トリニティのリーダーシップ論(pdf)

『トリニティのリーダーシップ論』は本稿で《その9》になります。リーダーシップについてもう半年書き続けていることになりますが、これほど長期間に亘っているのは、リーダーシップが経営バランスの概念と並んで、トリニティ経営最大のテーマであるためです。僕にとっては、リーダーシップについて集中的に考える機会を得、多くのことに思いを巡らすことができました。どのエントリーもそうですが、最終的な原稿をアップするためには、論理的な整合性があり、(実行する意志がありさえすれば)誰でも実行可能であり、現場で機能し、経営科学的に合理性が認められる内容であることは勿論、はっきりとしたインスピレーションがない限りは行わないように心がけています。また、事業を生態系になぞらえて理解するトリニティ経営理論において、ひとつのテーマは必然的にその他の多面的な概念に関連するため、多様な側面から複眼的に捉える必要があり、とても良い頭の体操になります。リーダーシップ、経営バランスの二大テーマは、特に包括的な概念であるため、より多面的に思考する必要があったと言えるかも知れません。

2007年7月30日のエントリー『経営バランス《その1》』で、トリニティ経営の概念を3Dジグソーパズルに例えましたが、パズルの各ピースが、マーケティング、金融財務、人事などの個別理論、パズルの組み合わせに相当する概念が「経営バランス」、完成したパズルを実際に動かすためのマニュアルが「リーダーシップ論」といったところでしょうか。僕が勝手にそう読んでいる、トリニティ経営の三部作、『トリニティ経営理論』『サンマリーナホテル人事考課に関する経営方針』『トリニティの企業金融論』は、それぞれ、包括的かつ基本的な概念、経営者と従業員の関係に関する概念、経営者と株主の関係に関する概念、を主にまとめたものです。ここまでのトリニティアップデイトの各エントリーは、比較的抽象的なこれらの概念を補足し、実際の事例やケーススタディ、例え話などを交えて、概念のメカニズムを具体的な経営現場のイメージと重ねて表現することで、現実的な応用を容易にする目的で構成されています。

トリニティ経営理論の一連の概念はノウハウではありませんので、「このようにすれば同様の事業的結果が生じる」ということを一義的な目的にしていません。サンマリーナで生じた現象をインスピレーションとして、事業経営の新しいフレームワークを経営科学的に構築する作業であり、その汎用的な世界観を提示するものです。地動説と天動説で例えると、「天が動いている」という従来の世界観の中で「合理性」を追求する作業ではなく、今まで僕たちが考えていた世界観そのものを「地動説」へと修正することで、何が「合理的」か、ということの意味を根本的に見直そう、という試みですので、経営合理性に関する説明が従来の価値観とことごとく異なるのはむしろ当然です。重要なポイントは、地動説、天動説のいずれもが正解だということです。…というよりも、全てが相対性の宇宙において、地球が動くということはそれ以外の天が動くということですので、地動説、天動説は同一の自然現象であり、両者の違いはひとつの現象をどのような世界観で解釈するかという、観察者の視点の違いに過ぎません*(1)。コペルニクスの以前も以後も自然現象としての太陽は東から昇り、西に沈むという点にはなんら変化はないのです。

反面、人間の行動科学では、視点を変えることで世界観が変わり、世界観が変わることで行動の全てが変わる、というパワフルなメカニズムが存在します。トリニティ経営理論の仮説のひとつに、「経営判断の大半は、経営者の個別の世界観に照らし合わせて合理的である」、というものがあります。経営者が経営判断を「誤る」のは、判断に「合理性」や「適切さ」が欠如しているためではなく、判断の前提となる世界観が「非効率」であるためで、この前提においては、個別の経営手法よりも、事業的に最も効率の高い「世界観」を構築する作業が、経営理論において重要な要素ということになります。天動説の世界観を常識とする多くの経営者は、経営判断を実現する手段として、マニュアルや規律や罰則や褒章や進捗管理などを駆使して組織行動を変化させることが一般的ですが、これらの方法は膨大な労力と時間を要し、効果も限定的で、一貫性に乏しく、「対症療法」的で根本的な「治癒」に至らない、という傾向があります。これに対して、経営者の正直で一貫した言動を通じて、組織の視点と、行動の意味を変え、新たな世界観を構築する作業に成功すると、その後の運用は殆ど自動的で、費用や労力は殆どかかりません*(2)

