性善説の経営を実現するためには、単に従業員のよい行いを期待するだけではなく、従業員が正直に行動しやすい状況や環境を経営が積極的に整える作業が必要ではないか、というのが「性善説の経営科学《中編》」の基本的な論旨でした。また、従業員が正直に行動しやすい状況や環境を提供するということは、従業員が気持ちに余裕を持てるような物理的状況を整備する(無理なシフトを組まない、余裕を持って人を配置するなど)仕組みが必要だと述べました。

あまり一般的な認識ではないかも知れませんが、このような「整備」の大半は財務的的には「投資」と同義でもあり(当然のことですが、シフトに余裕を持たせたり人員を増やすことは費用が生じます)、これによる直接・間接の効果(リターン)や影響の多面的なイメージを把握してバランスを取ることができれば、経営効率が爆発的に高まるというのが私の経験です。このような「投資」効果は一般的に数量化することが困難で、例えば収支計画などでこれが数量的に表現されることはありません。そのため一般的な経営者の「事業のパズル」からははずれがちだと思うのですが、精緻に数量化できないからといって財務的でないとは限りません。むしろきちんと数量化されない財務的経営行動(収益を生じる経営行動)は事業の現場に溢れています。 ・・・経営者がイメージする「事業の生態系」と財務収益の繋がりは、事業経営の中でも特に重要なテーマだと思いますが、本稿の主要テーマではないので、この論点についての詳しい議論は別の稿に譲ります。

経営者が変わるとサービスが変わる
しかしながら、従業員にとって最も大きな「環境」は経営者の価値観そのものでしょう。性善説の経営を実現しようとするとき、経営が従業員の善意を信じ行動することで生じる変化の大きさと成果には本当に驚かされます。よく、「従業員は経営者の鏡」と言われますが、つくづくその通りではないかと思います。鏡をいくら叩いても磨いても鏡に映るその姿は何も変わりません。鏡の中の姿を変えたいときには、自分を変えることが何よりも効果的なのです。同様に、従業員が思いやりを持って人に接するようになるためには、経営者が従業員に思いやりを持って接すること以上に効果のある方法はないのではないかと思います。

むしろ検討すべきは、「経営が従業員の善意を信じ行動する」ということの具体的な意味です。この解釈次第ではまるで異なる結果になってしまいますし、性善説の経営の運用に問題が生じたり、効果が思うように上がらなかったりする場合は、原因の殆どがこの点に集約するのではないかと思います。経営者が従業員の善意を信じて行動する方法は無数にあると思いますが、私が経験した一例をご紹介します。

UG
ホテル業界には「UG」というコードがあります。これはUndesiable Guest(望まれざるゲスト)の略称で、例えば宿泊料金の支払を行わずにチェックアウトしたり、無銭飲食をしたことのあるゲストがこれに該当します。ホテルチェーンなどではUGのパーソナルデータをグループホテル間で共有し、このような事故の再発を防止するのです。チェーンの他のホテルでUGが発生するとそのデータが回覧されて来ますので、それをプリントアウトしてフロントデスクの裏やオフィスの掲示板に掲示されることになります。

経営的な観点で考えると、物事にはすべからく二面性があり、両者を特定した上で定性的・定量的に比較し判断することが効率的です。一般的に、UG管理をすることのマイナス面は殆どないかせいぜいデータを管理・回覧する手間であることに対して、プラス面は、UGの存在によって、沖縄という地域性やサンマリーナの顧客属性では、年間最大2件10万円程度の損失が生じる可能性があるため、UGリストを共有することで少なくともこの損失の一部を防ぐことができる、と考えられるのだと思います。

確かに「目に見える現象」はこの考え方の通りで過不足ないのですが、「目に見えない現象」を含めるとマイナス点は相当なものです。すなわち、サンマリーナに宿泊する年間14万人のお客様(の大半に)対して、ほんの少しであってもフロント担当者が「この顧客はUGではないか?」という懸念を抱いて接することになる点、また何か小さなトラブルが生じたとき、ホテル担当者がUGの可能性を疑いながら顧客に接することになる点、経営が実質的に「全ての顧客を疑え」というメッセージを従業員に対して発している点、経営が「顧客を大事にする」というメッセージを従業員に伝達している場合は、これと矛盾する仕組みのために組織の価値観が混乱すること、などです。特に、人間の特質としてポジティブな発想とネガティブな発想を同時に持つことは困難であるという分析がありますが、これがその通りだとすると顧客を疑いながら思いやりをかけるということは、そもそも生理学的にも不可能なことかもしれないのです。 ・・・もちろん、「目に見えないことは存在しない」という考え方を選択する場合には、以上のポイントはなんらマイナス点ではありえないので、どちらを経営の現実と考えるかは、まさしく経営者の価値観次第ということになります。

UGの廃止
私はサンマリーナホテルの経営を担当していたときに、このUGリストというものを始めて知り、その意味を従業員に確認した後にこのシステムを全廃しました。想像通り、社内にはこの決定によってUGを見逃し、ホテルが損失を被るかもしれないと心配する向きもありました。組織(実際には「責任者」)というものは、ダメージの多寡にかかわらず「事故」というものを嫌い、他の物事とのバランスの如何に関わらず完全に排除しようとする傾向があります。事故の発生は担当者の「責任」になるというのが一般的な企業慣習であるためです。

