ハリウッド映画といえば能天気な作品の代名詞のようもに言われますが、中にはその見かけとは全く異なる普遍的なモチーフが秘められているものも少なからず存在し、アメリカという国の底力を感じることがあります。スターウォーズシリーズはその典型でしょう。1977年の第一作以来、斬新なシナリオと独創的なSFX技術が大きな話題を呼んで一大ブームを巻き起こしたのですが、僕はシリーズが大ヒットした本当の理由はそのモチーフにあると思っています。ジョージ・ルーカスの昔のインタビューで、彼がスターウォーズのシナリオを構成するときに、「世界中の神話や伝説を研究した」とコメントしていたのですが、それを聞いて納得しました。僕が勝手に考えるスターウォーズの隠れたモチーフは、第一に目に見えない大いなる力「フォースの存在」、二つ目は「善と悪の関係」、三つ目は「善と悪を分ける決断」だと思っています。

フォースの存在は目に見えませんが、それを信じる人にとっては現実であり、その力によって宇宙を動かすことも可能です(第一のモチーフ)。しかし、その力は力でしかなく、フォースを操るマスターの心の在り方ひとつで善にも悪にも利用され得るのです。逆に表現すると、善と悪の相違点は人の心の中にしかありません。ジェダイ騎士(ナイト)になるために厳しく長い修行が必要とされるのは、(信じる力を通じて)フォースの力を身につけることは勿論ですが、それ以上に善と悪の関係を理解し、自分自身を善の道におく心の在り方を学ぶためです。実際、フォースを制御する人の心が悪によって支配されるか、善によって導かれるかによって、ダークサイドに堕ち宇宙を蹂躙するダースベイダーになるか、宇宙を開放するルーク・スカイウォーカーになるか程の差が生まれるのです(第二のモチーフ)*(1)

冷静に考えると当然のことなのですが、どんなに優れた能力(フォース)を持っている経営者であっても、どんなに商売が上手な経営者であっても、それが企業価値の向上とステイクホルダーの幸福という目的に沿って利用されなければ全く意味を持たないどころか、大きな害をもたらすことになります。「羊の番をする狼」に望まれる第一の資質が能力ではなくて正直さであるということは個人の道徳と企業倫理の観点で議論されがちですが、経営合理性の議論においても極めて重要な意味を持つのです*(2)。ここから導かれる、機能する経営者の第一法則は:「正直であることが経営者の必要条件であり、この条件を満たさない者は、どれ程『能力』を有する者であろうと、いかに『実績』を上げていようと、経営機能を果す上では非効率である」。大多数の企業は、経営者の選別に当たって事業能力や企業への収益的な貢献度や実績を最重要視していますが、この方法は「能力」のあるダースベイダーを経営者として大量に選択しがちなメカニズムであり、著しく合理性を欠いている可能性があります。企業社会の現状はこれを実証しているように見えるのですが、如何でしょう。

「正直」の運用は可能か?
正直な経営者は効率的な経営機能を果し高い事業性を生む、ということが仮にその通りだったとして、現実に正直な人物を優先して組織的に選別・登用している企業はそれ程一般的ではありません。それにも関わらず殆どの企業が「わが社では既に誠実で正直な人物を経営者に選んでいる」と答えるのではないでしょうか。これらの企業にとって、正直さは選別基準として機能するためのものではなく、何らかの基準によって既に選別された経営者への枕詞になっている、と言ったら言い過ぎでしょうか。営利企業の組織では、収益をもたらす者を登用したいという意識がどうしても働くため、正直さを優先する人事を行うことは相当の勇気が必要で、前述のように収益を上げる人物を「誠実な人」と呼ぶことの方がよほど簡単だということがあるかもしれません。

現代の企業社会の価値観を常識とする人にとって「正直さ」という選別基準は、一見恣意的で、組織的にはとても運用できない、という反論も予想できそうですが、正直な人材や人格の高さによってリーダーを選別し登用することは、かつての(日露戦争頃までだと思います)日本ではむしろ常識的なものだった筈です。例えば、二宮尊徳は日本が生んだ偉大なターンアラウンド・マネージャー(事業再生家)ですが、尊徳の人事哲学も「最良の働き者は、最も多くの仕事をするものではなく、最も高い動機で働く者である」という言葉が象徴するように、能力や実績よりも人格と志を優先したものでした。

このような文化の基礎となる日本の教育現場においても、正直さや徳が最重要視されていました。以下は内村鑑三著『代表的日本人』(中江藤樹)からの引用です。

『私どもが学校教育で学ぶことは、力は正義ではないこと、天地は利己主義の上に成り立ってはいないこと、泥棒はいかなるものでもよろしくないこと、生命や財産は結局のところ私どもにとり最終目的にはならないこと。その他多くのことを知った。  学校教育の目的について、第一に、私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費が稼げるようになるとの目的で、学校に行かされたのではなく、真の人間になるためだった。それを、真の人、君子と称した。  さらに私どもは、同時に多くの異なる科目を教えられることはなかった。昔の教師は、わずかな年月に全知識を詰め込んではならないと考えていたのである。おもに教えられたのは「道徳」、それも実践道徳であった。』

…これらの価値観が古臭いと感じられるか、普遍的であると感じられるかは様々だと思いますが、少なくとも本稿の議論は、本質においてこれらと全く同様のことを別の言葉で表現しているに過ぎません。

