ごく最近の小さな変化ですが、昨年末に近づいたあたりから大衆的な雑誌(例えば先日目にしたのは「JJ」です。)のトレンドが、伝統回帰、うわべよりもしっかりとした中身、物質よりも心に焦点を置き始めたような気がします。数年前まではガングロ、最近ではパリス・ヒルトンや倖田來未が紙面を埋め尽くし(彼女たちに偏見があるわけではありませんが…)ていたモード誌がこのような正統派スタイルを堂々と取り上げ始めるのは、僕の記憶にある限り初めてです。少なからずびっくりすると同時に、これはとても大きな変化の兆しではないかと勝手に想像しているところです。このような社会の意識変化によって、今年あたりから誠実な生き方を表現することがだんだん「かっこいい」と評価されるようになるかも知れません。

経営の概念が広がる
経営の世界でも、目に見える物事のみを前提とした、矮小化された「合理性」だけではなく、目には見えないが非常に広範囲な物事に注意を払う(例えば人間関係、心、価値観などです)ことで、逆説的ですが、より合理的な事業評価が可能になるという認識が広まるのではないでしょうか。例えば、僕は以前から、経営科学において経営者の個人的な価値観や生き方がもっともっと重要視されるべきではないかと考えています。経営者個人の人生や価値観は目に見えにくいということもあり、従来の経営科学のフレームワークからは殆ど無視されていますが、現実には経営者個人の価値観や人生観が事業に莫大な影響を与えることは誰の目にも明らかです。つまり、このような一見目に見えないが厳然と実態が存在している物事を含めて認識する「広い経営概念」を前提として、経営における合理性が議論されるべきではないかと思います。この場合前提が従来のフレームワークとは根本的に異なり、また比較にならないほど広範囲(従って莫大な潜在事業性)をカバーすることになりますので、正しく活用すれば飛躍的な成果を生み出す反面、従来の価値観からは非常識極まりないものと見えるのです。

以上の前提で、経営者の個人的な価値観のうち、「信じる」ことと「伝える」ことに注目してみました。つまり、経営者が「信じる」ということ、「伝える」ということを(実質的に)どのように理解し行動しているか、が事業において非常に重要な要素である、という考え方です。本稿ではまず「信じる」をテーマにしました。「伝える」についても非常に掘下げ甲斐のある良いテーマなのですが、分量が多くなりすぎるために別の稿に譲ります。このテーマは個人的なものと経営的なものが非常に重なるため、本稿においても僕の個人的な経験や価値観に触れていますが、この点ご了承いただければと思います。

僕にとって「信じる」ということ
およそ3年前に沖縄で事業を開始してからは素晴らしい経験の連続です。その中でも、いくつかの経営的に重要な決断において、突き詰めて行くとどれも「合理的」な判断に基づいて「信じる」ことが不可能なものばかりだった、という経験をしました。例えば、ある判断が正しいという合理的な理由を見つけられないまま重要な決断をせざるを得なかった、というような事態です。そのときに思ったことは、自分が理解できる範囲のことを「信じる」のは比較的容易な作業。でもそれは本当に「信じて」いるのではなく、それが「分の良い選択」であることを確認しているに過ぎないのではないか、そして「信じている」という言葉の多くは、実は「分析している」という意味に過ぎないではないかということです。このような「分析」は、自分の認識と経験の範囲内における「合理的な」選択である以上、自分の過去の経験や現在の認識を超えることはできません。

現時点の僕にとって「信じる」という行為は、価値あると思えることに対して捨て身になること、すなわち、そこに一見何の合理性も無く、また現在の自分の能力や経験に基づいて理解、分析することができない状態であっても、その成功や正しさを継続的に確信するということです。このような判断は自分の経験や認識を超えることが多く、自分で正否を理解できる合理性が必然的に存在しないため、その正しさの確度を分析することは不可能です。つまり、この時点でその信念が正しいという確証は存在し得ないのです。このような状態(正否の判断不能な状態)において人や物事を「信じる」ためには、突き詰めると、言葉は悪いですが、その対象(人)に「騙される」、あるいは「破綻(必ずしも事業破綻とは限りません)を今の時点から受け入れる」というような自己作業が必要です。これによって「Aさんのことを信じていたのに…」ということは起こり得なくなり、ほぼ100%自己作業というか結構苦しい自分との戦いになります。

このような、一見わけもわからないものに対して自分を「危険に曝す」行為が多くの人にとってとても分が悪いことのように思えるのは理解できるのですが、少なくとも僕の経験においては、逆説的ですが、これほど爆発的な力と結果を引き起こす、すなわちとても合理性のある、そしてこれほど事業性を生む行為はないというのが経験による実感です。

供養における「信じるちから」
先日、奈良薬師寺の高田好胤管長(1998年遷化)の本を読んでいて、釈迦が最後の時期に受けた供養(お坊さんは、皆が尊敬の意をこめて提供する食物を受け取って生活するのですが、このことを「供養」を受けると言います。)の食べ物が傷んでいたために体調を大きく崩し、これが直接の原因となって死期を早めてしまう、というくだりがありました。釈迦はこの供養を行ったチュンダが最後の供養者になってくれたことに感謝した後にお亡くなりになります。

