お元気ですか?
街にクリスマスキャロルが流れるころ、北風は寒くても心はウキウキしてきますね。
クリスマスはだれもが幸せを感じるシーズンです。
このクリスマス、実はキリスト教よりも古い起源をもっていることを
ご存じでしたか?
クリスマスはイエス・キリストの誕生日を祝うものではありますが、もともとは
ローマで行われていた冬至の祝祭をキリスト教が取り入れたものだと
いわれているのです。冬至の日、昼が一番短くなりますがこの日を境に光は
また徐々に復活していきます。光の死と再生を祝うとても大事な
祝祭だったようです。クリスマスのころ、人々の希望がもう一度復活します。
贈り物をしあうのは、そのことをお互いに歓び、わかちあうため。
また、このころには、目には見えない世界からたくさんの妖精たちもやってくると
されています。
このクリスマスのシーズンにあなたの心にある希望にもう一度、
目を向けてみてはどうでしょう?

さて。
今年も残すところ10日ほどとなりました。
この一年本当にお疲れさまでした。
今年もいろいろと御苦労があり大変でしたね。
あなたは今どんなお気持ちでお過ごしでしょうか。
お疲れになっていませんか。
心配事はございませんか。
夜はよく眠れていますでしょうか。
ご病気などされていませんでしょうか。
楽しいことはありましたか。
困ったことなどありませんでしょうか。……

日々麗王に立ちながら、ふと手をとめて、こんなことばかりを思います。
あの人のお顔、この人のお顔…。
とても不安定な世の中の今、たくさんのお店の中から、麗王を選んで
いらしてくださることが、どんなにありがたいことかと考えると、
こんなふうにみなさまのことを思わずにはいられないのです。
この前いらしてくださった時、何かひとつでもお役に立つことはできただろうか。
行ってよかったと思っていただけただろうかと、一人一人のお声を聞きに
お伺いしたい気持ちで一杯です。
いつものように麗王に行ってはみたものの今日はつまらなくて損をしたと
がっかりされないよう、みなさまの大切なお金を無駄にしないよう、
隅々まで心を配り、そしてみなさまにどんなふうに楽しく時間を
お過ごしいただこうかと深く考えながら、大きく反省もしながら、
お一人お一人の肩にそっと手を当てるような気持ちでありたいと
麗王を続けさせていただいて今年で19年が過ぎました。

「継続は力なり」といいますが、継続するにはコツがあります。
そのコツのひとつがリセットなのです。
リセット無くして、継続無しといってもいいでしょう。
言うなれば、リセット上手であれば、コツコツとマイペースで
何事も続けられるということです。

さて、ではリセットとは何でしょう。
何かを頑張って続けていくと、必ずどこかで行き詰まります。
行き詰まるのは自然なことだから気にすることはないのですが、
それまで順調だったことが行き詰まることでそうではなくなるので
やめたくなってしまいます。もはやこれまでかと。もういい、さあ、次と。
でもその時こそリセットの出番なのです。

まずは一息つくこと。
そして、それまで使いこんだ気持ちとか考え方、想い、習慣など、
自分がこだわっていたいろいろを、元にあった場所に戻すような感じで、
これはここ、あれはここ、それはここというように片付けてみます。
片付けをしながら、なんだこれ?というようなもので、無くてもよさそうなものは
ポイと捨ててしまえばいいのです。

そうすると、行き詰まった時に散らかりまくっていた心の中が、だんだんと
整ってきます。
そうなのです。行き詰まるということは、心というひとつの部屋の中が
いろいろなもので散らかってしまうことなのです。
そしてリセットとは、自分の心と向き合い、ちょっと整理整頓して片付けること
なのです。
いらないものは捨てて、いつかまた使う大事なものは、次にまた使う時に
困らないように、あった場所に戻しておくというように。

その片付けですが、実際どうすればよいかとお思いでしょうか。
一番よいのは、ゆっくりじっくり何かをするのがよいのです。
たとえば、時間や手間のかかるお料理を作ってみるとか、
大工仕事をしてみるとか、絵を描いてみるとか、長い距離を歩くのもいい。
こんなふうにいろいろなことを忘れて、2時間くらい無心になることをすると、
自然と心の中の片付けがされるものです。
ゆっくり息を吸って、ゆっくり息を吐くことを思い出しながら。

片付いたら、何かをすぐに始めるのではなく、まずはリラックスして
休憩することです。
この休憩というのが大事。やめるのではなく休憩。
まわりがどんなに自分を追い抜いていこうと気にせず休憩。
あせらずあわてない。

休憩してぼんやりしていると、心の中に自然と浮かんでくることがあります。
想うもの、欲しいもの、したいこと、見たいこと、知りたいことなど。
それこそが行き詰まった先へ行くための、新しい地図であり手がかりです。
あとはそれを心に置いて、「さてと、また始めよう」とリスタートすればいい。

リセットとリスタートというのは、仕事や趣味でも大事なことだけど、
恋愛関係や人付き合いでも同じことなのです。

今回のこのテーマは、IT事業家で沖縄にも長く関わっておられる
尾関茂雄さんが先月40歳を迎えられた時にブログにとても素敵な文章を
綴っておられて、そのなかでも触れておられますが、
麗王にいらしてくださった時に、以前経営なさっていた六本木の「Birth」という
お店を、「Re Birth」としてもう一度オープンするんですよ、と
お話しなさっていたので、私はみなさんにこんなふうなことをお伝えしたいな~
というヒントをいただいたというわけなのです。

リセットするのにちょうどいいお正月休みです。どうぞのんびりなさってくださいね。
そしてまた新年から素敵なリスタートをきってください。
あなたがどうかこの上もなくお幸せでありますように。

みなさまのおかげで、こうしてまた一年間、麗王を続けることができました。
本当にありがとうございました。
また来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

【2014.12.22 末金典子】

沖縄知事選も終わり、今年もあと一か月と少し。
わぁ~、もうそんな~?  月日のたつのの早いことったら!
それに随分ひんやりともしてまいりましたね~。
ここのところアラハビーチをランニングする際の服装を半袖半パンから
長袖長パンに切り替えました。
北海道の真冬にも半袖半パン姿で旅行されるぜんざいの富士家の
大嶺社長からは「なんとひ弱な!」と言われそうですが…。

さて、秋も深まりつつあり、明日はいよいよ今年のボジョレーヌーボーが
解禁される日! 今年の出来具合はどうでしょうか。

そのワインには美味しいお料理が欠かせません。
私は「食べる」ということを毎日の生活の中で本当に大事にしていますので
今日は愛のある食べものについて書こうと思います。

麗王にはよく女性のお客様がいらしてくださるのですが、そのなかの、
みどりちゃんという女性が随分以前にいった言葉を、
今でも忘れることができません。
みどりちゃんはこういいました。
「ねぇ、典子さん。私のおかあさんは、料理があまり得意でないの。
なんかまずいの。でも、不思議と、おいしいの。
おかあさんの料理は、まずいけれどおいしいの。」
おかあさんの作った料理は、愛のある食べものの筆頭で、いくらおかあさんが
料理が不得意だとしても、「まずいけれどおいしい」ものなんだと思います。
食べものは、エネルギーなのです。

