先日、ある組織の命運を議論するような重要な会議に出席していて「組織の力学」のことを考えていた。恐らくこの組織が、致命的な過ちを犯そうとしているその瞬間に立ち会ったのだと思う。このパターンは過去に私が何度も目にしてきた、組織衰退のあるいは破綻の典型的な様相のように感じられたからだ。そして、それはなぜ、世の中のあらゆる組織で、くり返し生じているのかを、ずっと考えていた。

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一般論だが、経営者が組織全体の最善を最優先しているケースはそれほど多くない。これは、経営者が不誠実、あるいは善意であっても無知だから、あるいは怖れに負けて保守的になりすぎている、ということもあるのだが、それ以上に、これを妨げる原理が人間関係と組織内に(初期設定として)存在するからだと思う。

バークシャー・ハサウェイ社のウォーレン・バフェットはこの原理をThe Institutional Imperative(組織の力学:1989 Chairman’s Letter - 以下参照)と説明している。「組織の力学」は初期設定で存在する原理であるから、このメカニズムが起動しないように注意深く組織設計を行うことが、ガバナンス(企業統治)の本質であるという考え方だ。

「組織の力学」  (日本語は私の超訳)

①組織はいかなる変化にも抵抗する。
②時間がある限り業務は増えていく。同様に、資金がある限り新規プロジェクトや買収も増え続ける。
③経営者の望みは、それがどれほど愚かなものであれ、部下が迅速に用意・分析した「収益率」や「戦略性」によって正当化される。
④業界他社の行動は、拡大、買収、幹部の報酬など、どのようなものであれ、自動的にコピーされる。

知的で有能で経験ある経営者が合理的な判断をするとはまったく限らないのだが、原因はこの「組織の力学」によるものであり、「組織の力学」が現れると、組織から合理性は消失する。

バフェットは世界でもっとも成功した「投資家」として知られているが、私は彼の成功の本質は、組織と人間とリーダーシップに対する深い洞察に基づいた「経営者」としての力量にあると思っている。彼は「何がうまくいくか」ではなく、「何がうまくいかなくなるか」を考え、間違いを起こしそうな要素を特定し、排除するアプローチをとった。経営者を「正しく導こう」とすると、運用ルールが複雑になりすぎるし、コントロールが利かずに機能しない。このため、「組織の力学」を生み出す要素をあらかじめ排除することで、「組織の力学」が生まれにくい経営環境を提供する、という発想に至ったのだと思う。

一見、バフェットは子会社の経営には殆ど干渉していないようだが、実際には空気のように関わっている。細部を支配するのではなく、「個体間の相互作用」のバランスを設計するのが彼の仕事だ。

長年にわたって、実に様々な企業を買って経営してきましたが、チャーリーも私も、企業の難問を解決する方法はいまだによくわかりません。ただ、そう言う問題を避ける方法は学びました。   (ウォーレン・バフェット)

賢く制御できている状態は、まるで制御していないように見える。だからこそ、賢い制御なのである。  (老子)

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私はこのような非コントロール型の経営概念を「経営バランス」と呼んでる。「ボイド」は「経営バランス」をうまく表現できる事例だ。ボイドは1987年にアメリカのアニメーション・プログラマー、クレイグ・レイノルズが考案・作製した人工生命シミュレーションプログラムである。名称は「鳥もどき(bird-oid)」に由来する。

鳥の群の複雑な行動パターンは、それぞれの鳥の相互作用によるもので、群れ全体の動きを集中的に管理するリーダーは存在しない。レイノルズは、鳥の群れの行動は一見複雑に見えるが、実はそれぞれの鳥は、いくつかの簡単なルールにしたがって行動しているだけだと見抜いて、複雑な行動パターンの背後にあるシンプルな原則を特定した。

それぞれの個体は、物理の基本法則に加えて次の3つの簡単なルールに従うものとする:

①分離(Separation)他のすべての個体や障害物と最低限の距離を保とうとする。
②整列(Alignment)近くの個体と速さを合わせようとする。
③結合(Cohesion)前進しながら、個体が集まっているところの中心に向かおうとする。

レイノルズがこの3原則を入力して鳥の群れをランダムに再現すると、プログラムは驚くほど自然な動きを見せた。彼は、単純な規則を用いながら、複雑な群体の振る舞いを再現できることを示したのだ。以後、改良されたアルゴリズムが映画のCGアニメーションなどに応用されているという。

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これが私が認識しているバフェットの経営モデルである。現象をコントロールすることによって経営を「正しく導こう」とすると、経営はモグラたたきになる。膨大な作業に追われて、毎日が辛くなり、経営者は心と体をすり減らして、思うように行動しない従業員を恨むようになる。このような世界観に生きる経営者は、コントロールを失うことを何よりも恐れ、毎日が不安で心の安らぎを得ることができない。

やがて主流となるであろう非コントロール型の次世代経営モデルでは、経営現場における無数の変数の中から、組織を動かす本質的かつ少数のルールを特定することが経営者の重要な仕事になる。少数の原則のみを管理してその他の一切を手放すことで、個人が活きる自由な組織と、全体的な統合性を両立することができるのだ。この原則を、膨大な時間と学習と経験と試行錯誤と洞察によって見つけることが、経営者の最優先事項であろう。

あるイギリスの政治家が、この国が19世紀に偉大な国家だったのは、「見事に何もしない」政策のお陰だと言っています。歴史家がこの戦略を賞賛するのは簡単でも、それを実行するのは相当に難しいことです。(ウォーレン・バフェット)

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何が本質的な原則かは、経営者ごとに、組織ごとに、市場ごとに、産業ことに異なるのかも知れないが、共通点もある。多くの場合は人間性に関するもの、価値観に関するもの、経営の優先順位に関するものである。バフェットはこれらの原則を、彼独自の企業金融言語に翻訳してコミュニケートすると同時に、小会社の社長たちとの資本のやり取りに関する厳密なルールを運用しているように見える。例えば、

(i)子会社の経営者が自己管理によって「オーナーのように行動する」こと: バフェットは報奨制度に慎重で、会社を買収するとその部分だけは変えることが多い。バフェットは、子会社の経営者が自己管理によってバークシャーの「オーナーのように行動する」ような最小限のルールを注意深くデザインしている。利益の額や成長率よりも資本収益率を重視する、成長しないことにペナルティを課さない、最適な資本を全額調達し超過分を親会社に返金する、物質的な利益(結果)よりもオーナーのように行動するという動機と行動の方が重視される、など。

すなわち、経営者たちが、株主の利益のために行動することで、満足を得る環境が作られている。「組織の力学」がもたらす誘惑に勝る満足が得られる企業文化が形成されてあり、これがバークシャーの強さの重要な源泉のひとつになっている。

(ii)経営者たちを信頼し、公平に扱うこと(そして、経営者たちが公平だと感じること): バークシャーで通常の経営手法を放棄したとき、唯一残したのが信頼と公平さと相互依存に基づく支配だけだった。彼らの内面からの動機に働きかける。彼らに仕事の大半を任せ、勤勉さ、誠実さ、努力に報いることで、彼らが本能的にそれに答えてくれることを望む。お金のために働く必要がない(しばしば既にお金持ちの)誠実な人とだけ働く。誠実な人を惹き付け、不誠実な人を遠ざけ、誠実な人の忠誠心を維持する。そのために、自分が誠実であること。

