき役割の認識であり、実際にその作業を実行することだと思います。私の経験では、その認識と行動が現実の事業的成果を大きく左右するのです。

表現が堅苦しくなってしまいましたが、要は性善説の経営が成立するためには環境的な前提が必要で、その環境を整備するのは(少なくとも一部は)経営の役割であり、その前提とは、「従業員が正直でいられるための環境を整備して、正直であらんとする本人の努力を助ける」ということです。従業員の性善説を漠然と信じても成果が上がらず、何かしら従業員から裏切られた気持ちになった経験を持つ経営者は少なくないと思いますが、自分自身に対して、人が正直でいられる環境を自分は十分に整備していたか、そしてそもそもそのような環境とはいかなるものか、と問うことは意味があるかもしれません。私が個人的に学んだことは、従業員の環境を整えず(経営ができることをせずに)従業員の性善説を漠然と信じても自分が勝手に裏切られた気持ちになるだけ。性善説の経営を実現するためには、人の善意を信じることは第一ですが、その善意が顕在化するために経営ができることを特定し、行動すること、だと思いました。性善説の経営には科学が必要なのです。以下、冒頭の「従業員ロッカーのカギ」を設置するケースを考えてみます。

カギは善人のためにかける
どこで読んだか忘れてしまったのですが、「ユダヤの知恵」のひとつとして「カギは悪人のためではなく、善人のためにかけるのだ」という考え方があるそうです。もしある人が悪意をもって物を盗もうとするときは、鍵があろうとなかろうと結局壊してでも手に入れるため、カギの有無はあまり意味がありません。反面、カギをかけるということで善人が出来心を起こすのを防ぐことができ、実質的にはこの効果の方が圧倒的に重要だ、という意味だと思います。

従業員ロッカーのカギのケースは、実はサンマリーナホテルで私が経営を担当していたときに実際に起こったことです。長年勤めていた従業員が同僚のロッカーを荒らし、盗難を働いていたことが明らかになり、経営幹部の間でどのように対応をすべきか深く議論しました。議論の焦点は業務上の対処でも、彼の処分でもなく、彼とどのように向き合うかであり、そのときヒントになったのは例えば、「彼が自分の息子だったらどうするか」という問いでした。よき親は子供の心の一番底にある善意を最後まで信じると思われたためです。

物理的な対応はカギの整備、ということでしかありませんでしたが、われわれが最も重要視し、できるだけ多くの従業員に伝えようと試みたメッセージはその背後にある価値観でした。ユダヤの知恵の話を伝え、サンマリーナではカギは善人(すなわち全ての従業員)を守るためのものと定義しました。会社においてカギを設置することの唯一の意味は、従業員を管理したり、あるいは盗難を減らすことすら一義的な目的ではなく、善意ある従業員に、会社で可能な限り正直な時間を送ってもらいたいためであること、そして、今回盗難を働いた社員を「守る」ことが出来なかった責任の一端は経営にあることを、各リーダーに直接伝えたのです。(この事件をきっかけに退社した)この社員のこと、その後家族との関係はどうなっただろう、生活はどうなっただろうと今でも考えることがあります。

このような事例の成果を数量化したり因果関係を特定することは恐らく不可能ですが、仮にこの対応以降盗難が減少した場足(すなわち従業員の性善説的な性質が顕在化したとして)、それはカギを設置したこと自体に加えて、カギを設置することの意味(すなわち善人を守るためにカギを設置する)が従業員に伝わった、という効果が少なからず含まれるのではないかと思っています。

【2007.1.13 樋口耕太郎】