つくり手の、目には見えない、「もわっ」としたもの……つまりエネルギーそのものが、
その食べものに転写されています。
だから、おかあさんの料理を食べるという行為は、おかあさんのエネルギー、
愛そのものを食べるということになる。
いちばん栄養になるのが、この、愛のある食べものだと思います。
誰かが誰かのしあわせを思って、一生懸命つくった食べもの。
ほら、お茶だってそう。淹れる人によって、まるきり味が違います。
おにぎりだってそうですよね。おかあさんが熱々ご飯をやけどしそうになりながら
握ってくれたおにぎりと、売っているおにぎりとでは、全然おいしさが違います。
つくる人のその日の機嫌によっても変わります。
あの味の違いは、エネルギーの違い、なんだと思います。
私は、何かを食べるとき、このことを本当に大事に考えています。栄養よりも。
できるだけ、誰がつくったか、また、つくった人との関係性、など、
愛のエネルギーが高そうなものを選ぶのです。
一番いいのは、体が消化するときにやさしい、体と同じ自然な無農薬で丁寧に
育てられたお野菜などの素材を、無添加で丁寧につくられた調味料で、
愛する人と一緒にお料理して、一緒においしくいただくことだと思います。

逆にいえば、怒っている人、上から目線の人、悲しみでいっぱいの人が
作ったものを私はなるべく食べません。
以前、東京の有名なイタリアンレストランで修業したという人が宜野湾市に
お店を出されて行ったことがあるのですが、残念ながら、あまりおいしいとは
思いませんでした。案の定、お店の空気は冷たくて、
お客さまがいるにもかかわらず、オーナーがお店でスタッフを
怒鳴りつけている声が店に響き渡っていました。人間関係がさびしさで
いっぱいでした。
おいしさは愛の度合いなのです。

手前味噌で大変申し訳ないのですが、わたしの母の実家は代々、
大阪で洋食レストランを営んでいますが、その味がやさしくておいしくて
飛び上がるほどと、お帰りの際にはみなさんが10種類もあるサンドイッチや
フライの盛り合わせなどのメニューの中から持ち帰りされるほど評判店でした。
母の家族がみんなで経営していて、店の二階に居間があって、
おじいちゃん、おばあちゃん、おばさん、おじさん、いとこたち、私…と
大勢で手伝いながらわいわいと働いていました。
おじいちゃんが畑で育てた無農薬野菜や、選びぬいたこだわり食材など
家族に食べさせたいものをお客さまにも、というそのお料理の数々は、
愛のエネルギーがいっぱいだったと思うのです。
「本当においしい」とは、愛のある食べもののことを指す言葉だと
わたしは今つくづく思っています。

あなたも今年のボジョレーヌーボーとともに、「本当においしい」お料理を
愛する人と一緒に召し上がってくださいね。

(麗王の今年のボジョレーヌーボーは、ドメーヌ デュ クレ ド ビーヌ
(シュブラン家)のワイン。  シュブラン家はボジョレー地区南西部で
5世代前から続くぶどう農家です。現当主のフランソワさんは
元農学校教授。2008年にビオディナミを実践する友人のワインに
感動したことからオーガニック、ビオディナミ農法への転換を
決意しました。畑には草花があふれ、みみずなどの動植物が
土を耕します。醸造は、ドアットさんと同じ昔ながらの
マセラシオンセミカルボニックを実践。25℃を超えない低温で
ゆっくりと仕上げます。そんなシュブランさんのワインは花崗岩質の
畑の特長を生かしたミネラル感ときれいな酸味を楽しむことができる
味わいです。酸化防止剤は入っておりませんので安心して
お召し上がりください。)

【2014.11.19 末金典子】

めっきりと秋らしい毎日になりました。
明後日はハロウィンですね~。
ハロウィンの始まりは、古代ヨーロッパの原住民ケルト族の宗教行事。
11月1日を新年とする彼らはその前夜に死者の霊が訪れると信じ、
充分な供物がないと悪霊に呪われると恐れていました。そのため魔よけをし、
同時に秋の収穫を祝う祭りを行っていたとか。
その後、多くの聖人たち(Hallow)を祝う万聖節となり、近年、欧米では
魔女やお化けなどの仮装をした子供たちが
「Trick or treat!(お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!)」と家々を回ったり
仮装をしたりして楽しむ日に変化しています。
日本でも注目されるようになったのはここ20年ほどのことで、
子供のお祭りのようになっていますが、ハロウィンの行事がポピュラーなアメリカでは
大人達も本格的な仮装に身を包み、街中はもちろん職場にまで登場。
仲間同士で集まり盛り上がります。
大人もたまには童心に戻って遊ぶという気持ちって大切なことかもしれませんね。

この世界に「たった一人の自分」という存在で生まれてきた私達。
子供の頃の自分と、大人になった今の自分とでは、どう変わりましたか?
同じでしょうか?
「自分探し」などとよく言いますが、自分ってどんな人でしょうか?
知っていますか?

心だって無限に変化しますよね。
本居宣長は「情」という文字を「こころ」と読ませ「たえず揺れ動くもの」と
規定しましたが、どんな文字を使ってみたところでその本質は無限の変化にこそ
あるのでしょう。だから「ころころ」から「こころ」という和語が作られたのだと思います。
そして、善人だって悪人だって心の中に一緒に住んでいて、
あらゆる可能性が自分という一人に凝縮されているからこそ「只一人」
なのでしょうね。

人類の遺伝子は99.99%まで共通だと言われていますが、これこそ私達の
無限の可能性と見ることができると思います。
そしてそう思ったうえで、問題になるのは目覚めている遺伝子ということになります。
なんでも、普通の大人で目覚めているのは3%~5%程度らしいのですが、
このちゃんと目覚めて情報を提供しているDNAのズレが「個性」などと呼ばれ、
また大袈裟に言えば人間の能力も決定づけているのです。

よく人は根本的には変わらないと言われますが、
生活習慣こそが自分というものを形づくっていくそうです。
だからこそ、生活でのさまざまな試みのなかで、6%、7%と新たな遺伝子を
目覚めさせていこうではありませんか。

つまりは、今の自分の、生活習慣によって勝手に作り上げた輪郭を破りなさい、
ということなのです。
換言すれば、合理的理解の中で判断してやめてしまっては新しい遺伝子は
目覚めないのです。新しい世界にチャレンジすることで新しい能力が
目覚めるのでしょうから、フロンティア・スピリットで楽しむことを生活習慣に
してしまえばよいのです。

自分で自分をみくびらない。
それは幾つになっても自分の無限の可能性を信じることですし、
だからこそ相手の可能性も信じることができるのです。

ただ新しい行為にチャレンジすることは刺激に満ちていますが、
やはり勇気を必要としますよね。
現状維持を破る勇気です。
でも「勇猛心」を奮って挑戦すれば必ずや新しい世界が拓けてきます。
それを、そのまま自分そのものの成長と考えていいのではないでしょうか。
この世でたった一人の自分。ぜひとも成長したいものですね。

さぁ、私も明後日は魔女に変装してまずは童心にかえってみようっと!

【2014.10.29 末金典子】

今月は十五夜、重陽の節句、敬老の日、お彼岸の入り、ともう過ぎてしまって
来週は秋分の日。いよいよ本格的な秋の訪れですね。
日々の雑事に追われているうちに
「え~っ?もう今年もあと三ヶ月ほどなの~っ?」って感じで、
本当に月日の経つのの早いことったら!

