トリニティの人事論(pdf)

サンマリーナの人事考課基準を導入する際、「運用」方法に並んで理解されにくかったのが、「好きなことだけをして構わない」、ということの意味だったと思います。もちろん、「好きなことだけをして構わない」とは、無法状態を歓迎するという意味ではありませんので、その具体的な意味を明らかにしたいと思います。

「好きなことだけをして構わない」ということの意味
「好きなことだけをして構わない」とは、文字通りの意味なのですが、四つの前提があります。第一に、「好きなことだけをする」とは「いつでも身勝手に振舞える」という意味ではありません。例えば、ホテルの満室稼動のピーク時に、何の前触れもなく持ち場を離れて買い物(例えば)に行くことを奨励するという意味ではないのです。しかしながら、営業中に買い物に行くことが、その社員にとって重要なことであれば、それを可能にするよう、組織や場合によっては事業そのものを変化させて対応する、という意味でもあります。サンマリーナで実際にあった小さな事例ですが、出産を終えて職場に復帰したある女性が、預けている子供を終業後迎えに行くのがぎりぎりの時間になるため、「終業近くになると気持ちが少し急いてしまう」ということを告白してくれたことがありました。もちろん、気持ちは焦りながらも「普通通りに仕事を片付ける」ことはできますし、彼女は責任感が強いので、個人的な事情を言い訳にすることもありません。しかし、彼女があと30分早く仕事を終えることができれば、もっと気持ちの落ち着いたいい毎日を過ごす事ができるのは明らかでしょう。面談の後、彼女の就業時間を30分早めることにしたのですが、彼女の顔つきが見る見る明るくなるのを見てこちらが驚いたほどです。人より早く始動する30分は、彼女の作業効率を上げただけではなく、周囲の従業員に対してもメリハリのある勤務環境となりました。会社にとっては小さな対応かもしれませんが、彼女の毎日の生活にとってはとても意味のある変化となったようです。一般的な経営理論が人間関係の現場において如何に現実味を持たないかということの良い事例でもありますが、このようなケースで彼女の終業間際の30分間の労働生産性を「モチベーションマネジメント」、「インセンティブの付与」、「目標設定と進捗管理」などの手法で高めようとしても、それは無理というものでしょう。なぜなら、彼女の人生で仕事が子供に優先することはないからです。

第二に、「好きなことだけをして構わない」とは「従業員の自由な振る舞いの結果に会社が対処する」という意味ではありません。例えば、従業員が欠勤することは自由ですが、例えば有給休暇などの規定を超えて欠勤する従業員に、会社が給与を支払い続けるということではありません。しかしながら、従業員が欠勤がちだからといって、それだけの理由で人事考課に悪影響を及ぼしたり、仕事がしにくくなるなど事実上の制裁がなされることは避けるべきです。自由な選択に介入しないということは、形式、実質を問いません。自由に振舞う社員に対して、「だったら好きにしろ」という態度を取る上司も実質的に従業員の自由意志に介入していることになります。望むべきは、「好きにしても良いんだよ」というニュアンスでしょうか。この考え方は、「会社は、従業員の自由な行動と選択に介入せず、仮にそれが『誤った』ものであったとしても、従業員が自ら選択をする自由を尊重し、裁かない」ということです。誰にとっても平等なことだと思うのですが、人は誰しも自分が選択した行動が生み出す結果を避けられません。例えば、嘘をつけば信用を失いますし、人を騙せば恨まれますし、仕事をしなければ収入が途絶えます。従業員の自由な選択に介入しないということは、この結果にも介入しないということです。反面、従業員のいかなる選択と行動に対して、それがもたらす自然な結果を会社も受け入れ、従業員を裁くことをしません。

第三に、従業員は以上の意味で、本当に「好きなことだけをして良い」、すなわち、従業員の自由な行動と選択によって誰も人事的なマイナスを受けない(言外のペナルティや実質的な禁止を含む)のですが、人事考課として評価される行動は、その自由な振る舞いのうち、①自分を成長させる行動と、②人の役に立つ行動のみ、というように構成されています。

第四に、従業員は「好きなことだけをして良い」のですが、同時に「真実であること、隠し事のないこと」が前提です。一般に、「人のため」と言いながら利己的な利益を追求する人は、社会において驚くほどの比率に上りますが、これらの人たちは真の意図を隠すために膨大な労力と注意を払っています。これに対して、サンマリーナの人事考課においては、例えば、従業員の振る舞いがいかに利己的な行動であっても、それ自体では全く問題視されず(評価もされませんが)、上記の原理によって許容され、裁かれることはありません。しかし、それが利己的な行動であると言うことを明らかにする、すなわち行動と表現に嘘がない状態であることが非常に重要視されるのです。

責任てなんだ?
企業経営の常識では、企業において従業員が「すべきこと」と「してはいけないこと」が存在し、それを守る(守らせる)ことが組織の秩序を生み出す、と考えます。これに対して、従業員は「好きなことだけをして構わない」という考え方は、①企業においては従業員が「すべきこと」も「してはいけないこと」も存在しない、②従業員が「したいこと」と「したくないこと」が存在するのみである、③仕事は期限を決めて行う必要はない、そして、④従業員が会社の業務を行うのではなく、従業員のやりたい仕事の集積が、会社の業務である、という発想が前提となっています。この考え方は更に、組織における「責任」の概念を不要にすることになります。

翻って考えると、これだけ頻繁に使われている「責任」という言葉の意味は、意外に曖昧です。例えば、経営者が「責任を持って実行します」というとき、これは実のところ何を約束しているのでしょう?「必ず実行する」という意味のようでもありますが、この場合、「実行できなければ○○を甘んじて受け入れる」という構成がなければ、概念として意味を成さないのですが、殆どの場合後者に関しては意図的に曖昧なままにされています。要は、社会における、「責任」とは、「目標が達成できなかったり、問題が発生した場合にペナルティを課せられる可能性のある部署または人物」という、ペナルティの概念として利用されているのです。さらに、この意味における「ペナルティ」は、「責任」の有無と所在が宣言されて初めて課される性質のものであるため、(潜在的な)ペナルティを避けるために(責任の)宣言をしない、という、非常に典型的な問題を日常的に生み出しています。この意味において、組織における「責任(者)」の有無が、効率的な組織運営を実現しているとはとても思えないのですが、如何でしょう。…経営に失敗した経営者は「責任」を取らなくて良いのか、という声が聞こえてきそうですが、経営者は「責任を取るために」辞任するのではなく、社内において「最も役に立つ人物」でなくなったときに辞任するべきだと思います。リーダーシップについての詳細な議論(『トリニティのリーダーシップ論』)は別の稿でコメントします。