(iii)計画しないということ: 事業計画は「組織の力学」の元凶である。企業の計画、予算、予想、管理などは、本来不確実な世界を確実なものと考えようとする幻想であり、不確実なことに対する経営者の怖れを、社員に転嫁しているだけである。タイミングと状況によっては、部下が「何もしない」ことを、上司が、経営者が、最終的には株主が承認しなければならない。「することがないときは、何もしない」ことは、いかなる行動よりも難しい。ここで生じる「組織の力学」は強力だ。他社に顧客をとられる感覚は、心理学的に「好きなものが取り上げられる、または、好きなものを手に入れる寸前で逃す」ような感覚と同じ。人は手に届く仕事を我慢しろと言われると、それに固執したり、奪い取ったりしたくなるものであり、実際殆どの人はそうしてしまう。

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Excerpt from “Chairman’s Letter” in Berkshire Hathaway Inc.’s 1989 annual report.
後半「Mistakes of the First Twenty-five Years」セクション4つ目の ○ 参照

My most surprising discovery: the overwhelming importance in
business of an unseen force that we might call “the institutional
imperative.” In business school, I was given no hint of the
imperative’s existence and I did not intuitively understand it
when I entered the business world. I thought then that decent,
intelligent, and experienced managers would automatically make
rational business decisions. But I learned over time that isn’t
so. Instead, rationality frequently wilts when the institutional
imperative comes into play.

For example: (1) As if governed by Newton’s First Law of
Motion, an institution will resist any change in its current
direction; (2) Just as work expands to fill available time,
corporate projects or acquisitions will materialize to soak up
available funds; (3) Any business craving of the leader, however
foolish, will be quickly supported by detailed rate-of-return and
strategic studies prepared by his troops; and (4) The behavior of
peer companies, whether they are expanding, acquiring, setting
executive compensation or whatever, will be mindlessly imitated.

Institutional dynamics, not venality or stupidity, set
businesses on these courses, which are too often misguided. After
making some expensive mistakes because I ignored the power of the
imperative, I have tried to organize and manage Berkshire in ways
that minimize its influence. Furthermore, Charlie and I have
attempted to concentrate our investments in companies that appear
alert to the problem.

経営バランス(pdf)

本稿では経営バランスが実際の経営の現場でどのように機能するのか、というテーマでコメントします。経営バランスは、例えば価格戦略(ここでは概ね単価の増加を意味します)の武器になり得ます。価格戦略における価格の増加が事業収益に与える影響は莫大であり、適切に応用することができれば、潜在的な事業価値を一気に収益として顕在化させたり、事業の成長を大きく後押しする原動力になります。このメカニズムは非常に単純で、特に売上高利益率が比較的低い労働集約型サービス業(例えばホテル)などではその傾向が顕著です。仮に、売上10億円、利益が売上の約10%程度のホテルを想定すると、1億円が利益になるわけですが、この事業の単価を10%上昇させると、売上は11億円、販管費の上昇を便宜的に無視すると、利益は2億円に倍増することになります。単純にモデル化していますが、単価の増加が企業収益に与える激しいインパクトをご理解頂けるでしょうか*(1)

単価と収益の激しい関係
このように表現すると、商品の単価を上げることで事業収益を増加させることはとても簡単なことのように感じられるかもしれません。例えば、毎年約14万人のお客様が宿泊するサンマリーナホテルで、一人一泊当たりの単価を1,000円上げることができれば、利益が1.4億円増加することになります。2005年の時点でサンマリーナの経常利益が約1.3億円でしたので、これだけで利益が倍増するイメージです。現実には、単に単価を上げただけではほぼ間違いなく顧客数が減少します。特に一人当たり1,000円の平均単価は、この業界では破格の増加と考えられるでしょうから、これによって恐らく10%から20%前後の顧客が失われるのではないでしょうか。年間14万人が宿泊する客室売上10億円のホテルでは、お客さま一人当たり7,100円(10億円÷14万人)の宿泊料を頂戴していますが、単価を1,000円上げて8,100円にする代わりに、顧客数が20%減少し11.2万人となると、逆に売上は約9億円(8,100円×11.2万人)に減少してしまいます。このホテルの単価変更前の利益が1億円程度だとすると、その全てが吹き飛んでしまうことになり、一般的な経営者が単価を不用意に上げることに恐怖を感じるのはこの理由によるものです。これは単純なモデルですが、現実のリゾートホテル収益構造の本質を表現しています。単価を1,000円を増加させるということは、利益を100%減少させることも、100%増加させることも可能なのです。

一筋縄ではいかない単価増
結局のところ、多くの事業ではこのような単価の上昇を達成するために莫大な経営資源と時間を投下しているとも言えるのです。例えば沖縄のリゾートホテルでは、客室やロビーを中心に大改装を行ったり、レストランのテーマを変更してみたり、より高級な宿泊プランを開発してみたり、アメニティを一新してみたり、研修プログラムを開発してみたり、経営者を交代してみたり…。いずれも費用(ときには多額の費用)を伴うことばかりですが、このような費用を投下しながら、実際に顧客数を減らさずに単価を増加させることができたケースはむしろ例外的ではないでしょうか。そして、顧客数を減らさずに単価を増加させることができなければ、投下した資金は砂に水をまくように、文字通り費用として消滅してしまうことになります。

例えば、ホテルの質の向上と、ひいては宿泊単価の増加を目的として、メインダイニングのコンセプトをより高級なものに変更し、内装をシックなものに変更し、食材の質を高め、コンサルタントを通じてコンセプトとメニューを一新し、料理長や責任者を入れ替えたとしても、それだけではこのメインダイニングの成功が保証されるものではありませんし、ましてホテルの格や宿泊単価が上がるとは限りません。現実には、より質の高い商品とサービスの提供を開始したのに売上がそれほど上がらず、投資額に見合った利益が確保できず、却って企業価値を下げるだけというケースが溢れています。

以上ゆえに、一般的な経営者がとりがちな選択は、①単価を下げ、顧客数を増やし、売上を伸ばすことで(利益率を下げながら)利益を確保する、②典型的には人件費などの費用を削減し(事業の成長力を低下させながら)利益を確保する、ものとなります。両者に共通することですが、短期間で確実に利益を生み出すことができる反面、事業の長期的な成長余力と企業価値を毀損するという問題を自らの選択によって生み出してしまうのです。

バランスが価値を顕在化する
より良いものを提供すれば、顧客は以前より高い評価をしてくれそうなものですが、質のいい商品を提供してもそれだけは事業のコストを増加させ、企業価値を下げるだけの結果に終わってしまうのはなぜでしょう。その原因が経営バランスの差ではないかというのが僕の仮説です。そして、より高い経営バランスを生むための要素は以下の通りだと思っています:

第一に、演出がないこと、嘘がないこと、自分に正直であること。ある経営者は、自分なりの強いこだわりを持って良いものを提供したにも拘らず、思うような成果を生むことができませんでした。「これほど良いものを提供しているのに…」と顧客を恨みたい気持ちでいっぱいです。別の経営者は、「本当に人を感動させるサービスは利益と採算と演出を頭の片隅に置きながらの状態では生まれない。お客様と接するときには売上のことなど考えていない」と言います。前者は、「これだけのことをしたのだから、顧客は評価すべき」と無意識に考えているように思え、彼にとって顧客へのサービスは、実質的に顧客との「取引」です。後者は自分に正直な経営者だと思います。自分が顧客にしたいこと、自分がしてもらったら嬉しいことを考えて心のままに実行するに過ぎません。