「自分はいったい今年何を成し遂げたのだろう?」
「こんなことしていて、このまままで、いいのだろうか?」……
そんなふうに不安な気持ちになったり、将来に対する怖れの気持ちなどで
いっぱいになったりしていないでしょうか。
今日はその不安を取り除くためのお話を書こうと思います。

人間の感情は、突き詰めると「愛」と「怖れ」の二つしかないと言われています。
「愛」こそが私たちの真実で、「怖れ」は人間が作り出した幻想でしかありません。
確かに、自分が怖れや不安に思うことのほぼ90%は当たらないそうです。
であるにもかかわらず、怖れの気持ちでいっぱいでいると、
かけがえのない「いま」この一瞬がおろそかにされてしまいます。

現在、このひとときが幸福であるなら、それを充分に味わえばよいのに、
いろいろなことを考えて悩みはじめると、その幸福は手の中から
こぼれていってしまいます。

世の中はべつに心配事に満ちているわけではありません。
私達は、つねに心配したりおびえたりする気持ちから解放されることが
できるのです。
それには、「人はだれかを助けようと夢中になっているときは怖れを感じない。」
ということが心配やおびえから解放される唯一の道のようです。

いろいろな怖れや怒りは心をトレーニングすることによって、
解放し自由になることができると説く国際的に有名な精神科医の
ジェラルド・G・ジャンポルスキー博士のエピソードを御紹介します。

「人はだれかを助けようと夢中になっているときは怖れを感じない。」

このことをはっきりと意識したのは、1945年、私がスタンフォード大学医学部で
インターン三か月目の時でした。医学部では、クラスの三分の一の学生が
そのとき勉強している病気の症状を引き起こしているように見えました。
そしてそのうちの何人かは勉強中の病気に実際にかかってしまうのです。
私が一番恐れていたのは結核で、自分は結核にかかって死ぬのに
ちがいないとまで思いこんでいました。そしてインターンのとき、ついに
結核病棟の担当になってしまったのです。ある朝、目覚めて
一息呼吸したとたんに、そのまま死んでしまう、そんな自分の姿が何度も何度も
目に浮かびました。

ある夜のことです。私は、結核に加え、アルコールによる肝硬変を併発している
55歳の女性患者のことで緊急に呼び出されました。肝硬変を起こすと、
食道に静脈瘤ができやすくなるのですが、この女性患者は、食道静脈瘤が
破裂して吐血し、ショック状態に陥っていました。脈拍は微弱になっており、
血圧は低下して脈拍はふれることができませんでした。私はまず、
食道と気管からあふれ出る血液を吸引した後心臓マッサージを行いました。
ところが、あいにくその日は、酸素吸入器が故障しており、
私はマウス・ツー・マウスの人工呼吸を行わなければなりませんでしたが、
幸いなことにこの緊急処置は、患者の容態を好転させました。

当直室に戻った私は、鏡に映る自分の姿を眺めました。緑色の手術着は
患者の血で、赤く染まっていました。そして、そのとき突然私は、患者の処置に
必死になっている間、ただの一度も恐れを感じなかったのに気がついたのです。

人を助けることに集中しているとき、恐れを感じることはない。

私はこの真実に気づきました。これは猛烈な体験でした。それまでは、
結核にかかるのではないか、と内心おびえていたため、その恐怖にすくみ
動けなくなってしまうことさえあったのです。

人が、与えることだけを考えているとき、恐れを感じることはない。
このことをはっきり教えてくれた体験でした。

これを読んでいて私の子供の頃のことを思い出しました。

それは、幼稚園でのお昼ご飯の光景。
子供たちそれぞれの前には、お母さんの心のこもったお弁当が広げられています。
でもその中でひとり、不安そうにまわりを見ているちずるちゃんという
女の子がいました。
実はその日、ちずるちゃんのお母さんから幼稚園に電話が入り、
「ちずるを送り出してから、使っていた包丁が欠けていたのに気づいたので、
持たせたお弁当は食べさせないようにお願いします」という言伝があったのです。
そこで先生は、ちずるちゃんのお弁当箱のフタをお皿代わりにして、私たちに
語りかけました。
「みんなのおいしそうなお弁当からおすそわけしてくれる人はいるかな?」
すると、いっせいに手が挙がって、それはもうオモチャ箱をひっくり返したような
大騒ぎです。私も一生懸命手を挙げましたが、見ると、
普段は意地悪でいじめっ子の男の子たちまで、割れるような大声を出して、
必死に手を挙げています。私は小さいながらも、「ああ、みんな同じなんだ。
本当はみんな優しいんだ」と感じたのを覚えています。
その時、先生と私の目が合いました。すると先生は、「じゃあ、卵焼きを一つ
分けてあげてね」といって、先生のお箸が、私の卵焼きを拾いあげてゆく…。
その時、小さな私の胸はとても幸せにときめいたのです。
「ああこれでちずるちゃんも、お弁当が食べられるんだ」と、何ともいえない
温かさが湧き、澄んだ喜びが心の奥からこぼれ落ちそうになりました。
お腹がすいているのに、自分の食べ物が減ってゆくことが、何だか嬉しい…。
今思えばあれは「誰かのお役に立てる」という、最初のときめきだったのでしょう。
大人になると、こういう純粋さはついつい忘れてしまいがちですが、
あの日クラスのみんなが手を挙げたように、本当は誰もの中に、純粋で優しい
気持ちが息づいているのだと思います。
そしてそんな気持ちで生きていくことこそが、怖れや不安を感じずに、
幸せに生きていくことなのではと、私なりに感じたことでした。

あなたが秋の毎日をうんと幸せにお過ごしになられますように。

【2014.9.18 末金典子】

先週の沖縄は特別警報が出るほどの大型台風に見舞われました。
あなたは被害に遭われませんでしたでしょうか。
北谷に住んでおります私の方は、今回は東からの風だったこともあり、
電話線が切れるぐらいのことで済みました。
今時はスマホもあり、電話もネットもスマホが固定電話の代わりを
果たしてくれました。

台風でいつも大きく困るのは何よりも停電です。
前回の台風では停電が長く続き大変困りましたので
今回はほっと胸をなでおろしました。
ただ、前回の停電の時は、長時間ろうそくの灯りで生活をし暗く、
クーラーも止まり暑くと、大変不便でもあったのですが、
柔らかい光のもと、昔の人達の生活を偲び、何かしら温かく
ほのぼのとした想いにも包まれたものです。

社会において、まだまだ不安なことが多い中、目新しい便利なものや
サービスが次々とできあがり、それらによって、私達の暮らしはどんどん
変化しています。でもどうでしょうか。
新しいものが、私達の暮らしに増えていくということは、
一見うきうきすることですが、暮らしの中に古くからあった大切なものを、
知らず知らずに失ってしまうようにも思うのです。
私が思うに、日常の煩わしいこと、面倒くさいこと、手間がかかること、
時間がかかること、淋しく思うこと、不安に思うことなどと、
ひとつも向き合わない暮らしになっていくようで怖いのです。
面倒くさいことを丁寧に仕上げたり、一人で淋しさに耐えたり、
目の前の人や周りの人間関係に丁寧に向き合ったりすることは、
生きていく中でとても大切なことではないでしょうか。
そうした出来事や感情と向き合わない生き方というのは、
だんだんと人間らしさを失ってしまうのではないでしょうか。

健全な進歩を考えますと、前に進むことだけではなく、
時には少し戻ってみることも進歩のひとつではないでしょうか。
あなたはどのようにお考えでしょうか。

麗王は、日常の煩わしいこと、面倒くさいこと、手間がかかること、
時間がかかること、淋しく思うこと、不安に思うこと、
人に対し愛情を持って丁寧に向き合うことなど、そういった
「あたりまえのことと、しっかり向き合う」ことにこそ、
豊かさやしあわせ、楽しさや喜びがある、ということを
伝えていく店でありたいと思います。

