2月27日は私の51歳の誕生日でした。メッセージを下さった皆さん、ほんとうにありがとうございました。みなさまへお返しのメッセージです。

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私は学ぶ、ということには3つのプロセスが必要だと思っています。

第一の学びは、一般的に「学習」と考えれられているもので、知識を増やし、論理的な思考力を身につけ、物事の因果関係を理解する作業です。いわゆる「常識」を身に付ける学習だと言えるでしょう。

ただし、この段階ではまだ、これらの情報は自分の言葉になっているとは限りません。いわゆるエリートと会話していて、彼らが膨大な知識量と、分析力を持ちながら、自分の言葉でしゃべっているように聞こえない時がありますが、それは現代社会の学びが、第一段階に偏重しているからでしょう。この段階では、どれだけ膨大な知識を身につけていても、他人の言葉にすぎません。

知識としては知っていたはずの情報が、あるとき、「腑に落ちる」ことがあります。これが私の考える第二の学びであり、他人の情報が自分の血肉になる瞬間です。第一の学びで身につけた他人の情報が、自分の言葉になります。自分のパラダイムが拡大し、新たな世界観を自分の人生に取り込むのは、このときです。この瞬間、私たちはそれまでの自分の常識を飛び越えて、新しい世界に足を踏み入れることになります。

第二の学びの難しさは、第一の学びとはまったく異なるプロセスで生じるだけでなく、多くの場合第一の学びがそれを阻害するという点でしょう。第二の学び、 パラダイムシフトは、第一の学びによって積み上げた「常識」を飛び越える必要があるからです。言葉を変えれば、既存の世界観に基づいて「理屈」に合わない こと、「合理的」に判断不能なことを実行しなければ、自分の既存世界観を広げることはできないのです。

つまり、第二の学びとは、損得を超越したプロセスなのです。誰でも損だと思えることはしたくありません。しかし、その先にしか学べないことがあります。だから、人生では、失敗から学び、人から傷つけられて強くなり、騙されることで新しい機会を得るのです。

その中でも、もっとも「合理的に」パラダイムを飛び越える方法があります。それが愛です。たった一人との出会いによって、それまでまったく考えもしなかった場所に住み、仕事を変え、生き方が180度変わることは日常茶飯です。愛は盲目とも言いますが、だからこそ、その人の人生を非連続に拡大するのです。

3歳の子どもが父親に連れられて、生まれて初めてプールに行き、プールサイドから離れて、お父さんが呼ぶ方に思い切って飛び込むとき、「合理性」は存在しません。少し大げさに言えば、自分の命を平気でリスクにさらすのは、お父さんに対する信頼があるからであり、お父さんへ(から)の愛情によるものです。

3歳の子どもでさえ、愛があれば命を捨てて、水に飛び込むことができます。その瞬間、泳ぎなど不可能だと思っていた世界観がシフトして、自分は泳げるんだ、という新たな人生を学ぶのです。

私たちの学びは、愛によって支えられています。誕生日を迎え、ここからまた1年、多くの人たちとそんな接し方をしたいと思っています。

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そして、第三の学びとは、「身につける」ことです。いかなる学びも、地道な行動の繰り返しによって自分の習慣に取り込まなければ、長期的に人生を変える原動力にはなりません。

地道な行動はもっとも目立たず、人から評価されることもあまりありません。これがもっともおろそかにされている点かもしれませんね。

【樋口耕太郎】