「性善説の経営科学《前編》」では、「人の正直さは各人の人間的な性質による」という一般認識に対して、「正直さの多くは状況や環境に依存する」可能性と、この性質が経営に示唆する内容について述べました。このように、人間の性格は一貫的なものだと思い込む傾向を、心理学では「根本的属性認識錯誤(Fundamental Attribution Error)」と呼ぶそうです。人は他人の行動を解釈するとき、その性格的な特徴を過大評価し、状況や環境の重要性を過小評価するということを意味しています。どうやら人間の脳は状況的なヒントよりも人に関するヒントの方に敏感に反応するように調律されているようなのです。したがって、性善説の経営を実行するとき、従業員が正直に行動するような状況や環境を経営が整えることの重要性は高く、それこそが経営者が積極的に分担すべき仕事である。そしてその環境整備として最も効果が高い作業は「経営が従業員の善意を信じ、行動することそのもの」であろう、というのが前回の論旨でした。本稿では、性善説の経営に必要な環境整備とサービス事業への応用の可能性についてコメントします。再びマルコム・グラッドウェル著『なぜ、あの商品は急に売れ出したのか』からの引用です。

「善きサマリア人」の実験
『90年代にプリンストン大学の二人の心理学者、ジョン・ダーリーとダニエル・バッソンが「善きサマリア人」という聖書に出てくる話にヒントを得て、ある研究を企画した。この話は新約聖書のルカ福音書にあるエピソードだ。『ある旅人がエルサレムからエリコへ通じる道の途中で追いはぎに襲われ、半死半生のまま道端に打ち捨てられた。通りかかった司祭もレビも(どちらも人徳のある敬虔な人と見なされている)立ち止まらずに「道に反対側を通り過ぎていった」。ただ一人助けたのはサマリア人(軽蔑されていた少数民族の一員)で、「近寄って傷の手当をし」宿場まで連れて行った。』ダーリーとバッソンは、この話に基づく調査研究をプリンストン神学校で行うことにした。

ダーリーとバッソンが用意した仕掛けは次の通り。ダーリーとバッソンは任意に選んだ神学生のひとりひとりに会って、聖書のテーマに基づく短い即興の説教を依頼する。そして、近くにある別の建物まで歩いていって、発表してもらう。神学生が会場まで行く途中で、道で行き倒れになっている人に出会う。頭を垂れ、目を閉じ、咳き込んだり呻いたりしている。さて、このとき誰が立ち止まり、助けようとするか?それが問題だ。

ダーリーとバッソンは、実験結果を更に意味のあるものにするために、三種類の変化を工夫した。①実験を開始する前に、神学生たちに神学研究を選んだ動機に関するアンケートを実施した。「宗教を個人の精神的な充足の手段だと思いますか? それとも日常生活に意味を見出すための実践的な手段だと思いますか?」 ②次に依頼する談話の主題に変化を持たせ、職業としての聖職者と宗教的使命の関係を主題にする神学生と、「善きサマリア人」のたとえ話を主題にする神学生に分けた。 ③最後に実験の主催者が神学生に出す指示にも変化をつけた。神学生を送り出すときに、時計を見ながら、「あ、遅刻だ。向こうでは数分前からきみを待っている。急いだほうがいい」という場合と、「まだ数分の間があるが、そろそろ出かけたほうがいいだろう」という場合に分けた。

さて、ここでどの神学生が「善きサマリア人」を演じるかを予想してもらうと、答えはかなり一貫したものになる。人助けのような実践的な手段として聖職者の道を選んだ神学生で、「善きサマリア人」のたとえ話を読んで思いやりの大切さをあらためて肝に銘じた神学生がそうだ、という答えが大半を占める。ほとんどの読者もこの答えに同意すると思う。ところが、実際はどちらの要素も大勢に影響を与えないのだ。「善きサマリア人のことを考えている人にとって、困った人を助けるという願ってもない状況があるというのに、それが行動に結びつかないとは想像し難い」とダーリーとバッソンは結論する。「ところが、これから善きサマリア人について話をしにいく神学生が、急ぐあまり文字通り被害者を飛び越えていくケースさえ見られた」

この実験で神学生の行動を唯一左右したのは、「急いでいるかどうか」ということだったのである。急いでいるグループで立ち止まったのは10%、数分の余裕があることを知っているグループの場合は63%だった。言い換えると、この実験が示唆しているのは、「行動の方向性を決めるにあたって、心に抱いている確信とか、今何を考えているかというようなことは、行動しているときのその場の背景ほど重要ではない」ということだ。「あ、遅刻だ」という言葉が、普段は哀れみ深い人を他人の苦しみに冷淡な人に変える働きをしたのだ。』