供養を受けるということは本来命がけ、自分の身を相手に預ける行為そのもので、これはまさしく「信じる」ことそのものだ、と感じました。これは大げさに言えば、合理的な根拠なしに(少なくとも目に見える状態ではない中)、自分の人生を担保に差し出すことであり、真剣に取り組むことができれば感動的なくらい誠実な行為になり得ます。

金脈の話と「信じるちから」
以前東京で働いていたとき、ある若手の営業マンが売上が伸びずに苦しんでいて、個人的に相談を受けたので、小さなアドバイスをしたことがあります。「今積み上げている努力は金脈(売上)を掘り当てるためにスコップで穴を掘る作業のようなものです。金脈にあと1センチで到達するかも知れないし、あと1キロ掘り下げなければならないかも知れない。けれど、1センチ前の時も、1キロ前の時も、掘っている人の不安な気持ちや暗中模索の状況は全く同じです。ですから、どこに金脈があるか、あとどれだけ掘れば金脈にあたるのかという議論には殆ど意味がなく(どの道分かりませんので)、この先に金脈があると信じて努力をし続けることができるかどうか、自分の成功を信じ続けることができるかどうか、つまり信じるちからを持ち続けることが一番重要だと思う」という内容です。

いつも思うのですが、僕のイメージとして、98%くらいの人間は自分のことを過小評価、それも著しく過小評価していると思っています。98%という数字が仮にその通りだとすると、これは自分を信じることがそれだけパワーを必要とするということだと思います。なぜこれほど自分を過小評価する人が多いのかといえば、それだけの比率の人が、目に見えること、目に見える他人の評価が自分の実力(潜在力)だと自ら納得(誤解)してしまうからでしょう。確かに、例えば30日間でも穴ばかり掘っていたら、大概の人間は萎えてしまって諦めます。周りの人も親切な人ほど「無駄なことは止めた方がいい」と優しくアドバイスをくれたり、また一般には「やっぱりその程度」と白い目で見てプレッシャーを与えたりします。

ある村での干ばつの話
細かい内容は忘れてしまいましたが、以前どこかで読んだ本の中で、このような感じのお話がありました。

『ある村で長い間雨が降らず、村人たちはとても困っていました。このままでは農作物が全滅してしまいます。そこで村人は全員で長老のところに相談に行きます。「長老、雨を降らすにはどうしたら良いか教えて欲しい。」長老は答えます「雨が降ることを信じて心から祈るのだ。その祈りが心からのものであるとき、必ず雨は降るだろう。」

村人全員はそれからの7日7晩というもの、雨が降ることを信じ、夜を徹して必死で祈り続けました。しかし7日過ぎても雨は一向に降る気配がありません。そこで村人は再び全員で長老のところに出向きます。「長老、私たちは7日7晩、一睡もせずに心から雨が降ることを信じて祈り続けました。誰一人の心にも偽りはありません。それなのに雨が降る気配はどこにもないではないですか。」それを聞いた長老は答えました。「いや、ここにいる者は誰も雨が降ることを『信じて』はいないようだ。それが証拠に、誰一人としてここに傘を持ってきた者はいないではないか。」』

長老の言う「信じる」ことと村人の「信じる」ことは似て非なるものだと思います。多くの事業(や人間関係)において、ある価値観をスローガンにしながら、「傘を持たない」経営がなされているケースは珍しくありません。

野茂英雄と「信じるちから」
ご本人とは一度もお会いしたことはありませんが、僕は日本の野球界で最も偉大な選手は野茂英雄だと思っているのです。野茂が日本人として始めて大リーグで成功したとたん、日本人大リーガーが続出したのは誰でも知っていることですが、冷静に考えてみると、野茂が大リーグに挑戦する前(before ノモ)と後(after ノモ)で日本プロ野球界のレベルは殆ど変わっていない筈。つまり、日本人が大リーグで活躍できたかどうかは能力の問題ではなく、できると思えるかどうかが重要だったということなのでしょう。野茂が発揮したのは「信じるちから」そのものだと思います。近鉄への退路を絶って野茂が大リーグに挑戦したとき、彼以外にこれだけの成果を上げることができると考えた人はいなかったと思いますし、彼自身にとっても自分自身を信じることは、一見何の合理性も無いことだったはずで、さぞや苦しかっただろうと思います。

「after ノモ」では、日本人大リーガーが続出しその多くが大活躍します。イチローは安打の世界記録を達成しますし、井口はチームのワールドシリーズ優勝に大きく貢献します。最近では松坂に60億円の値札がつくなど(この辺は非常識極まりないと個人的には思うのですが…)のニュースもありました。このため大リーグが日本人にとってあまりに面白くなってしまい、日本のプロ野球、特に巨人の人気が凋落します。日本テレビの男性アナウンサーは巨人戦の中継では必ずスーツを着用するという伝統があるほど日テレにとって重要であった巨人戦の視聴率の下落が止まらず、昨年は一部放映を取りやめるという「大事件」になっています。これをひとつのきっかけとして長期に亘って安泰だった日本テレビの業界での地位も大きく影響を受け、日本のメディア業界全体の再編が緒に就いた感があります。日本のメディア業界の再編を最も促した人物は、氏家さんでも、ホリエモンでも、三木谷さんでも、まして村上さんでもなく、野茂英雄ではなかったでしょうか。