「好きなことだけをして構わない」ということの経営合理性
以上が、「好きなことだけをして構わない」ということのおおよその意味ですが、このような人事フレームワークを構築し、運用することは次のようなメリットがあります。第一に、そもそも、「すべきこと」と「してはいけないこと」の有無に関わらず、結局人は自分の行動と環境を自ら選択している、ということはないでしょうか。これが仮に真実であれば、各人が「行動と環境を自分で選択している」状態にも拘らず、それ以外の行動規則、すなわち、「すべきこと」、「してはいけないこと」が存在するとき、組織内に本音と建前、すなわち「うそ」が生じることになります。「うそ」が経営効率に与えるマイナスのインパクトは想像を絶するものがあります(詳細は別の稿でコメントします)。そして、従業員はどのみち「行動と環境を自分で選択している」のであれば、経営が従業員に対して「好きなことだけをして構わない」というメッセージを伝えることで、本音と建前の使い分けを無用にし、従業員を「うそ」から解放することができます。この矛盾を解消することで従業員が元気になる姿は感動的です。第二に、「責任」によって従業員の仕事の範囲が規定されないため、従業員間の仕事のやり繰り(いわゆる「ヘルプ」)が非常に効果的に機能します。第三に、従業員の仕事の大半が「金色の仕事」になり、企業価値を高める効果があります(『トリニティの人事論《その2》』を参照下さい)。第四に、従業員がしたいことだけをするとき、企業と顧客の接点にうそや演出が一切なくなります。顧客が、例えばそのようなホテルを訪れるとき、ホテルで経験する全ての「サービス」は、従業員の心からのものです。

【2007.6.26 樋口耕太郎】

*『トリニティの人事論』は本稿で終了です。

「サンマリーナ人事考課に関する経営方針」(pdf)*(1)は、サンマリーナホテルで2005年7月から全面的に施行した人事考課基準の「現物」です。一般企業の常識的な人事考課基準とは相当異なるため、導入当時は面食らった社員も多かったと思います。実際のところ、この内容を十分に理解した従業員はそれ程多くなかったと思うのですが、それでも経営的に莫大な効果が生まれました。「常識的」に、人事などに関する経営方針は、従業員に周知徹底し、経営の意図が十分に理解されなければ十分な効果が生じないと思っていたのですが、どうやらそうとも限らないようなのです。

更に、人事考課基準を読んで頂けると分かるのですが、この人事考課基準では、会社は従業員に何も求めていないのです。すなわち、従業員が会社のために「何かをしなければならない」、あるいは「何かをしなければ何らかの不利益が生じる」、という内容はどこにもありません。…本稿の趣旨ではありませんので、詳細は別の稿でコメントしますが、一般に、経営者の仕事は「会社(と従業員)の何かを変えること」、と考える経営者が殆どだと思います。これに対して、この様な人事考課基準が有効に機能した事実は、経営者が方針を決め行動を起す、すなわち経営者自身ができることをまず行うことで、従業員を変えようとしなくても、あるいは、却って変えようとしない方が、企業をよいものにする可能性を示唆していると思います。

企業の自浄作用
さて、この考課基準を施行する際、周囲から心配されたのが運用です。…例えば「どのようなときにA評価となるか」という問題です。僕にはこの考課基準が具体的かつ公正に機能するという確信があり、実際に実践してみるとやはり殆ど問題になりませんでした。その確信へのインスピレーションは野村證券での経験がヒントの一つになっています。今はどうか良く分かりませんが、少なくとも僕が在籍していた頃の野村證券の人事は本当に公正だったという印象があります。僕が12年間お世話になった期間、学閥を含め派閥らしきものを見たことは一度もありませんでしたし、一従業員の目から見て不公正な人事はあまり記憶にありません。もちろん、会社の中にはゴマすりもいれば人の成果を自分のものにすることに情熱をかける「政治家」もいましたし、そのような人が昇進することもあります。それでも長期的には、部下思いの誠実な男気(女気)のある上司はやはり偉くなって行き、卑怯な自己保身上司が淘汰されていく自浄作用が存在したと思います。このような野村證券の人事を体験して、組織には尊敬すべきリーダーを評価・選択するメカニズムを内在しているのではないか、すなわち、「組織は誰がA評価であるべきか既に知っている」、と強く感じたのです。どのような組織にも自浄機能は存在し、人事担当者や経営がすべきことは、組織が本来有する自浄機能を活性化することではないか、というインスピレーションです。それが仮に事実だとすると、運用に際しての課題は、組織が内在するリーダーの人物像をいかに正確に吸い上げ、人事に生かすかということだけだと思ったのです。

部下は真実を知っている
「上司が部下の人物を見抜くのは困難を極めるが、部下が上司の公正さを見抜くのはほんの一瞬であり、その判断は殆どの場合正しい」。これは、僕の野村證券時代の上司が言っていたことですが、自分がサンマリーナホテルの経営を担当して、この言葉を本当に痛感しました。変な例ですが、女性の嘘を男性が見抜けないのと同様、上司が部下のおべっかを見抜くことを、組織的に意味のある水準で達成することは殆ど不可能という気がしました。経営的な観点では、上司が部下を正確に評価することを期待して経営を行うことは、あまりに合理性のない経営管理方法といえそうです。このため、僕の結論は、経営が組織的に実行すべきことは、部下が勇気を持って声を上げることを励まし、その部下の声に耳を貸し、それを裁きに利用せず、リーダーの選別に反映するということでした。要は従業員の信頼に足る社長が(あるいは人事担当者が)全ての社員と直接対話する時間を取れば良いだけの話なのです。

従業員250人のサンマリーナでも、1ヶ月程度他の仕事を一切しなければ全員と30分ずつ面接ができる位の時間が無理なく確保できます。1ヶ月間面接以外の仕事を殆どしないのは「非常識」、そうでなくても「不可能」と考える経営者が大半だと思います。しかしながら、本当のところ、仕事には「優先順位」があるだけで、「忙しくしている」人はいても、もともと「忙しい」人など誰もいないのです。「時間がない」というのも、「他に優先順位の高いことがあります」という意味でしかありません。したがって、これも優先順位の議論に過ぎません。そして、経営論における優先順位は、経営合理性によって決定されるべきで、人間関係を最優先するのは、最も効果の高い経営作業であるためです。そして、人間関係を優先するということの意味は、例えば社長が当然にしてこのような行動をとるということだと思います。結果として、サンマリーナにおいては僕の労働時間のほぼ9割が、広い意味での人事関連になりました。文字通り「経営=人間関係」です。このように、言葉で宣言したことをことごとく行動で担保していく作業が、経営の現場というイメージです。

シンプルなしくみが最も機能する
ものごとには、「精緻に分析するほど不正確になる」こともあるような気がします。例えば、従業員のクオリティを20項目で分析・評価・集計するよりも、40項目で評価した方が正確であるとは全く限らないと思うのですが、一般的な企業の人事評価はどうしてあんなに項目が多いのか、昔から釈然としないものを感じていました。昔、人事考課を受ける側の立場で感じたことですが、細分化された評価項目を見るたびに、自分とは全然別の人物を評価されているような気になったものです。

