トリニティの人事論(pdf)

サンマリーナの人事考課基準を導入する際、「運用」方法に並んで理解されにくかったのが、「好きなことだけをして構わない」、ということの意味だったと思います。もちろん、「好きなことだけをして構わない」とは、無法状態を歓迎するという意味ではありませんので、その具体的な意味を明らかにしたいと思います。

「好きなことだけをして構わない」ということの意味
「好きなことだけをして構わない」とは、文字通りの意味なのですが、四つの前提があります。第一に、「好きなことだけをする」とは「いつでも身勝手に振舞える」という意味ではありません。例えば、ホテルの満室稼動のピーク時に、何の前触れもなく持ち場を離れて買い物(例えば)に行くことを奨励するという意味ではないのです。しかしながら、営業中に買い物に行くことが、その社員にとって重要なことであれば、それを可能にするよう、組織や場合によっては事業そのものを変化させて対応する、という意味でもあります。サンマリーナで実際にあった小さな事例ですが、出産を終えて職場に復帰したある女性が、預けている子供を終業後迎えに行くのがぎりぎりの時間になるため、「終業近くになると気持ちが少し急いてしまう」ということを告白してくれたことがありました。もちろん、気持ちは焦りながらも「普通通りに仕事を片付ける」ことはできますし、彼女は責任感が強いので、個人的な事情を言い訳にすることもありません。しかし、彼女があと30分早く仕事を終えることができれば、もっと気持ちの落ち着いたいい毎日を過ごす事ができるのは明らかでしょう。面談の後、彼女の就業時間を30分早めることにしたのですが、彼女の顔つきが見る見る明るくなるのを見てこちらが驚いたほどです。人より早く始動する30分は、彼女の作業効率を上げただけではなく、周囲の従業員に対してもメリハリのある勤務環境となりました。会社にとっては小さな対応かもしれませんが、彼女の毎日の生活にとってはとても意味のある変化となったようです。一般的な経営理論が人間関係の現場において如何に現実味を持たないかということの良い事例でもありますが、このようなケースで彼女の終業間際の30分間の労働生産性を「モチベーションマネジメント」、「インセンティブの付与」、「目標設定と進捗管理」などの手法で高めようとしても、それは無理というものでしょう。なぜなら、彼女の人生で仕事が子供に優先することはないからです。

第二に、「好きなことだけをして構わない」とは「従業員の自由な振る舞いの結果に会社が対処する」という意味ではありません。例えば、従業員が欠勤することは自由ですが、例えば有給休暇などの規定を超えて欠勤する従業員に、会社が給与を支払い続けるということではありません。しかしながら、従業員が欠勤がちだからといって、それだけの理由で人事考課に悪影響を及ぼしたり、仕事がしにくくなるなど事実上の制裁がなされることは避けるべきです。自由な選択に介入しないということは、形式、実質を問いません。自由に振舞う社員に対して、「だったら好きにしろ」という態度を取る上司も実質的に従業員の自由意志に介入していることになります。望むべきは、「好きにしても良いんだよ」というニュアンスでしょうか。この考え方は、「会社は、従業員の自由な行動と選択に介入せず、仮にそれが『誤った』ものであったとしても、従業員が自ら選択をする自由を尊重し、裁かない」ということです。誰にとっても平等なことだと思うのですが、人は誰しも自分が選択した行動が生み出す結果を避けられません。例えば、嘘をつけば信用を失いますし、人を騙せば恨まれますし、仕事をしなければ収入が途絶えます。従業員の自由な選択に介入しないということは、この結果にも介入しないということです。反面、従業員のいかなる選択と行動に対して、それがもたらす自然な結果を会社も受け入れ、従業員を裁くことをしません。

第三に、従業員は以上の意味で、本当に「好きなことだけをして良い」、すなわち、従業員の自由な行動と選択によって誰も人事的なマイナスを受けない(言外のペナルティや実質的な禁止を含む)のですが、人事考課として評価される行動は、その自由な振る舞いのうち、①自分を成長させる行動と、②人の役に立つ行動のみ、というように構成されています。

