【インターネット放送】

ポリタスTV 激動の県知事選から2年
変わる沖縄人の意識と貧困がなくならない本当の理由

6/17(水)19:00〜
ゲスト:樋口耕太郎

[YouTube]→ https://youtu.be/2Su1VGfevPY
[ニコ生]→ https://live2.nicovideo.jp/watch/lv326532456
https://www.pscp.tv/w/1OwxWLloLNjKQ?t=68

先日、ある学生からレポートを受け取った。

彼女が小学校3年生の時のエピソードが、
色鮮やかな言葉で綴られていた。
私は、彼女が絵の天才だと感じているのだが、
そんな才能を持つ人は、
文章も絵画的になるような気がする。

読んでいて、涙が溢れてきた。

彼女が大好きな美術の授業。
学校の一番好きなところをかきなさい、という課題。
多くの子どもたちは、ジャングルジムにいったり、
屋上にいったり、各自好きなところで絵を描いていた。

彼女が好きなのは、夕暮れ時の図書室の扉。
銀色の扉に夕焼けが反射して、
色々な光が変化するのが大好き。
この風景を描こうと、毎日夕焼けになるのを待って
下校時刻まで描いた。

***

遅れて提出すると、先生の顔が曇った。
どこを描いたのかを聞かれたので、
図書室の扉の話をすると、
「こんな色なはずがない、ちゃんとみてかきなさい」と、
画用紙を水道で洗い流した。

「私の好きだった黄色がかかった空も、ピンク色の雲も、
赤く染まる廊下も、水槽が反射して緑色が滲む扉も、
全部排水口に流れて行ったときに、涙がとまりませんでした」

少し色がのこった画用紙にかかされた絵は、「楽しい私」
というタイトルのつまらない絵。
自分が好きなようにかくのではなく、先生に認められる絵を
かかねばならないのだと、そのとき気づいた。

それからは、左利きじゃだめと言われたから
頑張って右利きに直したし、
箸を正しく持っていると「育ちがいいアピールか」
と言われたので、箸の持ち方も変えた。

人の型にはまろうと必死だった。
結果的に、私がつまらなくなってしまった。

でもこの話をするのも、自分がつまらないことを
人のせいにしたいだけだと思うのだ。

***

沖縄には、ぬちどぅたから(命が宝)という言葉がある。
しかし、私たち大人の、子どもたちへの接し方は、
愛情、教育、指導という名の下に、
肉体を育てながら、魂を殺しているように見える。
魂の大量虐殺は、歴史に記録されない。

問題を深くしているのは、
そこに誰も悪意を持った人はいないということだ。
彼女の告白に登場する教員も、
決して悪人ではなかったと思う。
それどころか、その教員に彼女の絵を洗わせたのは
「責任感」だったかもしれない。
ひょっとしたら、彼女の将来にも
関心があったのかもしれない。
こんな、「意味不明」の絵を描いていたら、
社会から受け入れらない、
と彼女の将来を案じたのかもしれない。

この教員は、彼女の知的、芸術的、
社会的成長には関心があったかもしれない。
しかし、彼女が心で見ていた、光と色には関心がなかった。
これが、虐殺の正体である。

最大の悲劇は、この出来事を、
彼女が、今まで、一度も、誰にも
話したことがなかったということ。

それは、彼女が見た光と色に、これまでの20年間、
誰も関心をもった人がいなかったからだ。

私たちの社会では、子どもを放置したら
ネグレクト、育児放棄だとして、大きな問題になる。
しかし、私たち大人は、子どもたちの魂を
何年も何年も放置していることを薄々感じながら、
どうしていいかわからないでいる。

「善意の虐殺」をやめて、
子どもの魂に愛を吹き込むのは、
人間に対する深い関心しかない。

2005年の公共広告優秀賞を受賞した作品で、
命の大切さを訴えたCMがある。
人に深い関心を持つということの本質が、
ここにあると思う。

「いのちは大切だ。いのちを大切に。
そんなこと何千何万回いわれるより、
あなたが大切だ。誰かがそういってくれたら、
それだけで生きていける」

私たちは、子どもたちのことを思って、
勉強が大切だという、就職が大切だという、
将来が大切だという。

しかし、子どもの関心ごとに関心を持つ大人は
意外なくらい少ない。

私たちは、従業員のことを思って、仕事が大切だという、
売り上げが大切だという、未来が大切だという。

しかし、従業員の小さな小さな、取るに足らない
関心ごとに関心を持つ経営者は、ほとんどいない。
従業員は、仕事の辛さに苦しんでいるのではない。
無関心に深く傷ついているのだ。

2月14日はバレンタインデー。
大切な人に、深い深い関心を示して見るのはどうだろう。
その人への関心ではなく、その人の関心に関心を持つ。
それはきっと、あなたにとっては、
つまらないことかもしれない。
どうでもいいことかもしれない。
批判したくなることかもしれない。

それでも、それは、あなたの愛する人が、
いま、この瞬間、とても気になっていること。
その気持ちに寄り添う一日でありますように。
そんな心に寄り添う一生でありますように。

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/208549

2月27日は私の51歳の誕生日でした。メッセージを下さった皆さん、ほんとうにありがとうございました。みなさまへお返しのメッセージです。

*   *   *

私は学ぶ、ということには3つのプロセスが必要だと思っています。

第一の学びは、一般的に「学習」と考えれられているもので、知識を増やし、論理的な思考力を身につけ、物事の因果関係を理解する作業です。いわゆる「常識」を身に付ける学習だと言えるでしょう。

ただし、この段階ではまだ、これらの情報は自分の言葉になっているとは限りません。いわゆるエリートと会話していて、彼らが膨大な知識量と、分析力を持ちながら、自分の言葉でしゃべっているように聞こえない時がありますが、それは現代社会の学びが、第一段階に偏重しているからでしょう。この段階では、どれだけ膨大な知識を身につけていても、他人の言葉にすぎません。

知識としては知っていたはずの情報が、あるとき、「腑に落ちる」ことがあります。これが私の考える第二の学びであり、他人の情報が自分の血肉になる瞬間です。第一の学びで身につけた他人の情報が、自分の言葉になります。自分のパラダイムが拡大し、新たな世界観を自分の人生に取り込むのは、このときです。この瞬間、私たちはそれまでの自分の常識を飛び越えて、新しい世界に足を踏み入れることになります。

第二の学びの難しさは、第一の学びとはまったく異なるプロセスで生じるだけでなく、多くの場合第一の学びがそれを阻害するという点でしょう。第二の学び、 パラダイムシフトは、第一の学びによって積み上げた「常識」を飛び越える必要があるからです。言葉を変えれば、既存の世界観に基づいて「理屈」に合わない こと、「合理的」に判断不能なことを実行しなければ、自分の既存世界観を広げることはできないのです。

つまり、第二の学びとは、損得を超越したプロセスなのです。誰でも損だと思えることはしたくありません。しかし、その先にしか学べないことがあります。だから、人生では、失敗から学び、人から傷つけられて強くなり、騙されることで新しい機会を得るのです。

その中でも、もっとも「合理的に」パラダイムを飛び越える方法があります。それが愛です。たった一人との出会いによって、それまでまったく考えもしなかった場所に住み、仕事を変え、生き方が180度変わることは日常茶飯です。愛は盲目とも言いますが、だからこそ、その人の人生を非連続に拡大するのです。

3歳の子どもが父親に連れられて、生まれて初めてプールに行き、プールサイドから離れて、お父さんが呼ぶ方に思い切って飛び込むとき、「合理性」は存在しません。少し大げさに言えば、自分の命を平気でリスクにさらすのは、お父さんに対する信頼があるからであり、お父さんへ(から)の愛情によるものです。

3歳の子どもでさえ、愛があれば命を捨てて、水に飛び込むことができます。その瞬間、泳ぎなど不可能だと思っていた世界観がシフトして、自分は泳げるんだ、という新たな人生を学ぶのです。

私たちの学びは、愛によって支えられています。誕生日を迎え、ここからまた1年、多くの人たちとそんな接し方をしたいと思っています。

*   *   *

そして、第三の学びとは、「身につける」ことです。いかなる学びも、地道な行動の繰り返しによって自分の習慣に取り込まなければ、長期的に人生を変える原動力にはなりません。