マスターリーダーシップの効果
さて、前稿までに「正直なリーダーは事業的に効率的である」という議論を展開し、その前提で、最も有効なリーダーのあり方を「マスター」と表現し、このようなマスターを組織のリーダーとして大量かつ反復継続的に(すなわちシステマティックに)発掘、育成、選別、登用するための組織論をまとめてきました。このようなマスターが「事業的に効率的である」ということの意味を補足したいと思います。

第一に、正直なリーダーシップは重要な事業戦略(特に営業、広告、商品戦略)になり得ることです。経営者やリーダーの価値観や人柄、リーダーシップのあり方、ひいては企業の意図が顧客に与える影響力は、一般的な経営理論において過小評価されています。例えばリーダーの価値観によって商品の売れ行きが変化する、という要素は殆ど考慮されていないと思うのですが、現実には、経営者の人柄がホテルの雰囲気やレストランの料理に如実に反映されます。ホテルの総支配人やレストランのシェフが変わったときは勿論、良い出来事があってチームの雰囲気が変化したとき、人事考課の方針が変化したとき、あるいはリーダーの意識の変化ひとつで、商品としてのサービスは確実に変化している筈です。現象が「目に見えない」、「数量化できない」というだけで、そこには事業の実体が存在すると考えるべきでしょう。

サンマリーナホテルでは、成果主義を全面的かつ完全に廃止し、①どれだけ人の役に立ったか、②どれだけ人間的に成長したか、という二つの考課を導入したその月から、顧客の満足度が著しくかつ継続的に向上するという現象が生じました。僕の仮説ですが、収益目標が全廃され、従業員はサービスの現場で「収益という真の意図を顧客に隠す」必要がなくなり、企業の在り方に嘘がなくなり、従業員と顧客の正直な人間関係の純度が一定水準を超え、顧客が圧倒的に反応するというメカニズムが存在するような気がします。人間関係において、もし誰かが親切な言葉を使いながらも、相手に冷たくしようという意図があれば、言葉よりも意図の方が確実に伝わりますし、どんなに高価な贈り物も愛情が欠けていることの埋め合わせにならないことは、誰もが経験することです。私たちは直感的に相手の意図が正直なものか、ごまかしなのかがわかるのです。真の意図が非常に伝わりやすいものである以上、いっそ経営者の意図は瞬時に全ての顧客に伝わる、すなわち企業は顧客に対して何ひとつ隠しごとができない、という前提で経営を行う方がよほど機能的だと思うのですが如何でしょう。

ちょうどこれを書いている3月21日の朝日新聞の社会面に、「朝日新聞社が全国3千人を対象に2月から3月上旬に郵送で実施した全国世論調査(政治・社会意識基本調査)の結果、いまの日本には『信用できない企業が多い』と思っている人は60%、『信用できない人が多い』も64%で、企業や人への不信感が目立つ」、という記事が掲載されています*(3)。企業が信頼に値すると考えられていない以上、いかに事業的な経営努力を行っても、商品開発に力を入れても、従業員の研修に費用をかけても、販売ルートを拡充しても、サポートセンターに多額の投資を行っても、投資額に見合う程には顧客満足度が向上しないのはむしろ当然のことでしょう。顧客は商品の信頼度を計る際、「何を買うか」よりも「誰から買うか」をより重視するということだと思います。どんなに収益を上げる能力が高くても、不正直な経営者を擁する企業が顧客から信用されるとは思えませんし、企業が信頼に値するためには、正直で信頼できるリーダーを選抜する以外の方法はないような気がします。

