「サンマリーナ人事考課に関する経営方針」(pdf)*(1)は、サンマリーナホテルで2005年7月から全面的に施行した人事考課基準の「現物」です。一般企業の常識的な人事考課基準とは相当異なるため、導入当時は面食らった社員も多かったと思います。実際のところ、この内容を十分に理解した従業員はそれ程多くなかったと思うのですが、それでも経営的に莫大な効果が生まれました。「常識的」に、人事などに関する経営方針は、従業員に周知徹底し、経営の意図が十分に理解されなければ十分な効果が生じないと思っていたのですが、どうやらそうとも限らないようなのです。

更に、人事考課基準を読んで頂けると分かるのですが、この人事考課基準では、会社は従業員に何も求めていないのです。すなわち、従業員が会社のために「何かをしなければならない」、あるいは「何かをしなければ何らかの不利益が生じる」、という内容はどこにもありません。…本稿の趣旨ではありませんので、詳細は別の稿でコメントしますが、一般に、経営者の仕事は「会社(と従業員)の何かを変えること」、と考える経営者が殆どだと思います。これに対して、この様な人事考課基準が有効に機能した事実は、経営者が方針を決め行動を起す、すなわち経営者自身ができることをまず行うことで、従業員を変えようとしなくても、あるいは、却って変えようとしない方が、企業をよいものにする可能性を示唆していると思います。

企業の自浄作用
さて、この考課基準を施行する際、周囲から心配されたのが運用です。…例えば「どのようなときにA評価となるか」という問題です。僕にはこの考課基準が具体的かつ公正に機能するという確信があり、実際に実践してみるとやはり殆ど問題になりませんでした。その確信へのインスピレーションは野村證券での経験がヒントの一つになっています。今はどうか良く分かりませんが、少なくとも僕が在籍していた頃の野村證券の人事は本当に公正だったという印象があります。僕が12年間お世話になった期間、学閥を含め派閥らしきものを見たことは一度もありませんでしたし、一従業員の目から見て不公正な人事はあまり記憶にありません。もちろん、会社の中にはゴマすりもいれば人の成果を自分のものにすることに情熱をかける「政治家」もいましたし、そのような人が昇進することもあります。それでも長期的には、部下思いの誠実な男気(女気)のある上司はやはり偉くなって行き、卑怯な自己保身上司が淘汰されていく自浄作用が存在したと思います。このような野村證券の人事を体験して、組織には尊敬すべきリーダーを評価・選択するメカニズムを内在しているのではないか、すなわち、「組織は誰がA評価であるべきか既に知っている」、と強く感じたのです。どのような組織にも自浄機能は存在し、人事担当者や経営がすべきことは、組織が本来有する自浄機能を活性化することではないか、というインスピレーションです。それが仮に事実だとすると、運用に際しての課題は、組織が内在するリーダーの人物像をいかに正確に吸い上げ、人事に生かすかということだけだと思ったのです。

部下は真実を知っている
「上司が部下の人物を見抜くのは困難を極めるが、部下が上司の公正さを見抜くのはほんの一瞬であり、その判断は殆どの場合正しい」。これは、僕の野村證券時代の上司が言っていたことですが、自分がサンマリーナホテルの経営を担当して、この言葉を本当に痛感しました。変な例ですが、女性の嘘を男性が見抜けないのと同様、上司が部下のおべっかを見抜くことを、組織的に意味のある水準で達成することは殆ど不可能という気がしました。経営的な観点では、上司が部下を正確に評価することを期待して経営を行うことは、あまりに合理性のない経営管理方法といえそうです。このため、僕の結論は、経営が組織的に実行すべきことは、部下が勇気を持って声を上げることを励まし、その部下の声に耳を貸し、それを裁きに利用せず、リーダーの選別に反映するということでした。要は従業員の信頼に足る社長が(あるいは人事担当者が)全ての社員と直接対話する時間を取れば良いだけの話なのです。

