人は本能的につながりを求める存在です。社会から切り離されることは人生における最悪の出来事のひとつであり、人は何よりも孤立を恐れ、必死に自分の居場所を見つけようとして「戦って」います。

沖縄社会(に限りませんが)におけるつながりが希薄化するほど、多くの人のつながりを求めたいという気持ちが高まるのは自然なことでしょう。これ対して最も効果的に応える、典型的なパターンの一つが、「敵」に対峙してまとまることで、これが沖縄ナショナリズム(本土から見ると左派になります)高揚の一因になっているような気がします。

この場合、つながることが一義的な目的ですので、「敵」は恣意的に決定されます。一般的には、(辺野古のように)最も「分かりやすい」ものが選択されます。これが、基地問題としては本質的にはるかに重要であるはずの浦添新軍港にまったく議論が向かない理由ではないでしょうか。

もし人々の関心の矛先が、お互いつながることを優先に決められているとするならば、社会における議論は、その問題が本質的に最重要かどうかという基準で選ばれにくいということになります。むしろ県民の「関心」に応えるのが民主主義であり、メディアの役割であるがゆえに、本当に重要な問題、たとえば貧困などが、政治や報道の主要なテーマとして置き去りにされてきたようにも見えます。

この仮説に異議のある人はいらっしゃると思いますが、仮にこれが正しかったとするならば、私たちが最もしなければならないことは、沖縄社会に前向きで生産的な意味でのつながりを復活させることであり、そのためには、どうしても自立生産的な産業が必要だと思うのです。

私が考える基地問題の最大の問題は、仮にそれが解決しても、沖縄県民を不幸から解消するに過ぎず、それだけでは決して県民を幸福にしないということです。基地がなくなって幸福になるのであれば、本土の多くの県はとても幸せに暮らしているはずです。

基地が沖縄県民を不幸にしているという側面は大いにありますが、逆に、(つながりを失うなど)沖縄県民が不幸だからこそ基地問題が拡大しているという因果関係はないでしょうか?基地に反対する気持ちは私も全く同じですが、私たちは県民を本当に幸福にするために、より深く思考し、活動すべきではないかと思うのです。