第二に、マスターリーダーを育てる組織は、実質的に「人材を増やす」効果があります。マスターリーダーの最大唯一の仕事は「人の役に立つこと」であり、彼らは人間関係を重視することで組織運営に高い能力を発揮するため、専門分野に関わらずリーダーシップを発揮することができます。このため、 マスターリーダーを擁する企業は、部門間の人事異動や、事業部門の統廃合において、組織内に担当可能な候補者を実質的に多数擁することになり、 大きく専門性の異なる分野間の管理職の異動が柔軟に実現しやすくなり、このようなダイナミックな人事は、成功すると組織をとても前向きに活性化するという効果があり、 一人のリーダーを選別するためには、およそ10年の期間と最低10人の候補者が必要だとすると、一人のマスターリーダーの存在は100人力の効果がありそうです。

第三に、マスターリーダーは事業範囲(簿外資産)を拡大する効果があります。マスターはリーダーシップを発揮するにあたって、組織の枠組み、業務の専門性、権限、タイトルを必要としないため、企業の枠を超えた「事業を取り巻く生態系」に対しても実質的にリーダーシップを取ることができ、組織外の組織や人たちの役に立つことで、彼らからの積極的な協力を受けることができます。これは、組織外の多くの人たちを実質的に自分の部下とすることであり、事業的に大きな効率を生み出します(このままの表現では少々語弊があるかもしれません。組織外の人たちを実質的な部下とするのは事実ですが、それよりも先に彼らの役に立つという前提では、同時に彼らの部下として機能しているとも言えるのです。)。

第四に、マスターリーダーは決断力に優れています。事業経営は決断業ともいえる仕事ですが、効果的な決断をするためには、世界観の把握と、 「捨てる」勇気、が重要な要素でしょう。世界観の把握()とは、自分の決断がどのような意味をもち、事業の生態系に対してどのような効果を生み出すかを可能な限り正確に理解する力です。この内容は文字通り事業の生態系に関わり、対象はこれまでの多くの議論を含んで多岐に渡りますが、経営者自身の行動について、愛と執着を区別することなどはその一例です。愛は相手を自由にし、執着は相手の自由を奪うため、人間関係の接点において、両者を明確に区別することが重要なのですが、多くの場合、単なる執着に過ぎないものが「愛」と表現され、結果として「愛」の名のもとに相手の自由を収奪する人間関係があまりに一般的になってしまっています。経営者と従業員の関係においていも同様で、経営者が選択する行動について、「企業のため」「従業員のため」「顧客のため」と説明するとき、実際は、自分のエゴを発揮するための行動を、自覚的あるいは無自覚に行っているだけ、ということが少なくありません。もう一例を挙げると、「求めない」ということの意味を理解することも重要です。この概念はマスターがリーダーシップを発揮する際に、従業員との重要な接点になるからです。その詳細については『トリニティのリーダーシップ論《その5》』を参照頂きたいのですが、ここでの論点としては、「求めない」ということは、決断しないということではないということです。経営者の決断は常に存在し、その行動の手段のひとつとして「求めない」という概念を活用する、という関係にあると言えます。

マスターリーダーが発揮する「捨てる」勇気()の中で、経営的に最も重要なものは、辞任するための決断です(『トリニティのリーダーシップ論《その1》』参照下さい)。経営者に課せられる多くの決断の中でも、必要なときに辞任するという決断は、マスターにしかできない英断と言えるかも知れません。殆ど明確にされることはありませんが、一般的な経営者が自分の立場を維持する目的で費やす膨大な労力のうち、長期的な企業価値と相反する行為は、時に相当量に及ぶのではないかと思います。マスターリーダーによる経営は、このような弊害が生まれにくいという大きな利点があります。企業が悪くなる際の原因の大半は経営者にあるとするならば、マスターリーダーのこのクオリティは、企業にとって非常に価値の高いものです。また、「捨てる」勇気を持つマスターリーダーは、自分が心からしたいことをする、そして人のために役に立つ、ことを双方とも実行できる稀な人たちです。特に経営者の立場で、自分が心からしたいことをする、という決断は非常に勇気の要ることで、「捨てる」勇気がなければ到底実行できるものではありません(「したいことをする」とは、社長然として好き勝手に振舞う、という意味では勿論ありません)。