従業員250人のサンマリーナでも、1ヶ月程度他の仕事を一切しなければ全員と30分ずつ面接ができる位の時間が無理なく確保できます。1ヶ月間面接以外の仕事を殆どしないのは「非常識」、そうでなくても「不可能」と考える経営者が大半だと思います。しかしながら、本当のところ、仕事には「優先順位」があるだけで、「忙しくしている」人はいても、もともと「忙しい」人など誰もいないのです。「時間がない」というのも、「他に優先順位の高いことがあります」という意味でしかありません。したがって、これも優先順位の議論に過ぎません。そして、経営論における優先順位は、経営合理性によって決定されるべきで、人間関係を最優先するのは、最も効果の高い経営作業であるためです。そして、人間関係を優先するということの意味は、例えば社長が当然にしてこのような行動をとるということだと思います。結果として、サンマリーナにおいては僕の労働時間のほぼ9割が、広い意味での人事関連になりました。文字通り「経営=人間関係」です。このように、言葉で宣言したことをことごとく行動で担保していく作業が、経営の現場というイメージです。

シンプルなしくみが最も機能する
ものごとには、「精緻に分析するほど不正確になる」こともあるような気がします。例えば、従業員のクオリティを20項目で分析・評価・集計するよりも、40項目で評価した方が正確であるとは全く限らないと思うのですが、一般的な企業の人事評価はどうしてあんなに項目が多いのか、昔から釈然としないものを感じていました。昔、人事考課を受ける側の立場で感じたことですが、細分化された評価項目を見るたびに、自分とは全然別の人物を評価されているような気になったものです。

人事評価の運用に際して非常に効果的だったのは、社員のおよそ95%がAまたはBという、これ以上シンプルにしようがない「(実質的な)二段階評価」を導入した点でした。一般的な人事考課においては、複数の評価項目に対して評点を付し、それらを集計して総合評価を行うことが多いと思います。例えば、「収益にどれだけ貢献したか」、「新規案件にどれだけ積極的に取り組んだか」、「部下の育成を積極的に行ったか」など、複数の項目に対してそれぞれ評価がなされます。サンマリーナの人事考課では、各社員に対して「S・A・B・C」の総合評価のみを行うことにしました。つまり、Aさんの、ある期の考課は「A」であり、それ以上でもそれ以下でもありません。2005年上期では、S評価が5%、A評価が55%、B評価が40%、C評価は度重なる飲酒運転で有罪判決を受けた2名のみでしたので、実質的にはニ段階評価と言って良いくらいです。また、大半を占めるA評価とB評価の、全体に占める割合がおおよそ6:4というバランスも非常にうまく機能したと思います。このバランスにおいては、従業員の格差を考課するという意味合いが薄れ、従業員を励ます意味合いがより表現・伝達される様な気がします。更に、B評価以上の社員は昇給していますので、(額は僅かであっても)事実上全社員が昇給しました。このような仕組みでは、とにかく運用がシンプルになるため、却ってより正確な評価が可能になるのではないかと思います。

全面開示
なお、以上の人事考課は、希望する全従業員に対して全面開示する方針を決定した上で行いました。開示方針を決定したことの最大のメリットは、経営幹部が人事考課を行う際、良い意味での緊張感が著しく高まったことです。経営幹部の立場では、自分たちが行った評価が全従業員の目にさらされることを意味するため、どの従業員の目から見ても公正感のある、少なくとも自分たちがベストを尽くしたと胸を張れる評価を行いたいと言う意欲が非常に高まったのです。これによって、人事考課を最終的に確定するまでに、総支給額別(残業代などを含む)、俸給別、役職別、入社年次別、部門別、年齢別、勤続年数別、男女別、過去数年の考課の推移と支給額の推移…。様々な観点でリストを作成し、多角的な視点にも耐えうる公正な評価を行うように、何度も繰り返し検討を行うプロセスが実現しました。

俸給決定に関する基本方針
人事評価に際しては、評価基準の設定や実績評価そのものよりも、「評価の姿勢」が最も重要ではないかと感じています。すなわち、実績を上げた従業員を高く評価することはある意味誰でもできることで、この場合の評価者は何かしら「審査員」のような役割を果すことになります。経営が本来すべきことは、従業員一人ひとりを可能な限り理解した上で、従業員の成長を後押ししながら、従業員の将来に「投資」を行う姿勢を人事考課という行動で示すことではないでしょうか。この姿勢を受け、サンマリーナでは評価の姿勢に対する基本方針を次のように定めました。

先行投資の原則: 昇給は社員に対する積極的な投資であると考える。各社員の成果を見越し、期待を込め、実績に先行して昇給額を設定する。従業員が現在の実力を上回る報酬を受け取る方が経営的に好ましい。
給与水準を「限界まで上げる」方針:その期ごとに、何が会社にとっての「限界」かについて明確に説明を行う。労働分配率の高い会社を目指す。
完全開示: 査定者の真剣味を引き出し、経営の「怠慢」や「既得権益」を防止。
金額よりも公平感: まずは心を配った評価から。絶対額の公平よりも、公正な査定を優先する。