第四に、従業員は「好きなことだけをして良い」のですが、同時に「真実であること、隠し事のないこと」が前提です。一般に、「人のため」と言いながら利己的な利益を追求する人は、社会において驚くほどの比率に上りますが、これらの人たちは真の意図を隠すために膨大な労力と注意を払っています。これに対して、サンマリーナの人事考課においては、例えば、従業員の振る舞いがいかに利己的な行動であっても、それ自体では全く問題視されず(評価もされませんが)、上記の原理によって許容され、裁かれることはありません。しかし、それが利己的な行動であると言うことを明らかにする、すなわち行動と表現に嘘がない状態であることが非常に重要視されるのです。

責任てなんだ?
企業経営の常識では、企業において従業員が「すべきこと」と「してはいけないこと」が存在し、それを守る(守らせる)ことが組織の秩序を生み出す、と考えます。これに対して、従業員は「好きなことだけをして構わない」という考え方は、①企業においては従業員が「すべきこと」も「してはいけないこと」も存在しない、②従業員が「したいこと」と「したくないこと」が存在するのみである、③仕事は期限を決めて行う必要はない、そして、④従業員が会社の業務を行うのではなく、従業員のやりたい仕事の集積が、会社の業務である、という発想が前提となっています。この考え方は更に、組織における「責任」の概念を不要にすることになります。

翻って考えると、これだけ頻繁に使われている「責任」という言葉の意味は、意外に曖昧です。例えば、経営者が「責任を持って実行します」というとき、これは実のところ何を約束しているのでしょう?「必ず実行する」という意味のようでもありますが、この場合、「実行できなければ○○を甘んじて受け入れる」という構成がなければ、概念として意味を成さないのですが、殆どの場合後者に関しては意図的に曖昧なままにされています。要は、社会における、「責任」とは、「目標が達成できなかったり、問題が発生した場合にペナルティを課せられる可能性のある部署または人物」という、ペナルティの概念として利用されているのです。さらに、この意味における「ペナルティ」は、「責任」の有無と所在が宣言されて初めて課される性質のものであるため、(潜在的な)ペナルティを避けるために(責任の)宣言をしない、という、非常に典型的な問題を日常的に生み出しています。この意味において、組織における「責任(者)」の有無が、効率的な組織運営を実現しているとはとても思えないのですが、如何でしょう。…経営に失敗した経営者は「責任」を取らなくて良いのか、という声が聞こえてきそうですが、経営者は「責任を取るために」辞任するのではなく、社内において「最も役に立つ人物」でなくなったときに辞任するべきだと思います。リーダーシップについての詳細な議論(『トリニティのリーダーシップ論』)は別の稿でコメントします。

「好きなことだけをして構わない」ということの経営合理性
以上が、「好きなことだけをして構わない」ということのおおよその意味ですが、このような人事フレームワークを構築し、運用することは次のようなメリットがあります。第一に、そもそも、「すべきこと」と「してはいけないこと」の有無に関わらず、結局人は自分の行動と環境を自ら選択している、ということはないでしょうか。これが仮に真実であれば、各人が「行動と環境を自分で選択している」状態にも拘らず、それ以外の行動規則、すなわち、「すべきこと」、「してはいけないこと」が存在するとき、組織内に本音と建前、すなわち「うそ」が生じることになります。「うそ」が経営効率に与えるマイナスのインパクトは想像を絶するものがあります(詳細は別の稿でコメントします)。そして、従業員はどのみち「行動と環境を自分で選択している」のであれば、経営が従業員に対して「好きなことだけをして構わない」というメッセージを伝えることで、本音と建前の使い分けを無用にし、従業員を「うそ」から解放することができます。この矛盾を解消することで従業員が元気になる姿は感動的です。第二に、「責任」によって従業員の仕事の範囲が規定されないため、従業員間の仕事のやり繰り(いわゆる「ヘルプ」)が非常に効果的に機能します。第三に、従業員の仕事の大半が「金色の仕事」になり、企業価値を高める効果があります(『トリニティの人事論《その2》』を参照下さい)。第四に、従業員がしたいことだけをするとき、企業と顧客の接点にうそや演出が一切なくなります。顧客が、例えばそのようなホテルを訪れるとき、ホテルで経験する全ての「サービス」は、従業員の心からのものです。

【2007.6.26 樋口耕太郎】

*『トリニティの人事論』は本稿で終了です。