マスターリーダーシップの組織構造
トリニティ経営理論を実践するとして、どのような組織がゴールなのか、と聞かれることがあります。最終的には経営者がそれぞれ自由にデザインするべきものですが、僕が個人的にイメージしている組織構造は、一般的な組織論で議論されるピラミッド型やフラット型とも異なり、形式的な組織をはみ出したリング型をしています。経営者から役職者から従業員から業者さんから顧客まで一つの輪で繋がっていて、その繋がりのどこかが途切れても「和」を構成しない、というものです。事業の成長はこの輪を大きくすることによってもたらされ、その際最も重要な要素は、各構成員の個性が十分に活きていることと、全体のバランスが取れていることだと思っています。

僕が考えている目指すべき組織のイメージは、ドラえもんに出てくるような、小学2年生頃のクラスです。がり勉君もいれば、人気者もいれば、いじめっ子もいれば、いじめられっ子もいれば、ずるいスネ男もいます…。みんな不完全なまま、みんな個性的なまま。親の仕事や家柄は誰も気にしません。成績の良し悪しについてはみんなお互いの水準を知っていますが、最終的には人間性だけでお互いを理解します。学級委員も成績のいい子が選ばれがちではありますが、人柄だけで選ばれる人気者もちゃんと存在します。そして、良いことも悪いことも、自分のしたいことだけを存分にして、良いことをしたらみんなから尊敬され、悪いことをしたら先生に叱られ、誰が何をしているか皆が知っています。明日のことを一切考えずに、疲れを知らずに一生懸命「今」に集中する…。なぜこのような組織を目指すかといえば、それが最も現実的で、従業員を最も幸せにし、最も経営合理性を生むと考えるからです。

おわりに
トリニティのリーダーシップ論のまとめに際してのコメントです。第一に、これまで多くを述べてきたリーダーシップ作業の全て、人の役に立つために経営者ができることの100%は、ひとりできる、ということです。全ての行動は自分だけで完結し、誰かに指示を出して実行してもらう必要もありません。宇宙を動かすために必要なことは、自分が動くことであり、世界を変えるには自分を変えなければならない、ということだと思います。第二に、リーダーの発言、行動、意図、はその全てが、従業員と顧客を含む全てのステイクホルダーへの強烈なメッセージです。実際に口頭や文書で発言されたかどうかは殆ど問題にならず、隠された意図も結局は全て伝わると思われます。事業経営において嘘をつく必要がある大半の経営者にとっては厄介な問題かも知れませんが、真実を語る経営者にとっては、最大の武器になります。経営者が果す作業の中で、最もパワフルなものは、「物事の意味を変える」作業です。例えば、従業員に「何をするか」ではなく、「なぜするか」を問うことで、仕事という行為の意味を根本的に変える手助けをすることができるのです。この際、経営者が発するメッセージの全てが、この作業を後押しします。第三に、リーダーの成果をどのように計るかということです。勿論色々な方法が考えられますが、リーダーが本当に人の役に立っているかは従業員の顔つきによって知ることができ、そして、従業員の仕事の成果は顧客の顔つきによって知ることができるのではないかと思います。最後に、「人の役に立つ」ということは目的であり、手段ではありません。「従業員を大切にする」と表明している企業は少なくありませんが、その大半は「会社の発展と成長のためには、従業員(と顧客)を大事にすることが非常に重要」と考えているに過ぎないのではないかと思います。トリニティ経営理論の世界観では、そもそも「企業は従業員と社会の役に立つため、すなわち自分と他人の幸福のために存在する。そして、その目的を実現した企業が結果として収益を最大化する」と言うものです。この、言葉にすれば僅かな違いは、見かけは似ているのですが、イルカとマグロほど本質が異なるのではないでしょうか。

【2008.3.25 樋口耕太郎】

*『トリニティのリーダーシップ論』は本稿で終了です。

*(1) 「全てが相対性の宇宙において、地球が動くということはそれ以外の天が動くということ」という比喩は僕のお気に入りのひとつです。世の中の経営理論と多くの経営者は、天動説の世界観に基づいて、空の星をひとつずつ自分の思う方向に動かそうと大変な努力をしているように思えます。星をひとつずつではなく、例えば2つずつ動かす技術を開発するためにしのぎを削ったり、動かした星の数を管理するために膨大なシステム投資を行ったりしています。星を1つ動かすよりも2つ動かす人が「成功者」として賞賛され、権力者や大金持ちになってゆく世界においては、例えば星を10個まとめて動かすことなど想像もつきません。この世界観の問題は、非効率だということは勿論ですが、「巨大な宇宙に対して自分はあまりにも微力だ」、という概念を内包していることです。世の中の「成功者」が誰も、世界全体(宇宙)を良くする(動かす)ことに真剣になら(れ)ないのはこのような理由によるのかも知れません。