「正直」の実践
正直な経営者を輩出し、選別する組織環境を実現するために、例えば次のような実践が可能だと思います。第一に、大半の企業情報をオープンにすること(『売上論《後編》』を参照下さい)。これは正直な人材登用を行う際の必要条件ではありませんが、実行できればこれを含めた経営全般作業を著しくスムーズにする効果があります*(3)。一般的な経営者や経営幹部は、(特に自分たちが独占している)経営情報を開示することに激しい抵抗感を持ち、「情報開示は経営に悪影響を及ぼす」という論調になりがちです。このような状況を乗り越えて、現実に徹底した情報開示を行う経営者はごくごく少数だとは思いますが、本気でこれを実行することができれば事業へのメリットは本当に莫大です。誇張だと思われるかもしれませんが、会社に存在する問題の大半が解消するといっても良いくらいです(更に、この解消にあたって、費用は殆どかかりません)。…これも皮肉なことに、経営者と経営幹部が会社の問題の大半を生み出している、そしてその改善をもっとも阻んでいる、という一般企業の現状に符合するような気がします。

第二に、恐らく何よりも重要なことだと思いますが、自分自身が正直であること、正直に行動すること…他人に対して、そしてそれ以上に自分に対して。正直さは優れた経営機能を発揮しますが、その本質は個人の生き方です。機能を果すために正直であろうとしても、そもそも経営者がそのような生き方をしたいと望まなければ意味のある効果は生じません。要は、経営者の生き方、あり方を芯から変えなければ機能しない性質のものなのです。かくして、「正直な人間であること」、「人間関係に誠実であること」は、経営者の全くパーソナルな問題でありながら、同時に企業存続の最重要経営課題になるのです。

【2007.10.29 樋口耕太郎】

*(1) アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちてダースベイダーとなる最大の原因は、彼の中の「悪」ではなく「愛」(の解釈)によるものではないだろうか…?第三のモチーフについては、後の稿でコメントします。

*(2) これから、「倫理的であることは経営合理性を持つ」、あるいはトリニティ的に表現すると「愛は極めて高い事業性を持つ」、という発想が生まれます。現代的な経営理論からは一見かけ離れる印象があるかも知れませんが、このような思想に基づく実践と事業の成功事例は意外に溢れいています。例えば、二宮尊徳の報徳思想では、徳と経済行為を同一のものと考え、関わる人々の徳を高く導くことによって数々の事業再生を成功させています。「道徳を忘れた経済は罪悪である。経済を忘れた道徳は寝言である。」という尊徳の言葉は、この哲学を象徴しています。

さらに、二宮尊徳のみならず、西郷隆盛、上杉鷹山、山田方谷などの日本が輩出した代表的マネージャー達が一様に同様の哲学と価値観に基づいて事業・国家再生を成功させており、非常に普遍的かつ実践的な手法と言えるのです。僕は、このような実践哲学の方が、流行によって目まぐるしく移り変わりがちなアメリカ型経営理論よりもよほどリアリティがあり機能的だと思っています。これからの経営理論は東アジア的な価値観に学ぶことが多くなるのではないでしょうか。以下は再び『代表的日本人』からの抜粋です。

『「左伝」にこう書かれている。徳は結果として財をもたらす本である。徳が多ければ、財はそれにしたがって生じる。徳が少なければ、同じように財もへる。財は国土をうるおし、国民に安らぎを与えることにより生じるものだからである。小人は自分を利するを目的とする。君子は民を利するを目的とする。前者は利己をはかってほろびる。後者は公の精神に立って栄える。生き方次第で、盛衰、貧困、興亡、生死がある。用心すべきではないか。世人は言う。「取れば富み、与えば失う」と。なんという間違いか!農業にたとえよう。けちな農夫は種を惜しんで蒔き、座して秋の収穫を待つ。もたらされるものは餓死のみである。良い農夫は良い種を蒔き、全力をつくして育てる。穀物は百倍の実りをもたらし、農夫の収穫はあり余る。ただ集めることを図るものは、収穫することを知るだけで、植え育てることを知らない。賢者は植え育てることに精を出すので、収穫は求めなくても訪れる。徳に励むものには、財は求めなくても生じる。したがって、世の人が損と呼ぶものは損ではなく、得と呼ぶものは得ではない。いにしえの聖人は、民を恵み、与えることを得とみて、民から取ることを損とみた。今は、まるで反対だ。』(西郷隆盛)

『東洋思想の一つの美点は、経済と道徳を分けない考え方であります。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。木に良く肥料をほどこすならば、労せずして確実に結果は実ります。「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう。「ゆえに賢者は木を考えて実をえる。小人は実を考えて実をえない。」』(上杉鷹山)

*(3) 高い水準で経営バランスが達成している状態は、事業の生態系が無理なく機能している状態です。このとき、事業の生態系に対して働きかける適切な経営行為は、生態系としてかみ合っている複数の事業要素に同時に効果を発揮します。例えば、このような状況で情報をオープンにすることは、情報管理の観点から優れているだけでなく、正直なリーダーの選別を前進させ、人事の公正感を高め、売上を価値のあるもの(「金色の売上」)にし、新規事業のアイディアを生み出し、顧客層を高めるなどなどの効果を生み出します。常識的には一つの事業的な目的を達成するために、一つまたは複数の経営行為が行われることが一般的ですが、トリニティ経営の発想では、一つの経営行為が複数の有効な結果をもたらすことはむしろ必然です。反対に、一つの経営行為が複数の結果を効果的に生まない状態は、適切な経営バランスが取れておらず、事業の生態系が何らかのダメージを受け、非効率な経営状態であることを強く示唆します。