最近のマーケティング理論の中で、実務的な観点から優れていると思うのは、「リレーションシップ・マーケティング」の概念です。従来、マーケティングの発想は「新規顧客を獲得する」というテーマに偏重していたように思いますが、新規顧客の獲得は既存顧客の維持よりも圧倒的にコストがかかる(5倍程度のコストがかかるという説もあるそうです)という非常に明快な理由で、既存顧客の離反率を下げることが非常に有効なマーケティング戦略として見直されており、これに関連する一連の概念が、一般に「リレーションシップ・マーケティング」と呼ばれているようです。リレーションシップ・マーケティングの事業効果を計る概念として、現在マーケティング研究の第一人者とされるノースウェスタン大学のフィリップ・コトラー教授は、顧客の「生涯価値」という考え方を提唱しています。すなわち、顧客が企業と取引を継続する期間中に生まれる合計収益を、マーケティングの成果として評価する考え方です。(さらに顧客の生涯価値から、企業が顧客を獲得・維持するための総費用を差し引いた概念を「顧客価値」と呼び、これを最大化することが企業の目的であるべきだという考え方をするようです)。

もっとも、「リレーションシップ・マーケティング」と表現すると、何かしら複雑な経営理論のようですが、要は「(顧客との)人間関係を大事にする」という当たり前のことで、逆に、これが「先端理論」とされていること自体、マーケティング理論がいかに現場から乖離しているかということかも知れません。例えば30年前、僕が子供の頃の盛岡の、地元の商店のおばちゃんはこの原則をきちんと理解してお店を経営していました。むしろこの概念が、長期間の経済成長の中でサービスの質の低下と共に退化の一途を辿り、今ようやく再び見直されてきたと考えるべきでしょう。

矮小化されているリレーションシップ・マーケティングの運用
リレーションシップ・マーケティングの発想は良好な人間関係の維持を重視した普遍性の高い概念だと思うのですが、その概念を現実の経営に応用する手法は、本来の「人間関係」から離れ、「しくみ」の議論に相当矮小化されているという印象を持ちます。その代表例が「ロイヤルティ・マーケティング(マイレージやポイントカードによる囲い込みなど)」や「データベース・マーケティング(顧客の属性データを集め、それに対応した商品の提供などをおこなう)」と呼ばれる「最先端」のマーケティング手法です。

ロイヤルティ・マーケティングは導入に多大なコストがかかりがちな反面、他社が追随しやすく、差別化にいたらない傾向と、結局「他がやっているから」という消極的な理由で運用されざるを得ない宿命があるような気がするのですが、本当に事業的な効果が生まれているのか不思議です。更に、ポイントカードでもマイレージでも、結局のところ、このしくみの導入によって企業が顧客に提供するものは、継続利用に対する実質的なボリューム・ディスカウントです。つまり、「顧客としっかり向き合って、良好な人間関係をいかに構築するか」という、事業にとっても、従業員個人個人にとっても極めて重要な、リレーションシップ・マーケティング本来のテーマが、「沢山買ってくれたお客様におまけする」というだけのことに矮小化されているわけで、このような考え方は、何か根本的なところで経営のあり方を却って非効率なものにしてしまっているように感じます。その他、これに比べれば小さい点ですが、顧客の立場では、沢山買っても得点がもらえず「なんとなく損をしたな」という気持ちになりたくない人は、財布の中がポイントカードだらけになることを覚悟しなければなりません。いつの間にかたまっていく山のようなポイントカードを見る度に、「このしくみは何かがおかしい」と思うのです。そもそも「沢山買ってくれたお客様におまけする」というだけのことに、なぜこれほどシステム投資が必要なのか、という素朴な疑問もあります。