【2007.6.14 樋口耕太郎】

*(1) 「『トリニティ経営』について」のセクションからも参照頂けます。

補足資料
以下に、人事考課の運用に際して全従業員に宛てて送付した、当時のメールを添付します。

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2005年10月25日
サンマリーナに関わるすべての皆さんへ:
樋口耕太郎

サンマリーナの新・人事考課を導入してからそろそろ5ヶ月が経過しようとしています。本年末の考課はこの基準によります。それに際しまして、今後のスケジュール、運用方法、その他についてお伝えしたいと思います。

第一に、「半期ごとの目標を設定し、それに対する自己及び他者評価がなされる」旨を導入時にお伝えしましたが、目標設定の作業は不要との考えから省略して運用することにしたいと思います。期初に目標を設定しようとしまいと、その期にあげた皆さんの成果を評価することになんら影響はないと思われますし、期末に自由に成果を振り返るという意味で、より広範囲の成果を自己申告することができたり、なによりも重複する作業量を減らすメリットがあると思います。自己評価においては、以下にある「サンマリーナの事業目的」に沿って、①自分はどのように人に役に立っただろうか?②自分はどのように人間的に成長しただろうか?を振り返って頂く作業になると思います。(自己評価シートは追って皆さんに配布いたします)

なお、今期は義務ではありませんが、パートさんや派遣さんの方々も、もしご関心があれば是非考課基準を読まれ、自己評価シートを提出いただければ素晴らしいと考えています。

第二に、今期の試みとして、考課の前に面接を行いたいと考えています。特に前回の面接は(おおよそ)役職者から順に行いましたが、今回はパートさん等を含む現場の方から先に意見をお聞きしようと考えております。年末に間に合わせるためには11月頃より面接が開始されることになると思いますが、どうかご協力お願いいたします。特に前回遠慮をされて伝え切れなかったこと、忘れて話せなかったことなど、是非沢山アドバイスをいただければと思います。時には言葉を発することは勇気が必要かもしれませんが、その一言一言がわれわれの会社を良いものにする原動力になっています。

時間の関係で、面接の後の考課は内容のみのご通知となります。ただし考課の結果にコメントや意見がある方は是非別途際面接を行う運用としたいと思っております。

第三に、年末の考課に先立ちまして、サンマリーナの事業目的をより明確にお伝えしたいと思います。以下をご参照下さい。サンマリーナの考課基準が、事業目的と矛盾しないこと、むしろ事業目的に完全に沿う形で構成されていることをご確認いただければと思います。なお、「人の役に立つ」という場合の「人」とは社員やお客様に限定する意味は全くありません。パートさんや派遣の方々、サンマリーナ会の方々、協力会社の方々、サンマリーナ会(タクシー)の方々を含むタクシーバス等の運転手さんやガイドさん、ごみ処理会社の方々、工事業者の方々、ミュージシャンの方々、代理店の方々、またその家族の皆さんまたはまだお会いしたことのない方々…われわれが関わる、または関わる可能性のあるすべての方が対象です。

また、もともと社員やパートさんや派遣さんの間に雇用形態以外の差は全く存在しないというのがわれわれの明確な認識ですので、この機会に誤解のないようお伝えしたいと思います。

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サンマリーナの事業目的

サンマリーナにおける事業の目的は唯一「他を利すること」である。

われわれの「仕事」は、人に思いやりをかけること、人に優しくすること、人のために努力する人に共感しそれを伝えること、他を(物質的、精神的に)豊かにすること。これは手段ではなく、目的である(「目的である」とはそれが無償であるという意味です)。それ以外のすべての作業(世間で一般的に「仕事」と呼ばれているもの)はこの目的のための手段である。

リーダーの思考および行動はサンマリーナの事業そのものである。リーダーの「仕事」は上記の目的に沿って人の役に立つこと、または人の役に立つことを企画実行すること。反対に、より人の役に立つ人がリーダーとなり、それ以外にリーダーの選抜基準は存在しない。

売上や事業収益、は上記目的の結果であり、サンマリーナのいかなる部署、組織、個人においても目標、目的になることはない。また、いかなる部署、組織、個人もこれによって評価されることはない。

以上です。