人事評価の運用に際して非常に効果的だったのは、社員のおよそ95%がAまたはBという、これ以上シンプルにしようがない「(実質的な)二段階評価」を導入した点でした。一般的な人事考課においては、複数の評価項目に対して評点を付し、それらを集計して総合評価を行うことが多いと思います。例えば、「収益にどれだけ貢献したか」、「新規案件にどれだけ積極的に取り組んだか」、「部下の育成を積極的に行ったか」など、複数の項目に対してそれぞれ評価がなされます。サンマリーナの人事考課では、各社員に対して「S・A・B・C」の総合評価のみを行うことにしました。つまり、Aさんの、ある期の考課は「A」であり、それ以上でもそれ以下でもありません。2005年上期では、S評価が5%、A評価が55%、B評価が40%、C評価は度重なる飲酒運転で有罪判決を受けた2名のみでしたので、実質的にはニ段階評価と言って良いくらいです。また、大半を占めるA評価とB評価の、全体に占める割合がおおよそ6:4というバランスも非常にうまく機能したと思います。このバランスにおいては、従業員の格差を考課するという意味合いが薄れ、従業員を励ます意味合いがより表現・伝達される様な気がします。更に、B評価以上の社員は昇給していますので、(額は僅かであっても)事実上全社員が昇給しました。このような仕組みでは、とにかく運用がシンプルになるため、却ってより正確な評価が可能になるのではないかと思います。

全面開示
なお、以上の人事考課は、希望する全従業員に対して全面開示する方針を決定した上で行いました。開示方針を決定したことの最大のメリットは、経営幹部が人事考課を行う際、良い意味での緊張感が著しく高まったことです。経営幹部の立場では、自分たちが行った評価が全従業員の目にさらされることを意味するため、どの従業員の目から見ても公正感のある、少なくとも自分たちがベストを尽くしたと胸を張れる評価を行いたいと言う意欲が非常に高まったのです。これによって、人事考課を最終的に確定するまでに、総支給額別(残業代などを含む)、俸給別、役職別、入社年次別、部門別、年齢別、勤続年数別、男女別、過去数年の考課の推移と支給額の推移…。様々な観点でリストを作成し、多角的な視点にも耐えうる公正な評価を行うように、何度も繰り返し検討を行うプロセスが実現しました。

俸給決定に関する基本方針
人事評価に際しては、評価基準の設定や実績評価そのものよりも、「評価の姿勢」が最も重要ではないかと感じています。すなわち、実績を上げた従業員を高く評価することはある意味誰でもできることで、この場合の評価者は何かしら「審査員」のような役割を果すことになります。経営が本来すべきことは、従業員一人ひとりを可能な限り理解した上で、従業員の成長を後押ししながら、従業員の将来に「投資」を行う姿勢を人事考課という行動で示すことではないでしょうか。この姿勢を受け、サンマリーナでは評価の姿勢に対する基本方針を次のように定めました。

先行投資の原則: 昇給は社員に対する積極的な投資であると考える。各社員の成果を見越し、期待を込め、実績に先行して昇給額を設定する。従業員が現在の実力を上回る報酬を受け取る方が経営的に好ましい。
給与水準を「限界まで上げる」方針:その期ごとに、何が会社にとっての「限界」かについて明確に説明を行う。労働分配率の高い会社を目指す。
完全開示: 査定者の真剣味を引き出し、経営の「怠慢」や「既得権益」を防止。
金額よりも公平感: まずは心を配った評価から。絶対額の公平よりも、公正な査定を優先する。

【2007.6.14 樋口耕太郎】

*(1) 「『トリニティ経営』について」のセクションからも参照頂けます。

補足資料
以下に、人事考課の運用に際して全従業員に宛てて送付した、当時のメールを添付します。

*    *    *    *    *

2005年10月25日
サンマリーナに関わるすべての皆さんへ:
樋口耕太郎

サンマリーナの新・人事考課を導入してからそろそろ5ヶ月が経過しようとしています。本年末の考課はこの基準によります。それに際しまして、今後のスケジュール、運用方法、その他についてお伝えしたいと思います。

第一に、「半期ごとの目標を設定し、それに対する自己及び他者評価がなされる」旨を導入時にお伝えしましたが、目標設定の作業は不要との考えから省略して運用することにしたいと思います。期初に目標を設定しようとしまいと、その期にあげた皆さんの成果を評価することになんら影響はないと思われますし、期末に自由に成果を振り返るという意味で、より広範囲の成果を自己申告することができたり、なによりも重複する作業量を減らすメリットがあると思います。自己評価においては、以下にある「サンマリーナの事業目的」に沿って、①自分はどのように人に役に立っただろうか?②自分はどのように人間的に成長しただろうか?を振り返って頂く作業になると思います。(自己評価シートは追って皆さんに配布いたします)

なお、今期は義務ではありませんが、パートさんや派遣さんの方々も、もしご関心があれば是非考課基準を読まれ、自己評価シートを提出いただければ素晴らしいと考えています。

第二に、今期の試みとして、考課の前に面接を行いたいと考えています。特に前回の面接は(おおよそ)役職者から順に行いましたが、今回はパートさん等を含む現場の方から先に意見をお聞きしようと考えております。年末に間に合わせるためには11月頃より面接が開始されることになると思いますが、どうかご協力お願いいたします。特に前回遠慮をされて伝え切れなかったこと、忘れて話せなかったことなど、是非沢山アドバイスをいただければと思います。時には言葉を発することは勇気が必要かもしれませんが、その一言一言がわれわれの会社を良いものにする原動力になっています。

時間の関係で、面接の後の考課は内容のみのご通知となります。ただし考課の結果にコメントや意見がある方は是非別途際面接を行う運用としたいと思っております。

第三に、年末の考課に先立ちまして、サンマリーナの事業目的をより明確にお伝えしたいと思います。以下をご参照下さい。サンマリーナの考課基準が、事業目的と矛盾しないこと、むしろ事業目的に完全に沿う形で構成されていることをご確認いただければと思います。なお、「人の役に立つ」という場合の「人」とは社員やお客様に限定する意味は全くありません。パートさんや派遣の方々、サンマリーナ会の方々、協力会社の方々、サンマリーナ会(タクシー)の方々を含むタクシーバス等の運転手さんやガイドさん、ごみ処理会社の方々、工事業者の方々、ミュージシャンの方々、代理店の方々、またその家族の皆さんまたはまだお会いしたことのない方々…われわれが関わる、または関わる可能性のあるすべての方が対象です。

また、もともと社員やパートさんや派遣さんの間に雇用形態以外の差は全く存在しないというのがわれわれの明確な認識ですので、この機会に誤解のないようお伝えしたいと思います。

*    *    *    *    *

サンマリーナの事業目的

サンマリーナにおける事業の目的は唯一「他を利すること」である。

われわれの「仕事」は、人に思いやりをかけること、人に優しくすること、人のために努力する人に共感しそれを伝えること、他を(物質的、精神的に)豊かにすること。これは手段ではなく、目的である(「目的である」とはそれが無償であるという意味です)。それ以外のすべての作業(世間で一般的に「仕事」と呼ばれているもの)はこの目的のための手段である。

リーダーの思考および行動はサンマリーナの事業そのものである。リーダーの「仕事」は上記の目的に沿って人の役に立つこと、または人の役に立つことを企画実行すること。反対に、より人の役に立つ人がリーダーとなり、それ以外にリーダーの選抜基準は存在しない。

