「信じるということ」で表現しようとしたことは、経営において、仕組みを運用する立場(主に経営者)の意識や価値観が事業に与える影響です。経営論では目に見える仕組みに意識が集中しがちなのですが、私の個人的な経験と実感では、目に見えない経営者の価値観は相当大きな変数だと思えます。例えば、「従業員ロッカーにカギを設置する」という決定で、カギ管理のルール、費用、従業員のモラルへの影響など、が目に見える仕組みの議論、経営者がカギを設置する際の真意、が目に見えない価値観の議論です。経営者がどのような真意でカギを設置しようが、現場にカギが設置されることに変わりはなく、その事業的な効果に影響を与えない、と考えるのが「常識」だと思いますが、これに反して、経営者の真意によって事業の成果が異なる、ということを経営科学的に説明できるのではないかと思っているのです。本稿では経営における「性善説」をテーマとし、①そもそも経営における性善説とはなにか? ②性善説の経営は(どのようにして)可能か? ③性善説の経営が効果的であると合理的に考えることが可能か?という三つの問いにひとつの回答を試みました。

正直さは環境に依存する?
雑誌『ニューヨーカー』のスタッフ・ライターである、マルコム・グラッドウェル著『なぜあの商品は急に売れ出したのか』は、流行が生まれるときの爆発的な現象を心理科学的な側面から分析した興味深い本です。グラッドウェルはその中で、人間の心の状態は一般的に認識されている以上に外部環境に影響されると主張しています。ひとつの実証として次のような(少々意地悪な?)実験の事例が挙げられていますので引用します。

『ニューヨークを本拠とする二人の研究者、ヒュー・ハートショーンとM・Aメイが1920年に行った一連の画期的な実験がある。二人の研究者は、8歳から16歳まで、なんと約11,000人の生徒を対象にして、正直さを測るために考えられた、数え切れないほど様々な種類のテストを、数え切れないほど様々な状況で実施した。

例えばそのひとつとして、当時の教育研究所が開発した単純な適正テストが使われた。数学のテストでは、「砂糖の値段が1ポンド10セントであるとき、5ポンドではいくらになるか」というような問題が出され、余白に答えを書くようになっている。このテストでは通常の所定時間のほんの一部しか与えられないので、多くの問題が未回答のまま回収され、採点される。翌日は、問題は異なるが、難易度は同じ程度のテストが再び行われる。しかし今度は、監視を最小限にとどめ、自己採点をするように伝えられる。

言い換えると、ハートショーンとメイは良心を刺激する仕掛けをしたわけだ。正解が手元にあり、未回答の問題がたくさん残っていれば、生徒たちはいくらでもカンニングすることができる。ハートショーンとメイは、前日のテストの結果と比べて、それぞれの生徒がどれくらいカンニングしたかを判断することができる。その結果は最終的に三冊の分厚いファイルに収められた。

結果は予想にたがわず、こういうテストでは多くのカンニングが起こるということだった。カンニングが可能なところでテストした場合、平均すると「正直」な採点の50%も得点が高くなった。だが、カンニングのパターンと子供たちの属性に関して意味のある傾向は存在しないことがわかった。はっきりと特定できるカンニング・グループがあるわけでも、正直な生徒のグループがあるわけでもない。また、これらの条件、例えばテストの問題とか、テストを実施する状況、をひとつでも変えれば、カンニングする子供も変わってしまうのだ。

そこでハートショーンとメイは結論する。正直さというようなものは人の性質を決める根本的な特徴でもなければ、「一貫した」特徴でもない。正直さのような特徴は、状況に大きく左右されるものである。大多数の子供たちは、ある状況におかれれば人をだますが、別の状況ではそうではない。この調査で試されたテスト状況から判断する限り、ある任意の状況で子供が人をだますかどうかは、知性とか年齢とか家庭環境などの条件に一部しか依存していない。ハートショーンとメイの調査が示唆しているものは、「固有の性格という観点だけから判断し、状況の役割をなおざりにすると、人間の行動を決定している真の原因を見誤る」ということである。』