麗王の中には、いわゆる一般のお店にある最新のカラオケや美しい女性達など
何もありません。でも、決して逆を行くつもりではありません。
私達が望む新しさは、何度も言うようですが、
あたりまえのことと向き合う中で、その奥底から見つけたいのです。
そういう生き方、暮らし方を、あなたと共に考えていきたいのです。
そんなことを台風でお休みしている日に改めて考えたことでした。

この海の日の連休にはいつものように北谷のアラハビーチの海辺を走りながら
自分にももっと向き合いたいと思います。
あなたもどうぞ御自分と周りの方々に、ていねいでやさしい週末を
お過ごしくださいね。

【2014.7.17 末金典子】

梅雨~っという感じで、じとじとじとと暑いですね~。
あなたはお元気にお暮らしでしょうか。

この間、拓実住宅の上原社長がいらした時のことです。
「私には5人子供がいるのですが、上の4人はもうみんな本土で就職したり
大学に通っていていて、今日は残る一番下の女の子を本土の大学に
空港まで送り出してきたのですが、実に寂しいものですね…。」
とのことでした。おまけに若くして亡くなられた弟さんの子供達を
ずっと見守っていらした上原社長なのですが、その子供さんがハワイに
結婚して行かれることになり、併せてとても感慨深そうになさっておられました。
また、私がいつも乗せていただいているタクシーの高山運転手さんも
「子供達全員が本土で就職してしまって、また夫婦水入らずの新婚生活が
戻ってきました。男の子が出て行く時はなんということもなく玄関で
見送りましたが、女の子が東京に行ってしまう時はもう寂しさが
こみあげてきて空港まで見送り、思わず泣きそうになりましたよ~。」
とのことでした。

私の父もそんな気持ちだったのかなぁ。
昭和8年生まれの私の父は両親との関係が希薄だったこともあったのか、
そういう時代の人だからか、私と弟に愛情を表現することが
とてもへたくそな人で、人一倍厳しい人でもありました。
なので私は「お父さん大好き!」なんていう明るい感情をついぞ持つことが
できず、それは弟も同じ思いだったようです。

麗王でもいろいろな方々の親子関係の悩みやトラウマ話をよくうかがいます。
子供の頃からなどの無意識に抑圧している感情や欲求があるうちは、
人間は百パーセントまるごとの自分自身になれないため、
その悪影響を払拭しようと、自分自身の奥底に押し込めている欲求と
少しずつ向き合うようになるのかもしれません。
それが自分の親にまつわることが圧倒的多数のように感じます。
親に愛されたい、認められたい、関心を持ってほしい、かまってほしい、
そんな子供の頃の想いを、ほとんどすべての人がそのまま抱えて
生きているのかもしれません。
そして、その主な対象が、父親なのです。
子供と接する時間は圧倒的に母親のほうが長いですし、
育児は母親の仕事と考えられがちなので、母親に対しての
感情を持つ人のほうが多いだろうと思われるかもしれません。
けれども私がお話をうかがってきた方々のほとんどは
父親がらみのものでした。
そういう人があまりに多いので、まるでこの世に「父親」がいないのではと
思うくらいです。父親との間に具体的な衝突がなくても、父親の存在の薄さ、
つまり子供時代に仕事でいつも忙しくて家にいなかった、必要な時に
そばにいてくれなかったということが、大人になっても消えない感情を
引き起こし、弊害をもたらすのかもしれません。

父親の存在の希薄さが、なぜその子供のトラウマになるほど重要な
問題なのかを考えてみると、
子供は父親を通して社会とのつながりを学ぶからだと私は思うのです。
生まれてまもない子供にとって、母親はまだ自分自身の延長のようなもの。
お腹の中にいたときはそれこそ一体でしたから、生まれてからしばらくの間も、
他者としての認識をあまり持ちません。
一方の父親は、ある意味、初めて会う他者です。
家と社会を結ぶ窓口が父親の大事な役目なので、子供にとっては父親は
「初めて会う社会」といえるかもしれません。
子供の世話をし、愛情を注ぐ母親のサポートをしながら、社会のしくみや
ルールを教えるのが父親です。
その父親との関係に問題があると、子供は成長して社会に出たときに、
困難を感じやすくなります。
父親が愛してくれない。関心を持ってくれない。認めてくれない。
自分に対して否定的。
するとその子供は、大人になって社会に出ていこうとするときに
自分に自信を持てず、他者とうまくやっていきにくい傾向にあるようなのです。
受け入れてもらえるか、認めてもらえるかが不安で、
怖じ気づいてしまうのかもしれませんね。

ただ、どうやらその父親の感情の希薄さも、生化学的に説明が
つくようなのです。
最近の研究によれば、女性は生化学的に、男性よりも他人とのつながりを
求める傾向があることがわかっています。
男女ともにストレスを感じればアドレナリンやコルチゾールといった
ストレスホルモンを分泌しますが、この悪影響を和らげるために、
女性の脳は「結びつきのホルモン」であるオキシトシンを放出しようとします。
女性が落ち込んだ時、友達と集まっておしゃべりに興じたり、子供やペットに
接したりするのはそのためなのでしょう。こうした行為がオキシトシンの分泌を
うながし、女性の心を穏やかにして、ストレスを消していくのだそうです。

また、ストレスやホルモンと性別の関係について幅広い研究を行っている
心理学者のジョン・グレイによれば、
ストレスを感じたとき女性はオキシトシンを分泌しますが、
男性にはそれがなく、コルチゾールの分泌によってドーパミンや
テストステロンの値が抑えられ、憂うつや不満を感じるようになるといいます。
こういった幸福のホルモンの生成をうながすために、
男性は、女性のようにおしゃべりや愛情を与える行為でストレスを
解消しようとせず、問題の解決や克服などの行動に出ようとします。
つまり、男性はオキシトシンの量が少なくなっているために、人間関係に
さほど注意を払わなくなるというのです。

なるほどねぇ。
なんだか女性が男性よりもおしゃべりなことが納得できるような…。
じゃあ、日曜日の父の日はお父さんにもっと優しい言葉で
電話してみようかなぁ。
あなたもどうぞそういうお父さんを理解し、思いやりと労りを
プレゼントなさる日にしてみてくださいね。
そしてあなた自身がお父さんでおありでしたら、
存在感をうんとアピールするべく御家族との楽しいコミュニケーションの日に
どうぞなさってみてくださいね。

【2014.6.12 末金典子】

ゴールデンウィークはのんびりとリフレッシュなさいましたでしょうか。

私の後半4連休はと言いますと、
まず1日目は、「明日から4連休だ~っ!」と興奮し、
いきなり那覇の街歩きに出かけ、
2日目からは日頃の疲れがどっと出てきて、帯状疱疹後神経痛で体中がびりびりし
休みなさいと警告を始めたので、これはおうちに籠らねばと、ひたすらのんびり
本を読んだりDVDを観たりお料理を作ったりしておとなしく過ごしたものの、
それだけでは太る~!っと焦りランニングもしっかりとこなした日々でした。