地道な行動はもっとも目立たず、人から評価されることもあまりありません。これがもっともおろそかにされている点かもしれませんね。

【樋口耕太郎】

人に好意を寄せることと、人を愛することは、似て非なるものだ。

好きだという気持ちは、「こうあってほしい」という自分の勝手な気持ちが「相手の存在」に重なるときに生じる。

私たちにとって、「理想の彼女」とは、自分勝手にイメージしている身長、容姿、性格、仕事、人間関係を有している女性のことを言う。そのイメージに近い人に出会うと、私たちは、その女性を「好き」になる。

「タイプでもなかったのに、好きになってしまった」という良くあるケースでも、自分にとって「そうあってほしい」という気持ちに、「相手の存在」が重なっているはずだ。相手の性格は想定外だったけれど、「恋人が欲しい」という気持ちが強ければ、私たちはその人を「好き」になる。

自分が「そうあってほしい」イメージ(の人)を「好き」になることほど、人を興奮させ、時間を忘れさせることはない。恋人との時間、好みの映画、楽しい趣味、子供の野球観戦、お気に入りの政党・・・。

だから私たちは、できるだけ人を「好き」になろうとする。その方が楽しいし、楽だからだ。そして、人を「好き」になるためには、自分が「そうあってほしい」イメージ以外のものから目を伏せればいいのだ。

人間的に思いやりがなくても、いつもお金を落としてくれる上客であれば、欠点に目をつぶって接しているうちに、「好きだ」という気持ちが湧いてくる。冷たい旦那だけれど、その問題から目を伏せればだんだん気にならなくなる。

つまり、「好きだ」という気持ちの裏側には、自分が「そうあってほしい」こと以外の要素から目を伏せるという要素が含まれている。「好き」だからという理由だけで選択する人間関係は、相手と向き合うことを遠ざけ、人間関係の本質を避けて通ることと変わらない。

愛することは、好きになることとは根源的に異なる生き方である。人を愛するために、「好き」になる必要はまったくないし、相手の好き嫌いとは無関係である(もちろん「好き」になっても構わない)。

むしろ、自分が「好き」でない人、嫌いな人、自分と主義主張の異なる人、自分のことを攻撃したり傷つけたりする人、つまり、自分が勝手に持つイメージに当てはまらない人に対して、思いやりをもって接するということである。

愛するということは、人生において最も苦しい行為の一つである。その人のためと思って、心を尽くして接しても、「そうあってほしい」イメージが裏切られ、失望させられる。そんなとき、愛することがなによりも苦しくなる。相手に「そうあってほしい」という気持ちが、自分勝手な思い込みにすぎない、という葛藤が苦しさの理由だ。

社会の本質はここにあると思う。世の中の問題は複雑に見えても、政治の本質、行政の本質、経営の本質、教育の本質、家族の本質は、愛であり、この本質を失った社会から衰退する。そんなシンプルな原理が働いているだけなのだと思う。

自分にとって大切な人のために働くことは容易なことである。可哀想だと思う人に優しくすること、自分を評価してくれる人のために尽くすこと、気心の知れた人に思いやりを示すことも別段難しいことではない。しかしながら、自分と利害が対立する人を助けること、自分の主義主張と異なる人のために働くことこそが、リーダーのリーダーたる所以なのだ。

政治的な意見の相違は別にして、田中角栄はかつてこんな名言を残している。

「人間は、やっぱり出来損ないだ。みんな失敗もする。その出来損ないの人間そのままを愛せるかどうかなんだ。政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ。東大を出た頭のいい奴はみんな、あるべき姿を愛そうとするから、現実の人間を軽蔑してしまう。それが大衆軽視につながる。それではダメなんだ。そこの八百屋のおっちゃん、おばちゃん、その人たちをそのままで愛さなきゃならない。そこにしか政治はないんだ。政治の原点はそこにあるんだ。」

オウムの恩返し

一羽のオウムがえさを探しながら道に迷い、奥山へ紛れ込みました。日が暮れてあたりが暗くなってきて、我が家の方向さえ分らず途方に暮れていたとき、奥山の鳥や獣が出てきて、

「オウムくん、気味は道を間違えたのだ。君のところはずいぶん遠いから、今からでは帰れないよ。明日送っていってあげるから、今夜は僕たちのねぐらへおいでよ」

と、親切に案内し、

「ここに木の実もあるからお腹いっぱい食べなさい。ここにはおいしい水が流れているよ」

と教え、その上オウムくんが寂しくてはいけないからと、皆でオウムの周りを囲むようにして寝てくれました。オウムは安心してぐっすり休むことができました。

晴れた翌朝、朝日に照らされながら、オウムは奥山の鳥や獣に、にぎやかに送られ、山から山を伝って、無事に古巣に戻ることができました。オウムはこの親切がうれしくてうれしくてなりませんでした。

それから数日たったある日、ふと気がついてみると、奥山のほうに山を包むほどの煙が上がっているではありませんか。オウムは驚いて飛んでいってみると、い まや全山火事になっていました。これを知るとオウムは、谷川に飛び込むと全身をぬらして飛び立ちました。パラパラ水は落ちましたので、山火事の上までき て、体をふるった時は、二、三滴の水しか落ちませんでした。でもオウムはとびかえり、また谷川の水で体をぬらしてはとんで行き、火事の上で身をふって、 二、三滴の水を落としました。これを休みなくくり返していました。

このとき、この有様を谷川のほとりの木の上で、さっきから見ていた他の鳥が、あざ笑うかのように言いました。

「オウムくん、君のもって行くその僅か二、三滴の水であの大山火事が消えると思うのか、骨折り損のくたびれもうけとは、そういうことだ」

といいました。このときオウムは、

「私のもって行く水は僅かです。あの大火事は消えないかもしれません。でもあの火の中に、私をこの上なく親切にし、助けてくれた友だちが、いま苦しんでいるかと思うと、私は止めることはできません。私は水を運びます」

といって、またせっせと水運びを続けました。

すると、一天にわかにかき曇り、大粒の雨がザーッ、ザーッと降り出すと、さすがの大火事もたちまち消えてしまいました。

オウムのまごころが天に通じたからだろうと、皆が評判したということです。

雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)より

*     *  *

私たちの社会では、オウムの「二、三滴の水」が非効率であるとして、このような「ムダ」は切り捨てるべきであると教育します。オウムの行動を論理的に批判するものが「識者」と呼ばれ、オウムをあざ笑う者の方がいわゆる利口だと解釈されるのです。

私には、むしろ、オウムの方法以外に、山火事を消し去る手段はないと思うのです。

*     *  *

AO入試

数年前沖縄大学のAO入試の面接を担当して、印象的だったことがありました。

受験生の女性に、私の質問: 「世界で、あなたにしかできない、ということは何でしょう?」

彼女が答えに窮していたので、私: 「それでは、最近あなたが誰か人の役に立ったなぁと思えることが何かあれば、教えてください」

彼女は、自信を失って退学しかけていた同級生を毎日励まして、一緒に学校に登校し、その友人の卒業が決まったときの嬉しさについて、話してくれました。

私: 「それは、世界であなたにしか出来ないことでしたね」

彼女は目に涙を浮かべて面接を終えました。

私は、誰でもが、世界中でその人にしか絶対にできないことが必ずあると信じています。その役目を見つけることができた人は、幸福な人生を送る可能性が高いと思いますが、そのヒントは「人の役に立つことが、自分を最も活かす」ということではないかと思っています。

誰もが、自分は価値のある存在でありたいと望んでいると思うのですが、同時に、ほとんどの人が自分の無力さに絶望しているようにも見えます。「誰かの役に立っているとき、私たちは極めて特別な存在であり、その人に対して大きな価値を生み出し、かつ、クリエイティブである」という気づきは、私にとって重要な発見でした。

*     *  *

ヒトデ

私の友人がメキシコを訪れた時の話です。

夕暮れ時、人影のとだえた海岸を歩いていると、遠くの方に誰かがたっているのに気づきました。近づいてみると、メキシコ人の男性が何かを拾っては、海に投げ入れているのです。さらに近づくと、それはヒトデでした。男性は、引き潮で波打ち際に取り残されてしまったヒトデを、一つ一つ拾い上げて海に投げ入れていたのです。どうしてそんなことをしているのだろうと不思議に思った友人は、男性に話しかけました。

「こんばんは。さきほどから気になっているのですが、何をしているかお聞きしてもいいですか?」

「ヒトデを海に帰しているのです。見てください、たくさんのヒトデが波で打ち上げられて、砂浜に残されてしまっているでしょう。私がこうやって海に投げてあげなかったら、このまま干からびて死んでしまうでしょう」

「それは、もっともな話ですが、この海岸だけでも何千というヒトデが打ち上げられているんじゃないでしょうか。それを全部拾って海にかえしてあげるなんてどう考えても無理な話でしょう?それに、世界中には似たような海岸が何百もあります。あなたの気持ちはわかりますが、ここでわずかな命を救っても、それが何の足しになるのでしょう?」
Can’t you see that you can’t possibly make a difference?”