第二に、一貫性。企業内に矛盾がなくなるほど高い経営バランスが達成されると思います。企業理念などの価値観が一つに修練しており、かつその通りに実践されている企業は非常に高い一貫性を持つといえます(現実には、最近では企業理念を掲げない企業の方が珍しいのですが、その価値観に沿って運用されている事例は、殆ど存在しないように見えます)。なお、一貫性の完成度合いが高まるあたりで、経営バランスの効果が急激に高まるイメージがあります。

第三に、事業構造的に、経営バランスを取りにくい業態が存在すると思います。上記の二つの条件、嘘がないこと、一貫性、を持ちにくい構造を有する事業形態、具体的には、①低価格を比較優位とする事業、②上場企業、③情報の不均等を収益源にしている企業、が該当するような気がします。①については、経営バランスは基本的に事業の量的な拡大ではなく、質的な価値を顕在化する際に有効な概念で、低価格を武器とした量的拡大を目指す事業に適用しにくいのではないかと思います。②については、『トリニティの企業金融論』 『次世代金融論』で詳細に説明していますので、そちらをご参照頂けると幸甚です。③情報の不均等を収益源にしている企業は、『売上論』で紹介した「金色の売上」比率が低い企業を指します。情報の不均等を収益源にしているということは、価値観や言動の一貫性を導入することが構造的に困難だということは容易に想像が付くと思います。

経営バランスと資本投下
一般的なホテル経営者は、追加投資→価値の上昇→価格上昇→資金回収、をイメージして資金投下を行うのですが、現実には追加投資が思うように価値の上昇につながらず、資金回収が困難になり、企業価値が減少し、こらえ切れなくなるとそれを埋め合わせるために単価を下げて、企業価値を更に下げながら売上を確保する、という悪循環を招きがちです。

これに対して、経営バランス高めることを最優先すると、自然に顧客数が増加し稼働率が上昇します。また、経営指標にはっきり現れないために目に見えにくいのですが、より重要なこととして、経営バランスの水準が高まると顧客層(お客様の質)が高まる現象が生じます。こうなると無理やり単価を上げようとしなくても、需要のバランスを取るために価格を上昇させることが、顧客を含むステイクホルダー全員のメリットとなるのです。この状態で追加投資を行うと、企業価値を爆発的に向上させることができます。経営バランスを応用した価格戦略のプロセスが、一般的なケースと比較していかに効率が高く、リスクが少ないか(実質的には殆どリスクはありません)、ご理解できるのではないかと思います。

【2007.9.14 樋口耕太郎】

*『経営バランス』は本稿で終了です。

*(1) さらに、この事業を買収対象として金融的に(…すなわち事業そのものを金融資産として売買するという意味ですが)収益化するには、この事業を利益1億円の20倍(20億円)で取得し、単価を上げ、収益を2億円に増加したあとに同じ倍率(20倍)で売却すると売却額40億円、すなわち20億円の売買利益を生むことになります。米系を中心とした投資銀行やプライベートエクイティファンドが不動産投資や企業買収を繰り返すのはこのメカニズムによるもので、現場不在・金融主導の企業買収がこれほど広がっている大きな理由の一つです。

既に気付いた方がいらっしゃるかもしれませんが、本稿は経営バランスをテーマにしていながら、肝心の経営バランスを定義していません。前稿までに、経営バランスは目に見えないが実体として存在し事業経営に重要な影響を与えることや、経営バランスは経営者が事業(とその生態系)をどのように認識するかによって異なることや、経営バランスが達成されたときにどれだけのパワーが生じるか、などについて説明を試みましたが、これだけでは「経営バランスとはなにか」をきちんと説明したことにはなりません。次善の策として、今までの議論に加えて、 経営バランスが取れたとはどのような状態か、 どのようなときにより効果的な経営バランスが生まれるか、についてある程度の説明を行うことは可能だと思います。

経営がバランスするとき
個人的な経験ですが、サンマリーナホテルにおいてうまく経営バランスが取れたと感じたときには、次のような各現象が起こりました。あまりに出来すぎに聞こえるため、嘘や誇張と思われるかもしれませんが、全ては現実に起こったことです。 (i)経営的な成果は増加しながら、自分の労働時間が極端に(10分の1程度へ)減少しました、(ii)従業員に対して指示をする機会が殆どなくなりました、(iii)広告宣伝費を大幅に削減しながら、企業認知度が高まりました、(iv)建物改修などの追加投資を殆ど行わなかったにも関わらず、清潔できれいな施設という評価が増加しました、(v)パートの正社員登用を行い、新卒採用を再開し、ベースアップと賞与支給回数と支給総額を増やしながら、売上高人件費率はあまり上昇しませんでした(これは売上高が人件費の増加以上に上昇したためです。そのまま継続していたら売上高人件費率はむしろ減少していたと思います)、(vi)成果主義人事考課を廃止しながら、従業員間の公平間が高まりました、(vii)人事研修や対応マニュアルなどを全廃したにもかかわらず、顧客から好評価のコメントが大幅に増加し、顧客満足度が急上昇しました。・・・以上の結果として事業収益と企業価値が著しく高まりました。

経営バランスが取れたと感じる瞬間は、初めて補助輪なしの自転車に乗れるようになったときのように、一瞬身体が軽くなるような気がします。それまで少しでも良い事業結果を出そうと身を削り、バイタリティーと集中力で自ら事業の隅々までを理解し、競合相手を注意深く観察しながら精魂を傾け戦略を練り、24時間事業と従業員のことを考え続け、自分の時間的体力的物理的限界まで鬼気迫る努力を重ね、大汗をかきながら前にすすんでいた状態が、ある臨界点を境に、自転車に乗る自分の足が地面から離れるように、ヤジロベエがバランスするように、全ての効率が著しく高まると同時に、自分に課してきた負荷がどこかに消滅してしまったようでした。大量の変数を大きなエネルギーで対処していた状態から、最も重要な原則を除いてその他の全てを手放した状態に移行した瞬間だったかもしれません。そして、このようなバランス体験は特別なことではなく、事業経営の現場に限らず多くの方が経験していることでもあります。

例えば、本人と直接お会いしたことはありませんが、不可能といわれていたりんごの完全無農薬栽培を実現した青森県のりんご農家木村秋則さんもその一人ではないかと想像しています。最近NHKの『プロフェッショナル』にも取り上げられ話題になりましたが、害虫との格闘に悪戦苦闘して多大なエネルギーを費やす状態を乗り越えて、りんごの力を自然の中で生かす「バランス」を体験された瞬間から、不可能を可能にするという大きな事業性が生まれたのだと思います。以下は、NHK『プロフェッショナル』のウェブサイトからの抜粋です。

『化学的に合成された農薬や肥料を一切使わない木村のりんごづくり。不可能と言われた栽培を確立するまでには、長く壮絶な格闘があった。かつて使っていた農薬で皮膚がかぶれたことをきっかけに、農薬を使わない栽培に挑戦し始めた。しかし、3年たっても4年たってもりんごは実らない。収入の無くなった木村は、キャバレーの呼び込みや、出稼ぎで生活費を稼いだ。畑の雑草で食費を切りつめ、子供たちは小さな消しゴムを3つに分けて使う極貧生活。6年目の夏、絶望した木村は死を決意した。ロープを片手に死に場所を求めて岩木山をさまよう。そこでふと目にしたドングリの木で栽培のヒントをつかむ。「なぜ山の木には害虫も病気も少ないのだろう?」疑問に思い、根本の土を掘りかえすと、手で掘り返せるほど柔らかい。この土を再現すれば、りんごが実るのではないか?早速、山の環境を畑で再現した。8年目の春、木村の畑に奇跡が起こった。畑一面を覆い尽くすりんごの花。それは豊かな実りを約束する、希望の花だった。その光景に木村は涙が止まらなかった。