売上や事業収益、は上記目的の結果であり、サンマリーナのいかなる部署、組織、個人においても目標、目的になることはない。また、いかなる部署、組織、個人もこれによって評価されることはない。

以上です。

前回のエントリーで紹介した『サンマリーナの人事フレームワーク』は、現代の企業経営の常識とおおよそ正反対の価値観と言えます。具体的には、 

会社の将来に関するビジョン構築を従業員に委ねたこと。すなわち、経営者が自分のビジョンを実行するために企業組織へ働きかける、と言う考え方を廃止し、従業員が心からしたいことの集積が、企業の事業であると正反対に定義したこと。これによって、従業員の望むホテルを実現することが経営者の仕事になりました。
反面、経営はこの様な人事フレームワークを施行することで、「企業が選択する価値観」についてリーダーシップを取ったこと。
人事は従業員の人生をよりよくするために、会社と経営が従業員に対して行う「奉仕機能」である、と定義したこと。
人事から「指示・管理機能」(すなわちペナルティ機能)を取り去ったこと。
従業員を自由にするだけではなく、各人が自由に行動するための障壁を会社が理解し、それを一人ひとりに対して取り除く手助けを積極的に行う機能を強調したこと、などです。

以上のフレームワークを前提に人事考課基準を定めたのですが、そのプロセスは、本質的に重要だと思えるもの以外の全ての評価項目を捨て去る作業でした。僕の結論は、(1)人間的な成長、(2)どれだけ人の役に立ったか、だけが本質的な基準であるというもので、実際この2つの基準だけで、評価、昇給、昇進、賞与を含む全ての人事考課を行いました。これは建前でも、言外の意図があるわけでもありません。本当にこの基準だけで人事考課を運用してみると良くわかるのですが、一見曖昧にみえるこの基準が、実用的かつ効果的であるのです。

このようなフレームワークと考課基準で人事を運用するにあたって、一般的に懸念された点は、(i)どの組織にも「質の低い」人材が存在するが、従業員を自由にするとそのような人材がどんどん仕事を放棄する現象が生じないか、あるいは「有能な」社員のモチベーションを下げることにならないか、(ii)実際にどのようにして評価(運用)するのか、例えば、個人のどのような状態がA評価になるのか、(iii)従業員がしたいことだけをする、従業員にホテルのビジョンを委ねる、というのは現実に機能するのか、事業計画や戦略との整合性はとれるのか、でした。本稿では前者(i)について、次稿では後者(ii)(iii)についてコメントします。まずは、このテーマに関連して、ひろさちや著『仏教に学ぶ八十八の知恵』からの抜粋をご紹介します。

思いやりのこころ
娘は中学二年である。クラスメイトに、病弱な子がいるという。病弱というより、たぶんに精神的なものらしい。体がだるい、あちこちが痛む……といっては、学校を良く休むのである。一種の登校拒否であろうか。
家が近くのものだから、娘は毎朝、彼女をさそいに行く。もしも彼女が休んだ日には、夕方、彼女の家に訪ねて、「明日は行こうね」とはげましに行っているらしい。日課のようにしています――と、妻が私に報告してくれた。夕食のときであった。
「佳子」――と、わたしは娘に語りかけた。「いいことをしているね。それはいいことだと、お父さんも思う。けれどもね、少し考えておいてほしいことがあるんだ」
(どこまでわかってくれるだろうか……)
そう思いながら、ちょっと慎重に、ことばを選びつつわたしは話した。たしかに、学校を休むということは、よくないことだ。だから、弱気になった友だちを一日でも休みが少なくなるようにとはげましてあげるのはいいことである。あなたは今そう思っているだろう。自分のしている行為に、何の疑問も持っていないはずだ。なぜなら、自分のしていることに、どこにもまちがいがなさそうだからである。
だけどね、佳子。ちょっとだけでいいから、考えてみて欲しい。その学校をよく休む子は、休んだほうがしあわせじゃないんだろうか……とね。休むのはよくないことだ、とお父さんも思う。でも、よくないことであっても、そうしないと生きてゆけないことが、この世の中にはいっぱいあるんだよ。だれもがだれも、いいことをできるわけがない。弱い人もいるんだ。精神の力が弱くて、つい学校を休む子もいる。よくないことだと言われたって、弱いんだからしかたがないんだよ。
お父さんが言いたいのは、そこのところなんだよ。自分はいいことをしている、友だちを助けてあげている、と考えたとき、どうしても相手の立場がわからなくなるものなんだよ。自分にもまちがいがないから、相手をせめることになりやすい。お父さんには、それがいちばん心配だ。どうしたらいいんだろう、こんなときには……。お父さんだって、わからない。
「ただね、”学校を休むことぐらいは、たいして悪いことじゃないワ”と、あなたの心の中でちょっと考えるくらいのゆとりがほしいんだ。”本当に悪いこと”なんて、この世の中にありそうもないのだからね。たとえあったとしても、そんなもの、人間に決められることじゃないよね。なぜなら、人間はやはり弱いんだから、自分もいつかはまちがいをするものね。お父さんはそう思うんだ。それがお父さんの忠告だよ」
娘は、中途半端な顔をした。無理もない。正しいことをやりましょうと、人間を鋳型にはめ込むがごとき教育をうけているのだから、わたしのこんな考えは理解できるはずがない。わたしは急がずに、これからときどきそんなことを話してゆきたいと思っている。いつかわかってくれるだろう……、と信じている。いや、わかってもらわないと、やはり困るのだ。なぜなら、他人に対する思いやりのこころを、わたしは娘や息子にもってらいたいと望んでいるのだから……。

経営合理性を考える
ひろさちやさんの事例は、近所の女の子は従業員、ひろさんの娘さんは経営者、学校へ行くことは仕事をすること、と置きなおすと、企業社会でよくある議論になります。どの企業にも、やる気を失ったり、要領が悪かったりするために、決められたガイドラインに沿って成果をあげることが非常に不得意な社員(あるいは、よくあることですが、「有能な」社員でも、そのような時期は周期的にやってくるものです)がいますが、企業社会において、この様な社員が、仕事をしたくないからという理由で仕事をしないことは許されないことと考えられています。そのような社員がどれだけ正直な人間でも、どれだけ良い性格であっても、それどころか、大概の場合はいかなる理由があるにせよ深く考慮されることはありません(世の中の殆どの企業は、表面上はどのような企業理念を掲げようと、「従業員第一」の経営を行っているところは殆ど存在しないのです)。

これは、仕事をしなければ成果が上がらず、ひいては企業価値がさがる、という前提に基づいており、「常識的」な考え方です。いかなる理由であっても従業員が仕事をしなくなれば、その従業員の人件費と、その労働によって得ることができたであろう機会損失が、経営的に生じます(実際は、程度やタイミングやその他の状況にもよりますが、他の従業員がカバーすることによって、機会損失はあまり生じないケースも少なくありません。)。加えて、「悪貨は良貨を駆逐する」という考え方に従うと、「能力のない」従業員を経営が放置することで、その他の従業員のモラルが下がることを未然に防止することができると考えられがちです。