さて、この週末は母の日ですね。
今年は母に叱られた思い出について書いてみようと思います。

「お天道さまがちゃんと見ているよ」。
うっかり気をゆるめて、目の前のことをいい加減にしようとしたり、
さぼろうとしたりすると、こんなふうに母に叱られて「はっ」と目を
覚ましたものです。
幼い頃から、よく耳にしませんでしたか?
「お天道さまはお見通し」。
きっと誰もがよく知っている言葉だと思います。
お天道さまは、親しみを込めた太陽の呼び名で、お月さまとかお星さまと
同じように、私達にとっていつも身近にあるものですね。
まわりに誰もいず、自分一人でしていることを必ず見ていてくれるお天道さま。

たとえば、いいことをすれば、お天道さまはしっかり見ていて、
いいことをほめてくれて、いつか必ずご褒美をくれ、守ってもくれる。
逆のことをすれば、お天道さまは決して見逃さずにいて、いつか必ず
身にしみるような罰を与えて学ばせてくれる。

幼い頃から今に至るまで、一日に何度も「お天道さまはお見通し」
という言葉を心の中でつぶやきます。そうやって、できるかぎり自分を律し、
いつも人を思いやり、過ちを誤魔化さない毎日でありたいと思います。

世界、そして日本、自分の暮らす街、職場、家など、今どこを見ても、
不条理なことや理不尽なこと、ひどいことや正しくないことが、多少なりとも
あるでしょう。そのことに向き合うと、とてもつらい気持ちで一杯になります。
けれどもそんな時こそ「お天道さまはお見通し」という言葉を思うのです。
自分は無力だけれど、お天道さまがいつかきちんと正してくれるはず。
そして毎日、お天道さま、ありがとうございます。お天道さま、ごめんなさい。
と心の中で手を合わせ、頭を下げるのです。
そんな呑気でいいのかと呆れられるかもしれませんが、ほとんどの問題が
そうであるように、相手が人の場合「お天道さまにおまかせする」というのも
一つの方法かと思います。

日々、正しさは何かと考え、人を思いやり、社会や自然が喜んでくれることを、
こつこつと努力する。そうすれば、いつか必ずお天道さまがほめてくれる
そういう考えは、なんて心強いのでしょう。
そんな母から教えてもらった「お天道さまはお見通し」という言葉を、
あなたと一緒に、今日のはげみにして、明日のお守りにして、
笑顔を失わずに、暮らしと仕事を一歩一歩歩んでいきたいなぁと
母の日を前に改めて思いました。

連休も終わり、また仕事の毎日ですね。
本当にいろいろなことが通り過ぎていく毎日ですが、元気を出しましょう!

【2014.5.8 末金典子】

ゴールデンウィークを前に今日はしとしとと梅雨かのようなお天気ですが
お元気にお仕事にお励みでしょうか?

麗王には毎日いろいろな方がいらしてくださいますが、
そのなかにはとてもセンスのいい方がいらして、はっとすることがあります。
「センスがいい」といったってもういろいろ。
服装のセンス、話し方のセンス、立ち居振る舞いのセンス…

そもそもセンスには、教養のような意味合いがあると私は思っていて、
なぜなら両者は、学習して身につける、という性質が似ているからです。
では、どのように学んだり、身につけたりしていくのかというと、どんなものにも
「すてき」を見つけるアンテナを、いつも立てておくことだと思うのです。
自分があまり好きではないもの、もっと言うと、第一印象では正直苦手だなと
思う人にも、「すてき」を見つけ出すのです。
苦手といっても、100%嫌いということはあり得ません。
必ずどこかにすてきなところがあるはずだと、好奇心を持って探すのです。
もしも見つけられたら、宝物を発見したみたいに感動するはずです。
小さな感動かもしれませんが、その感動こそが、実はセンスの種と言えます。
感動したことは必ず真似したくなりますし、真似を重ねていくと、
他人のセンスだったものがいつの間にか自分だけのオリジナルのセンスに
昇華するのです。

「すてき」だと感じるものは、恥ずかしがらずにどんどん真似していいと
思います。ただ、そのとき「自分らしさ」を打ち消さないように。
自分らしさとは、長所ではなく、短所とか欠点に顕著に表れます。
すてきな自分になろうとするあまり、短所や欠点を直そうとする人もいますが、
それらはもとから持っているものなので、ゼロにするのはむつかしい。
むしろ短所や欠点に、人間のかわいらしさとか愛嬌が含まれていることを知って、
大切にしてあげたほうが、人間的な魅力に映ります。

自分にはセンスがないと思い込んで、すてきなものを選んだり、判断する自信が
ないという人もいます。そんな方はまず、心身のコンディションを整えるように
つとめてくださいね。センスを磨くことと、一見なんの関係もなさそうですが、
実はこれがとても大事。健やかさがキープできていなければ、すてきなものを
見つけるアンテナの感度が鈍ってしまうからです。
仕事などやらなければいけないことでいっぱいになっていると、たとえ目の前に
美しいお花があっても、気づけなくなってしまいますよね。
いつでも心に余白を持つことが必要なのです。

今、私は本や雑誌はよく読むのですが、テレビはまったくと言っていいほど
見ませんし、SNSを利用することもありません。
どういうことかというと、自分に入ってくる情報や刺激を少しだけ抑えている
というのでしょうか。
そして仕事についても、暮らしについても、頑張りすぎないというか、
全力を尽くさないというと誤解を生むけれど、八割くらいのちからしか
出していないように思います。
なぜかというと、私がとても大事にしていることは、自分にいつも余白もしくは
空いたスペースを残しておきたいからなのです。
学びって何だろうと考えると、いつでもすてきなことを敏感にキャッチできる
コンディションと、心の素直さ、そして、そのための身体と心のすこやかさを
保つことからはじまると思っているからです。

そのためには本当にベーシックなことですが、きちんと睡眠をとって、
安全でおいしいものを食べて、よく笑い、しっかり体を休めるのが一番です。
そういう生活が、感度のアンテナを養い、いろいろなことに、ぱっと反応できる
元気さを作り、ひいてはそれが、センスが磨かれることへつながるのです。

一日の中にはたくさんのチャンスが飛び交っています。そんなチャンスの中から
これだと思うチャンスに飛びつく瞬発力もあってほしい。
直感の鋭さもほしい。
イザというときに全力を出すためにも、何かから逃げる機敏さも残しておきたい。

それらはなぜかというと、一日のすべてを出来るだけ楽しみたいから。
楽しむというのは、誰にでもできる毎日の努力。
私達の人生は楽しむためにあるのです!

さぁ、ゴールデンウィークですよ~。
忙しい毎日から、のんびりと自分をリセットして、
センスを磨き、毎日を楽しむための素地作りをしてくださいね。
そしてどうぞ、うんとうんと楽しんでくださいね~!