木村の畑では、あえて雑草を伸び放題にしている。畑をできるだけ自然の状態に近づけることで、豊かな生態系が生まれる。害虫を食べる益虫も繁殖することで、害虫の被害は大きくならない。さらに、葉の表面にもさまざまな菌が生息することで、病気の発生も抑えられる。木村がやることは、人工的にりんごを育てるのではなく、りんごが本来持っている生命力を引き出し、育ちやすい環境を整えることだ。害虫の卵が増えすぎたと見れば手で取り、病気のまん延を防ぐためには酢を散布する。すべては、徹底した自然観察から生まれた木村の流儀だ。「私の栽培は目が農薬であり、肥料なんです」』

現在の酪農業界は放牧牛による牛乳生産が全消費量のわずか約2%。日本で流通している牛乳の殆どが牛舎で濃厚飼料を大量に投与され、まるで工業製品のように搾乳さたものです。この現状にありながら放牧山地酪農を成功させた旭川斎藤牧場の斎藤晶さんも彼独自の「バランス」を体得されたひとりだと思います。斎藤さんは北海道への開拓団の一員として山形から入植し、未開拓の山地と原野の開拓で大変な苦労をされます。以下は古庄弘枝著『モー革命』からの抜粋です。

『クワを振るえば石にあたる。大豆、小豆、野菜、雑穀をつくれば、ウサギやネズミなどの集中攻撃を受ける。富子さん(奥様)は、出産・育児・家事・開墾の過労から倒れて入退院を繰り返す。晶さんは働けば働くほど窮地に追い込まれた。昭和30年、「ここで生きるにはどうすればよいのか」と切実に考えた。木の登るのが好きだった彼は山の頂上に行き、いちばん高い木に登った。そして、荒れ放題の自分の山や遠くに見える大雪山を眺めていた。「人間はなぜこんな血の出るような苦労をしても成果につながらないのか」「鳥や昆虫がなにも働きもしないのに、悠々と生きているのはどうゆうことなのか」と、考えながら飛ぶ鳥を眺め、鳥の声を聞いていた。ハッと気がついた。「自然というものを征服するような姿勢そのものが勘違いだ」「これからは、鳥や虫たちと同じ姿勢で生きていけば良いじゃないか」と。「価値観をひっくり返した」。すると、答えは全て山にあった。

「思い込み」から開放された彼は、「草」に対する視点を変えた。「草」を敵とするのではなく、「利用」しようと考えた。家畜が食べれば、「雑草」は「牧草」だ。笹薮だらけだった山に牛を放した。馬喰に頼んでオス牛や水田酪農家の育成牛など20頭を無償で預った。牛たちはどんどん笹を食べていった。草地もつくろうと、まず笹を刈り払って火をつけ、焼き払った。そのあとに、牧草の種を蒔いた。そこに牛を放すと、牛はまわりの笹を食べながら歩き回り、種を踏みつけた。数日後、牧草が生えてきた。そこで彼は気づいた。「牛が蹄で踏んだ種が土に定着して草地になる」。これは「蹄耕法」と呼ばれる草地造成の方法だった。ニュージーランドなど酪農の伝統がある国では、基本的な草地づくりだった。しかし、そんなことは知らない彼は、牛と自然の観察から独自にそのことを学んだ。』

経営バランスが達成されるということは、判断や決断の原則がシンプルになり(ときに一つに統合され)、経営行動に一貫性が生まれるということかもしれません。多くの経営者は大量のエネルギーを事業に投下して成果を上げようと努力しますが、本当に経営者が事業的効果を最大化しようとするならば、「いかに多くの仕事をこなすか」よりも、少々語弊がありますが「いかに仕事をしないか」を追求する方が合理的です。なぜならば、どんな人も10倍働くことは出来ませんが、10倍楽することは物理的に可能だからです。10倍楽することが出来て初めて10倍の仕事をすることができる、あるいは10倍楽することを学習しなければ10倍働けない、とも言えるでしょう。これは本当に必要なこと以外の仕事をいかに切り捨てるということでもありますが、簡単そうに見えてなかなか実行する人は多くありません。実際、殺人的に忙しいと悩んでいる経営者に、「時間を作る方法はとても簡単なんです。それでは今取り掛かっている仕事の8割を今すぐ断ってください」とアドバイスしても、それを実行する気になる人は殆どいないでしょうし、万一その気になったとしても、そのとき経営者が感じる恐怖を乗り越えることは余程のことがなければ無理だと思います。初めて自転車に乗るときと同様、経験した人にとってはとても簡単ですが、未体験の人にとっては到底不可能なことに思えるのだと思います。また、10倍楽することを目指す、と言いながら実際にそのための試行錯誤を始めると、経営者がいきなりだらけたように見えるため、周囲(従業員や株主)からのプレッシャーも相当なものになるでしょう。事業や人生が順調(のように見える)な通常の状態でこのバランスを体得することは容易ではないかもしれません。したがって、前述の木村さんや斎藤さんのように、経営バランスは経営者の個人的な価値観の転換によって生み出されることが少なくないようです。そして、個人的な価値観の大転換はなんらかの大きな窮地に陥り、それを乗り越える過程で起こることが典型的なパターンといえるかもしれません。

【2007.9.1 樋口耕太郎】

経営バランスの議論は単なる抽象概念ではなく、多くの従業員の努力を意味あるものにするかどうかの分かれ目でもあり、現実の経営に有効かつ具体的なツールであり、企業価値を高めるパワフルなエンジンです。

経営バランスを効果的に応用するためには、目に見えるものだけを信じる習慣から一旦心を解き放つ必要があります。例えば、3Dジグソーパズルを構成する最も重要な要素が、目に見えない「組み合わせ」という概念であると同様に、効果的な経営を実現するために極めて重要な「経営バランス」も形あるものではありません。目に見えない経営バランスをいかに認識するかが経営的に重要性を持つのであれば、これを実体として解釈・対応することは経営科学的な合理性を持つことになります。一般的な経営者はとかく目に見えるしくみを捕らえ、しくみを変えることで変革を実行しようとします。しかしながら、しくみを変化させることによって事業の本質に影響を与えることができる度合いは一般に考えられている程大きくはない印象です。むしろ反対に、目に見えない「実体」が目に見えるしくみを規定しているように思います。企業に存在する目に見えるしくみは、うまく機能しているものほど、(企業の実態である)従業員の集合意識が形になったものが多く、しくみが企業を作り上げているのではないと思います。従業員の集合意識は目に見えないものでありながら、そのしくみの本質を理解する重要な鍵となります。

大切なものは、目に見えない
フランスの飛行士であり小説家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』は云わずと知れた児童文学の名著ですが、経営、特に人事を考える上で非常に示唆に富む名著でもあると思います。王子さまが地球にたどり着く前に出会った色々な星の大人たち、・・・自分の体面を保つことに汲々とする王様、賞賛の言葉しか耳に入らない自惚れ屋、お酒を飲むことを恥じ、それを忘れるためにお酒を飲む飲んべえ、夜空の星の所有権を主張し、その数の勘定に日々を費やす実業家、自分の机を離れたことがない地理学者などなど・・・。その他、何をするにつけても急ぎ、どこに行くかもよく理解しないまま特急列車であちこちに移動したり、時間を節約する事にあくせくして、節約した時間で何をするかを考えていなかったりという大人たちの姿が語られていますが、この「児童文学」は現代企業社会のノンフィクションかと見紛う程のリアリティがあります。物語に登場する大人たちの共通点は、目に見えない価値観に注意を払わず、目の前に見えるものと目先の利害だけを現実と認識していることでしょう。そして、彼らの(滑稽な)行動は各自の世界観に照らし合わせて全て個別に「正しい」のであり、彼らの「目に見えるもの中心の世界観」が彼らの人生を非常に非効率なものにしているのです。

