本土では豪雪の所もあるなど、この沖縄でさえ厳しい寒さが続く毎日ですが
あなたはお元気でいらっしゃいますでしょうか。

4日から12日まで麗王をお休みさせていただいておりました。
その間に折角おいでくださったみなさま大変申し訳ございませんでした。
心よりお詫び申し上げます。

6日に、母を亡くしました。
1月の下旬にお医者さまより、「余命1か月ほどでしょう。」と告げられ、
2月3日にはもう、「昨日は危険な状態でした。あと3日ほどかもしれません。」
との連絡を受け、急遽次の日に大阪に帰りました。
着いた日は、危篤状態だったのが嘘のように、母は言葉にならない言葉を
ずっとしゃべり続け、お医者さまからも、
「沖縄から娘が来るまではとずっと頑張っておられましたよ。会えてうれしいんでしょうね。
今日は見ちがえてお元気です。止めていたお食事や投薬を
明日からまた再開できそうです。」と言っていただいたぐらいでした。
でもその日で力を使い果たしたのでしょう。次の日病院に行くとまたすごく弱っていて
息も苦しそうでした。肺に水が溜まりずっと溺れているかのような状態とのこと。
その日は一日中母の横で、母の娘でいられる最後の時を過ごしましたが、
母が幾度か意識を取り戻して、私に、「もう死んでもええ?」と聞くのです。
苦しかったのに頑張ってずっと待っていてくれたからなのでしょう。
でも、「もう逝ってもいいよ。」とも言えず、ただただ、「お母さん、よう頑張ったねぇ。」を
繰り返すばかりで、母は次の日の早朝、痛みと苦しみからようやく解放されて、
安らかに逝きました。満83歳でした。

今までも近親者を亡くしたことはありましたが、今回は改めて、命とは何かを
考えさせられました。もちろんわたしには答えはありません。
でも命があること、そしてそれがなくなりこの世から消えてしまうことの不思議さ、
悲しさ、寂しさの前に、ただことばなく佇むことしかできない自分がいます。

弱々しかったとはいえ、つい今しがたまで息をし、温かく、血流やリンパが循環し、
細胞のすみずみまで複雑な生化学的な機構が保たれていたもの。
その流れがある時ハタと止まり、じょじょに冷たくなっていく、この息をひきとるということ。

その時、その身体がもっていた記憶や好みや、痛みや愛おしさなど、
つまり意識と呼ばれるものはどこへいってしまうのでしょう。

わたしは、生きていた母の「いのち」は、この宇宙のどこかにいて、
その存在は空間的・時間的な隔たりなくこの宇宙のどこにでも存在することができて、
といって、わたしたちがもっているこの肉体のような存在ということではなく、
でもわたしたちのすぐ隣に「いる」のではないか、と想像しているのです。
それが、昔の人が言った、「草場の陰から」ということなのではないでしょうか。

慌ただしくお通夜、お葬式、初七日を終え、父に言われ沖縄に戻る前に
母の持ち物を整理しました。
母のタンスの隅に大事にしまわれていた二つの木箱を見た時には
涙が止まりませんでした。
わたしと弟のへその緒。
「産んでくれて本当にありがとう。」母が逝く前にそうちゃんと伝えておけばよかったと
後悔の気持ちでいっぱいになりました。

また、母の物を片付けていてわたしが直面したのは、人生とは「物」である、という
事実でした。人の一生を彩る物の、なんと多いこと。人はこうも物と寄り添い、
想いを託さないではいられないのでしょうか。

働くことが生きがいだった母が仕事を引退し、退屈だったのでしょう。認知症予防にと
毎日のようにしていた何冊もの塗り絵。そういった物たちの洪水と化した家のなかに
座って、わたしは母の弱さやかなしさに、初めてじかに触れたような気がしました。

そしてその瞬間、母をかつてなくいとおしく思いました。と同時に、自分と母とを
結んでいた紐がゆるやかにほどけていくのを感じました。

世界各国でベストセラーとなった「親の家を片づけながら」の著者、リディア・フレムは
親の死を「親と子を同時に葬る儀式」と書きました。確かに母が逝った時、
子ども時代の終焉をはっきりと自覚しました。でも、それは葬送というよりむしろ
卒業という感覚に近いように思いました。

毎週のように電話で話していたとはいえ、沖縄と大阪に離れて住んでもう30年近く。
母が亡くなったという実感はまだまだわいてこないのですが、
自分のことは全て後回しにし、慎ましく生き、いつも人に尽くし続け、人を愛し続けた
母の後ろ姿をお手本として生きていきたいと思います。

明日はバレンタインデーですね。
パートナーや恋人や大切な人に、ちゃんと相手に伝わる方法で、好きだという気持ちを
伝え続けましょう。明日だけでなく、毎日、毎日、告白しましょう。
相手を自分自身だと思って、絶対にぞんざいにしないのがコツです。
自分自身にも愛情を込めて「好きだよ」と声をかけてあげてくださいね。

* これまでの麗王便りで母への想いを綴った「母の日によせて」の回を
添えさせていただきますのでよろしければどうぞお読みになってみてくださいね。
母の人柄を偲んでいただけるかと存じます。
特に2015年と2017年のエピソードにはみなさんからたくさんメッセージをいただきました。