以上の実験結果は、ある意味当然かも知れません。よく、「人間は自分が幸福でなければ人を幸福に出来ない」、「顧客満足度は従業員満足度から」、「衣食を足りて礼節を知る」などといわれることがありますが、含意はこの実験結果とおおよそ符合します。逆に考えると、神学生たちの善き性質を引き出すためには、彼らが人助けをする機会に「恵まれた」とき、彼らの時間や気持ちに余裕のある環境を整備することが効果的であると考えられ、これが性善説の経営を実行するヒントになります。

サービスの現場では…
以上をサービス業の経営に当てはめると興味深いことになります。従業員が顧客に対して思いやりをもって接する、すなわち従業員が「善きサマリタン」として顧客に接するためには、従業員の「サービス能力」や、優しい性質や、共有した価値観や、気の利きようや、経験や、そしてお金と時間をかけた社員教育よりも、現場において従業員が「急いでいない」という状況、あるいは気持ちに余裕がある環境の方がよほど大きな影響をもたらす可能性があるのです。

翻って、世の中の一般的なサービス企業は、従業員が顧客に対して思いやりをもって接する、すなわち従業員が「善きサマリタン」として顧客に接する、あるいは少なくともそのフリができるようになるように(現実にはこのケースが大半かも知れませんが…)莫大な費用と時間と人材を投入します。このような、例えば人事評価制度を整備したり、有能な人材を選別したり、価値観を共有したり、研修をしたり、個人の「能力アップ」をサポートしたりする作業は、概して売上に直接結びつかない一般販管費ですので、企業価値と収益に直接のインパクトを与える、財務上重大なコストです。しかしながら、ダーリーとバッソンの実験結果が示唆することは、従業員が思いやりを持って顧客に接するという結果を導くために、経営が費やすこれらの作業や費用は、実のところあまり効果がないかも知れないのです。そして、「(気持ちが)急いでいない従業員」の方がよほど多くの善きサマリタンを生み出し顧客に感動を与えるかも知れないのです。

従業員が気持ちに余裕を持って顧客と接することができる環境とは、例えば余裕を持った人員配置(人数そのものを増やす)、柔軟で緩やかなシフト、期限を決めた仕事をしないこと、進捗状況の確認という名の下にプレッシャーがないこと、などを意味すると思いますが、これらはいずれも現代経営の価値観の中では「無駄」「非合理」「規律が取れていない」「管理されていない」と解釈され、真っ先に削減や合理化の対象になります。すなわち、一般的なサービス事業の現場で起こっていることは次のように解釈することができます。

①経営は「無駄」を排除するために、「適正な」人材配置を行い、可能な限り無駄な従業員やシフトをなくす努力を重ねます。のんびりしている従業員がいる現場やシフトは見直され、遠からず配置人員数が減らされることになるでしょう。収益に対応した売上等の目標の進捗はこま目に管理され、目標に遅れがあるときには責任者に対して厳しい指摘がなされるかもしれません。

②これによって、従業員が顧客に対して思いやりや善意を持って接するための最大の要因、すなわち「気持ちの余裕」、がことごとく現場環境から消滅していきます。

③反面、顧客に対して思いやりを示すことが経営から現場に対して強く求められ続けます。それにも拘らず、「合理性の追求」や「無駄の排除」によって、従業員が思いやりを発揮できる状況が現場環境からどんどん減少していきますので、現場従業員は経営からの(思いやりを示せという)要求と、自分の(余裕のない)本心がどんどん乖離することを感じるでしょう。

④これに伴って、現場は効率的に「思いやりを示すフリ」をする方法を習得して対処しますが、そのうちにこのような状態があまりに一般化してしまい、現場の従業員も本当の思いやりと思いやりのフリの区別が分からなくなってしまいます。一方、経営は一般的に従業員が顧客に示す本心からの思いやりと、思いやりのフリを区別しません。

⑤同時に経営は(経常利益と企業価値を直撃する)多額の費用と時間を投資して、企業理念と価値観をプロモートしてみたり、「優秀な人材」を確保し、人材開発、能力開発、研修、などの人事研修システムを整備します。

冗談みたいに聞こえるかも知れませんが、ひょっとすると現代の一般的な経営が胸を張って実行している行為は、従業員が顧客に対して思いやりを発揮する環境を「合理化」の元に非常な努力を持って削減し、効果の低い「人材投資」に莫大な費用と時間と人材を投下し、企業収益と企業価値を大幅に減じているだけなのかも知れません。・・・なるほど、多くの人が「ビジネスは戦いだ」と感じるのは当然でしょう。

【2007.1.17 樋口耕太郎】