王子さま訪れる7番目の星、地球に降り立った王子さまとキツネの会話は物語の重要な場面です。キツネの有名な台詞 l’essentiel est invisible pour les yeux  ・・・「大切なものは、目に見えない」を単なるファンタジーと解釈するか、人の心と人間関係を規定する重要な実体と認識するかによってその人の世界観(そして、その人が経営者の場合は経営観)は大きく変化します。「目に見えるものだけを信じる習慣から一旦心を解き放つ」作業は、(多くの人が「きれいごと」と考える)ファンタジーに経営科学的な合理性を見出す作業でもあるのです。

このような世界観を前提に経営を行うと事業効率を生み出す可能性があるのですが、(株主や取締役会を含む)社会からは「現実逃避的」「抽象的過ぎる」「裏がある」「頼りがいがない」、事業的な成果が連動しない場合は「法螺吹き」と評価されるというジレンマに陥ることになります。これが「経営バランス」を現実に応用するときに経営者が直面する(個人的な)最大のハードルとなるでしょう。経営者がこのハードルを乗り越えるかどうかによって事業における経営合理性が担保され、経営合理性と事業効率は経営者個人の人間性と価値観と選択と行動に影響される、という構造になっているのです。言葉で表現すると容易に感じられますが、実際は経営者が目に見えないものを信じることは勇気のいることです。経営者が目に見えないものを語り始めると、株主や従業員を含め周辺を不安にさせることになり、これを補うために正直で緊密なコミュニケーションが必要になるのですが、経営者にとっては実行する前の想像を超える価値のある体験になるでしょう。

経営バランスという目に見えない概念が、経営効率に重要な影響を与える要素であり、これを信じるか否かは経営者の個人的な人間力にかかっている、という構成になっていると考えられるとき、経営理論は、目に見える個別理論(いわゆる一般的な経営理論)、 目に見えない経営バランス、 経営者の人間的資質、の三種類の要素から構成されると有効に機能すると考えられます。この議論は『トリニティのリーダーシップ論』で詳細にコメントしたいと思います。

【2007.8.24 樋口耕太郎】

経営バランス(事業の生態系)に関する二つのポイント:
経営の一般的な現場において、殆どの経営判断は個別に正しい、
個別の「正しい」経営判断の積み上げが企業価値を必ずしも最大化しないばかりではなく、場合によっては企業価値を毀損する、
は、経営理論の常識に対する新たな論点を導く可能性があります。

合理性は目的次第
経営理論の多くは、例えば、運用効率を下げずに費用を最小化する組織や人事はどのようなものか(人事論)、どのような顧客を対象としどのようにアクセスすることが効率的か(マーケティング理論)、生産過程をどのように合理化するか(オペレーションズリサーチ)、競合他社に対して比較優位を生み出す戦略はどのようなものか(競争戦略理論)、などなど、最終的に収益と企業価値の最大化を達成するための「合理的」な経営判断を議論するもので、それこそ膨大な人数の研究者や経営者などが膨大な時間と試行錯誤を繰り返しながら、膨大な分析がなされています。

ところが、何が「正しい」か、あるいは何が「合理的」かの判断は、達成しようとする目的に照らして考えなければ全く意味を成しません。・・・近所のスーパーに買い物に行くときには、法定速度を守って時速50キロで車を走らせることが適当ですが、モナコグランプリで優勝しようと思えば、合理性を欠くことになります・・・。翻って、一般に、経営の目的は「収益と企業価値の最大化」とされています。ところが、「収益と企業価値の最大化」ということの意味を理解するためには、(i)企業とは何か、(ii)企業価値とは何か、(iii)経済行為とは何か、という問いに答える必要がある筈なのですが、この三要素はあまりに自明のことと考えられているようで、経営の現場において殆ど議論されることはありませんし、現代経営理論はこの問いに対する明確な回答を持ちません。ひょっとしたら、世の中の一般的な経営者は、「目的が明らかでないまま合理性の追求を行っている」・・・買い物に行くのか、グランプリに出場するのかそれ程明確でないまま、「合理的な」走行速度を必死に求めているのかも知れないのです。

経営問題に関する仮説
以上の前提によって、いくつかの仮説が成り立ちます。第一の仮説は、現代の経営を困難にしているのは、何が「合理的」であるかどうかについての解答がないからではなく、一見自明に思える「経営の目的」に関する理解が殆ど手付かずの状態で放置されている、・・・具体的には、経営の目的を構成する三つの要素(事業を取り巻く世界観)が特定されていないためではないでしょうか。例えば、企業をより良いものにすることが経営の目的だとしても、(i) 企業とは何か、について誤解がある場合、よりよくするために働きかける対象を誤る可能性があります。同様に、(ii) 企業価値とはなにか、の認識を誤れば、高めるべき価値の対象が不明確となり、(iii) 経済行為とは何か、を正確に把握せずに、収益を高めるための努力をしても非効率である可能性が高いことは明らかです。

現代の経営を困難にしているのは、経営者が正しい(合理的な)選択をしていないからではなく、その合理性の前提となる「世界観」の認識が不十分であるため、という第一の仮説は、冒頭の、経営バランスに関するポイントと整合性を持ちます。「経営の一般的な現場において、殆どの経営判断は個別に正しい」、・・・殆どの経営者はその個人の世界観に照らし合わせて、間違ったことはしていない、といえるかもしれないのです。

第二の仮説は、目的に照らし合わせて初めて合理性が決定され、目的は世界観によって決定されるのであれば、「経営の優劣は、問題の解決方法よりも経営者の世界観による」と考えられる点です。そして、経営者の世界観とは、経営バランスであり、事業の生態系の認識であり、(i)企業とは何か、(ii)企業価値とは何か、(iii)経済行為とは何か、という問いに対する各経営者の自分なりの回答を意味します。

事業の現実は、経営者(の世界観)の数と同じだけ存在し、経営者の世界観が経営者の行動を規定するため、企業を機械的な構造物と認識する経営者(・・・例えば「人件費の削減=利益」と単純に考える経営者)と、事業を生態系と認識する経営者では、全く同じ事業環境において全く異なる行動を取ることになるでしょう。そしてどちらの経営者も「合理的に」行動しているのです。例えば「無駄をなくす」という行為一つとっても、経営者固有の世界観の違いによって(・・・すなわち経営バランスの取り方の違いによって)、何が無駄かについての「合理的な」回答が幾通りも存在します。

逆の表現では、経営者にとって、事業の「合理的」な解を導き、自分の世界観に基づいて「正しい」行動を起すこと程容易なことはないのかもしれません。そして、多くの経営者は、自分は「正しい」ことをしたのになぜ事業が立ち行かなくなるのかと悩み、社員の能力不足や、資金不足や、市場環境の悪化や、競合の激化が原因だと典型的に結論付け、その「原因」を取り除こうとして悪循環に陥っているような気がします。