性善説の経営科学
もちろん、この調査を根拠に「環境だけが人間の正直さや行動を決める」と考えるのは偏りすぎでしょう。長い目で見れば正直な人間はやはり正直な一生を送るものです。しかしながら、人間の正直さはその人の性質や努力によるものだけではなく、環境による影響が大きい、特に我われが一般的に認識しているよりも大きい、という示唆は経営的に重要なものです。従業員が正直であることの要素は、恐らく「本人の性質によるもの」、「本人の努力によるもの」、「企業などの環境によるもの」、の三種類によると思われますが、経営者の立場では、従業員が正直でいられるための環境を整備して、正直であらんとする本人の努力を助ける、ことが経営合理的であると考えられるためです。すなわち、性善説の経営を実行するということは「人間の根源的な性質は何か」という大上段の議論に決着をつけるようなことでも、従業員の人間性のみに帰す問題でもありません。従業員の正直な行動を促すために経営が果すべき役割の認識であり、実際にその作業を実行することだと思います。私の経験では、その認識と行動が現実の事業的成果を大きく左右するのです。

表現が堅苦しくなってしまいましたが、要は性善説の経営が成立するためには環境的な前提が必要で、その環境を整備するのは(少なくとも一部は)経営の役割であり、その前提とは、「従業員が正直でいられるための環境を整備して、正直であらんとする本人の努力を助ける」ということです。従業員の性善説を漠然と信じても成果が上がらず、何かしら従業員から裏切られた気持ちになった経験を持つ経営者は少なくないと思いますが、自分自身に対して、人が正直でいられる環境を自分は十分に整備していたか、そしてそもそもそのような環境とはいかなるものか、と問うことは意味があるかもしれません。私が個人的に学んだことは、従業員の環境を整えず(経営ができることをせずに)従業員の性善説を漠然と信じても自分が勝手に裏切られた気持ちになるだけ。性善説の経営を実現するためには、人の善意を信じることは第一ですが、その善意が顕在化するために経営ができることを特定し、行動すること、だと思いました。性善説の経営には科学が必要なのです。以下、冒頭の「従業員ロッカーのカギ」を設置するケースを考えてみます。

カギは善人のためにかける
どこで読んだか忘れてしまったのですが、「ユダヤの知恵」のひとつとして「カギは悪人のためではなく、善人のためにかけるのだ」という考え方があるそうです。もしある人が悪意をもって物を盗もうとするときは、鍵があろうとなかろうと結局壊してでも手に入れるため、カギの有無はあまり意味がありません。反面、カギをかけるということで善人が出来心を起こすのを防ぐことができ、実質的にはこの効果の方が圧倒的に重要だ、という意味だと思います。

従業員ロッカーのカギのケースは、実はサンマリーナホテルで私が経営を担当していたときに実際に起こったことです。長年勤めていた従業員が同僚のロッカーを荒らし、盗難を働いていたことが明らかになり、経営幹部の間でどのように対応をすべきか深く議論しました。議論の焦点は業務上の対処でも、彼の処分でもなく、彼とどのように向き合うかであり、そのときヒントになったのは例えば、「彼が自分の息子だったらどうするか」という問いでした。よき親は子供の心の一番底にある善意を最後まで信じると思われたためです。

物理的な対応はカギの整備、ということでしかありませんでしたが、われわれが最も重要視し、できるだけ多くの従業員に伝えようと試みたメッセージはその背後にある価値観でした。ユダヤの知恵の話を伝え、サンマリーナではカギは善人(すなわち全ての従業員)を守るためのものと定義しました。会社においてカギを設置することの唯一の意味は、従業員を管理したり、あるいは盗難を減らすことすら一義的な目的ではなく、善意ある従業員に、会社で可能な限り正直な時間を送ってもらいたいためであること、そして、今回盗難を働いた社員を「守る」ことが出来なかった責任の一端は経営にあることを、各リーダーに直接伝えたのです。(この事件をきっかけに退社した)この社員のこと、その後家族との関係はどうなっただろう、生活はどうなっただろうと今でも考えることがあります。

このような事例の成果を数量化したり因果関係を特定することは恐らく不可能ですが、仮にこの対応以降盗難が減少した場足(すなわち従業員の性善説的な性質が顕在化したとして)、それはカギを設置したこと自体に加えて、カギを設置することの意味(すなわち善人を守るためにカギを設置する)が従業員に伝わった、という効果が少なからず含まれるのではないかと思っています。

【2007.1.13 樋口耕太郎】