もちろん野茂本人はそんなことを目的にしてもいませんし、想定もしていなかったと思います。しかし逆に結果を求めなかったからこそ、自分の心からやりたいことを、自分ができることから行動したからこそ、他人に一切求めず自分の責任を全うしたからこそ、結果として多くの人に実質的に多大な影響を与えたのだと思います。野茂はもっともらしい社会の常識や、他人からの評価と戦って、全く違う信念を持ち続けた人なはずで、このような人こそが皆に「やればできる」と思える成果を提供し、社会を動かすことができるのだと思います。これが「信じるちから」の本当の威力であり、隠された莫大な事業性のイメージです。

「マトリックス」における信じるちから
映画「マトリックス」は本当に凄いです。主人公ネオがマトリックスから人類を解放する救世主かどうかが、まだコンピューターに支配されずに抵抗を続けているわずかな人間たちの間で大きな問題になります。ネオを救世主だと信じ続けるモーフィアスは、仲間から変人扱いされます。

物語の中で、ネオが救世主かどうかを確信したいがために、モーフィアスはネオをオラクルという予言者のところに連れて行きます。オラクルはネオと二人きりになった時、ネオに対して、「あなたが救世主かどうかは、あなた自身が感じるはず。あなたはそうだと思えますか?」と問い、ネオは「違うと思う」と。オラクルは同時に「それにも拘らず、モーフィアスはあなたが救世主だと固く信じ続けているがゆえに、近い将来、自分の命と引き換えにあなたのことを守ろうとするだろう。そのときにどうするか(自らを犠牲にするか、モーフィアスを見殺しにするか)はあなたの選択」とだけ告げます。

結局ネオは救世主であった(正確には救世主に「なった」のだと思います。理由は後述。)のですが、それではなぜオラクルは「ネオは救世主ではない」という予言をしたのでしょうか?この謎は、1999年に初めて映画を見て以来2004年にその答を思いつくまでの実に5年間、僕を悩ませました。5年越しの僕の結論は、真の予言者は「正しいことを告げる人」ではなく、「正しいことに導く人」だということです。これはつまり、正しい苦労をさせる人(その「苦労」がたとえ死や別れであっても)、と言うことも意味します。ネオには救世主になる「可能性」があったが、それを引き出すためには、その時点のオラクルの言葉を心から信じ、かつ身を犠牲にするという通過儀礼(体験を通した学び)が必要。オラクルが単に「あなたは救世主だ」と伝えただけでは、ネオはその通過儀礼を果たすことができません。また、モーフィアスが、ネオのことを盲目的に信じ続けることをしなければ、これもやはりネオが通過儀礼を果たすことはできなかったでしょう。つまり、オラクルは、モーフィアスの信じるちからを見抜き、ネオが自分の「誤った」予言を信じることを見抜き、これを勘案してネオに「命がけの選択肢」を手渡したのです。この「命がけの選択肢」のパラドックスは、自分の命を引き換えにすることで、ネオは救世主という新たな「命」を得るのです。この意味で、ネオを救世主に「した」のは、ネオとモーフィアス、二人の信じるちからによるところが大きいと言えます。あるいは、ネオとモーフィアスの信じるちからによって、ネオが救世主に「なった」と言う方がより適当かも知れません。もっと言えば、ネオは、信じるちからがあったから救世主になった、もっともっと言えば、信じるちからを持つものが救世主になる、ということかも知れません。

ポイントは、ネオが信じた予言自体は「誤り」だった、ということです。信じるちからは、信じる対象が正しいかどうかに関りなく、信じるということ、それ自体でとても大きな力を発揮する、ということへの示唆だと思えるのです(それこそが「信じる」ということの意味なのだと思います。)。

翻って考えると…
世の中には「何を信じるか」に関する情報に溢れています。数々の経営理論、評論、書籍、「専門家」のコメント、教育、法律、慣習、(編集も含めた)ニュース、映画、雑誌、流行、宗教…。しかしながら、そもそも「信じるとはなにか」ということは滅多に議論されません。

人それぞれ「信じる」ことの意味は違いますし、違って当然です。特段どれが正しいということもないと思います。ただし、経営者がなにかを「信じる」とき、それが実のところどういう意味であるかは事業に大きな影響を与えることになりますので、この意味を自覚的に理解することは色々な面で大きな手助けになるでしょう。あなたが経営者だとしたら、例えば自分のパートナーや部下を「信じる」とき、それは突き詰めるとあなたにとってどういう意味なのでしょうか?

【2007.1.3 樋口耕太郎】