データベース・マーケティングについても、顧客の立場からすると、例えば、3年前の引越しのときに少しだけ関心を持ったことがある家具の広告がいまだに送られてくるのを見ると非常にしらけた気分になるのは僕だけでしょうか。顧客の過去のある時点における購買行動や関心ごとが顧客の属性を決めるという考え方は一見合理的なようですが、顧客の価値観をあまりに矮小化しているように思え、このような前提からどれだけの事業性が生まれるのか疑問を感じます。また、インターネットの発達で、顧客へのアクセス(つまりはメールですが)が容易かつ安価になるということで、多大なシステム投資が正当化されるのですが、顧客にしてみれば、その他の大量のジャンクメールに混じって広告メールが届いたところで、本当に意識を割くものでしょうか。データベース・マーケティングはこの手法によって「適切な顧客へアクセスする効率を高める」という考え方が基本にありますが、インターネットに代表されるとデジタル情報ネットワーク環境の変化によって、そもそも企業が顧客にアクセスするという行為自体が非常に非効率になりつつあります(顧客は自分が関心を持つものには自らゼロコストでアクセス可能な環境では、「待ち」のマーケティングが有効なのではないか、という考え方は前回のエントリーでコメントしたとおりです)。…「最先端」のマーケティング理論に基づき、企業が多大な時間と資本と「専門家」を投下して構築しようとしているマーケティング・インフラは、既に出会い系サイトでほぼ実現していますので、そのインフラの効果を実感してみるのは非常に有益だと思います。「攻め」のマーケティングをいかに効率化しても、最先端理論が示唆するような効果はないということを実感されるかもしれません。

そして何よりも、以上のようなしくみと運用の最大の問題点は、顧客の気持ちが中心にない点ではないでしょうか。例えばですが、企業の意図は別にして、企業の「行動によるメッセージ」を素直に解釈すると、顧客は、欲しくもないカードを常に携帯しなければ、損した気持ちにさせられるという点で、企業から軽く脅されている状態に等しいと思います。

顧客を維持することのパワー
しかしながら、顧客との関係をより良いものにするというリレーションシップ・マーケティング本来の概念が極めて有効なものであることに変わりはありません。リレーションシップ・マーケティングや生涯価値の概念を経営に応用すること、すなわち顧客を維持することの事業的なパワーは相当なものです。経営論的に表現すると、米国の通信事業者は毎年25%の携帯電話加入者を失っており、これを金額に換算すると20億~40億ドルの損失が出ているといいます。また、平均的な企業は毎年顧客の10%を失っており、業種によっても異なりますが、離反率を5%減らせば、利益は25%~85%上昇するそうです(25%~125%という調査もあります)。

従来のマーケティングが重視している新規顧客の獲得は、あくまで一回の購買に関する概念ですが、リレーションシップ・マーケティングの概念では、例えば年間5回ある商品を買う顧客を2年間維持できれば10回の購買、10年維持できれば50回の購買(すなわち50倍の生涯価値/事業性)を生むことになります。50倍の数の顧客を獲得するよりも、10年顧客と付き合う方法を考えるほうが遥かに事業効率が高いことは容易に理解できることと思います。別の言葉では顧客を得ることよりも失わないことの方が数十倍の事業効果を持つ可能性があり、遥かに重要なマーケティング上の課題であるといえます。

マーケティングは「企業のあり方」
実のところ、「リレーションシップ・マーケティング」という言葉自体が、概念の本質を見にくくしている面があると思います。この概念は、「顧客との(長期の)人間関係を重要視する」ということでしょう。そして、効率的なリレーションシップ・マーケティングを突き詰めていくと、「マーケティング」というカテゴリーは消滅し、「企業のあり方」「人間関係のあり方」というテーマと同一のものになるのではないでしょうか。本当に継続する関係は、「出会い方」よりも、自分の「あり方」と人間関係に依拠するからです。その意味で、一般的な人間関係で、最も長期的に継続する関係は、肉親を別にすると同級生や幼馴染みですが、この人間関係がリレーションシップ・マーケティングの究極のイメージに近いと考えることはできないでしょうか。このような人間関係を顧客と構築することは不可能なことでしょうか。このような考え方をビジネスに応用することはできないでしょうか。

【2007.2.10 樋口耕太郎】