Smoking Kid (Thai Health Promotion Foundation)|このCMで、子供は自分を映し出す鏡になっている。自分の姿を見て、はっとさせられる瞬間。若者たちがメモを読んだ後に、顔色が変わる姿が印象的だ。

このCMは、単に禁煙キャンペーンとして意味があるだけではない。我々の人生において、最も重要なことの一つが、「鏡を見る」ということ、「自分に向き合う」ということだからだ。

我々の社会では、ものごとに妥協して生きることが当たり前になっている。相手を責めなければ、自分も責められることがないだろうから、人間関係は曖昧なほど心地よい。

自分も含め、付き合う相手がグレーであっても、周りがグレーなら、みんな白でいられる。みんないい人、自分もいい人。「甘さ」は「優しさ」にすり替えられるし、「逃げ」も「自分探し」、「やりたくない」ことも「検討中」ということで丸く収まる。

努力をしたくなくても、いい人でいさえすれば、やんわりと善意を装っていれば、社会が何となく助けてくれる。加害者にならなければ、被害者でいさえすれば、誰かが同情してくれる。すべてが曖昧。持続性はないが、刹那的だが、その瞬間、何となくバランスは取れている。

そんなグレーの中に、一点の白が生じると、社会は大いに衝撃を受け、大混乱を来すのだ。たった一点の白のせいで、自分たちが、社会全体が、急に薄汚れたも のに見えるからだ。その原因は、もともと自分が薄汚れているからに他ならないのだが、殆どの人は、その「白」が原因だと思う。

余りに理想論に聞こえるその姿は、社会の現実からかけ離れているため、始めは無視していれば良い。しかし、白は白であるだけで力を持つのだ。真実の力は弱まることがない。だんだんと無視できなくなると、社会は白を嘲笑しはじめる。それでも、力をつけてくると、本気で潰そうと挑んでくる。

グレーの群れは、白を見て、心から怒りを感じて激高する。自分たちの社会の破壊者に見えるからだ。そして、それは、ある意味正しいのだ。しかし、グレーの人たちが目にし、憎しみを抱くものは、白の姿ではなく、白い鏡に映った自分の(薄汚れた)姿そのものだ。

この曖昧な社会において、純粋であり続けるものは何でも、社会に対する強烈な鏡として機能する。先のCMで、子供にはっとさせられるのは、子供という純粋な鏡に映し出された、自分の薄汚れた姿を見せられるからだ。

相手が子供だから、社会的に、純粋だという認識が一般的な対象だから、はっとする。しかし、これが、大人だったらどうだろう。はっとするよりも、激しい怒りが先にくるのではないだろうか。逆切れして殴りつけることだってあるかもしれない。

我々がこの社会で純粋に生きるということの意味は、このような怒りを引き受けることを意味する。そして、純粋に生きるということの、それだけの怒りを引き受けるということの、最大の理由は、まさにその怒りを発しているその人の人を癒し、社会を、少しでも豊かにするためなのだ。

【樋口耕太郎】