以上の考え方は、確かに「常識的」ではありますが、本当にこの考え方が合理的かどうかを理解するためには、上記のような「個別の問題」として捉えるだけでは不十分でしょう。経営者にとってより重要な課題は、「やる気の湧かない従業員に対して、決められた仕事をおこうなうように指導する」、という個別の経営行為が、「事業という生態系」全体において合理性を持つのだろうか、という問いである筈です。

生態系で何が起こっているか
これに対して、「やる気の湧かない従業員に対して、決められた仕事をおこうなうように指導する」経営行為は、「事業という生態系」においては、次のような現象が生じていると考えられます。第一に、一見「合理的」な受験勉強によって、「学ぶこと」という最大の報酬をどぶに捨てている、という比喩と同様、従業員にとって「仕事を楽しむ」という、仕事をすることの最大の報酬を消失させてしまいます。これによって、当該従業員の「金色の仕事」を「鉛色の仕事」に変換する効果があります。第二に、「やる気の湧かない従業員」とは、実は全従業員が該当する、という点です。どんなに有能な社員も、その労働時間の全てがやる気に満ちているということはあり得ません。したがって、経営のこの様な対応は、経営者が認識しているか否かに関わらず、「経営は従業員の(生産性という)一面しか必要としていない」というメッセージを全従業員に伝達する効果があります。これは、すべの従業員は条件付きで必要とされる、すなわち、従業員よりも優先される何かが存在する、というメッセージでもあります。第三に、「生産性を伴った従業員しか必要とされない」、というメッセージと、「従業員を大事にします」というメッセージが経営から同時に出される場合、全従業員に対して「経営のメッセージには嘘がある」というメッセージを伝達する効果があります。第四に、「従業員は限定的に必要とされるのみである」というメッセージと、「経営には嘘がある」というメッセージが伝達されることによって、従業員が「自分と会社に嘘をつく」現象が生まれ、やがて常態化します。つまり、従業員の立場では、「経営がありのままの自分を評価しないため、経営が評価する人物像を『自分』と表現する」必要が生じ、更に、経営者自身のメッセージに嘘が含まれていることを知り(感じ)、企業において嘘が許容されるという意識になるのです。

この様な「生態系への影響」は、殆どの場合目に見えないものばかりで、多くの場合このような「ダメージ」を数量化することは困難です。反面、「個別の問題」は誰の目にもはっきりしているため、対処方法は明らかに思えます。更に、「個別の問題」があまりに明らかに見えるために、株主やその他の「権威者」から経営に対するプレッシャーもかかりやすく、経営者はこれらの権威者にはっきりと反論することが困難です。これに反論するためには、目に見えないものを合理的に説明する必要があるからで、大半の経営者にとってほぼ不可能な作業です。このため、経営者は株主などに対して、ある意味嘘(言わない嘘を含む)をつく必要が生じ、経営者にとって経営情報の一切を開示することは、「経営の存続に関わる」、という悪循環が生じます。

三つのメリット
反対に、「やる気の湧かない従業員に対して、決められた仕事をおこうなうように指導する」ことを一切止め、前掲ひろさちやさんの人間関係に関する考え方を経営にそのまま応用すると、「事業の生態系」にどのようなことが生じるでしょうか。少なくとも三つの点において大きなメリット(事業価値)が生まれる可能性があります。第一に、企業から嘘が大幅に減少する点です。従業員の意思と意欲を最優先すると、従業員が企業に対して、そして更に重要なことに、自分に対して嘘をつく必要がなくなります。これによって従業員の仕事の大半は「金色の仕事」となり、ひいては企業の売上の大半が「金色の売上」となり、企業価値を高めることになります。加えて重要なこととして、この様な、嘘の少ない生態系においては、経営者が従業員に対して嘘をつく必要性も薄れるため、経営者がこの環境を適切に活かす意思がある場合、経営効率が高まります。

企業における嘘(政治)の存在は、多くの企業において、恐らく最大の「簿外費用」のひとつでありながら、企業に与える実質的なダメージの大きさと、経営的な重要性は殆ど認識されていないという印象を受けます(この詳細については別の稿で紹介します)が、このメリットによって、嘘による莫大なロス(費用)を削減する効果があります。

第二に、思いやりの連鎖が顧客に伝わります。ひろさちやさんのアプローチは、「相手をありのままに受け入れ裁かない」、という思いやりの本質を示していると思います。事業は人間関係そのものですので、経営においても同様の原理がそのまま適用します。すなわち、経営が従業員をありのままに受け入れると、経営の思いやりが従業員に伝わり、従業員は顧客をありのままに受け入れるようになり、従業員の表も裏もない思いやりが顧客に伝わります。このときの顧客の喜びようは、傍から見ていてもとても感動的です。このアプローチは、企業が顧客に対して本当の思いやりを示すために、経営が実行できる殆ど唯一の方法ではないかと思うのですが、同時に効果的な手法でもあります。反対に、経営から条件付きで必要とされている(世の中の大半の)従業員は、顧客を条件によって区別するようになります。例えば、よりお金を落としてくれる顧客、クレームの少ない顧客、手間のかかる要望の少ない顧客…、を優遇することになるでしょう。企業のこの様な対応は、「差別化戦略」などと呼ばれ、最近ではむしろ流行の経営戦略なのですが、このアプローチが「事業の生態系」において本当に合理性を持つのかは疑問です。確かに虚栄心の強い顧客にはある程度効果的かもしれませんが、企業の応対の裏に、隠された別の意図が含まれているということは、多くの顧客がすぐに見抜いていしまいます。

第三に、「事業を取り巻く生態系」の価値を最大化する可能性があります。この点については、本稿の趣旨ではありませんので深く触れませんが、「事業の生態系」はさらに「事業を取り巻く生態系」の一部であり、その大きな生態系の価値を最大化することで、「事業の生態系」に価値が生まれます。現代の経営理論には「サプライチェーン・マネジメント」のように、企業の物理的な枠組みを超えた、商品の生産から販売までの経済活動の効率を最大化する、という考え方がありますが、従来の事業の概念をより広い視野から捉えるという一点においては共通しています。トリニティの「事業を取り巻く生態系」理論は、例えばサンマリーナのオーバーブッキング対策などで実践されています。以下は、『今、愛なら何をするか』Article 4.「トリニティ経営に関するQ&A」からの引用です。

『少々テクニカルな事例になりますが、一般的な沖縄のホテルでは、不測に稼働率が高まるとオーバーブックという現象が起こり得ます。具体的には200室の客室に対してそれ以上の予約が入ってしまうと、希望するお客様に対して一部特典付きで他のホテルに宿泊を御願いするということになります。もちろんオーバーブックをした送客ホテルが費用を負担して次の受入れホテルでのグレードアップをしたり、食事の特典をお付けするなどの対処を行い、お客様にはむしろ喜んでそちらを選択いただくように務めるのですが、その際に送客ホテルが負担する費用は相当な額に上ることがあります。