これを聞いた男性は白い歯を見せてニッと笑うと、友人の言葉などおかまいなしに、またヒトデを拾い上げ、海に投げ入れました。

「いま海に帰っていったヒトデにとっては、相当な足しになっていると思うよ」
“made a difference to THAT one!”

そう言うと、また一つヒトデを拾い上げ、海に向かって投げ入れたのでした。

ジャック・キャンフィールド、マーク・V・ハンセン編著『こころのチキンスープ』より

*     *  *

わたしたちのしていることは、
大海の一滴にすぎないですが、
もしこれをするのをやめれば
大海は一滴分小さくなるでしょう

マザー・テレサ

【樋口耕太郎】

なぞなぞをひとつ。

ある島には、常に真実を語る修行僧と、常に噓をつく詐欺師しかいない。あなたは重要な分岐点に立っており、一方は成功へ、一方は破綻へとつながっている。 そこにふたりの男が現れた。一方は修行僧、もう一方は詐欺師だが、どちらがどちらかは分らない。どちらの道を選択するべきか、あなたは一回だけ質問ができる。あなたは何と問うだろう?

実は、私たちの人生は、まさにこのような状況そのものだ。私たちが直面する様々な問題を解決するためには、真実と噓を見分けなければならないのだが、その難しさは、

①「真実を生きる人」と「噓を生きる人」が社会に混在していて、両者はほとんど見分けがつかないこと
②噓はあらゆる方法によって隠されていること
③しばしば、噓をついている本人が自分の噓を忘れていること
④したがって、単に噓を明らかにすると、大きなトラブルになり得ること

という現状にある。

これは、クレタ人のパラドックス、または、エピメニデスのパラドックスと呼ばれてよく知られている。クレタ島出身の哲学者クノッソスのエピメニデス(紀元前600年ごろ)は、次のような金言を残した。

「クレタ人はみなうそつきである」

この文は真だろうか。偽だろうか。

仮に、エピメニデスが言うように、「クレタ人はみな噓つきである」とすると、この言葉を発したエピメニデス自身もクレタ人であるため、「クレタ人はみな噓つきである」という彼の言葉そのものが噓になる。つまり、クレタ人は正直だということになり、論理が破綻するのだ。

さて、「クレタ人はみなうそつきである」と発言をしたのは、常に真実を語る修行僧だろうか?それとも、常に噓をつく詐欺師だろうか?そもそもこの人物はクレタ人だろうか?それとも、外国人だろうか?この人物が、あなたの従業員だったら、友人だったら、上司だったら、配偶者だったら、あなたはどのように接するだろう?そして、どのようにして人間関係の真実にたどり着くだろう?

このクレタ人のパラドックには、いくつかの回答パターンが存在するが、私の答は、そもそもこの人物が嘘つきかどうかということを見極めることをやめて、まず、「あなたが一番したいことは何ですか?」と聞くことにしている。そして、その人の望むことを、自分のできる範囲で、そして、ここがミソなのだが、できる限りの力で、全力で、サポートするのだ。

常に真実を語る修行僧だった場合、私は彼の夢の実現に、リアルに手助けができる。そして、常に噓をつく詐欺師だった場合、その人物が「望む」と口で言ったこと、しかし、本心からはまったく望まないことを、猛烈なパワーで手助けすることになる。結局、相手がどんな人物であれ、同じように接することが答えだと言うのが私の考えだ。

【樋口耕太郎】

2月27日は私の50歳の誕生日でした。人生の節目の誕生日にメッセージを下さった方々に、「生まれてくる」ということについて、私からお返しのメッセージを差し上げたいと思います。私たちは誰でも、愛の天才として生を受けます。誰の誕生日であっても、そのことをお祝いする日ではないかと思うのです。 ほんとうにありがとうございました。

*   *   *

私に子供が生まれたとき、なぜこれほど子供に愛情を感じるのか、とても不思議に思った。いろんな人に聞いてみたが、納得できる答えは得られなかった。その理由を7年間考え続けて、自分なりの答えが見つかった。

確かに自分は子供を愛しているのだけれど、それは、そもそも、「子供が親を無償に愛しているからなのだ」、というのがそのときの結論だ。

子供は、親がダメ社員でも、失業中でも、嘘つきでも、犯罪者でも、それどころか、自分が虐待されていても、親をかばい、思いやり、無心で愛する存在である。私たちが一生の間、これほどの愛情を受けることは、実の親からも、配偶者からも、その他の誰からも、殆どあり得ないことだろう。・・・親の愛は決して無償ではない。一般的な子供にとって、愛が条件付であると学ぶのは、自分の親からである。

この世に生を受けたほとんどすべての人にとって、人生でもっとも大切なものは、自分に向けられる無償の愛だとすると、その無償の愛を経験することができるのは、生まれてから3歳くらいまでの期間、子供からの愛のみではないか。私たちの一生で、無償の愛を受ける機会は、この時しかないのである。

子供のために自分の命を投げ出すことができる親は少なくないが、親が子供のために命を賭けるのは、自分が子供を愛しているからというよりも、それ以上に愛されているから、ということはないだろうか?人が本当に大切なもののために命を賭けるのは、太古の歴史から何度も繰り返されてきた一般的な現象である。 自分にとって人生で最も大切な、無償の愛のためであれば、命を引き換えにするのは当然だろう。一方で、子供が親のために命を賭ける話はそれほど聞かない。 それは、やはり、子供の愛が親の愛を遥かに上回っているということではないだろうか?

私は、人は誰でも、生まれてからの3年間で、一生分の親孝行を終了しているのだと思う。人の親にとって、後にも先にも得ることができない究極の愛を、3年以上もの長期間、絶え間なく、惜しみなく注いだのだから。

子供は親に恩返しをするべきだという考え方が一般的かも知れないが、私は、親こそが一生かけて子供に恩返しをするべきではないかと思う。

夫婦の間に愛がなくなっても、子供のために仮面夫婦を続ける親は少なくない。離婚の際に子供を取り合って、血みどろの争いになることもある。両親はそれぞれ、自分こそが子供を養育するのに相応しいと考えるが、現実は、子供の愛を取り合っているに過ぎない。愛しているのは子供であって、親は子供からの無償の愛に執着しているのだ。

このように考えるようになってから、私は、世界がまったく違って見えるような気がした。

世の中には、親不孝な子供だと、自分を責め続けている人は少なくない。自分らしく、一人の人生を歩みながらも、親に対して冷たい自分に苦しんでいる人がいる。反対に、親に対する義務感でがんじがらめになって自分を見失いかけている人もいる。

自分の子供に心からの愛情を感じることができなくて、深く傷ついている親も多くいる。十分な手助けが得られない現代社会で子育てに奮闘する中、愛しているはずの子供に対して、ときには強い怒りを感じ、そんな自分を責めている親もいる。自分が愛情の薄い親だと悩んでいる人が、誰にも相談できずに苦しんでいる。離婚に際して、子供を捨てた親だという社会からのレッテルに深く傷ついている人もいる。

でも、人は誰でも、愛の天才として生まれてきているのだ。すべての人は、この世に生を受けてから3歳までの間に、一生分の親孝行を終了している。親を愛せなくても自分を責める必要はないし、親も子供を愛せないからと悩むことはない。そのように考えることができるのであれば、どれだけの人の心が救われるだ ろう。