2012  http://www.trinityinc.jp/updated/?p=3771
2013  http://www.trinityinc.jp/updated/?p=4334
2014  http://www.trinityinc.jp/updated/?p=4678
2015  http://www.trinityinc.jp/updated/?p=6799
2016  http://www.trinityinc.jp/updated/?p=9009
2017  http://www.trinityinc.jp/updated/?p=10335

* 麗王は本日より営業させていただきます。
お目にかかれますのを楽しみに。

.。・:*:‘★、.。・:*:・‘☆、.。・:*:・‘
麗王
トリニティ株式会社
末金典子
norikosleo@ray.ocn.ne.jp

先日、ある学生からレポートを受け取った。

彼女が小学校3年生の時のエピソードが、
色鮮やかな言葉で綴られていた。
私は、彼女が絵の天才だと感じているのだが、
そんな才能を持つ人は、
文章も絵画的になるような気がする。

読んでいて、涙が溢れてきた。

彼女が大好きな美術の授業。
学校の一番好きなところをかきなさい、という課題。
多くの子どもたちは、ジャングルジムにいったり、
屋上にいったり、各自好きなところで絵を描いていた。

彼女が好きなのは、夕暮れ時の図書室の扉。
銀色の扉に夕焼けが反射して、
色々な光が変化するのが大好き。
この風景を描こうと、毎日夕焼けになるのを待って
下校時刻まで描いた。

***

遅れて提出すると、先生の顔が曇った。
どこを描いたのかを聞かれたので、
図書室の扉の話をすると、
「こんな色なはずがない、ちゃんとみてかきなさい」と、
画用紙を水道で洗い流した。

「私の好きだった黄色がかかった空も、ピンク色の雲も、
赤く染まる廊下も、水槽が反射して緑色が滲む扉も、
全部排水口に流れて行ったときに、涙がとまりませんでした」

少し色がのこった画用紙にかかされた絵は、「楽しい私」
というタイトルのつまらない絵。
自分が好きなようにかくのではなく、先生に認められる絵を
かかねばならないのだと、そのとき気づいた。

それからは、左利きじゃだめと言われたから
頑張って右利きに直したし、
箸を正しく持っていると「育ちがいいアピールか」
と言われたので、箸の持ち方も変えた。

人の型にはまろうと必死だった。
結果的に、私がつまらなくなってしまった。

でもこの話をするのも、自分がつまらないことを
人のせいにしたいだけだと思うのだ。

***

沖縄には、ぬちどぅたから(命が宝)という言葉がある。
しかし、私たち大人の、子どもたちへの接し方は、
愛情、教育、指導という名の下に、
肉体を育てながら、魂を殺しているように見える。
魂の大量虐殺は、歴史に記録されない。

問題を深くしているのは、
そこに誰も悪意を持った人はいないということだ。
彼女の告白に登場する教員も、
決して悪人ではなかったと思う。
それどころか、その教員に彼女の絵を洗わせたのは
「責任感」だったかもしれない。
ひょっとしたら、彼女の将来にも
関心があったのかもしれない。
こんな、「意味不明」の絵を描いていたら、
社会から受け入れらない、
と彼女の将来を案じたのかもしれない。

この教員は、彼女の知的、芸術的、
社会的成長には関心があったかもしれない。
しかし、彼女が心で見ていた、光と色には関心がなかった。
これが、虐殺の正体である。

最大の悲劇は、この出来事を、
彼女が、今まで、一度も、誰にも
話したことがなかったということ。

それは、彼女が見た光と色に、これまでの20年間、
誰も関心をもった人がいなかったからだ。

私たちの社会では、子どもを放置したら
ネグレクト、育児放棄だとして、大きな問題になる。
しかし、私たち大人は、子どもたちの魂を
何年も何年も放置していることを薄々感じながら、
どうしていいかわからないでいる。

「善意の虐殺」をやめて、
子どもの魂に愛を吹き込むのは、
人間に対する深い関心しかない。

2005年の公共広告優秀賞を受賞した作品で、
命の大切さを訴えたCMがある。
人に深い関心を持つということの本質が、
ここにあると思う。

「いのちは大切だ。いのちを大切に。
そんなこと何千何万回いわれるより、
あなたが大切だ。誰かがそういってくれたら、
それだけで生きていける」

私たちは、子どもたちのことを思って、
勉強が大切だという、就職が大切だという、
将来が大切だという。

しかし、子どもの関心ごとに関心を持つ大人は
意外なくらい少ない。

私たちは、従業員のことを思って、仕事が大切だという、
売り上げが大切だという、未来が大切だという。

しかし、従業員の小さな小さな、取るに足らない
関心ごとに関心を持つ経営者は、ほとんどいない。
従業員は、仕事の辛さに苦しんでいるのではない。
無関心に深く傷ついているのだ。

2月14日はバレンタインデー。
大切な人に、深い深い関心を示して見るのはどうだろう。
その人への関心ではなく、その人の関心に関心を持つ。
それはきっと、あなたにとっては、
つまらないことかもしれない。
どうでもいいことかもしれない。
批判したくなることかもしれない。

それでも、それは、あなたの愛する人が、
いま、この瞬間、とても気になっていること。
その気持ちに寄り添う一日でありますように。
そんな心に寄り添う一生でありますように。

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/208549