一般的な慣習として、他人の不幸は密の味ではないですが、送客ホテルがお客様の移動先を探す際、受入れホテルは宿泊料を言い値で請求することも多々あり、これが更に送客ホテルの大きな費用負担を招いていました。「競合ホテル」という認識の基にはこのような対応がむしろ当然だと思います。

サンマリーナはこの問題に対処するために、他のホテルの立場を優先してみました。他のホテルがオーバーブックをしてサンマリーナに送客を希望する場合、当方に空室がある限りにおいて、先方の言い値(原価)でお受けするように方針を決め販売担当に伝えました。すなわち、サンマリーナを受入れホテルとする場合、送客ホテルはグレードアップや特典追加をお客様に提供できるにも拘らず、差額の費用が発生しないことになります。すると多くの周辺ホテルは、サンマリーナが送客する際においても非常に安価で対応していただけるようになり、この方針を定めた年度よりサンマリーナではオーバーブックによる費用がほぼゼロとなり、サンマリーナにとっての経済効果は約1億円分の売上増加に相当するインパクトがありました。

サンマリーナでは、いわゆる他社を競合相手とは考えず、助け合うことのできるパートナーと考えたため、それがそのまま事業における現実となりました。財務的にも、昨年度まで「競合他社」と呼ばれていたものが、この年からサンマリーナの簿外資産に変ったと考えることができます。このような発想の切り替えによって、サンマリーナは実質的に保有客室(200室)以上の顧客を受け入れることが可能になったと考えることもできます。』

こどもアドバイザリーボード
少し脱線気味のコメントになりますが、次のホテルプロジェクトにおいては、企業経営について、小学校低学年位のこどもに、各部署のマネジャーが事業報告を行いアドバイスを求める、「こどもアドバイザリーボード」を試してみたいと思っています。ボードメンバーは従業員の子供か宿泊客から選抜すると更に盛り上がりそうです。冗談ぽく聞こえるかもしれませんが、まじめに運用すると非常に面白い結果が生まれるのではないかと予想しています。小学校低学年生は、分別がある程度ついていると同時に、ものごとの嘘を鋭く見抜くことのできる年齢です。また、マネジャーは自分の担当する事業を小学生に理解できるように説明する必要が生じますので、自分の事業の本質を深く理解し、かつ平易な言葉で表現する作業が強いられるのです。

【2007.6.5 樋口耕太郎】

僕は、「良い人事」とは、「従業員の幸福感と企業の事業性(長期的な収益)がバランスする人事」だと思っています。これは抽象的な理想論に基づくものではなく、「従業員の幸福を最大化する」行為と、「(長期的な)企業収益を最大化する」行為は同一のものであり、この両者を最大化する経営バランスがどこかに存在する、という仮説に基づきます。このバランスをうまく取ることができれば企業価値の最大化(したがって長期的な事業収益の最大化)を容易に実現すことができるのです。

同様の意味ですが、本来の人事の目的は、企業価値の最大化を達成すること、すなわち戦略的かつ攻撃的な経営作業だと思います。一般的な企業における人事は管理的な業務として扱われがちで、企業価値への働きかけを意識して人事を構築する経営者はそれ程多くない印象ですが、企業価値とのバランスを意識しながら為される人事は、効果的な経営作業と言えます。個人的な経験でも、トリニティ経営を実行した以降、サンマリーナホテルにおいての僕の時間配分は、その90%以上が広い意味での人事関連でした。企業価値を意識しながら行う人事は、恐らく、経営者が企業価値を高める上で最も有効な仕事のひとつではないでしょうか。

トリニティ経営理論の考え方では、企業価値を最大化するということは、企業が持つ三つの資本(株主資本*(1)、顧客資本、人的資本)の合計の最大化を意味するのですが、三つの資本のうち、経営が最も効果的に働きかけることができるのは「人的資本」です。この意味でも、人事は企業価値の最大化を達成する上で効果的な経営作業と考えられ、その経営における重要性は計り知れないものがあります。

企業価値を高める人事
「企業価値を高める人事」と表現してもイメージしにくいと思いますので、その一例を紹介します。例えば、「金色の売上」を促す人事はこれに該当すると思います。『売上論《後編》』では、事業の本質的な強さ、すなわち企業価値の観点では、人の役に立った結果生まれる「金色の売上」と、人をごまかした結果生まれる「鉛色の売上」の二つの要素からなり、前者は企業を強くし、後者は短期的な収益を容易に生み出す代わりに企業価値を食いつぶす性質を持つ、と述べました。金色の売上は、「人が喜んで支払ったお金から構成される売上」であり、「偽りのない商品やサービスによる売上」であり、「原材料、製造過程、原価を開示しても成立する売上」であり、企業価値を高める売上です。この前提で人事を考えると、「金色の売上」を促し、「鉛色の売上」を最小限にするような人事が効果的と言えるのです。具体的には、「正直な社員を登用する人事」「オープンな人材を登用する人事」「人が喜ぶ仕事を優先する人材を登用する人事」を行うことで、「金色の売上」の比率を高め、ひいては企業価値を高めるというメカニズムが機能します。

…本稿の趣旨ではありませんが、この観点から世の中で「常識」となっている成果主義人事考課を考えると、成果主義は「金色の売上」と「鉛色の売上」を区別しないため、経営の意図とは裏腹に、企業価値の最大化に寄与しないのみならず、企業価値を毀損する大きな原因になっているかも知れません。このように考える方がむしろ現在の企業社会の現状をうまく説明できるように思えるのですが、如何でしょう。

「金色の仕事」と「鉛色の仕事」
従業員の幸福感と企業の事業性に関する僕の仮説は、「従業員の幸福感は企業の事業性を生み出す(恐らく)最大の要素のひとつである。ただし、この価値を顕在化するためには特定の経営バランスが必要である。」というものです。この前提において、①従業員の幸福感を高めるために経営は何ができるかを考え、悉く実行すること、②事業性を顕在化する経営バランスを見つけ、バランスし、維持すること、が経営の(恐らく最も)重要な役割ということになります。

従業員の幸福感を大きく左右する、仕事の質に関する概念は、経営理論のフレームワークではあまり議論されないのですが、仕事には(売上と同様に)2種類の色がついているのではないかと思います。心からしたいと思える仕事(「金色の仕事」)と、しなければならないからする仕事(「鉛色の仕事」)です。自分の好きなことを仕事にできる人は幸福な人である、というのは一般的な認識でもあり、「金色の仕事」の比率を高めることは、社員の幸福度に直結する重要な要素です。そして恐らく、特定の条件において、「金色の仕事」は「鉛色の仕事」と比べて高い成果を生むのです。「好きこそ物の上手なれ」という諺にもあるとおり、自分が心からしたいことの追求は事業性を持つのです。