【2014.4.24 末金典子】

ほんのりと暖かくなってまいりましたね。春は近そうです。
お元気にしていらっしゃいますか?
週明けはおひな祭りですね。

この数年麗王では女性のお客さまが多くなってきていて、
みなさんのお話をうかがっていますと、今の女性は男性よりもよほど思考が
アグレッシブで、話題を突き詰めれば「これからいかに幸せになるか」と
いうことに行き着きます。
ただあまりにも「人生の目的は幸福になること」だと一種の呪縛のように
思い込みすぎている方も多く、こんなふうに考えてみてはどうでしょうということを
今回は書いてみたいと思います。

19世紀末から20世紀初めにかけて活躍したアメリカの高名な哲学者に、
ウィリアム・ジェームズという人がいます。
プラグマティズム(行動を重視する考え方)を世に広めた人で、夏目漱石にも
大きな影響を与えました。そんな彼の著書「宗教的経験の諸相」に「二度生まれ」
という概念が出てきます。
普段、人々は生きていることの不可思議さを日常の忙しさの中で忘却し、
あたりまえの光景として受け止めて日々を送っています。
でもその中の幾人かは、ある一線を超えることで
大地が決して強固ではないことを知り、その亀裂に飲み込まれ、大事な何かを
捨てさせられたり、恐怖を実感するようなのです。
これにより、その人は二度目の誕生を経験し、それはある意味で「本当の誕生」
であるとジェームズは書いています。
これは彼自身の個人的な体験に拠るところが大きいらしく、人生が破綻するほどの
精神的なダメージを受けた時期を乗り越えて再生した経験が反映されているようです。
彼はその経験によって、個人に起きるそういう変化の中に
新しい自分が誕生する瞬間があると考えるようになったのでしょう。

ジェームズが生きた20世紀初頭のアメリカでは、今で言う「ポジティブ・シンキング」
が大流行していました。クヨクヨしたって始まらない、前向きに生きることが
大事だと。
ジェームスの二度生まれは、それとはまったく異なるものです。
ポジティブ・シンキングのように苦痛や苦悩を安直にやりすごしたり、
違うものとすり替えたたり、他人に転嫁するのではなく、苦痛や苦悩を引き受ける
ということなのです。
もちろん不幸に見舞われれば、「どうして私がこんなつらい目にあわなければ
ならないんだろう」と誰もが思うでしょう。誰かを恨んだりするかもしれません。
それは当然のこと。でも、そこから始まって、それを受け入れることで
自分の中の価値観が大きく変わり、新しい自分に目覚めていく。
このようなあり方をジェームズは考えたのだと思います。

「二度生まれ」について、私自身が深く考えるようになったのは、
沖縄に住んだことがひとつのきっかけでした。
それまでの考え方や価値観やものの受け止め方など、
変えざるをえないことや捨てなければならないことが続きました。
また年齢的なこともありました。女性として結婚もせず子供も産まず
それでいいのだろうかといったことも含め、生き方を模索していた時で、
当初はいろんな思いに思い迷い打ちのめされました。
でも、そういう自分に向き合う中でやがて、別にいつも幸せでなくても
生きがいのある人生、意味のある人生はあるのではないかしら――そう思うように
なりました。

そもそも私達は、「人生の目的は幸福になること」だと一種の呪縛のように
思い込んでいます。でも、生きるということは、不可避的に苦痛や苦悩が
訪れるものです。
たとえ今は、お金にも仕事にも恵まれて、悩みひとつないような人でも、
やがて両親が亡くなる場面に直面したり、いつかは自分にも病や死が訪れます。
それは否応なしにやってくるもので避けることができません。

ですから「人生の目的は幸福になること」と考えると、幸せと不幸の間に何か分断を
感じがちですが、そうではありません。幸せもあるけれど、不幸もある、
それが人生なのです。健康もあれば、病気もある、生もあれば、死もあります。
それはどこかで地続きなのだから引き受けざるをえないということです。
そう考えると、いつか自分は不幸になるのではないだろうかという不安からも
開放されますよね。
苦痛や苦悩から逃げずに向き合ってみる、そんな「二度生まれ」の経験は、
きっとあなたの人生をより深く、豊かなものにしてくれるはずです。

まぁそんなことを書きながらも実は、あなたも私も、健康で、仕事があって、
ちゃんと衣食住ができていて、友達がいて……数え切れないほどうんと幸せな人生
なのですよね。人間ってなんて幸せという感覚に一番麻痺する動物なのでしょうか。

さあ、週明けの月曜日は桃のお節句。ひな祭り。
今では、女の子のお祭りと考えられることが多いようですが、もともとは
この日に川で手足を洗って心身の穢れを祓い、邪気を、身代わりの人形に移し
川や海に流し、家族全員の厄をはらい、夫婦円満を願うという
行事だったそうですから、子どもが男の子だけの家庭であっても、
家族の、周りのみんなの、幸せと健康を願ってぜひお祝いいたしましょう。
【2014.2.27 末金典子】

雨続きの寒い毎日が続いておりますが、体調などくずしておられませんでしょうか。
明後日は心ほんわかバレンタインデーですよ~。

私と年齢の違うあなたといえども、きっと私と同じお気持ちではないかと
思うのですが…、今の自分の年齢って、自分が感じている年齢の方が、
実際の年齢よりも、う~んと若いのではないでしょうか?
私なんて気持ちはまだまだ20代なのに、え~っ?いつの間にやらもう50代!?
って感じなのですよね~。となると、必然麗王にいらしてくださるお客さまは
私よりも年下という方がどんどん多くなってくる…というわけです。
そんな年齢の私でも「麗王に訪ねて行ってやろう」という心優しいみなさんの
ために、このバレンタインメールは何かプレゼントになるようなことを
書きたいなと愛情を込めてお贈りいたします。

よくうかがう悩みごとが
「自分の生き方に自身が持てない」「何となく毎日を生きている感じがする」
「成功やお金儲けはしたいけど、どうしたらいいのかわからない」
ということです。

私はいつもこうお話ししています。
「できるだけ自分に素直に、今やりたいと思うことを全部やっておいたほうが
いいですよ」って。
それは、体験から来る実感だから。
いろんなコンプレックスを抱えて、仕事のことで悩み、始終葛藤していて、
おまけに結婚もせずに自分はひとりで生きているんだと信じ込んでいたので、
他人への理解度もまだまだ浅かった失敗だらけの、今振り返ると赤っ恥の若い時代。
でもそういう失敗の数々もまた何かを「為した」ゆえなのです。
つまり、自分に多くのものをもたらしてくれたのは
「成功の反対は失敗ではなく、何もしないこと」だという事実でした。
傷ついたり悩んだりする中で、何となくいろんなことを学んで、気がついたら
自分にとって大切なものや使う言葉、選ぶべきものがだんだんわかってきた気が
します。

今感じるのは、結局は若いときに経験してきたことが貯金になっている
ということなのです。今の私は、その利息で生きているようなものです。
(もちろん今でも必死に経験貯金してはいるつもり…)
だから、若いうちに、自分に正直になって、一所懸命、経験を増やしたほうがいいと
思うんです。

それでも、モヤモヤを抱えて生きるのは苦しいものですよね。
ではこんなふうに考えてみてはどうでしょう?

