高齢者を排除しない雇用とスローシティの構築を
トリニティ社長/沖縄大学人文学部准教授 
樋口耕太郎

沖縄県那覇市では2000年以降、被生活保護が増加を続けており、その9割以上が50歳以上の中高齢者である。これは沖縄でショッピングセンターが急増し始めた時期と重なっており、それによって中高齢者の雇用が奪われた結果である可能性がある。 日本全体が同じ問題に直面していると考えられるが、米軍基地の返還、跡地の再開発が進む沖縄ではそれが先鋭的に表われているともいえる。高齢者が排除され ない質の高い雇用を生み出すこと、そのためのインフラを整備することは、少子高齢化時代の必然的な要請である。

1万人の生活保護

現在人口約30万人の那覇市では、1万1809人(2014年10月現在)の被生活保護者が存在する。最低値5788人を記録した1993年から20年間増加を続け、倍増した。これら保護世帯にかかる2014年度予算が約209億円。54億円弱が一般財源から支出され、市財政を強く圧迫している。

80年から長きにわたって減少傾向にあった被生活保護者数は、00年前後を起点に急上昇に転じている。00年に6870人だった被生活保護者数は、14年度には1万1809人となり、72%増加した。00年から14年は、翁長雄志知事が那覇市長を勤めた期間でもある(データは2015年1月5日沖縄タイムス、那覇市健康福祉概要、那覇市統計書による)。

ショッピングセンターの島

00年を境に社会のバランスが崩れたと考えるべきだが、この年は沖縄のショッピングセンター開発競争に火がついた年と重なっている。99年に地元の大手スーパー、プリマートと沖縄ジャスコが合併して琉球ジャスコ(現イオン琉球)が誕生した。その後20店のマックスバリュが次々と開店し、00年には大型店舗のイオン具志川、03年にイオン名護、04年にイオン南風原、そして08年に返還された約48ヘクタールの米軍アワセゴルフ場跡地には、先月、巨大なイオンモール沖縄ライカムが鳴り物入りでオープンした。

巨大資本イオンの沖縄本格進出に対抗を迫られた地元のサンエーは、00年ジャスダック市場に株式を上場。上場で調達した多額の資金を利用して02年に巨大基幹店那覇メインプレイスをオープンさせ、以後、03年西原シティ、04年具志川メインシティ(増築)、05年大山シティ、06年しおざきシティ、08年経塚シティ、12年宜野湾コンベンションシティと、猛烈な勢いで大型店舗を増やしながら、多数の小型食品館を展開している。

00年にイオン琉球の売上げは455億4100万円、サンエー826億5100万円であったが、14年にはそれぞれ676億400万円、1575億6500万円に達し、この期間この2社だけで実に969億7700万円売上げを増やした。

わずか15年間で、沖縄はショッピングセンターの島になってしまったかのようだ。09年のデータでは沖縄県のスーパーマーケットの店舗数は対人口比で全国1位である(売上げデータは00年5月2日、7月31日、14年4月8日の琉球新報、14年5月21日沖縄タイムス、店舗数は総務省統計局平成21年経済センサス-基礎調査・統計表における「各種食料品小売業」の事業所数による)。

仕事を失ったシニア

たとえば、人口約260万人の大阪市には他都道府県から日中1000万人の流入があるが、島嶼圏の沖縄はこのような広域経済圏をもたない。島国で経済のパイが変わらないため、競合する事業が生まれれば他の地域の顧客が奪われることになる。顕著な事例は、北谷美浜地区のアメリカンビレッジ再開発によって崩壊状態に瀕している隣町のコザだろう。基地返還のモデルケースといわれている北谷美浜地区の評価は、コザの衰退とセットで考えなければ実態をとらえることはできない。

琉球イオン、サンエーの大手2社が00年から14年までの間に1000億円近く売上げを増やしたということは、地元の小売店や自営業者の売上げがそれだけの規模で奪われた可能性があるということだ。個人事業主で廃業した人も少なくないだろう。地域を支えていた共同体も変化したに違いない。

ショッピングセンターの開業や再開発に伴って新たな雇用が生まれる一方で、新たな雇用の「受け皿」から漏れる人たちが少なからず存在する。50歳以上の労働者だ。地元に根づいた商売が成り立たなくなれば、転職を考えなければならないが、50歳を超えて再就職先をみつけることは容易ではない。これが00年以降、50歳以上を中心に被生活保護者数が急増し続けている基本構造ではないだろうか。