年に一回の誕生日は、自分が愛の天才であることを思い返す日にしよう。それはきっと、誰かのためになるから。

【樋口耕太郎】

アメリカでは過去50年で結婚率が20%低下。4割は、結婚制度が社会的な機能を失いつつあると考え始めている。

この傾向は特に低収入層に顕著で、過去のパターン(高収入・高学歴ほど結婚しにくい)と逆転している。現在、30歳までに結婚する確率は、大学卒の方が高くなっている。

・・・味気ない言い方だが、男性の収入が減少していることが原因だろう。あくまで一般論だが、女性は収入優先。男性は容姿・服従優先。どちらにとっても人 間性は二の次のように見える。超・資本主義が進み、男性の収入が減って、女性の要求を満たすことができなくなれば、婚姻率が減少するのは当然だ。

仮に、男性の収入減が婚姻率低下の原因ならば、結婚という制度はお金が介在しなければ成り立たないのだ。そんな機能はなくなっても構わないと思う。

そもそも婚姻制度は愛とは無関係だ。皮肉な言い回しで恐縮だが、私が知る限り、結婚で不幸になっている人は五万といるが、離婚して後悔している人はあまり 見たことがない。できの悪い冗談のようだが、結婚の90%は過ちで、離婚の100%は正しい。それは結婚の多くが、愛を目的としていない関係になってし まっているからだろう。

逆に、本当に愛に生きるのなら、なぜ婚姻制度が必要なのだろう?結婚という仕組み自体が、男女という最も重要な人間関係から愛を奪っているということはないだろうか?

女性の悩みを聞いていると、いかに稼ぎの良い男性を見つけるか、という話になりがちだ。しかし、男性はこれを批判できるだろうか?対象が異なるだけで、こ れは男性の仕事に対する姿勢と瓜二つだからだ。男性も女性も、結局「お金」「安定」のために、本当に大事なものを二の次にして生きている。

結婚相手を探すとき、私たちはとかく相手の条件を検討する。そして、自分の状況と刷り合わせて妥協する。そろそろ子供を生みたいし、親がうるさいし、これ 以上良い人が現れそうにないし、待つのに疲れてしまったし、相手が好きだといってくれるし・・・ 自分の愛はいつも二番目だ。

世の中はとてもうまくできていて、この人「でも」いいか、と妥協すれば、相手からも必ずこの子「でも」いいか、と妥協される関係になる。そんな人間関係が継続するためには、お金か子供でもいなければ成り立たないのは当然だろう。

本当に深みがあり、継続する人間関係を求めるのならば、「相手の人生を、そして二人の人生をどれだけ豊かにできるだろうか。そして、そのために自分は何ができるだろうか」、と問うべきだろう。

結婚に限らず、人間関係の価値とは「1+1>2」が成り立つかどうか。それ以外に二人でいることの理由はないと思う。

【樋口耕太郎】 (2010年11月24日のツイッターより再掲)

友人から強く勧められてお正月休みに『インターステラー』を観た。ハリウッドのSFX娯楽映画の類いだろうと高をくくっていたのだが、予想は心地よく裏切られた。私の中ではこの10年間で最高の映画だったかも知れない。価値のある映画は、見かけとはまったく異なる意味を持っている。

料理の完成度は素材の質を超えることができない。映画も同様で、良い作品は良い脚本からしか生まれない。理論物理学者のキップ・ソーンが製作総指揮を務め、脚本家のジョナサン・ノーランは執筆のためにカリフォルニア工科大学で相対性理論などを学び、脚本完成までに実に4年間をかけた。

ソーンによると、「ワームホールやブラックホールを物理学的に正確に描いた映画は今までなかった」という。「本作品のワームホール、ブラックホールの描写は、アインシュタインの一般相対性理論に基づいて可能なかぎり正確に表現されている」のだそうだ。SFと言っても、Science Fictionではなく、Science Factと言えるかも知れない。

*   *   *

映画では「次元」の不思議な作用がひとつのカギになっている。舞台は、地球が人類の生存に適さなくなりつつある未来。新たな居住地(惑星)を探すため に、マシュー・マコノヒー、アン・ハサウェイらが演じる科学者、宇宙飛行士がワームホールを通って宇宙を探索する。ワームホールの入り口を土星近くに「用意」するなど、人類を助けようとする「何ものか」がいるのだが、この「何ものか」は、映画の後半になって、高次元に存在する自分自身であることが明らかになる。

「次元」とは科学の言葉だが、私たちの日常においても概念的にほぼ同じ使われ方をする。「次元の高い人」は「次元の低い人」の行動や意図をほとんどすべて理解するが、「次元の低い人」は「次元の高い人」の言葉をほとんど理解できないだけでなく、「次元の高い人」から受け取った「正しい」情報をまったく異なる(つまり誤った)解釈によって、誤った結論を導き出す。

「高い次元の人」が「低い次元の人」の役に立とうと思うとき(「高い次元の人」が「低い次元の人」を愛するとき)、「低い次元の人」が理解できる水準まで情報の質を落として、「低い次元の人」を導く必要がある。「低い次元の人」は「高い次元の人」に対して「なぜ真実を伝えてくれないのだ」と憤るが、「高い次元の人」が真実を語れない原因は「低い次元の人」が低い次元に留まっていることそのものにあり、さらに「高い次元の人」は「低い次元の人」にその事実を説明することができない。

一方で、「低い次元の人」は事実の認識、解釈、因果関係などの一切を文字通り低い次元でしか捉えることができない。どれだけ優れた思考を行っても、低い 次元に発想が制約されているかぎり、低い次元の回答しか得られない。そして「低い次元の人」の思考や判断は、低い次元を前提とする限りにおいて「正しい」 ため、「低い次元の人」は自分の判断の正しさにほとんど疑いを持たない。

すべての人は、自分が属する次元の中で「正しい」ことしかしていない。デール・カーネギーの名著『人を動かす』の中にこのような一節がある。

〈Quote〉

「おれは働き盛りの大半を、世のため人のためにつくしてきた。ところが、どうだ…おれの得たものは、冷たい世間の非難と、お尋ね者の烙印だけだ」と、嘆いたのは、かつて全米をふるえあがらせた暗黒街の王者アル・カポネである。

カポネほどの極悪人でも、自分では悪人だと思っていなかった。それどころか、自分は慈善家だと大真面目で考えていた。…世間は、彼の善行を誤解しているのだというのである。

シンシン刑務所長から、興味ある話を聞かされた。およそ受刑者で自分自身のことを悪人だと考えている者は、ほとんどいないそうだ。自分は一般の善良な市民と少しも変わらないと思っており、あくまでも自分の行為を正しいと信じている。

〈Unquote〉

つまり、私たちの人生における様々な問題、人間関係の苦しみのほとんどは、正に「次元」の問題なのだ。多くの人の人生が不幸なのは、社会が問題だらけなのは、「正しいこと」をしなかったからではない。低い次元で「正しいこと」をしたからだ。

マッキンゼーの創業者マービン・バウアーの名言「企業が躓くのは、正しい問いにまちがった答を出すからではなく、まちがった問いに正しく答えるからである」も同じ意味だ。

*   *   *

私たちの問題が問題である理由は、自分のいる「低い次元」で問題を解決しようとしているからだ。『インターステラー』では、私たちが存在する4次元世界 (地球)が生存に適さなくなる。この(4次元の)問題を解決しようと研究者や宇宙飛行士が4次元宇宙の中で回答を探そうとするのだが、なかなかうまく行かない。最終的にその解を見いだすのは、マシュー・マコノヒー扮する宇宙飛行士クーパーがブラックホールの中?の5次元から4次元を見たときだ。

その瞬間5次元に存在するクーパーは、驚くことに、4次元世界に存在する人類にとって、あたかも神として機能することになる。5次元からは4次元世界が破綻する理由が良く分かるからだ。4次元世界の時空間に制約を受けないため、この瞬間の小さな判断が、将来どのような出来事を引き起こすのかが同時に理解できる。複雑に絡みあったものごとの因果関係や、数多くの問題を引き起こしている原因の原因の原因、すなわち根本原因も。