やがて天動説では自然現象を完全に説明できない、という証拠が少しずつ発見され始めますが、殆どの大人たちは、天動説に矛盾する証拠の存在を否定するか、そもそも社会は矛盾に満ちているものだ、と諦めるか、そんなことよりも生活が大事、と「現実」を優先するか、のいずれかで、天動説の世界観そのものを捨て去る決断をする人は滅多にいません。それでもごく稀に、「ひょっとしたら自分は宇宙の全てを動かす力を持っているかも知れない」、という「馬鹿げた」考えに取り付かれる人が歴史の中で突然変異のように現れることがあります。この「突然変異種」の大半は良くて狂人、多くの場合危険人物として、時代によっては社会から排除されたり殺されたりしています。その中でも時代の中を運よく生き延びた何人かは、彼らの信念によって「地動説」に辿りつき、…すなわち「自分を動かすことで、宇宙全体を動かし」、社会全体に新たな世界観を提供する役割を果すのです。

「自分の世界に住んでいる人はみんな狂っていることになるのよ。多重人格者、精神異常者、マニアのように。人と違うだけでね。 … まず、時間も空間もなく、あるのはその二つを合わせたものだと言っていたアインシュタインがいたでしょ? それから、世界の反対側にあるのは大きな溝ではなく、大陸だと固執したコロンブスがいるでしょ? 人がエベレストの山頂に到達できると信じていたエドムンド・ヒラリーがいるでしょ? それに、それまでと全く違う音楽を創り、全く違う時代の人みたいな格好をしてたビートルズもいたでしょ? そんな人たちと、他にも何千という人たちは、みんな自分の世界に住んでいたのよ」(パウロ・コエーリョ著『ベロニカは死ぬことにした』より)

蛇足ではありますが、本稿のリサーチの過程で、地動説とローマカトリック教会について面白い事実を見つけました。1962年、ローマ教皇ヨハネ23世は世界に散らばる約2,500人の司教をローマに招集した第2バチカン公会議で、「中世という時代は終わり、新しい時代を考えなくてはならない」と主張したそうです。その「刷新」の結果のひとつとして、ローマ教皇庁ならびにカトリック教会が正式に天動説を放棄し、地動説を承認したのは1992年です。元上智大学長でローマ・カトリック大司教ヨゼフ・ピタウ氏は、後にこの件について読売新聞のインタビューに答えて、「間違いを認めるのは大切。神様のお導きで間違いを認め、新たに始めることができる」と述べています。…神様のお導きで間違いを認めるのに、ガリレオの死から359年もかかった訳ですが、カトリック教会にとっての中世が1962年に終わったと考えると、「僅か」30年ということかも知れません(皮肉が過ぎるでしょうか)。…しかしある意味で「世界観」が人々の行動に与える強烈なパワーを裏付けるエピソードだと思います。

「王国全土を崩壊させようとした力のある魔法使いが、全国民が飲む井戸に魔法の薬を入れたの。その水を飲んだものはおかしくなるように。
次の朝、誰もがその井戸から水を飲み、みんなおかしくなったわ。王様とその家族以外はね。彼らには王族だけの井戸があり、魔法使いの毒薬は撒かれていなかったから。そこで心配した王様は安全を図り、公共の福祉を守るためにいくつかの勅令を発布したの。でも、警察官も、警部も、すでに毒の入った水を飲んでいたから、王様の決定を愚かだと思って、従わないことにしたの。
王国の臣民がその勅令を耳にした時も、みんな、王様がおかしくなって、バカげた命令を下しているんだって確信したの。彼らは城まで大挙して押し寄せ、その勅令の破棄を求めたわ。
絶望した王様は、王位から退く心づもりでいたけど、女王が彼を引き止めて言ったの。『さあ、みんなと同じ共同井戸の水を飲むのよ。そうすれば、みんなと同じようになるはずだから』。
そして彼らはそうしたの。王様と女王様は狂気の水を飲み、すぐに不条理なことを口走り始めた。彼らの臣民は、すぐに悔い改め、王様がすごい知恵を見せている今、このまま国を統治させようではないか、と思ったの。
その国は、近隣諸国よりもおかしな行動を取っていたけど、それから平和な日々を送り続けた。そしてその王様はその最後まで国を支配することができたとさ」(前掲『ベロニカは死ぬことにした』より)