実際、00年からの14年間で増加した4939人の被生活保護者のうち、50歳以上が実に9割弱(4325人)を占めている。50歳以上だけでみると、同期間114%の増加率である。00年以降の被生活保護者数急増は、シニアの再雇用問題である可能性が高い。

しかし、被生活保護者数増加の一因がショッピングセンターの急増だったとしても、イオンやサンエーを批判することはお門違いだ。彼らの立場で株主に対して責任を果たそうと思えば、それ以外の選択肢は事実上存在しない。ダイナミズムあふれるグローバル社会において、地域の変化は避けられないことであり、悪いことばかりではない。大手企業が新たな雇用を生むこと自体は地域にとって明らかなメリットであり、生産性の低い業態が淘汰され、新たな産業が生まれる構造 変化は社会の活力源でもある。90年以降、伝統的な製造業の雇用が大幅に減少するなかで、シリコンバレーの新興企業が大量に雇用を創出して、アメリカの国力を支えているのは典型的な事例だ。

問題の本質は、ショッピングセンターの増加ではない。古い産業が淘汰されることでもない。(語弊があるが)古い共同体が崩壊したことでもない。これらの変化は避けられないことであり、私たちは変化を前提に未来を創造せざるをえないのだ。本当の問題は、「私たちが現在生み出している産業のなかに、将来の自分たちが健康で幸福に働ける場所が存在しない」ということ、そして「再開発で街並みが変わったあとに新たな人のつながり(共同体)が生まれにくい社会設計を放置している」ことにある。

おもろまち再考

87年に返還された192ヘクタールの米軍牧港住宅地区の再開発によって誕生した那覇新都心おもろまちは、基地返還後の経済波及効果のモデルケースとして取り上げられることが多いが、その街並みは減歩率が不足して道路面積が十分に確保できず、日中は渋滞で車では出ることも入ることもままならない。目抜き通り、沖縄県の顔ともいうべき県立博物館・美術館の正面に、パチンコ店と量販店と低価格のビジネスホテル、日銀那覇支店の正面にショッピングセンターが連なる街並みをみて無念と感じる県民は少なくない。

おもろまちの最大の問題は、まさに50歳以上が働けない街をつくってしまったことだろう。その原因は、街づくりの理念よりも目先の収益を優先したことにある。

沖縄の基地返還後の再開発のあり方は、利益主導、消費主導、雇用の(質よりも)数優先、住民税(人口)優先でなされてきた。基地が返ってくるたびに利益優先で土地利用を決め、街を区画整理すれば、賃料、地代、買収価格を最も高く提示できるショッピングセンター、家電量販店、パチンコ・スロット店、コールセ ンター、安価なホテル、コンビニが目抜き通りを占めるのは当然だ。現在のおもろまちはこの通りの雑然とした街並みとなっている。

これらの業態は商品やサービスを低価格で提供する傾向が強く、利益に敏感で、労働者の報酬は低く抑えられ、非正規雇用が一般的。退職金制度も未整備で、長時間労働が求められる企業も多い。人件費が安いという理由で沖縄に進出してきた企業で、従業員の給与が上がるはずはない。こうした企業がどれほど増えても、雇用の質の向上、ひいては50歳以上の雇用につながらない。未来志向に乏しい「街づくり」が共同体を散逸させ、仕事やつながりを失った人たちの一定数が被生活保護者へ転落を続けている。

基地返還の衝撃

この問題は、日本のどの地域にも存在する問題ではある。00年前後を境に被生活保護者数が増加しているのは、那覇市に限らず全国的な傾向だ。しかしながら、沖縄においてとくに深刻といえるのは、なんといっても膨大な面積の埋立て計画と圧倒的な量の基地返還が進行中だからだ。

沖縄は復帰以来、海岸線を容赦なく埋め立ててきた歴史をもつ。国土地理院沖縄支所(昭和63年~平成25年の沖縄県面積値の推移)によると、1988年から2013年までの25年間に、沖縄県の面積は東京ドーム約296個分に相当する13・91平方㌔㍍増加している(東京ドームの面積は0・047平方㌔㍍)。

宜野湾市の1980年代の西海岸埋立て地は、ラブホテルとパチンコ店とショッピングセンターと倉庫が連なる街に変わった。豊見城市豊崎、糸満市西崎・潮崎、与那原町東浜もおおよそ同時期の埋立てだが、収益優先の無個性な街が量産されている。浦添市では昨年、1㌔㍍近くもあるキャンプ・キンザーの美しい自然の西海岸をコンクリートで埋めてしまったが、その後どのような開発をするべきかの青写真がないまま、埋立て地の競争入札が進行中だ。