結局人類を絶滅から救ったのは、5次元から4次元世界を見たクーパー自身だ。私たちにとっての神は、高次元に存在する私たち自身なのかも知れない。スピリチュアリティの概念では私たちは一人一人が神だと言う。私たちの心の中(の高い次元)に神が宿っていると言う考え方は、先端物理学とも符合するのだ。

*   *   *

さて、私たちの社会には問題が山積みで、それらの問題の大きさに、私たち自身が押し潰れされそうになっている。これを政治、経済、行政、経営など様々な手段で解決しようと試みているのだが、それらのすべては4次元における対症療法でしかないように感じるのは私だけだろうか。

私たちは目の前の問題の大きさに圧倒されながら、その解決方法を提供してくれそうなモノ、人、出来事、教えなどに期待する。この政治家だったら、この発明だったら、この政変だったら・・・。しかしながら、4次元にいる誰に頼んでも、はじめからそこに答えなど存在しないのだ。

沖縄の基地がすべて帰ってきたら私たちの社会は正常化するだろうか?沖縄の経済発展が天に届いたらどうだろう?失業率がゼロになったら?保守政権だったら?革新政権だったら?4次元世界ではそれぞれの「正義」が、対峙する「不正義」からパイの取り合いを続けている。

私たちが何よりも優先して取り組むべきことは、いかに5次元でものごとを捉え、思考し、発想し、行動するかということであって、目の前の「問題」解決(対症療法)に時間と労力を費やすことではない、5次元では「問題」そのものが再定義されるからだ。「正義」を貫くことでもない、正義の反対は悪ではなく、もうひとつの正義に過ぎないからだ。目の前の「敵」と戦うことでもない。4次元における「敵」は5次元における全体世界を構成する要素に過ぎないからだ。

*   *   *

そこで、最大の問題に突き当たることになる。4次元で思考する私たちが、いかにして5次元に進むことができるのかということだ。5次元の視点を持つことで4次元世界の(ほとんどすべての)問題が解決できるとしても、4次元に生きる人間が5次元世界を理解できない以上、絵に描いた餅ではないか、と。

私たちの思考は4次元に制約されている。5次元世界の出来事は、4次元世界の非常識であり、まったくつじつまが合わないように見え、どれだけ4次元の論理を積み重ねても、決して5次元に辿り着くことはできない・・・。

その中で、たった一つ、4次元の制約を超えて、私たちを5次元に導く「コンパス」がある。そして、それはすべての人に生まれながらに備わっている。愛である。

ブランド博士(アン・ハサウェイ)、クーパー(マシュー・マコノヒー)、ロミリー(デビッド・ジャーシー)が、宇宙船エンデュランスの中で、人類の新たな居住地にもっとも適していると思われる候補地(惑星)を選別するシーンがある。

人類が選抜隊として送った2人の科学者たちが、それぞれ辿り着いた惑星からデータをエンデュランスに送信してきている。マン博士の氷の惑星、エドマンズ博士の砂漠の惑星だ。送られてきたデータを解析すると、エドマンズ博士の砂漠の惑星の方が移住に適しているように思えるが、既にエドマンズ博士が生きているという証拠はない。マン博士の氷の惑星は、データ上不適合に思えるのだが、マン博士は生きていてこの惑星が適当だという情報を送っている。

その状態で、エドマンズ博士の恋人でもあるブランド博士(アン・ハサウェイ)は、砂漠の惑星に進路を取ることを強く進める。マン博士の氷の惑星はブラックホールに近すぎて、生物の進化が生じない可能性が強いというのが根拠だ。これに対して、ブランド博士がエドマンズ博士の恋人であることから、彼女の科学者としての判断が偏っているのではないかとクーパーが指摘する。これに対する彼女の台詞に『インターステラー』最大のメッセージが表現されていると思う。

COOPER
She’s in love with Wolf Edmunds.

ROMILLY
(to Brand) Is that true?

BRAND
Yes. And that makes me want to follow my heart. But maybe we’ve spent too long trying to figure all this with theory -

COOPER
You’re a scientist, Brand -

BRAND
I am. So listen to me when I tell you that love isn’t something we invented - it’s observable, powerful. Why shouldn’t it mean something?

COOPER
It means social utility - child rearing, social bonding -

BRAND
We love people who’ve died … where’s the social utility in that? Maybe it means more - something we can’t understand, yet. Maybe it’s some evidence, some artifact of higher dimensions that we can’t consciously perceive. I’m drawn across the universe to someone I haven’t seen for a decade, who I know is probably dead. Love is the one thing we’re capable of perceiving that transcends dimensions of time and space. Maybe we should trust that, even if we can’t yet understand it.

(Brand looks at Romilly, who can’t meet her eye.)

BRAND
Cooper, yes - the tiniest possibility of seeing Wolf again excites me. But that doesn’t mean I’m wrong.

「・・・科学者だからこそこう考えるべきなの。愛は私たちが作り出したものではないのに、現実に存在していて、パワーに満ちている。それには何か意味があるに違いないわ。私たちがまだそのしくみを理解できず、きちんと認識していないだけであって、より高次の存在から送られてきているメッセージかも知れな い」

「現に私は、もう10年も会っていない人、そして恐らく既に死んでいるであろう人の方向へ、宇宙を超えて引き寄せられている。愛は、次元を超えて、時空間を超越して私たちが知覚できる唯一のものだから」

「その意味を理解できないとしても、そのインスピレーションを信じるベきではないのかしら」

「クーパー、 確かにエドマンズにもう一度会えるかも知れないという小さな期待は、私の心を動かすわ。だからといって、私の判断が間違っているとは限らないの」

物語の後半、氷の惑星のマン博士は、孤独のあまり噓の情報を送信していたことが明らかになる。結果として、ブランド博士が愛によって感じたインスピレーションは人類にとってもっとも正確な情報だったのだ。

*   *   *

最もパーソナルな愛が人類全体を救うというパラドックスは、私たちの社会にもそのまま当てはまる。そして、私たちの4次元社会はその反対の現象に溢れている。「家族のため」に働きながら自分の妻や子どもの話に心から耳を傾けない父親、人間が嫌いな環境主義者、人間関係をないがしろにして社会のために働く政治家、毎日の食事を味わうことのない料理人、「敵」に思いやりを示すことを後回しにして平和のために戦う人・・・。

私たちは4次元を超えた因果関係や真実を、4次元の論理で説明することはできない。4次元の問題を真に解決する唯一の方法が5次元の認識だとして、私たちがその認識に辿り着くためには、次元を超えて、時空を超えるインスピレーションに導かれなくてはならない。それが愛である。私たちが、目の前の人間関係のすべての接点において、社会におけるあらゆる選択において、愛を選ぶこと以外に、「いま、愛なら何をするだろうか?」と問いながら生きる以外に、4次元の問題を解決する方法は存在しないのだ。

私たちは本当に長らく、社会運営を、「論理」や「利害」や「力関係」や「怖れ」というものさしに任せてきた。その結果がこの社会だ。人を採用する時、政治家に一票を入れる 時、商品を開発する時、値段を決める時、同僚とお酒を飲む時、出張を決める時、ツイッターにつぶやく時、基地問題を語る時、車を運転する時、食事を作る時、愛をものさしにするのはどうだろう。5次元に存在する私たち自身が、この歪みすぎた社会を正常化するための正しい答えを用意しているのかも知れないからだ。

【2015.1.11 樋口耕太郎】

愛ではないもの

1.あなたの外側にあるすべてのもの。
2.あなたが必要とするすべてのもの。
3.あなたが捨てられないすべてのもの。
4.あなたが獲得しようとしているすべてのもの。
5.あなたがオープンにできないすべてのもの。
6.あなたが維持したいと思うすべてのもの。
7.あなたが独占したいと思うすべてのもの。
8.あなたが誰かを犠牲にするすべてのこと。

【樋口耕太郎】

私は、愛とは何かは良く分からないのですが、愛でないものなら分かります。例えば、それが愛であるならば、それは必ず「いま」にあるもので、過去や未来のどこかにあるものは、愛ではありません。私たちに与えられた時間は、「いま」のみで、過去はもう既に存在しませんし、未来を生きることは永遠に不可能です。 つまり、誰かを愛することができる唯一の瞬間は、「いま」しかありません。誰であっても、「明日」人を愛することはできないのですから。したがって、い ま、この瞬間を生きていなければ、愛に生きることは不可能だと思うのです。