【2007.8.7 樋口耕太郎】

有名な「六人の盲人と象」の話は、日本では「群盲象を評す」という諺になっていますが、もともとは「六度経」というお経から出典しているそうです。六人の盲人が自分が触れた箇所をもって象を説明しようとするお話です。・・・昔、インドパキスタン地方のある王様が6人の盲人に象を観察して報告するように言いました。盲人たちは、各々象の異なる部分・・・それぞれ象の耳、鼻、足、尻尾、牙、胴に触り、異なる報告をしました。「象は団扇のように平たくて大きい(耳)」、「象は大蛇のように長い(鼻)」、「象は太くて大木の幹のようだ(足)」、「象は細長くて紐のよう(尻尾)」、「象は槍のように硬く尖っている(牙)」、「象は壁のように平たく大きい(胴)」と表現します。それぞれの説明は全て正しいのですが、いずれの情報も特定のバランスの元に統合されなければ全く実用性を持ちません。

経営の現場においても同様で、どんなに優れたビジネスプランも、新商品も、経営理論も、人材も、適切な「経営バランス」とリーダーシップの元に統合されなければ、企業価値を向上させるどころか大きく毀損する可能性が高く、企業経営の多くは実際にその通りの状況にあると思います。この「経営バランス」を見出すことは一見困難なことに思えるのですが、例えて言えば初めて自転車に乗るときのようなもので、未体験のときは二輪でバランスをとることは曲芸のような気がしますし、二輪で走行できなければ自転車は無用の長物です。しかし一度体得してしまえば自在に移動できる手段としては格別で、もう二度と徒歩で買い物に行く気にはなりません。経営バランスが取れている事業体も最小の経営作業で最大の事業効率と成果を生み出すことが現実となります。本稿では一般にその重要性が過小評価されていると思われる「経営バランス」の概念についてコメントします(「経営バランス」の実現を担保するのが『トリニティのリーダーシップ論』ですが、このリーダーシップのあり方も「経営バランス」の一部を構成するため、他の全ての概念との調和が不可欠です。この議論については別の稿に譲ります)。

「経営バランス」という概念
統合された概念を伝達しようとするとき、我々はしばしば盲人のアプローチを取らざるを得ないときがあります。「象という統合された概念」が共通認識であれば、それは「象」であると言うだけで事足りるのですが、情報を受ける側が「象の概念」を持たないとき、六人の盲人のように、各部所ごとに情報を分解して伝達することになります。重要なポイントは、それぞれの盲人が表現する六つのパーツはそれぞれ独立しているものではなく、統合された象という一つの概念の各部分である、という前提を同時に理解してもらうことでしょう。この前提を理解する人に対しては情報の正確な伝達が容易になるためです。

『トリニティ経営理論』 『サンマリーナの人事考課に関する経営方針』 『トリニティの企業金融論』の三稿、およびこの三稿を補足するトリニティアップデイトの各種コメントは全て、「経営バランス」という一つの概念を表現する試みでもあります。この経営バランスは「象の3Dジグソーパズル」のようなもので、今まで紹介した、例えば、「売上論」「マーケティング論」「サービス論」「マーケティング論」「ホテル金融論」「性善説の経営観」「人事論」などはジグソーパズルのピースに該当します。ジグソーパズルのピースはそれぞれ独立している概念ではありながら、最終的には全てによって一つのものを表現しようとしています。一つのピースで全体像を表現することは不可能ですし、全てのピースを個別詳細に理解・実行したとしても、ピース全体の「組み合わせ」が適切に行われなければ、最終的な効果を生むことは非常に困難です。

「経営バランス」は、3Dパズルの「組み合わせ」に相当する概念ですが、その特徴は、①「組み合わせ」というモノは存在せず、目に見えないこと、②「組み合わせ」はピースとその配列によってしか説明できないこと、③「組み合わせ」はピースとは全く異なる概念であること、そして、④「組み合わせ」はピースを統合するという目的において、最も重要な概念であること、です。例えて言えば西洋絵画に対する水墨画のようなイメージで、絵の中の空白が水墨の箇所以上に重要な意味を持つ、感じでしょうか。一般的な経営理論では「マーケティング」「財務」など、目に見える「ピース」がよく研究されがちですが、これに対して「経営バランス」の概念とパワーは過小評価されている印象です。逆の発想では、経営的にこれほど重要なポイントが過小評価されているのであれば、この概念を応用することで大きな事業効果が生まれる可能性があります。

事業という生態系
この「経営バランス」の概念は、事業を生態系として捕らえる考え方とほぼ同義であり、『ホテル事業という生態系』『生態系を理解する』のエントリーは「経営バランス」に関する議論でもあります。事業の生態系に関する議論で表現しようとした重要なポイントは、①経営の一般的な現場において、殆どの経営判断は個別に正しい、②個別の「正しい」経営判断の積み上げが企業価値を必ずしも最大化しないばかりではなく、場合によっては企業価値を大きく毀損する、と言う点ですが、この問題の解を導く作業は、効果的な「経営バランス」をとり、事業価値を顕在化させるプロセスでもあるわけです。

個別の「正しい」経営判断が必ずしも事業価値を高めないことの事例は、今までのエントリーで数多く紹介したものがそのまま当てはまります。サンマリーナホテルにおいて、僕がアトリウムの窓を開放するよう指示したケース(『生態系を理解する』)、データベースマーケティングの導入(『トリニティのマーケティング論《その2》』)、「悪い売上」を増加させる経営手法(『売上論《後編》』)などなどがその事例ですが、これらは目の前の問題対処方法として一定の効果を生むことがむしろ一般的であるため、必ずしも「間違った」判断とは言いきれません(ただし非効率な判断ではあるとは思います)。このような個別判断のいずれも、目の前の問題に対する対症療法に過ぎず、事業の生態系に対して、長期的(かつ本質的)には決定的なマイナス要因となりがちです。例えて言えば、対症療法を繰り返すことで治癒を遅らせ、病状を却って悪化させてしまう医療や、目先の経済効果を優先して、環境を決定的に破壊する経済行為や、利便性と収益を優先して食品を添加物だらけにすることで、健康と生活の質を決定的に低下させている食品事情に似ています。共通点は、システム全体に対して「非効率」な作業を繰り返しているにも拘らず、誰もがこれらの作業は「効率的」であり「成長性」と「付加価値」をもたらす、と理解(誤解?)している事実が問題を大きくしている点でしょう。本質的に非効率なものに価値を見出し、「ビジネスは戦争」「生き残りをかけた真剣勝負」「勝者のみが君臨する」「きれいごとでは飯は食えない」というフレーズの基に多大な人々を巻き込み、目に見える短期的な成果を継続的かつ多大に積み上げることが社会一般には評価の高い経営手法とされています。

「経営バランス」の概念を理解し、事業を生態系として捉える経営を実践することは、事業における多様かつ多大な個別の努力を、事業価値として顕在化するか水泡に帰すか、の分かれ道と言える程重要性の高いテーマだと思います。

【2007.7.30 樋口耕太郎】

ホテル事業という生態系・生態系を理解する(pdf)

オフィス近くのウォーキングコースは安良波(アラハ)ビーチ、サンセットビーチを通って美浜アメリカンビレッジの海岸沿いの防波堤を現在開発中のフィッシャリーナ地区まで抜ける往復およそ5キロのルート。毎日表情が違う西海岸名物のサンセットを見ながらのウォーキングは僕の大好きな日課のひとつです。

