人に好意を寄せることと、人を愛することは、似て非なるものだ。

好きだという気持ちは、「こうあってほしい」という自分の勝手な気持ちが「相手の存在」に重なるときに生じる。

私たちにとって、「理想の彼女」とは、自分勝手にイメージしている身長、容姿、性格、仕事、人間関係を有している女性のことを言う。そのイメージに近い人に出会うと、私たちは、その女性を「好き」になる。

「タイプでもなかったのに、好きになってしまった」という良くあるケースでも、自分にとって「そうあってほしい」という気持ちに、「相手の存在」が重なっているはずだ。相手の性格は想定外だったけれど、「恋人が欲しい」という気持ちが強ければ、私たちはその人を「好き」になる。

自分が「そうあってほしい」イメージ(の人)を「好き」になることほど、人を興奮させ、時間を忘れさせることはない。恋人との時間、好みの映画、楽しい趣味、子供の野球観戦、お気に入りの政党・・・。

だから私たちは、できるだけ人を「好き」になろうとする。その方が楽しいし、楽だからだ。そして、人を「好き」になるためには、自分が「そうあってほしい」イメージ以外のものから目を伏せればいいのだ。

人間的に思いやりがなくても、いつもお金を落としてくれる上客であれば、欠点に目をつぶって接しているうちに、「好きだ」という気持ちが湧いてくる。冷たい旦那だけれど、その問題から目を伏せればだんだん気にならなくなる。

つまり、「好きだ」という気持ちの裏側には、自分が「そうあってほしい」こと以外の要素から目を伏せるという要素が含まれている。「好き」だからという理由だけで選択する人間関係は、相手と向き合うことを遠ざけ、人間関係の本質を避けて通ることと変わらない。

愛することは、好きになることとは根源的に異なる生き方である。人を愛するために、「好き」になる必要はまったくないし、相手の好き嫌いとは無関係である(もちろん「好き」になっても構わない)。

むしろ、自分が「好き」でない人、嫌いな人、自分と主義主張の異なる人、自分のことを攻撃したり傷つけたりする人、つまり、自分が勝手に持つイメージに当てはまらない人に対して、思いやりをもって接するということである。

愛するということは、人生において最も苦しい行為の一つである。その人のためと思って、心を尽くして接しても、「そうあってほしい」イメージが裏切られ、失望させられる。そんなとき、愛することがなによりも苦しくなる。相手に「そうあってほしい」という気持ちが、自分勝手な思い込みにすぎない、という葛藤が苦しさの理由だ。

社会の本質はここにあると思う。世の中の問題は複雑に見えても、政治の本質、行政の本質、経営の本質、教育の本質、家族の本質は、愛であり、この本質を失った社会から衰退する。そんなシンプルな原理が働いているだけなのだと思う。

自分にとって大切な人のために働くことは容易なことである。可哀想だと思う人に優しくすること、自分を評価してくれる人のために尽くすこと、気心の知れた人に思いやりを示すことも別段難しいことではない。しかしながら、自分と利害が対立する人を助けること、自分の主義主張と異なる人のために働くことこそが、リーダーのリーダーたる所以なのだ。

政治的な意見の相違は別にして、田中角栄はかつてこんな名言を残している。

「人間は、やっぱり出来損ないだ。みんな失敗もする。その出来損ないの人間そのままを愛せるかどうかなんだ。政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ。東大を出た頭のいい奴はみんな、あるべき姿を愛そうとするから、現実の人間を軽蔑してしまう。それが大衆軽視につながる。それではダメなんだ。そこの八百屋のおっちゃん、おばちゃん、その人たちをそのままで愛さなきゃならない。そこにしか政治はないんだ。政治の原点はそこにあるんだ。」