いつもこのことを言うと、私の頭がおかしいと思われる可能性を考えざるを得ないのですが、私は、ほぼ毎日、午後8時半ころから午前2時前後まで、那覇市松山の麗王(れお)というお店におります。このお店は、沖縄県内外の知識人が集まるお店として、知る人ぞ知る有名店です。カラオケもなく、女の子もおりませんので、基本的に会話だけで成り立っている場所です。おまけに私は8年前にお酒を止めてしまいましたので、このお店ではいわゆる 「キープ料金」相当を毎回お支払いして、お茶を頂いています。私はこのお店の経営者でも資本家でもありませんので、純粋な(とはいえ、いつも居るちょっと変わった、あるいは不思議な)お客として毎晩平均4・5時間を過ごしています。

麗王には毎日平均すると7名のお客様がいらっしゃいますが、年間営業日が300日として延べ2100名。私はもう8年以上これを続けていますので、延べ 1.6万人以上の方々のお話をお聞きし、会話してきたことになります。もちろん、多くのお客様は私と会話をするためにいらっしゃる訳ではないので、私が主としてお話をするよりも、聞くことの方が多くなります。恐らく昨年か今年あたりで、麗王で過ごした時間が1万時間を超えたと思います。

どう考えても、あり得ないこの行動を、これほど長い間続けているのは、私にとって、重要ないくつかの理由があります。沖縄人(うちなーんちゅ)同士であれば、「子供の頃からの40年来の知り合い」というような繋がりが一般的な社会の中で、まったく地縁も血縁もない異物(私)が、利害なく沖縄社会と意味ある深さで接点を持とうと思えば、実際のところ他にそれほど選択肢はありません。

沖縄はほんとうに狭い社会で、誰かは必ず誰かの知り合いで、まったく知らない誰かの評判や人となりも、何人かと会話するだけでほぼ確実に把握することができるイメージです。目の前の人がどれほど「とるに足らない」人物に思えても、その人がどのような人間関係を持っているか、そして、それがどれほどの広がりを持つのかは、計り知ることができません。つまり、沖縄においては(恐らく本質的にはどの社会でも同様だとは思いますが)、ただの一人も、ないがしろにできる人は存在しないと考えるべきなのだと思います。すべての人間関係の接点は、自分自身の沖縄における「意味」を決定する瞬間であり、決して無駄にすることはできないという、厳しさがあります。

私たちの人生を振り返ると、事実上殆どすべての出来事は、人間関係からもたらされていることに気がつきます。現在の私の日常において、麗王での「人間関係」がもっとも広範囲かつ深いため、結果として、私が9年前、沖縄に人生のホームグラウンドを完全に移して以来の多くの変化や出来事は、特に重要なものほど麗王での人間関係によって「仲介」されているものが相当な数に上ります。例えば、ここでは詳細な経緯は省きますが、麗王との接点がなければ、私がサンマリーナで愛の経営を実践することはありませんでしたし、その後事業再生を専業とするトリニティ株式会社を創業することも、次世代金融講座を開講すること も、次世代社会の具体的な青写真を描くことも、有機野菜の生産と流通に深く関わることも、沖縄大学で教鞭をとることもありませんでした。

麗王(のような場所)がパワフルなのは、そのような数々の、私にとって重要な出来事に恵まれた際、それがどのような人との繋がりによってもたらされたか、その過程で、私がどのようにそれぞれの方々と接してきたか、どのような会話をしてきたか、そしてそれぞれのお互いの反応や、心の動きはどのようなものであったかを、詳細に、それも何年も遡って辿ることができるのです。例えば、沖縄大学で職を得るきっかけとなったAさんは、Bさんの友人で、BさんはCくんと付き合っており、Cくんとの一連の会話や付き合いがなければ、そのご縁の一切は生じていませんし、Cくんと関係が深まることになったきっかけはDくんの 存在なくしてはありえませんでしたし、その関係を前に進めたきっかけは、ある晩のこころを開いた深い会話でした・・・。

このように人間関係と出来事を時間とは逆に辿ることによって、普段は余り意味がないと感じられるような些細な発言や、無意識の決断や、心の微妙な動きや、自分が苦手とする人たちとの接点が、巡り巡っていかに大きく重要な結果をもたらしているかを強く実感することができるのです。

その結果はほんとうに驚くべきものです。例えば、自分にとって意味ある出来事は、それをもたらした一連の人間関係の中で、100%の確率で、自分が苦手と考える人との深い接点や、手痛い裏切りや、利用されるという経験を、それも数多く介していることがわかったのです。つまり、苦手な人を遠ざけるのではなく、できるかぎり愛情で接し続けること、例えその人に裏切られても、何度でも赦し、自分の役割を果たし続けること、彼らが奪って行ったものに執着しないこと・・・などなどの経験のどれひとつが欠けても、最終的に価値のある出来事はもたらされることはなかったのです。そして、それらの長い長い過程を辿りながら、一言一言を思い出しながら、やはり、無駄な言葉ややり取りや人間関係の接点など、ひとつもなかったのだと強く心に刻むことができるのです。

私たちの毎日は何気なく過ぎているように感じられるのですが、それは違います。それぞれの瞬間に、将来もたらされる重大な出来事の種を大量に撒き続けているのだと思うのです。

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・・・2021年2月をもって麗王は閉店いたしました。25年間ほんとうにお疲れさま。最後の麗王だより

【樋口耕太郎】