テラスレストランとノボリ
このルートは国民年金健康センター「サンセット美浜」のすぐ横を通ります。この施設は第三セクターが経営する(恐らく)複合リゾートで、美浜と言う抜群のロケーションの海岸沿いざっと1万坪くらいの敷地に、プール、テニスコート、レストラン、会議室、宿泊施設を備えた多目的な建物です。特にプールには長さ100mと35mの2本のウォータースライダーが設置され遠目にも迫力満点でシーズン中は地元の家族連れにも大人気。宿泊施設はこの広大な施設にわずか21室と、民間プロジェクトでは決して叶わない贅沢さです(皮肉ではないです、念のため)。海岸の防波堤に視界を遮られない2階のレストランは、西海岸に面した広めのテラスが売り物のひとつで、視界一面の水平線と、夕暮れ時にはすばらしいサンセットを見ながらカクテルを・・・といったことが似合いそうな雰囲気。テラスにはガーデンチェアとパラソルがセットしてあってなかなかの感じです。

先日のウォーキングのこと、テラスレストランにふと目をやると、昨日まではなかったノボリのようなものが三本四本・・・。ノボリの文字を読んでみると「年末年始の宴会受付中」という内容でした。ノボリに罪はないのですが、それにしてもこのロケーションの、このセッティングの、レストランの一番眺めのよいテラスに林立するカラフルなノボリ(確か三色ありました)・・・。

僕の目には確かに違和感のある光景でしたが、半官半民施設では特段珍しいことでもないと思います。このような状態に対して「だから親方日の丸は商売意識が薄い」とか「民間の競争原理が働いていない」とか揶揄されることが一般的なのかもしれませんが、通り一遍の批判よりも、例えば自分がサンセット美浜の経営者だったらどのような行動をとるだろうかと考えることで建設的な意識の使い方ができると思います。

マイクロ・マネジメントによる対応
「あなたが経営者だったらどう対応するか?」というテーマに対して、大方の人はノボリの撤去を指示するところからはじめるのではないでしょうか。実際僕もサンマリーナホテルで同じような対応をした経験があります。それどころか、どうせやるなら徹底的に実行しようと思い、まずアシスタントを伴って自ら全館をくまなく回り、客室、基本設備、廊下、公共スペース、屋外、宴会場、レストラン、海浜、調理場などなどのロケーション別にこのような「ノボリ撤去」の作業リストをこと細かく特定してデータベースの作成を指示しました。具体的には物品の撤去、レイアウトの変更、備品の移動、色の塗り替え、修理・取替え、デザインの変更などを指示する内容で、第一次リストだけでも150項目くらいあったと思います(その後第二次、第三次・・・とリストが追加されていく仕組みです)。そしてそれぞれの項目ごとに詳細なワークオーダーシートを作成し、そのシートには現場のデジタル写真、責任者の名前、作業に必要なコスト、対応期限を特定しました。作業費用の支出の際に現場が混乱しないように運営予算との整合をとり、ワークオーダーシートの当初見積もりの範囲内であれば年間の運営予算に影響を与えないよう調整を加えました。またプロセス管理として、このデータベースを幹部職員で共有し、ワークオーダーシートには現場からの進捗の報告、経営からのコメント、責任者の承認欄を設け稟議形式で回覧しました。

この管理方法を設計し、実行に移した時は内心満足感を感じたものです。これだけの作業を短期間で構築し、自分のイメージどおりに管理が進み、あとは一つ一つ改善されるのをチェックしていくばかり…。少なくとも理論上は、作業内容、作業場所、責任者、予算、期限がきちんと特定されており、その進捗を管理する仕組みが出来上がっているので、全く問題なく作業が完了するはずでした。

アトリウムの窓
150もの作業がリストアップされているものの大半は問題なく消化されていきます。ところが事業の生態系はそれほど単純なものではありませんでした。ワークオーダーの中でもっとも容易と思われた作業のひとつに「アトリウムに面しているレストランの窓を常時開放するように」という項目がありました。レストランの窓際の席にお客様が座ったときに、アトリウムの空気が直接感じられた方が開放感があるのではないかと僕が思ったのです。今考えると特段重要な指示だとも思えないのですが、当時は個人的な趣味もあり、ホテル全体のイメージチェンジのスタートラインであるという気負いもあり、むしろこのようなことからきちんと実行してほしいと強く感じていました。ワークオーダーシートの稟議の承認も完了し、現場にはその方針が伝わっているはずです。

ところが、何日たってもなかなかイメージどおりに開放された状態にならないのです。時には窓が閉まっていたり、開放しているときでも完全に開放されていなかったり、時間によって、あるいは従業員のシフトによって状況がまちまちです。直接指示するのも大人気ないような気がしましたが、こだわりもあったため直接現場に指示をしたり、それでも改善されないので責任者を通じて連絡したり。結局この窓が完全に常時開放状態になるまでおよそ4週間かかりました。

生態系を理解する
僕にとってこの「アトリウムの窓事件」はなかなかの衝撃でした。少なくとも自分がやろうとしていることの何かが根本的に間違っているのだとはっきり感じました。そして窓を開放するという単純な作業が組織においてなぜこれほど難しいのか考えはじめました。ホテルは長時間体制で仕事をしていますので、大体2~3つのシフトに別れています。加えて全従業員のおおよそ1/3~1/4は常にお休みを取っていますので、どのような情報でも伝達するまでに時間がかかるということもあります。しかし最も重要な点は、従業員には従業員の事情があるということです。例えば、窓を開放していると、夕方のアトリウムでの演奏時間には食事をしているお客様の会話がしにくくなったり、アトリウムから風が不必要に吹き込んだり、清掃の後にはうっすらと塩素のにおいがしたり…、その割には窓を開けた開放感といっても知れている、という判断が働いているのです。

つまり、窓が開放されない原因は「従業員のお客様に対する思いやり」だったのです。そのような事情(生態系)を知らない僕は、現場に対してお客様へ不自由を強いる趣旨の指示をしたのみならず、データベースとプロセス管理によって従業員の行動を監視し、更には自らの行動(指示)によって「お客様への思いやりよりも上司からの指示を優先するように」という実質的なメッセージを4週間にわたって伝え続けていたということになります。

サンセット美浜の従業員も「商売意識が薄いから」ノボリを立てたのではなく、商業意識によって、その質はともかくも、売上を少しでも上げたいという責任感においてノボリを立てていたのかもしれないのです。

生態系のメカニズム
以上の前提で、現場のメカニズムについての僕の仮説は次のとおりです。たとえば「窓が閉まっている」、「ノボリが立っている」という問題が起こると、私たちはすぐに「窓を閉めるために何をしたら良いか」あるいは「ノボリを撤去するべき」という解決策を考えようとしがちです。この問題は氷山にたとえると海水面の上に見えている先端部分「できごと」です。水面上に見えている「できごと」は生態系のほんの一部であって、その下には「行動パターン」があります。「夕方以降のシフトでは窓が閉まりがち」といったことです。そしてこの「行動パターン」を生み出すのが「構造」です。たとえば、夕方以降窓が閉まりがちなのはアトリウムで音楽の演奏があること、またその音がレストランに響くなどといったことです。そして、以上の前提として意識・無意識レベルの価値観、すなわち「お客様が心地よい環境を提供するために心配りをしたい」という従業員の気持ちが存在するのです。

さて、テラスレストランのノボリの件、「あなたが経営者だったらどう対応しますか?」

【2006.12.4 樋口耕太郎】

事業経営はルービックキューブと似ていると思うことがよくあります。短期目標と長期目標、収益、ファイナンス、税務会計、投下資本と回収、営業、運営、エンジニアリング、人材、販管費と変動費、顧客層と評判、単価と稼働率、市場環境などの多面体をバランスよく組み合わせて、もっとも大きな企業価値に導くイメージです。難しさでありおもしろさは、パズルの一面を動かすと必ずその他の面にも何らかの影響を与えるため、パズル全体の立体的なイメージを常に捉えながら経営に当る必要があるという点です。例えばどんな優れた企画を導入しても、見事な改装投資をしても、バランスが崩れると思うように効果(収益)が現れません。