沖縄では土木工事に伴う高率の補助金(工事代金の最大95%)を獲得することが目的化し、目先の利益を最優先する埋立てのための埋立てが止まらない。よい街をつくり、質の高い雇用を生み出すなどということは、はじめから埋め立ての目的ではないのだ。

96年の沖縄に関する特別行動委員会(SACO)最終報告に基づいて、5000㌶を超える米軍基地の返還が進行中であるが、昨年から開発が始まっている北谷町キャンプ桑江返還跡地北側地区38ヘクタールは、あっという間に雑然とした街並みに変化した。今後南側68ヘクタールの返還を控えているが、その変化を見届けるのが不安になる。会話をしていたある沖縄人(ウチナンチュ)の言葉が心に刺さった。「どれだけ基地が返還されても悲しい街ができるだけ、基地返還が怖い」と。今後、都市部では、牧港補給地区(キャンプキンザー)274ヘクタール、普天間飛行場480ヘク タール、那覇軍港57ヘクタールなどの返還が予定されているが、このまま放っておけば、何倍もの「おもろまち」が誕生するだろう。

雇用の未来

戦前、日本の年金支給開始年齢は55歳だった。それが段階的に引き上げられ、現在は原則として65歳になるまで年金の支給を受けることができない。若者人口が減少して高齢化社会が進むことが確実である以上、支給開始年齢が今後も引き上げられることは間違いない。ほとんどの労働者が70歳、75歳まで健康で働くことができなければ、社会が1日も成り立たない時代が目前に控えている。

少子高齢化社会では労働力が圧倒的に不足する時代が到来し、どれだけ売上げがあっても、商品が優れていても、顧客が列をなしていても、どれだけ給与を払っても人が集まらずに企業が倒産するような事態が生じるかもしれない。そのときに企業存続のカギになるのは、すべての人が幸福になる、人間的な雇用である。人をつなげながら、やりがいがあって、社会に寄与することができ、同時に自分の人生を豊かにするような、幸福で質の高い雇用を社会に浸透させるということ だ。基地返還後の再開発は、このような企業、産業を支えるために必要なインフラを整備するためのものであるべきなのだ。

質の高い雇用が実現すれば、70歳を超えて働くことは、不幸なことどころか幸福な人生を送るためのカギになる。そもそも現代社会で60代、70代は高齢者でもなんでもない。知識も経験も豊富で、物事に対して幅広い視点で発想できる、体力的にもまだまだ頑強な、社会の重要な戦力だ。世論調査大手のギャラップ社がアメリカで58年に実施した調査で、何百人もの95歳以上のアメリカ人にインタビューした結果、95歳以上長生きした人は平均80歳まで働いていたという。そのうち93%は「仕事に非常に満足」、86%は「仕事がとても楽しかった」と回答している。

キャンプ・キンザー

以上のビジョンは理想論ではなく、少子高齢化社会の必然であり、社会存続のための必要条件だ。沖縄でそのビジョンを現実に構築する最大のチャンスが、牧港補給地区(キャンプ・キンザー)の返還予定地274ヘクタールである。この地で「おもろまち」の失敗を繰り返してはならない。

辺野古新基地の反対運動、那覇軍港の移設・返還と浦添新軍港の建設問題、浦添地先西海岸開発・埋立て計画など、現在沖縄で注目されている問題はそれぞれ重要だ。しかし、沖縄の将来にとって最も重要なことは、質の高い雇用で高い生産性をあげるスローシティのモデルを生み出すことであり、私たちの社会を本質的 な意味で豊かにすることではないだろうか。キャンプ・キンザーの返還地で私たちが描く青写真が、今後50年の沖縄社会の明暗を分けると思うのだ。

ひぐち こうたろう
65年生まれ、岩手県盛岡市出身。89年筑波大学比較文化学類卒、野村証券入社。93年米国野村証券。97年ニューヨーク大学経営学修士課程修了。01年レーサムリサーチ。04年グランドオーシャンホテルズ社長兼サンマリーナホテル社長。06年トリニティ設立。12年沖縄大学人文学部国際コミュニケーション学科准教授。南西航空の再生をテーマにした「沖縄航空論」、人と社会の幸せを考える「幸福論」などを担当。専門は事業再生および地域再生の実践。09年度より沖縄経済同友会常任幹事。内閣府・沖縄県主催『金融人財育成講座』講師。

【本稿は、週刊・金融財政事情 2015年5月25日号に掲載された】