これに対して、一般的な懸念は、「従業員の自由にさせたら、誰も働かなくなるのではないか」というものですが、確かに、従業員を自由にすると「鉛色の仕事」に関しては誰も働かなくなるでしょう。そして、従業員は気が向いたときに気が向いた量だけ「金色の仕事」をする、ということを意味します。したがって、冒頭の、「従業員の幸福感と企業の事業性のバランス」とは、(i)従業員が一日X時間の「金の仕事の」をしたときの成果が、(ii)一日8時間の「鉛の仕事」をしたときの成果を上回る経営バランス、と考えることができます。つまり、企業価値とのバランスを重要視した人事においては、(i)が(ii)のパフォーマンスを上回るために経営が従業員に対してできることは何かを考え、具体的に実行し、その成果を注意深く分析し、試行錯誤によって最適解を導く作業がポイントになります。そして、実際に試してみれば分かりますが、(i)が(ii)を上回る、それも著しく上回る経営的な働きかけを行うことは、それ程難しいことではありません。

具体的な課題は、従業員が心からしたいことを常に有しているわけではない点、すなわち、従業員が心からしたい仕事が見つからない場合、(i)を構成する、「金の仕事」を行う労働時間(X)がどんどん減少するという点。そして、従業員が心からしたいことが企業の目的に沿わなければ、事業が成り立たない、と言う問題です。この課題に対応する、サンマリーナ*(2) での僕の結論は、①従業員が心からしたいと思えないときは仕事そのものを停止して構わないこと、②従業員が心からしたいと思える仕事を見つける手助けをすることも、人事と経営の重要な役割であると規定したこと、③初めに経営が事業のフレームワークを設定し、それに対応する従業員の業務が規定されるという「常識的な」考え方を180度転換し、従業員が心から望む「金の仕事」の集積が、企業が行うべき事業であると定義してしまったこと、そして、④従業員が心から望む「金の仕事」のうち、人の役に立つ行為をより高く評価する考課基準を導入したことです。これによって、サンマリーナにおける従業員の仕事は、少なくとも理論的には、その100%が「金色の仕事」となる環境を整えることができました。この考え方によってまとめたサンマリーナの人事的なフレームワークは以下の通りです。以下はサンマリーナで実際に施行・運用した人事考課基準からの抜粋です。

サンマリーナの人事フレームワーク

1.会社の強さは従業員の在り方による
会社の強さ、会社の存在価値は、会社の「実績」ではなく、会社とは「何であるか」によって決まると考えられます。「社員が上げた実績」は会社の現在の実体とは何の関係もないのです。「どのような社員が居る会社か」「その社員がどのように時間を送っているか」「どのような顧客や取引先や株主とどのような関係を持っているか」が会社の実体であり、会社の真の実力を決定します。サンマリーナの人事と人事考課は、社員の人生を真に良いものにすることを通じて、会社を真に強くするためのものです。したがって、社員が何を達成したか、すなわち過去の実績や体験は真実の指標にはならず、直接の考課の対象にはなりません。純粋な社員の価値は、いま、ここで、どのような人であるか、どのようなことをする人であるか、であって、過去の再現ではないためです。

2.人事は会社が従業員の幸福に寄与するための手段
サンマリーナの人事と人事考課は、会社が社員に対して「社員はこう行動すべきである」、または「こういう社員を評価する」基準を示し、その基準によって評価するためのものではありません。人事とは、会社が社員の個人的、集合的な成長を応援し、無条件に支え、最大限奉仕するためのガイドラインです。したがってサンマリーナの考課基準は社員が人生の中で「自分はこうありたい(こう成長したい)」と考える目標と一致するべきだと考えます。

3.従業員がより幸福なあり方を選択するための手助け
職場の喜びは「何をするか」とは関係なく、「何を目的とするか」によって決まると考えられます。例えば、午前4時に起きて赤ちゃんに語りかけながらおむつを替えるお母さんや、長い一日の仕事を終えた後デートに出かける女性をみて、それが「労働」だなどとは誰も思いません。サンマリーナの人事と人事考課は、社員各人の人生の目的と考課基準を一致させる努力を通じて、社員の職場での喜び、幸福に寄与することを目的としています。例えば、同じような資質を持った二人なのに、一人は成功し、一人は失敗するとき、それは「していること」のせいではなく、「あり方」のせいかも知れません。一人は開放的で、親しみ深くて、こまやかで、親切で、思いやりがあって、陽気で、自信があって、仕事を楽しんでいます。もう一方は閉鎖的で、よそよそしくて、冷たくて、不親切で、陰気で、自分がしたことを嫌っています。サンマリーナの考課は、社員がより高い、前者のあり方を選ぶための手助けでありたいと考えます。

4.他人の役に立つほど評価されるしくみを担保
サンマリーナの考課は、社員が、個人的な利益目当てではなく、個人的な成長と人の役に立つことを目的に生きるための手助けであるように構成されています。なぜならば、それが社員個人の最大の利益であり、社員が大きく立派になれば、物質的な「利益」はあとから自然についてくる、という考え方に基づきます。一般に、社会で言う「成功」は、個人がどのくらい「得た」か、すなわちどのくらいの名誉や金や力や所有物を蓄積したかで測られています。サンマリーナの価値観では、「成功」は他の人にどのくらい「蓄積させたか(有形・無形のものを含む)」で測られます。真実は、人に蓄積させればさせるほど、本人も苦労なく蓄積することになるでしょうし、会社もそのプロセスを全面的に支持するのです。「いま、愛なら何をするだろうか?」を心に留めて、関わるすべての人に「贈り物」(ものとは限りません)をする、そのような社員の努力を、支持し応援し、評価の根幹としています。

【2007.5.26 樋口耕太郎】

*(1) ここで言う「株主資本」とは、バランスシート上で表現される資本を示します。逆に言えば、会計原則において表現される企業価値は、そのほんの一部に過ぎない、といえます。

*(2) 僕がサンマリーナホテルの代表を解任され、経営を離れてから1年半以上の時間が経過しており、現在は異なる経営者と経営方針の下に運営されているため、サンマリーナホテルに関する一連のコメントは現在のサンマリーナホテルの状況を反映しているとは限りません。

先日ある方とお話していて、その方が学生時代に卒業単位を大幅に超過して山ほどの単位を取得し、かつ極めて優秀な成績で卒業されたと言う話になりました。彼曰く「いくら勉強しても授業料は変わらないので、たくさん勉強した方が得だと思った」とのこと。謙虚な彼はなんとなく冗談めかして話されていましたが、この考え方は学ぶと言うことの本質を的確に表現していると思いました。本来勉強はとても楽しい筈なのに、「受験勉強」や「学位取得」を通じて、殆どの人にとって「しなければならないこと」になってしまっています。学ぶことそのものが何よりの報酬になり得るのに、多くの場合勉強は最大の苦しみであり、「何のために勉強するんだろう」と多くの学生が悩んでいます。

きっと、仕事も同じで、やはり本来とても楽しいことなのだと思います。心から楽しみながらする仕事は爆発的な事業力を生み出しますし、仕事自体が人生をとても豊かにする可能性を秘めています。一般論として、「仕事を心から楽しむとき高い事業性が生まれる」という考え方に共感する方は少なくないと思うのですが、この概念が企業経営において現実に応用可能だと考える経営者は少数であるのみならず、これを実際に実行する経営者は、良くて変人、一般的には狂人、具体的な成果が出始めると危険人物扱いされることになります。サンマリーナホテルでの僕の「実験」は、やるべきこと、しなければならないことを一切排除して、心からしたいことだけを事業化しようと試み、劇的な成果を生み出した事例の一つです。笑い話のようですが、これを実行するに際して、当時の共同経営者からは僕が本当に「頭がおかしく」なったと疑われ、精神科への入院を指示されたくらいです。