人を愛するのであれば、明日人を幸せにするということに意味はありません。明日人を幸せにするために、いま、何をしているかが、愛ということの意味ではないでしょうか。

【樋口耕太郎】

いつもこのことを言うと、私の頭がおかしいと思われる可能性を考えざるを得ないのですが、私は、ほぼ毎日、午後8時半ころから午前2時前後まで、那覇市松山の麗王(れお)というお店におります。このお店は、沖縄県内外の知識人が集まるお店として、知る人ぞ知る有名店です。カラオケもなく、女の子もおりませんので、基本的に会話だけで成り立っている場所です。おまけに私は8年前にお酒を止めてしまいましたので、このお店ではいわゆる 「キープ料金」相当を毎回お支払いして、お茶を頂いています。私はこのお店の経営者でも資本家でもありませんので、純粋な(とはいえ、いつも居るちょっと変わった、あるいは不思議な)お客として毎晩平均4・5時間を過ごしています。

麗王には毎日平均すると7名のお客様がいらっしゃいますが、年間営業日が300日として延べ2100名。私はもう8年以上これを続けていますので、延べ 1.6万人以上の方々のお話をお聞きし、会話してきたことになります。もちろん、多くのお客様は私と会話をするためにいらっしゃる訳ではないので、私が主としてお話をするよりも、聞くことの方が多くなります。恐らく昨年か今年あたりで、麗王で過ごした時間が1万時間を超えたと思います。

どう考えても、あり得ないこの行動を、これほど長い間続けているのは、私にとって、重要ないくつかの理由があります。沖縄人(うちなーんちゅ)同士であれば、「子供の頃からの40年来の知り合い」というような繋がりが一般的な社会の中で、まったく地縁も血縁もない異物(私)が、利害なく沖縄社会と意味ある深さで接点を持とうと思えば、実際のところ他にそれほど選択肢はありません。

沖縄はほんとうに狭い社会で、誰かは必ず誰かの知り合いで、まったく知らない誰かの評判や人となりも、何人かと会話するだけでほぼ確実に把握することができるイメージです。目の前の人がどれほど「とるに足らない」人物に思えても、その人がどのような人間関係を持っているか、そして、それがどれほどの広がりを持つのかは、計り知ることができません。つまり、沖縄においては(恐らく本質的にはどの社会でも同様だとは思いますが)、ただの一人も、ないがしろにできる人は存在しないと考えるべきなのだと思います。すべての人間関係の接点は、自分自身の沖縄における「意味」を決定する瞬間であり、決して無駄にすることはできないという、厳しさがあります。

私たちの人生を振り返ると、事実上殆どすべての出来事は、人間関係からもたらされていることに気がつきます。現在の私の日常において、麗王での「人間関係」がもっとも広範囲かつ深いため、結果として、私が9年前、沖縄に人生のホームグラウンドを完全に移して以来の多くの変化や出来事は、特に重要なものほど麗王での人間関係によって「仲介」されているものが相当な数に上ります。例えば、ここでは詳細な経緯は省きますが、麗王との接点がなければ、私がサンマリーナで愛の経営を実践することはありませんでしたし、その後事業再生を専業とするトリニティ株式会社を創業することも、次世代金融講座を開講すること も、次世代社会の具体的な青写真を描くことも、有機野菜の生産と流通に深く関わることも、沖縄大学で教鞭をとることもありませんでした。

麗王(のような場所)がパワフルなのは、そのような数々の、私にとって重要な出来事に恵まれた際、それがどのような人との繋がりによってもたらされたか、その過程で、私がどのようにそれぞれの方々と接してきたか、どのような会話をしてきたか、そしてそれぞれのお互いの反応や、心の動きはどのようなものであったかを、詳細に、それも何年も遡って辿ることができるのです。例えば、沖縄大学で職を得るきっかけとなったAさんは、Bさんの友人で、BさんはCくんと付き合っており、Cくんとの一連の会話や付き合いがなければ、そのご縁の一切は生じていませんし、Cくんと関係が深まることになったきっかけはDくんの 存在なくしてはありえませんでしたし、その関係を前に進めたきっかけは、ある晩のこころを開いた深い会話でした・・・。

このように人間関係と出来事を時間とは逆に辿ることによって、普段は余り意味がないと感じられるような些細な発言や、無意識の決断や、心の微妙な動きや、自分が苦手とする人たちとの接点が、巡り巡っていかに大きく重要な結果をもたらしているかを強く実感することができるのです。

その結果はほんとうに驚くべきものです。例えば、自分にとって意味ある出来事は、それをもたらした一連の人間関係の中で、100%の確率で、自分が苦手と考える人との深い接点や、手痛い裏切りや、利用されるという経験を、それも数多く介していることがわかったのです。つまり、苦手な人を遠ざけるのではなく、できるかぎり愛情で接し続けること、例えその人に裏切られても、何度でも赦し、自分の役割を果たし続けること、彼らが奪って行ったものに執着しないこと・・・などなどの経験のどれひとつが欠けても、最終的に価値のある出来事はもたらされることはなかったのです。そして、それらの長い長い過程を辿りながら、一言一言を思い出しながら、やはり、無駄な言葉ややり取りや人間関係の接点など、ひとつもなかったのだと強く心に刻むことができるのです。

私たちの毎日は何気なく過ぎているように感じられるのですが、それは違います。それぞれの瞬間に、将来もたらされる重大な出来事の種を大量に撒き続けているのだと思うのです。

麗王(れお): 那覇市松山2-11-16 (2019年より、営業時間午後8時30分〜午前2時、営業日:水曜・木曜・金曜・土曜)

【樋口耕太郎】

27日の誕生日に、フランス人、ティエリー・デデュー作の絵本『ヤクーバとライオン』を読んだ。

*   *   *   *   *   *

舞台はアフリカ奥地の村。この村の男子が成人するための通過儀礼は、槍と盾だけでライオンと戦うこと。ライオンを倒して帰ることで一人前の名誉ある戦士として認められるのだ。

成人の祭りの日、ヤクーバも野に向かい、一頭のライオンと出会う。ところが、そのライオンは伏したまま、立ち上がろうともせず、ヤクーバに目で語りかけてくる。

「見てのとおり、わしは傷ついている。夜通し手強い相手と戦って、力も尽き果てた。お前がわしをしとめるのは、たやすいことだろう。」

「お前には、二つの道がある。わしを殺せば、立派な男になったといわれるだろう。それはほんとうの名誉なのか。 もうひとつの道は、殺さないことだ。 そうすれば、お前はほんとうに気高い心を持った人間になれる。 だが、そのときは、仲間はずれにされるだろう。 どちらの道を選ぶか、それはお前が考えることだ。」

ヤクーバは立ちすくみ、夜通し悩み考え、ついに夜明けが近づいたとき、ライオンをそのまま残して村に帰る。

ヤクーバが手ぶらで戻ってきた瞬間から、村には冷たい空気が流れた。村人から蔑まれたヤクーバは、勇士たちの戦列からはずされ、牛たちの世話係を命じられる。

絵本の最後のページは、ヤクーバの寂しそうな表情と、印象的な言葉で締めくくられている。

「たぶん、そのことがあったからだろう。村の牛たちは、二度とライオンに襲われることはなかった。」

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私たちの社会は、どれだけライオンをしとめたかで、その人の成果や収入や人格まで評価されると言ってよい。その過程で、傷ついたライオンを、殆ど何の勇気や努力も要せずにしとめたとしても、社会は私たちを「勇者」として受け入れる。実際にライオンをしとめるだけの力があろうとなかろうと、社会は殆ど関知し ない。

しかしながら、力尽き果てたライオンにとどめを刺すだけの行為が、その栄誉に値しないことは明らかだ。その事実は、多くの場合、誰にも知られることはないが、自分だけはその嘘を知っている。