ボルネオ島のお話
労働集約的サービス業で売上高利益率の低いホテルなどの業態では個別の経営判断の可否よりも全体のバランスを保つほうが企業価値に与える影響が特に大きく、個別の「正しい」経営判断の集積が必ずしも企業価値の最大化をもたらさないという性質が顕著ではないかと思います。この点は重要度の割にはあまり一般的な認識になっていないと以前から感じていて、この重要性のイメージをうまく伝える表現方法はないものかと考えていたところ、ドネラ・メドウズ+デニス・メドウズ著「地球のなおし方」という本(すばらしい本です!)の中でいいお話を見つけましたので引用します。1950年代のボルネオ島で実際にあった話だそうです。

『ある村でマラリアが大流行しました。マラリアは蚊が媒介する病気なので、世界保健機構(WHO)がDDTを大量に撒きました。蚊はみんな死んでマラリアの流行は終焉しました。ところがその後、民家の屋根がぼろぼろと落ち始めたのです。DDTを撒いたので、民家の屋根に住んでいたスズメバチがみんな死んでしまい、イモムシを食料源としていたスズメバチがいなくなったため、イモムシが大繁殖して茅葺きの屋根を食べ、それで屋根が壊れてしまったのです。困った植民地政府はトタンの板を配って屋根を葺くよう指導しました。トタン屋根は確かにイモムシには強いのですが、ボルネオ島は熱帯なので毎日のように猛烈なスコールが降ります。この雨がトタン板の屋根に当たるすごい音のために村の人々が不眠症になってしまいました。

また、DDTを撒いたことで、蚊と一緒にたくさんの虫も死にました。死んだ虫をヤモリが食べ、今度は大量のヤモリが死にました。そのヤモリをネコが食べました。こうして食物連鎖に伴ってDDTが濃縮され(生物濃縮といいます)、高濃度のDDTを摂取したネコがどんどん死んでいきました。ネコがいなくなって今度はネズミが大繁殖を始めました。ネズミが増えると今度は別の伝染病が流行しそうになりました。まさにWHOが「自分でまいた種」といったところですが、これを刈り取るためにWHOはなんと・・・、14,000匹のネコにパラシュートをつけて空から撒いたそうです。』

ほとんどの経営判断は個別に正しい
このお話をすると誰もが大笑いします。お話として出来事を俯瞰的にイメージすると面白いことになっているので当然です(それに14,000匹のネコがパラシュートで降りてくるところを想像してもかなり楽しいです)。でも、重要な点は、個別の対策を実行する立場まで視点を狭めるとWHOや植民地政府の対策は全て正しいと言えるのです。「ほとんどの経営判断は個別に正しい」というのがポイントで、このため俯瞰的には笑い話としか思えないような経営判断が事業再生の現場では個別大量になされがちです(私も経営者としてかなりDDTを撒いた経験があります)。

このイメージで企業経営を素直に解釈すると、個別の経営判断の可否と企業価値の間に必ずしも意味のある相関性がないという可能性が生じます。生態系としての事業を理解しないでなされる経営判断は企業価値に悪影響(時には非常に大きな悪影響)を与える可能性が高く、反対に、個別の判断が事業の生態系にどのような影響を与えるかを注意深く認識しながらなされるとき経営効率は非常に高まるのではないでしょうか。

例えば、沖縄のホテルでは資本投下がうまく企業価値の増加につながらない事例が少なからず存在します(というより珍しくありません)。あるホテルでは4年間にわたって6億円もの改装資金を投下しながらイールド(RevPAR)が全く上昇しなかったケースがありました。常識的に考えると6億円もの新規投資を行えば企業価値が上昇するのは当然であるべきなのですが、このケースでは6億円が(収益を生む)投資ではなく(経済的な見返りがない)費用として消費されたことを意味します。この事例は経営のバランスのとり方しだいで企業価値にどれだけのインパクトが生じるか(あるいは生じないか)を理解するよいヒントになると思います。

「DDTの被害」を受けやすいホテル業
ホテルの経営は一見個別の判断がしやすいという特質があるかもしれません。誰でもホテルを利用したことはありますし、そのときに顧客の立場で感じる改善点にはそれぞれ真実が含まれているものです。ホテル経営に関する基本的な手法は体系が比較的整然としていて理解、実行しやすいため、「改善」のために実行すべきことは明らかであるようにも見えます。また、ホテルは経営者不在のまま運営者によって実質的に経営されているケースも多く、運営者としての立場で個別判断がなされる傾向もあると思います。

このような個別の判断は、生態系全体としてみたときに価値を生むとは限らないのですが、経営者の個別判断は往々にして具体的でかつ単独では「正しい」ことが多いため、現場の職員はこのような対応が別の問題を引き起こす可能性を直感的に感じていたとしても反論することが困難です。ホテルの組織がはっきりとしたピラミッド型であることが一般的であるため、現場からの反論をより難しくしている面もあると思います。

バランスすることのパワー
天秤棒でもヤジロベエでも、バランスする前に必要なパワーといったんバランスした後に必要な力の差は相当なものです。私の個人的な経験ですが、沖縄で事業再生を開始した当初はよく言えば「ハンズオン・マネジメント」、現実は「DDTの大量撒布」で経営的な効果を上げようと相当の試行錯誤と悪戦苦闘を経験し、金融業界仕込みの一日16時間労働で大量のエネルギーを浪費することになります。細部にわたり現場を理解し、即断即決で大量の問題に対処しながら長時間働く姿は、東京ではなにかしら「デキル男」のイメージと重なりますが、あいにく沖縄ではこんなマネジャーを誰もかっこいいとは思わないのです。

そんな沖縄で事業再生を経験することができたのは非常に幸運だったと思います。私のようなやり方には誰も共感しない事業環境で、過去の自分の常識が役に立たなかったため、全く異なる発想を強いられたからです。紙面の関係でその「超非常識」な発想による事業再生の詳細はご紹介しきれないのですが(もしよろしければ弊社ウェブサイトwww.trinityinc.jp をご覧いただければと思います)、結果は驚くべきものでした。方針を180度転換してから3ヶ月もたたないうちに、私のみならず主要な幹部社員たちは従業員に対してほとんど指示を出す必要がなくなってしまいました。私の業務時間もかつての16時間から一日3時間もあれば足りるようになり、一方で顧客の評判、代理店からの評判、地元の評判が急上昇。そしてついには売上と利益も順調に伸び始めたのです。これは個別の問題への対処よりも全体のバランスを優先することで非常に大きな事業効率が生まれた可能性を示唆しています。10倍の成果を生むためには10倍楽をしなければならないということが真実であれば、一つの経営手法として非常に有効な事例となるかもしれません。

おわりに
事業を生態系として捉え、その全体のバランスをとりながら企業価値を高めていくことが、従来型のマイクロ・マネジメントやハンズオン・マネジメント手法と比較して非常に効率が高いということを実証し始めている経営者が世界的に少しずつ現れているように思いますが、これらの経営者が概して地球の生態系にも事業的な関心を払っていることは偶然ではないような気がします。

『季刊 事業再生と債権管理』2007年1月号(115号)掲載 【樋口耕太郎】