自分のいいところ、理想的な部分ってありますよね。
反対に捨てたほうがいいと思うだめなところもありますね。
いいと思うところは他の皆と似たり寄ったりの価値観で、
実はだめなところのほうがユニークだったりすることが多いのです。
これこそが個性なんです。ここを捨てたり、否定したりすると、
一見いい人になるかもしれないけれど、いったい自分って何なんだ、
こんな自分を誰が愛するんだという気がしませんか。

欠点こそが、愛すべき個性になりうる。
それを私に教えてくれたのは、詩人・高村光太郎でした。
彼は「最低にして最高の道」という詩に、醜いものと美しいもの、最低と最高は、
常に自分の中に共存していると書き、私はその価値観に、大いに影響を受けました。
「道程」も「レモン哀歌」も大好きでしたが、この詩はそれまでの価値観が
ひっくり返ってしまうくらいの大きな衝撃でした。
「そうなんだ~、何も他人の価値観の最高を目指さなくても、こんな自分の中での
最高の道を行けばいいんだ」と、急に視界が開けた気持ちになったのを
今でも覚えています。そして今までずっとこの詩のようにありたいと
生きてきたように思います。

人生だって、良いこともあり、悪いこともあります。
人間だって同じことで、欠点だけを消そうと思うと、魅力はなくなってしまいます。
両方をありのままに調和させて生きていくことが、人間らしく生きる
ということであり、人生そのものなのでしょう。

誰もが最高を目指し、そういう自分でありたいと思っています。
でも、それで人間として魅力的かというと、決してそうなっていないんです。
むしろ弱いところ、だめなところにこそ自分らしさがあって、強みになるんだと、
認めてあげてほしいのです。
きれいじゃない自分も大切な自分。
弱さを否定せず、抱きしめて生きてくださいね。

ネガティブな部分を愛するようになれば、人は不思議と自分らしい顔つきに
なっていくものです。
また、他人を許し、受け容れることもできるようになります。
それこそが、とても素直な生き方なのではないでしょうか。
きっと、真っ暗闇から日向に出たような気持ちになることができると思いますよ~。

明後日はバレンタインデー。
あなたと感動を分かち合いながら最後に、「最低にして最高の道」をともに行こうよ、
と高村光太郎の詩をプレゼントさせていただきます。

「最低にして最高の道」
高村光太郎

もう止そう。
ちひさな利慾とちひさな不平と、
ちひさなぐちとちひさな怒りと、
さういふうるさいけちなものは、
ああ、きれいにもう止そう。
わたくし事のいざこざに
見にくい皺を縦によせて
この世を地獄に住むのは止そう。
こそこそと裏から裏へ
うす汚い企みをやるのは止そう。
この世の抜駆けはもう止そう。
さういふ事はともかく忘れて
みんなと一緒に大きく生きよう。
見えもかけ値もない裸のこころで
らくらくと、のびのびと、
あの空を仰いでわれらは生きよう。
泣くも笑うもみんなと一緒に
最低にして最高の道をゆかう。

* この詩は昭和21年の中等の教科書に1年間だけ掲載され、新制中学の教科書には
掲載されなかったそうです。
今もずっと掲載されていたなら、もしかしたら世の中の何かが変わっていたかも
しれませんね。

【2014.2.12 末金典子】

本土はこの冬は厳寒・大雪ということで、今をピークにインフルエンザが
流行っているようですが、なんと!沖縄は、その本土の4倍もの
インフルエンザ患者数とのこと!!

かくいう私も先週やられてしまいまいました!
先週の木曜日から麗王も休み、信頼するかかりつけ医の西平守樹先生の迅速な処置と
西平医院の優秀で心優しい看護師さん達のおかげで熱はすぐに下がったものの、
西平先生から「熱が下がっても人にうつさないように3日は外出厳禁」とのお達し。
咳がひどかったので喉が荒れて声が出にくかったこともあり、
大事をとって昨日の木曜日まで丸1週間お休みさせていただきました。
その間、麗王にいらしてくださった方々、予約やお見舞いのお電話やメールを
くださった方々、本当にすみませんでした。そしてありがとうございました。
西平先生と西平医院の方々も本当にありがとうございました。

お休みさせていただいた8日間の最初の3日間はうんうんと熱と咳にうなり苦しみ
その後はひたすら静養のためぐ~ぐ~寝たり、本を読んだり…。
お正月休みなどとは違って、みんなが働いている日なのに自分だけ働きもせずに
だらだら過ごしていると、日が経つにつれ、楽しいというよりはなんだか
「自分だけこんなことしていていいのだろうか?」なんて、
自分だけがどんどん取り残された気分になっていくのです。
やっぱり働くことって素晴らしいことなんだなって。
それでも、必ず治っていく病気なのですからどんなにありがたいことでしょう。
不治の病と闘っている方々は日々どんなに苦しんでおられることでしょう。
改めて病と人との関わりにいろいろな想いをめぐらしたことでした。
痛みを知ることって本当に大事なことですね。
さぁ、旧正月の本日よりまた気持ちをまっさらにして
元気よく営業させていただきます!
どうぞまた本日より麗王をよろしくお願いいたします。

あなたのほうはお元気にしていらっしゃるでしょうか。
1月も早や終わり、週が明けるともう節分ですね。
節分というのは、平安時代の宮中儀式「追儺(ついな)」が始まりといわれていて、
この日は立春の前日で文字通り季節を分ける境目。旧暦でいう大晦日なのです。
それで前年の悪疫邪気払いの行事としてこの「追儺」が行われていました。

で、なぜ「豆」を投げるのでしょう?
実は鬼の目「魔目」に豆を投げれば「魔滅」するからだとか。

また煎った豆でないといけないのはどうしてでしょう?
生の豆は芽が出てくるため、そこから鬼が芽を出という説や、
豆(魔目)を煎ることにより鬼を退治するという説もあるそうです。
つまり豆自体が鬼なので、外に投げ「鬼は外!」、あるいは食べてやっつけろ!
というわけですね。

それに、新年のエネルギーは一月ではなく二月の節分を越えたあたりに
動き始めるのだとか。つまり、節分を越えると、今年のエネルギーが非常に
はっきりしてきますので、今年の幸せに向かう目標や新しいトライは、
この頃にまっさらな気持ちで始めてみるのもいいかもしれません。
旧暦大晦日の節分の次の日は、新年元旦。
新年って、合理的に考えれば単に年の数字が一つ増えるだけのことなのですが、
それでも、新年を迎えると心身ともにリフレッシュされる気がします。
近年以前の人たちは、新しい年を迎えるときには、そのつど、この世界そのものが
一新されると考えていたのです。そのなかでは、もちろん、私達自身も新しくなる
というわけです。
一年の計は元旦にあり。1月1日に計を立てられなかった方は、今日の旧正月や
来週の節分の次の日がいいチャンス。去年の出来事やいろいろな思いを振っきって、
新しい年に踏み出しましょう。

私の今年の目標はといいますと…、麗王でもっともっとあなたの心に寄り添って
お話をうかがうことができるようになること。
昨年も静かな日はともかくとしてもバタバタしている日などは、
まだまだできていないなぁと日々反省の毎日でしたから。

昭和女子大学学長の坂東眞理子さん曰く、一番品格のある会話とは、
自分のことを話したくてたまらない人(ほとんどすべての人)の話を聞くこと、
なのだそうです。

確かに、コミュニケーションの一番の基礎は聞くことです。
会話の中で気の利いたことを言おうとか、笑いを取ろうとか、
ユーモアとセンスのよさを見せようとする必要はありません。
ひたすら相手のお話を肯定的な態度で聞くのです。

傾聴という言葉を知っておられますか?
それはただ聞き流す、尋ねるのではなく、
相手の話すことに耳も心も傾けて聞く、話し手を中心に置く聞き方です。
批判したり、評価するのではなく、相手の言い分を無心に聞く。
これは心理カウンセラーの重要な手法ですが、傾聴によって、
問題を抱えている話し手が、聞き手に受容されていると感じ、悩みを吐き出し、
新しい気づきが生まれるといわれます。
日常生活でも傾聴することによって相手に安心感、信頼感が生まれ、
よい人間関係ができるようです。