パタゴニア
しかしながら、世界的にはこの原理を経営手法として実践している経営者が少しずつ現れ、大きな成果を生み始めています。以下は、アウトドアウェアのメーカー、パタゴニアの創業者イヴォン・シュイナード著『社員をサーフィンに行かせよう』の日本語版への序文からの引用です。

私たちの会社で「社員をサーフィンに行かせよう」と言い出したのはずいぶん前からのことだ。私たちの会社では、本当に社員はいつでもサーフィンに行っていいのだ。もちろん、勤務時間中でもだ。平日の午前十一時だろうが、午後二時だろうがかまわない。いい波が来ているのに、サーフィンに出かけないほうがおかしい。 私は、数あるスポーツの中でもサーフィンが最も好きなので、この言葉を使ったが、登山、フィッシング、自転車、ランニングなど、ほかのどんなスポーツでもかまわない。パタゴニアの本社が太平洋を望むベンチュラにあるのも、パタゴニア日本支社が鎌倉市にあるのも、社員がサーフィンに行きやすい場所だからだ。そして何より、私自身がサーフィンをしたいのだ。

私が「社員をサーフィンに行かせよう」と言い出したのには、実はいくつか狙いがある。 第一は「責任感」だ。私は、社員一人一人が責任をもって仕事をしてほしいと思っている。いまからサーフィンに行ってもいいか、いつまでに仕事を終えなければならないかなどと、いちいち上司にお伺いを立てるようではいけない。もしサーフィンに行くことで仕事が遅れたら、夜や週末に仕事をして、遅れを取り戻せばいい。そんな判断を社員一人一人が自分でできるような組織を望んでいる。

第二は「効率性」だ。自分が好きなことを思いっきりやれば、仕事もはかどる。午後にいい波が来るとわかれば、サーフィンに出かけることを考える。すると、その前の数時間の仕事はとても効率的になる。机に座っていても、実は仕事をしていないビジネスマンは多い。彼らは、どこにも出かけない代わりに、仕事もあまりしない。仕事をしている振りをしているだけだ。そこに生産性はない。

第三は「融通をきかせること」だ。サーフィンでは「来週の土曜日の午後4時から」などと、前もって予定を組むことはできない。その時間にいい波がくるかどうかわからないからだ。もしあなたが真剣なサーファーやスキーヤーだったら、いい波が来たら、すぐに出かけられるように、常日頃から生活や仕事のスタイルをフレキシブルにしておかなければならない。

第四は「協調性」だ。パタゴニアには、「私がサーフィンに行っている間に取引先から電話があると思うので、受けておいてほしい」と誰かが頼むと、「ああ、いいよ。楽しんでおいで」と誰もが言う雰囲気がある。一人の社員が仕事を抱え込むのではなく、周囲がお互いの仕事を知っていれば、誰かが病気になったとしても、あるいは子どもが生まれて三カ月休んだとしても、お互いが助け合える。お互いが信頼し合ってこそ、機能する仕組みだ。実際にどれくらいの社員がサーフィンに行くかというと、もちろん全社員ではない。全くスポーツをしない社員もいる。しかし、たとえば、ある社員の子供が病気で、今日は家に帰って仕事をしたいと言うと、誰もがそれを受け入れる。私の娘はこの会社でデザイナーをしているが、一人で集中したくなると、自宅にこもって仕事をしている。だから、「社員をサーフィンに行かせよう」という精神はスポーツに限っているわけではないのだ。

結局、「社員をサーフィンに行かせよう」という精神は、会社が従業員を信頼していないと成立しない。社員が会社の外にいる以上、どこかでサボっているかも知れないからだ。しかし、経営者がいちいちそれを心配していては成り立たない。私たち経営陣は、仕事がいつも期日通りに終わり、きちんと成果をあげられることを信じているし、社員たちもその期待に応えてくれる。お互いに信頼関係があるからこそ、この言葉が機能するのだ。

「社員をサーフィンに行かせよう」と言っている私自身、世界中の自然を渡り歩いている。一年のおよそ半分は会社にいない。サーフィン、フライフィッシング、フリーダイビング、山登り、テニスもよくやる。これを私なりにMBAと呼んでいる。「経営学修士」ではなく、「Management by Absence(不在による経営)」だ。一旦旅行に出ると、私は会社に一切電話しない。そもそも携帯電話もパソコンも持っていかない。もちろん、私の不在時に、彼らが下した判断を後で覆すことはない。社員たちの判断を尊重したいからだ。そうすることで、彼らの自主性がさらに高まるのだ。

最後に、私たちのビジネスで最も重要な使命について触れておきたい。それは「私たちの地球を守る」ことだ。私たちの会社では、このことをなによりも優先している。売上高より、利益よりもだ。今までのように、ニュージーランドの毛糸を香港でセーターに編み、アメリカで売ることは難しくなる。恐らく十年以内には、セーターのコストの中で輸送費が最大になるだろう。そうなるとグローバリズムは困難になる。ローカルエコノミーに戻るべきだ。求めるべきは、スローエコノミーであり、スロービジネスである。

本書の完成までに、実に十五年の歳月がかかった。それだけ長い時を費やしてようやく次のことを立証することができたのだ。従来の規範に従わなくてもビジネスは立ちゆくばかりか、いっそう機能することを。百年後も存続したいと望む企業にとっては、とりわけそうであることを。(日本語版への序文より)

戦略としての人事
サンマリーナやパタゴニアの事例は、今までの事業環境では、「とても変わった人事手法が経営的な成果をあげた一例」という程度のものであったかもしれませんが、今後の日本の企業社会ではそれ以上の意味をもつことになるでしょう。現在、人事を取り巻く状況が大きく変わりつつあります。少子高齢化と団塊の世代の大量退職が始まり、大都市圏では人材の確保が経営的な重要性を増しつつありますが、これは一大構造変化の序の口に過ぎません。今後30年間の長きに渡って労働人口が毎年1%ずつ減少することは人口動態上明らかであり、人材確保が経営的に最重要テーマになると思います。人事の対処を誤れば、給与を3倍にしても人材を確保できずに破綻する企業が続出するイメージです。

現状においても「人を大事にする」と言わない企業の方が少ないのですが、従来の価値観の延長上ではまるで対応しきれない市場環境になるため、「そもそも人を大事にするとはどういうことか」、「企業における人間関係はどのように在るべきか」、「企業は従業員の幸せと成長にどのように貢献できるか」を根本的に問い直し、試行錯誤をしながら適切な経営バランスを見つける企業が、業界を圧倒的にリードすることになると思います。このため、人事は企業の存続をかけた事業戦略という意味合いがどんどん強くなるでしょう。

【2007.5.18 樋口耕太郎】