一方で社会から受け入れらないということは、殆どの人にとって最大の恐怖のひとつだ。その怖れから逃れるためであれば、命を懸けて猛獣と戦うことを厭わないほどのものなのだ。明らかに、人は、猛獣と戦う恐ろしさよりも、人から蔑まれる恐怖を強く感じている。

ヤクーバとライオンの物語は、真の勇気とは何かを私たちに突きつける。もっとも恐ろしいものに立ち向かう心、自分を偽らない心、人の目よりも自分の目に正直であり続ける心。殺さない勇気。自分の名誉のために、社会の名誉を捨てる勇気。

歳をひとつ取る、ということの意味は、真の勇気に一歩近づくものでなければならないと思う。自分はそんな一年を送っただろうか、今日はそんな一日だっただろうか、明日はもう一歩先に行くことができるだろうか。このことを、ひとときも、忘れない心を持ち続けられますように。その心を持って、すべてのひとに、 どの瞬間も、接することができますように。

【樋口耕太郎】

心がこわれるほど苦しくて
やさしい言葉をかけてくれる人
さがしたけれど
どこにもいない。
ふと思う 
さがすような人間やめて
やさしい言葉をかけられる
そんな人間になりたい

八街少年院生活詩集より。
(薬師寺執事の大谷徹奘著「『愛情説法』走る!」)

*     *     *     *     *

多くの人と接するほど、深く関わるほど、自分が苦手だと思う人に正面から向き合うほど、心から実感すことがある。

・・・それがどれほど非道い振る舞いに見えても、どれだけ自分を傷つけてくるような人であっても、怒りを覚えるようなずるい生き方であっても、すべての人は例外なく、どの瞬間も、愛情を求めて生きていると思う。

好きの反対は嫌いではなく、無関心だと言われる。なぜ、心を尽くした思いやりに対して、これほど酷い仕打ちをするのかと、恨みたくなる気持ちは山ほど経験したが、あるとき、ふと、そんなすべての人たちは、人間的な関わりを心から欲している、と思えたのだ。

私たちは、誰でも、愛情という名のハリネズミだ。人と接して、人を愛して、人に認められたい。しかし、人間としての不器用さが、自分に近づく人を傷つけてしまう。自分が関心を持つ人を怒らせてしまう。自分が愛する人を遠ざけてしまう。

周囲を見渡しても、みんなハリネズミ。なんて冷たい社会なのだと恨みたくなる。そんな中、時おり、ハリを持たない愛情ネズミを見つけると、近寄っていって抱きしめるつもりが、相手をいじめてしまう、裏切ってしまう。相手が傷つきいて遠ざかると、やはり、人は自分から離れていくのだと絶望する。

だから、「やさしさを探す」生き方をすれば、人生が辛くなるのは、実は当然なのだ。他人に「やさしさを探しても」社会はハリネズミばかり。運良く本当にやさしい人と出会うことができても、そのやさしさをつかもうとすれば、自分のハリで傷つけてしまう。

また多くの場合、私たちは、自分に最も思いやりで接してくれている人に、ほとんど気がつかないでいる。このため、自分にとって最も大事な人物を、最も傷つけている自分にも気がつかない。知らぬ間に、意識もせずに、思いやりで接してくれる人物を遠ざけ、気がつくと、お互い相手に踏み込まないハリネズミ仲間と薄い人間関係を持続するようになる。

私たちの誰もが心から望んでいる愛を掴むためには、「やさしさを探す」のではなく、やさしさを人に与え、贈与的に生きる以外に方法はない。「ハリネズミの法則」による必然である。

あなたが、自分のハリを放棄して、愛情本位で生きると、愛情に飢えた多くのハリネズミが、あなたの魅力に惹き付けられてやってくる。多くの人にとって、実は、これはとても恐ろしく感じられることだ。あなたはガードのないボクサーのように、さんざん殴られ、傷つけられることになる。

自分が傷つけられるたびに、自分の生き方に疑問を持ったり、人の心を疑ったり、無力感を味わったりすることになるだろう。

しかしながら、この場合、あなたが傷つけられているのは、あなたが憎まれているからではない。あなたのもつ愛の魅力ゆえである。そして、恐らくより重要なことは、ハリネズミがあなたを傷つけるのは、ハリの奥に隠された愛が、あなたの愛を見つけるからだ。

あなたが苦手な人の心の奥に愛を見よう。むずかしいことかもしれないが、それでもきっと、あなたを傷つける人の心の底に愛が見える筈だ。あなたがその愛を見つめれば、ハリネズミははじめて自分の本当の目的に気がつくのだ。自分は人を傷つけようとしていたのではなく、愛そうとしていただけなのだ、と。

ハリネズミは、本当は、人を傷つけたくなどないのだ。彼のほんとうの目的は、人を愛することなのだから。

【樋口耕太郎】

Smoking Kid (Thai Health Promotion Foundation)|このCMで、子供は自分を映し出す鏡になっている。自分の姿を見て、はっとさせられる瞬間。若者たちがメモを読んだ後に、顔色が変わる姿が印象的だ。

このCMは、単に禁煙キャンペーンとして意味があるだけではない。我々の人生において、最も重要なことの一つが、「鏡を見る」ということ、「自分に向き合う」ということだからだ。

我々の社会では、ものごとに妥協して生きることが当たり前になっている。相手を責めなければ、自分も責められることがないだろうから、人間関係は曖昧なほど心地よい。

自分も含め、付き合う相手がグレーであっても、周りがグレーなら、みんな白でいられる。みんないい人、自分もいい人。「甘さ」は「優しさ」にすり替えられるし、「逃げ」も「自分探し」、「やりたくない」ことも「検討中」ということで丸く収まる。

努力をしたくなくても、いい人でいさえすれば、やんわりと善意を装っていれば、社会が何となく助けてくれる。加害者にならなければ、被害者でいさえすれば、誰かが同情してくれる。すべてが曖昧。持続性はないが、刹那的だが、その瞬間、何となくバランスは取れている。

そんなグレーの中に、一点の白が生じると、社会は大いに衝撃を受け、大混乱を来すのだ。たった一点の白のせいで、自分たちが、社会全体が、急に薄汚れたも のに見えるからだ。その原因は、もともと自分が薄汚れているからに他ならないのだが、殆どの人は、その「白」が原因だと思う。

余りに理想論に聞こえるその姿は、社会の現実からかけ離れているため、始めは無視していれば良い。しかし、白は白であるだけで力を持つのだ。真実の力は弱まることがない。だんだんと無視できなくなると、社会は白を嘲笑しはじめる。それでも、力をつけてくると、本気で潰そうと挑んでくる。

グレーの群れは、白を見て、心から怒りを感じて激高する。自分たちの社会の破壊者に見えるからだ。そして、それは、ある意味正しいのだ。しかし、グレーの人たちが目にし、憎しみを抱くものは、白の姿ではなく、白い鏡に映った自分の(薄汚れた)姿そのものだ。

この曖昧な社会において、純粋であり続けるものは何でも、社会に対する強烈な鏡として機能する。先のCMで、子供にはっとさせられるのは、子供という純粋な鏡に映し出された、自分の薄汚れた姿を見せられるからだ。

相手が子供だから、社会的に、純粋だという認識が一般的な対象だから、はっとする。しかし、これが、大人だったらどうだろう。はっとするよりも、激しい怒りが先にくるのではないだろうか。逆切れして殴りつけることだってあるかもしれない。

我々がこの社会で純粋に生きるということの意味は、このような怒りを引き受けることを意味する。そして、純粋に生きるということの、それだけの怒りを引き受けるということの、最大の理由は、まさにその怒りを発しているその人の人を癒し、社会を、少しでも豊かにするためなのだ。

【樋口耕太郎】

ジョン・グレイ博士のベストセラー「男性は火星から、女性は金星からやって来た」のタイトルに象徴されるほど、男女には明らかな相違が存在する。いや、「明らかな相違」というのは、余りに控えめな表現かもしれない。生物としての種が完全に異なるかと思える相違が存在する、と考えるのがちょうどいいくらいだ。

私が随分以前から不思議に感じていることなのだが、男女間の驚くべき相違点の数々にも関わらず、一般的な経営の現場では、この相違がほぼ存在しないものとして運営されているのだ。それどころか、男女雇用機会均等法に象徴される、一般社会「常識」に基づくと、男女の生理や性質の相違に言及することや、男女の特筆が異なるという前提で数々の議論を行うことが、むしろタブー視されている。

「女性を活かす社会」というフレーズで喧伝された時期もあったが、これも所詮「(男性が)女性を活かす」という意味合いで使われていたに過ぎない。つまり、一つの(男性的な)価値観の枠組みを前提として、多様性を認める(フリをする)、ということだったろう。つまり、「男女差別をなくそう」、という価値観の裏返しには、「皆男性になろう」という世界観が存在したのではないか?それが言い過ぎだったとしても、「差別をなくそう」という議論は、「みんなに違いは存在しない」、「みんな同じになろう」、という議論に矮小化されているとは言えないだろうか?