サンマリーナではUG廃止に際して、次のような趣旨の通達を同時に発表しています。『お客様が皆さんに言った言葉は100%正直な内容であると信じて行動して下さい。このような皆さんの行動の結果としてホテルに損失が生じた場合、会社は個人の非を一切問いません(ただし、事故報告書の提出は欠かさないで下さい)』 これは例えば、「自動販売機に入れたお金が1,000円戻ってこない」と顧客が自己申告した場合、機械を開けるまでもなく、即刻1,000円を顧客に払い戻す手続きをして下さい、という意味です。そして、「UG」が発生した場合は次のような「対策」をすることに決め従業員に伝えました。『もしお客様が何らかの理由で正当な支払を行わずホテルを立ち去る場合でも、お客様が支払をしていないという事実は全く無視して、やはりお客様に思いやりをもって接するよう心がけてみてください。また、そのお客様が再度ホテルにいらっしゃった場合も、過去の事実を全く無視して、その他のお客様と同様に接してください。傍目にはどんなに明らかなように見えても、実は見かけからは想像もつかない、やむを得ぬ事情がお客様にあるかも知れません(見かけと実際が異なることはよくあるものです)。言葉は悪いのですが、お客様に騙されても構いませんし、同じお客様に何回騙されても構いません。』

フロント担当を中心としたホテル職員で、本当は顧客を疑いたいと思っている人は殆どいません。顧客はみな善意であると信じて接する方がよほど気持ちが楽ですし、人にやさしくできますし、自分も楽しい時間が過ごせるからです。しかし、彼らのプロとしての義務感が、その業務を全うするために、少しではありますが確実に自分の心に負荷をかけることを強いているのです。この心の負荷は僅かなものですし、もちろん目に見えないものですが、その「小さな」心の負荷が軽くなることで従業員がどれほど元気になったかは、傍からみているだけでも本当に感動的でした*(1)。この変化を顧客が感じないわけはありません。実際、ゲストコメントの内容と量の変化にはっきり現れています。それ以降は、年間14万人の顧客に対して疑いを持たずに、気持ちに大きな余裕を持つ社員が0人から250人(全従業員数)に増えたと考えてもそれほどの誇張ではないと思います。経営的には、「人の善意を100%信じることで、個人的に損失を被るかもしれない」という従業員の恐れを取り除くしくみを提供したことになります。

性善説の経営と事業性
突飛な例に聞こえるかもしれませんが、ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』の冒頭に登場するミリエル司教は、一晩泊めてあげたにも拘らず銀の食器を盗んだジャン・バルジャンに対して、断罪することではなく、彼を肯定し、彼の心の中の善意を信じて銀の燭台を手渡すことで彼の人生を永遠に変えました。9年後ジャン・バルジャンがモントルイユ・シュル・メール市の市長になり、福祉の整った善政を行いこの地方を非常に豊かにするきっかけは、わずか200フランの銀の燭台だったのです。もちろん本人は自覚していなかったと思いますが、ミリエル司教は優れた「投資家」であったとも言えるのです。

我々が一人の顧客に10回騙されれば、その顧客はその後、沖縄やホテル業界や社会の善意を信じて人生を送れるかもしれません。ホテルで年間5万円の予算を組む(損失を見積もるということですが)ことで万が一にもそのような人を「手助け」できるのであれば、ホテルや我々の仕事が人の役に立てるかもしれません。もちろんこの方針によってこのような「UG」を善人に変えようと考えているわけでもありませんし、現実にはその機会さえ殆どないかもしれません。しかし、このような信念が従業員に伝わるとき、組織が根本的に変化することを経験しました。

以上の考え方は性善説の価値観に基づくものですが、実は「きれいごと」に終わらない経営的(財務的)な裏づけが存在し、このような経営行動は極めて事業効率の高い判断である可能性があるのです。会社が被る損失は、仮に1回につき5万円の損失だったすると、10年間で10回騙されても年間5万円です。これに対して、顧客維持率を5%上げることで、利益が25%~125%アップするという調査*(2) があります。従業員の善意に共感し、リピートする顧客がどのくらいであるかを数量化することはできないものの、直感的にこのインパクトをイメージすると、僅か5万円の「投資」(機会損失)で得られるリターンは信じられない程の収益率を生むことが想像できるとおもいますし、その後のサンマリーナの収益はこの仮説を一部裏付けていると思います*(1)

【2007.1.22 樋口耕太郎】

*(1) 趣旨を分かりやすくするためにこのような単純な表現にしていますが、正確に表現すると、もちろんUGを廃止しただけではこのような効果は生じません。その他多くの細かい経営判断を性善説の価値観でバランスよく対処することで一貫性が生じ、最終的にこのような結果をもたらすというイメージです。

*(2) Frederich Reichheld, “The Loyalty Effect” (Harvard Business School Press, 1996). 売上高利益率の低い(すなわち、オペレーションレバレッジの高い)ホテルのような業態では、事業的な成果がこのようなレバレッジ効果を伴って顕在することがあります。この調査による「顧客維持率を5%上げることで、利益が25%~125%アップする」という水準は僕の個人的な実感ともおおよそ一致します。