とはいっても本格的に傾聴することはなかなか難しい。
ともすれば相手の話をありのままに受け止めないで批評や批判の言葉が出たり、
とんちんかんな相槌を打ったり、気休めにしかならない激励をしてしまったり
ついしがちですね。
私なんて相手に向き合おうとするあまり、暑苦しく入り込みすぎたりしてしまう
なんてもうしょっちゅう!
専門家ではないのですから、百パーセント完全にできないにしても、
話すより聞くことを心がけるだけで、人間関係はずっとよくなるはずですよね。

今年こそ私も傾聴ができるように努めたいと思います。
麗王にいらしてくださるあなたのお話をしっかりうかがって、
そっと肩を押すことができるようになるためにも。

さぁ、週明けは節分。
複雑な課題の多い今日この頃、厄払いはしっかりとしたいものです。
あなたも大きな声で豆をまいて。
「鬼は~外、福は~内。」
私も邪気を払うべく、もっと元気になるべく豆を今までより少し多めに撒き、
しっかりと数え歳プラス1個のお豆さんをいただくことにいたします。
そして今年の恵方の東北東に向かって、幸運をおいしく呼び込む恵方巻き寿司を
ガブリ!とまるかぶりするぞ~!
あなたと私の今年一年の幸せを、今日を元気に生きていることの幸せを、
心から願って。

【2014.1.31 末金典子】

あけましておめでとうございます。

いつもよりは暖かめのお正月でしたね。
私はと言いますと、ごくごくオーソドックスに、大晦日は年越しそばをいただき、
紅白歌合戦を観て今やもうついていけない流行歌のお勉強をこなし、
おせち料理をゆっくり作り、元旦にお雑煮・お屠蘇とともにいただき、
初詣には普天間神宮までランニングで行ってお参りをし、
あとはひたすら読書とお料理とDVD三昧というお正月でした。
あなたはいかがお過ごしでしたでしょうか。

さて、東京から時折いらしてくださるお客さまで、ドイツ史やドイツの軍服を研究し
著書も出しておられる山下氏は、私にいつもこんなふうに話しかけられます。

「マダム、私はこう思うんですがね…」

こんなふうに「マダム」とよばれるのは、なんと気持ちのよいことだろう、と
いつも思うのです。フランスの女の人は、結婚していようと、していまいと、
若かろうと、若くなかろうと、みんな一様に「マダム」と呼ばれます。
マダムという呼び方は、大人の男の人がすべてムッシューとよばれるのと一対で、
もちろん、職業のいかんも、地位の高低も、年令も問いません。

ドゴール将軍がなくなられた時、テレビを通じてドゴールの死を告げる
ときのフランスのポンピドウ大統領のスピーチは、「フランセーズ、フランセ」で
はじまっていたのを子供心に覚えています。
日本語になおせば、「フランスの女の人達、フランスの男の人達」と
なるところではないでしょうか。でも日本語ではどうも格好がつきません。
こういう呼びかけは、その国の習慣と、片づけてしまえばそれまでですが、
日常の習慣のなかに、相手の年令や職業にかかわらず同じに呼びかける、
そういう気持ちが出ていて、本当にいいと思います。

おばさん、おかみさん、奥さん、ママさん、……
相手によって呼びかえている私達の日本語も、なにか「マダム」のように、
ひとことで、誰も同じに呼ぶことができる言葉が出来るといいなと。

今、日本はいろいろな面でとても子供っぽいと私は思うのです。
ファッションも子供っぽいし、仕事の仕方も子供っぽいし、
結婚の仕方もすごく子供っぽい。
若さに価値を置いたり、それをよしとしすぎる社会も子どもっぽい気がします。
これは見方を変えると、「だれかにプロテクトしてほしい」とみんなが
思っているからかもしれません。

女性が結婚をゴールと思っていた時代は、相手に求めるもの、依存するものは
とてもたくさんあったと思います。だけど、今はもう男性にはそれだけの
キャパシティがないのではないでしょうか。
自分では生活の糧を得るすべもなく衣食住すべてを男性に依存するという女性を
背負い込むだけのゆとりは、若い男性にはもう持つことができない社会の構造に
なってきているのだと思います。生活にかかるコストとか、世の中に転がっている
チャンスの比率とか、ゆとりや隙間があまりにないと思いませんか?

だから、今、どういう女性と本当に結婚したいと男性が思うかといったら、
「自分で自分のことができる女性」だと私は思うのです。
今の女性は社会的にも、別に男性に衣食住を用意してもらう必要はないかも
しれません。自分で手に入れられる収入があれば、相手に依存することなく、
もっと純粋に一緒に居て楽しい関係でいられるし、また男性側も
それを望んでいるのではないでしょうか。

去年の麗王は若い女性がとても多くいらしてくださったので書いておきたいのですが、
27歳くらいから34歳の間が一番女性が迷ってしまう時かもしれません。
この時期というのは、恋愛も盛り上がる頃だし、気持ちが何かに集中すると同時に
見失いやすく、すごく気持ちが揺れる時でもあると思います。
だからこそ、その時期に、寂しいからとか年齢的なことだけで無理に結婚をして
キャリアを失うことは避けたほうがいいと思います。仕事は絶対に続けたほうがいい。
結婚までいかない恋愛にしても、相手に自分を守ってもらおうと思ったら、
そこでもう何か違うものになっている気がするのです。

年をとったら不安だから特定の人を決めておきたいという考え方もあるけれど、
自分の老後を見させるために配偶者を選ぶものではありません。
そんなことはなんの価値もない投資で、相手が先に死んだり病に倒れたりしたら、
自分のほうが面倒を見ないとならない。まったくあてにならないことです。
それよりも純粋に「この人と一緒にいたい」「この人と時間を過ごしたい」という
気持ちが重要であって、面倒を見てくれることに価値を置くと、実は不安を自分で
抱え込んでしまうということに気づくべきなのです。

人はなぜ不安になるかというと、「失ったら困る」というものを持っているから。
失ったら自分はどうやって生きてこの生活を維持していけばいいの?と
執着する相手やお金や空間……失うものを持っていればいるほど不安の原因は
多いということです。でも、何を失っても自分の足で立って生きていくことが
できるという心の準備があれば不安は和らぎます。
それには、自分で食べていくことができる、つまりは収入があることが基本です。

大人は自分で自分の身を守らなくてはいけないもの。
そして極力、自分の中から不安を取り除いて生きる姿勢が、
快適な人生といい運を引き寄せるのだと私は思っています。

さぁ私もまた今年もしっかり働かなくては!
麗王にいらしてくださるあなたとのひとときを優しさや楽しさで包むことが
どうぞできますように。
そんな想いでスタートをきりたいと思います。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

明日は七草です。
歴史は平安時代にさかのぼります。
朝廷では一月七日に若葉を摘み、冬の寒さを打ち払おうとする習わしが
ありました。
一方、海を隔てた中国でも、この日に7種類の菜の煮物を食べれば、万病に
かからないという言い伝えがありました。
七草がゆは、この日本と中国の風習が合体し、一月七日に、一年の無病息災を
願い、七草を入れたおかゆをいただいて、冬に不足しがちな野菜を補い、
お正月の暴飲暴食で疲れた胃袋をいたわるという古人の知恵が、
現代に生き続けている行事なんです。
お休みモードからふだんの生活に切り替えるきっかけとしてはとっても
おすすめです!
明日は麗王でもこの七草粥を御用意しておりますので
ぜひ召し上がってみてくださいね。

なお、今日はおせち料理を、
11日土曜日には「鏡開き」のおぜんざいをご用意いたしておりますよ~。

【2014.1.6 末金典子】