さて、私はここでは、差別の議論ではなく、純粋に社会機能の議論として考えたい。・・・男女に(機能の)相違が存在するということは、目的ごとに、機能が劣る性と優れた性が存在するということを認めざるを得ないのだが、社会は(というよりも男性が)それを許さない。

男性、女性、それぞれ得意なところも、苦手なところも存在する。たとえば男性は、直感力に乏しいために(特に重要な)物事の判断が非効率で、我が侭かつ自己中心的で、人の話を聞くことよりも自分の話を聞かせることに関心が強く、一方で打たれ弱く、脆弱で、ひがみやすい。人の関心ごとに注意を払うことよりも、他人を(もっと言えば、自分以外のすべてを)自分の思う通りにコントロールすることを重要視するために、自分の思い通りに行かないことに対して、攻撃的になりがちだ。一般に、論理的な思考は、直感力に比べて著しく非効率である(と私は思うのだが)ため、論理的に物事を捉え続けなければ不安になる男性は、社会全体をどんどん非効率な方向に追いやっているように見える。

一方で、女性は直感力(すなわち判断力)に優れているにも拘らず、その機能を論理的な言語に翻訳する機能を持たないために、その判断の正しさを左脳優先の男性的な社会で(言語的に)証明することができない。「論理的に説明されないものは劣る」「目に見えないものを認めることは非合理である」と解釈する男性には、その直感力の正しさが理解できない。自分が理解できないものを認めることに対する恐れも存在する。

私は、世の中をこれほど悪くしているのは男性(的なもの)だと思うが、これは、男性が悪人だからというよりも、男性的なものの機能的必然だと思う。・・・あくまで社会をよりよくするという目的に対する、機能の優劣の問題なのだ。言葉を変えると、非直感的かつ非効率で、我が侭で、自己中心的で、ストレスに対して脆弱な男性という「機能」 が、社会運営を主導することの必然的な帰結だと思う。・・・これを男女の権力闘争議論にすり替えることから混乱が生じている。

それでは、社会を女性に受け渡せば、うまく行くのだろうか?・・・確かに現在よりはましな社会になるような気もする。例えば世界中の元首が女性になれば、戦争は随分減るのではないか? ・・・しかし、恐らくそれだけでも、相当不十分なのだ。

もし神が存在するのであれば、男女という異なる二つの性を地上に生み出した理由は、絶対に悪意ではなく、善意に基づくものだと思う。対立ではなく、調和を学ぶための、最高の仕掛けだとしたらどうだろう?一方だけが社会を主導すると、バランスを崩すように始めからできているのだ。私は、男性はアクセル、女性はハンドルの機能を分担するときに最高の結果が生まれると思っている。ハンドルから見たら、確かにアクセルは直線的で、攻撃的で、子供っぽい。しかし、その機能がなければ、どれほど正確な判断も無価値である。アクセルからハンドルを見れば、パワー不足で、感覚的過ぎて実効性に欠ける。しかし、ハンドルを信頼せずに動力だけで前に進めば、必ず事故を起こす。・・・これが丁度、今の資本主義社会の姿だ。

とても興味深いパラドックスは、アクセルはハンドルの、ハンドルはアクセルの機能を心底理解することはできないということだろう。両者は互いに信頼することができるだけなのだ。アクセルはなぜハンドルがハンドルなのかということを理解し得ない。ハンドルをハンドルとして認めることしかできないのだ。したがって、理解できなければ信頼できない、という人間関係は非生産的であるだけでなく、協調よりも分裂を生み出し、社会全体を大きく非効率にするということになる。

「理解」とは自分の世界観の内部の作業であることに対して、「信頼」は自分の「理解」を超えるところに存在する。・・・神が男女の相違を通じて、私たちに届けようとしている贈り物は、相手を「理解」するよりも「信頼」するプロセスを通じて、「理解」し得ないものに対して心を預けるということの経験と学びと価値なのではないだろうか?

*  *  *

ところで、一般的な男性にとって、最も難しいことが「ハンドルを手放す」ということだ。もともとエゴの強い男性性は、人を信頼して舵取りを委ねることが、自分の力を弱くするように感じられるからである。特に資本主義社会は男性的で、人をコントロールし、自分以外のすべてを変えることで生産性をあげた人物が、社会的な力を集め、「成功者」と認識される社会だ。その社会で「成功」を収めて来た男性ほど、男女協調的な社会バランスを受け入れることが困難になる。

私が見る限り男性は、少なくとも長期的に見て(精神的に)本当に弱い存在で、調子の良いときはどこまでも舞い上がる一方で、くじけ易く、一旦心が折れるとそのまま人生を棒に振る人も少なくない。誰よりも人間的な支えを必要とする割に、エゴが強く、人間力に乏しいため、人からの注目や関心や愛情を得るためにには、権威や地位やお金が必要になる。

クラブやスナックという業態は、男性のこの特性を商業化したもので、女性のための夜の店が殆ど存在しないことは、この傾向を明確に物語っていると思う。お金を仲立ちとした、このような業態が、社会にあまりに広範囲に存在するのは、男性が本質的に女性の助けを(大いに)必要としているということの証だろう。

男性はこれほどまでに、女性の支えを必要としており、それは、男性ということそのものなのだ。後は、男性にとって、どのように女性の助けを借りるかというだけの問題であり、女性の助けなしに(男性的な)社会が存続することはあり得ないと言える。

男性にとって、女性に力を借りる方法は、基本的に二つしかない。エゴを捨てずに商業的に手に入れるか、エゴを捨てて、人間関係と信頼関係の中でそれを築くか。・・・もっともクラブ的なもの全てが商業的だとは限りらないし(極めて稀だが)、広い意味で商業的でない結婚の方が少ないくらいだ。クラブやスナック(そして意外に多くの結婚)は、「エゴを捨てずに女性的な支えを得たい」という男性のニーズを(短期的に)満たす業態と言えそうで、逆に考えると男性の人生におけるエゴの費用(コスト)は極めて高いと言える。

男性が自分の弱さを自覚し、女性の助けを必要としていることを認め、お金や力によってではなく、人間力と誠意によって女性の強力を求めるようになれば、世の中の問題の半分は解消するに違いない。

一方で、男性のエゴの強さと、子供っぽさに辟易とする女性は、「経済的な見返りでもなければ相手などしていられな い」と思えるかも知れない。正直なところ、社会の結婚率が長期的に低下傾向にある大きな理由は、男性の収入が長期的な低下傾向にあるためで、この「関係」を裏付るようにも見える。女性が打算的だというのは、確かにそういう傾向があるかもしれないが、それには、それだけの理由があるということか。

しかしながら、男性が子供であるということと、それによって自分の打算を正当化することとは本来別のものであるはずだ。確かに男性は、救い難いほど子供かも知れないが、その子供に対して「請求書」を送りつけることは、決して自分の幸福には繋がらない。女性が男性の「子供性」を、むしろ愛おしく受け止め、男性は自分の弱さを認めて、女性の支えを得るために、誠実に人間性を磨く努力をする。・・・そんな男女の人間関係がどれだけの生産性を生み出すかは、驚愕に値する。社会一般には、男女関係はコストだと考えられている。しかし、実際は、著しい生産性を生み出す、最高最大の組み合わせなのだ。

社会において、人生において、人間関係において、何かがうまく行かないと思うときは、最も近い(男女の)関係に潜んでいる、大きな可能性に目を向けることが、なによりも有効であるような気がするのだ。

【樋口耕太郎】

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