*(2) 「経営理念」や「企業文化」の浸透を促すなどの方法によって、従業員の行動の意味や世界観を変え、組織行動を変化させようという発想が広まりつつあるのは、一定の合理性があります。現実は、理念を「重視する」としている大半の企業で、事業の目的と経営理念と経営者の在り方(行動)が頻繁に矛盾し、その「世界観」の整合性が失われているために、運用上殆どが機能していません。この原因を突き詰めて考えると、収益が企業の目的となっていること、 リーダー(経営者)が成果主義によって選別されること、という二点に行き当たるというのが僕の結論です。前者は事業目的(収益)と経営理念が矛盾する最大の原因ですし、後者は経営者の行動が経営理念と矛盾する最大の原因であるためです。以上の前提で、「企業が収益を目的とせず、経営者が人格的なリーダーシップによって選別されながら、企業収益を最大化する世界観」を構築することができれば、事業経営が飛躍的に向上すると考えられ、これがトリニティ経営理論のフレームワークです。これは、収益を目的としない方が収益が生まれる、成果主義を廃止した方が成果が生まれる、という経営バランスが現実に存在するか否か、という議論でもあります。

*(3) 企業・人「信用できない」6割 朝日新聞世論調査 2008年03月21日

いまの日本には「信用できない企業が多い」と思っている人は60%。「信用できない人が多い」も64%で、企業や人への不信感が目立つ ― 朝日新聞社が全国3千人を対象に2月~3月上旬に郵送で実施した全国世論調査(政治・社会意識基本調査)で、世の中の信用・信頼が揺らいでいる実態が浮き彫りになった。政治家や官僚への信用は18%と低く、教師や警察は60%台。裁判でさえ72%だが、家族には97%の人が信用をよせている。度重なる食品の偽装問題の影響もあってか、「信用できる企業が多い」は29%にとどまり、「信用できない企業が多い」は60%を占めた。日本で売られている食品について「ほとんど信頼できる」は4%と少ないが、「ある程度信頼できる」は63%あり、「信頼」は合わせて7割近い。「あまり」「ほとんど」信頼できないは計30%だった。一方で、偽装問題などで一度信用を失った会社の製品を再び「買ってもよい」と思う人は38%で「買いたくない」が55%と半数を超えた。「買ってもよい」は20代と30代では5割近いが、年代が上がるほど減り、70歳以上では23%しかない。仮に食品会社に勤めていたとして賞味期限の偽装の事実を見聞きしたとき、「上司や同僚に相談する」は70%に達し、「警察やマスコミに通報する」も13%あった。「とくに何もしない」は10%と少ない。いまの世の中には「信用できる人が多い」と思う人は24%で、「信用できない人が多い」が64%にのぼった。「たいていの人は、他人の役に立とうとしている」と受け止める人も22%と少なく、「自分のことだけ考えている」が67%を占めた。生活と密接な関係がある12の項目を挙げてどれくらい信用しているかを聞くと、「信用している」と「ある程度信用している」を合わせた信用度は、(1)家族97%、(2)天気予報94%、(3)新聞91%、(4)科学技術86%、(5)医者83%と上位5位が8割を超えたが、政治家と官僚はともに18%で最下位だった。

…新聞に対する信用度が、科学技術と医者を上回って91%というのは、さすがに新聞社の調査という気がしますが、新聞社も企業の一部だと考えると辻褄が合うのでしょうか。「新聞社の世論調査に対する信用度」という項目があればどのような数値になるか興味があります。