資本主義の第二の幻想、「競争原理が社会の効率を高める」、についてのここまでの議論をまとめます。1970年代以降、先進国の潮流となった超資本主義の社会では、技術革新、グローバル化、規制緩和が事業の新規参入を容易にし、企業間の激しい競争が引き起こされたため、大企業や規制業種の優位性が減少し、基幹産業や新しい産業の別なく、安定的な企業収益を生み出すことが事実上不可能になりました。資本調達にも競争原理が働き、株主の力が高まり、「会社は株主のもの」という価値観が浸透し、経営者に対するプレッシャーが増大します。経営者に対しては、収益を第一に追求するよう、株主から飴と鞭が与えられ、短期間で収益を上げることができなれば容赦なく解雇される半面、株主に利益をもたらす、ごく少数の「成功者」に対しては、莫大な報酬が支払われるようになります。価格競争が進み、商品価格への支配力を失った企業は、単価を上げる(あるいは維持する)ことができなくなります。この環境下で株主が納得する利益率を確保するためには、商品の販売量を拡大するか、費用を削減する以外に方法がなくなります。新たな市場を開拓することは時間もコストもかかりますし、市場サイクルが短期化して投下資本の回収リスクが高いため、利益を捻出するために、最も容易な方法が費用の削減となります*(1)

多くの企業において、人件費は突出して最大の費用であるため、利益を大量に捻出する原資としては最も「適当」です。買収の対象となった企業や、ファンドが経営権を取得した企業では、ほぼ例外なく人件費が見直されます。日本においては、バブル崩壊以降の平成不況が、聖域だった雇用に手をつける大義名分を経営者に与え、終身雇用が急速に失われると同時に、人材派遣会社が大いに業績を伸ばします。正社員が派遣社員に置き換えられ、残った正社員に対しては「成果主義」人事制度が導入されますが、多くの場合、この制度の導入目的は総額における人件費削減でした。以上の結果、雇用は不安定になり、給与が大幅に減少し、家計収入を補うために夫婦共働きが余儀なくされ、家庭教育や人間関係が希薄化し、中産階級が崩壊し、社会の格差が拡大するなどの問題が生じています。

超資本主義の金融
競争原理が社会の潮流となったことで、先進国社会の大半の労働者の所得は大幅に減少するのですが、例外的に、一部の経営者や金融専門家に関しては、所得と資産が著しく増加し続けています。超資本主義の競争原理は金融業*(2)にも例外なく浸透し、例えば株式売買手数料自由化によって、インターネット証券での取引が個人投資家の間で主流となり、大手証券会社の株式売買手数料部門における利益率は大きく減少しています。それにも関わらず、全労働者の中で、特に金融専門家の年収だけが爆発的に増加する現象はどのように説明できるのでしょう?競争原理の浸透によって、年収が激減する仕事と激増する仕事。両者の違いは何によって生じているのでしょうか?これらの問いは、超資本主義の金融的側面を明らかにし、特に1995年以降の国際金融の変容を説明する重要な鍵となります。

アメリカの1990年代は、激しい競争を伴う超資本主義的事業環境で十分な収益を確保する殆ど唯一の方法は、(広義の)トレーディング*(3)であるということが、金融専門家、そして一部の事業家の間で確信となった時期だと思います。不良債権投資・回収、LBO、ヘッジファンド、M&A、マーチャントバンキング、プライベートエクイティ、ベンチャーキャピタル、そしてその後のサブプライム危機に繋がるローントレーディング、レバレッジや簿外投資、資産の証券化、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)などの「先端」金融は、その見かけはどうあれ、その本質はトレーディング事業であり、この流れを洞察して戦略的な経営資源の再配分を行ったか否かが、超資本主義における「勝者」と「敗者」を別つ最大の要素になりました。超資本主義的事業環境において、労働分配率と事業収益の増加を両立し得る(少なくとも一定期間において)唯一の選択が、トレーディング事業でした。この意味で、金融事業のトレーディング化は、超資本主義的な社会変容に伴う、金融専門家の必然的な選択であるのですが、事業のトレーディング化の行き着く先が、資本主義そのものを自壊させるメカニズムとして機能するであろう、というのが本稿の重要な趣旨のひとつでもあります。詳細は後述します。

トレーディング化する金融
アメリカでは1975年に株式売買手数料が自由化されましたが(イギリスでは1986年10月から)、インターネットが社会に普及し、ネット証券が台頭し始めた1990年代前半(1996年8月、E*TRADE証券が上場しています)から手数料が本格的に下がり、大手投資銀行(証券会社)は重要な収益源を失います。今でこそ、自己資金を投下した広義トレーディング事業は投資銀行の花形部門のひとつですが、当時は、自らは殆どリスクを取らず、他人のお金を使ってお金を儲ける者が賢いプロの金融マン、と考えられていましたので、積極的に自己投資を始めたと言うよりは、失った利益を埋め合わせるために、已むに已まれず、というニュアンスではなかったでしょうか。

この動きを後押しした最大の要素は、商業不動産市場のクラッシュだったと思います。大手証券会社の仲介手数料収入の減少とおおよそ時を同じくして、1980年代後半から1990年代前半にかけて、アメリカでは商業不動産バブルが崩壊し、(当時)大恐慌以来といわれた不動産大不況に見舞われます。大手銀行は不良債権にまみれ、実質的に新規の融資機能が停止し、1980年代後半に「ジャパンマネー」として一世を風靡した日系金融機関はアメリカ不動産投資で大火傷を負い、1980年代以降の金融自由化などの影響が重なって、S&Lと呼ばれる中小金融機関(Savings and Loan Association:貯蓄貸付組合)が数百社単位で破綻する大問題になります。破綻したS&Lなどが保有していた不良債権を引き継ぎ、処分(売却)するために、RTC(Resolution Trust Corporation:整理信託公社)が設立され、大量の不良債権が額面に対して大幅なディスカウントで市場に放出されます。RTCは売却価格にこだわらず、「売れる値段が時価」、「できるだけ短期間で売却」という原則で不良債権をどんどん売却したため、不良債権を取得した投資家は例外なく多額の利益を享受しました。短期間で大量に売却するための工夫として、不動産担保証券(CMBS:Commercial Mortgage Backed Securities)の開発が進み、格付機関がストラクチャードファイナンス(証券化)ビジネスを積極化するなど、市場の参加者が一挙に増えたのです。

伝統的にリスクを嫌ってきた投資銀行といえども、このような絶好の収益機会を見逃すことは流石にできなかったようです。しかし、始めはおっかなびっくりで、例えば、ゴールドマンサックスが1991年に設立した不動産・不良債権ファンド、ホワイトホールは、今でこそ5,000億円を超える巨大ファンドですが、第一号は僅か200億円足らず。当時は単独事業ですらなく、その時点で10年以上不良債権に関わりがあり、不良債権回収の最大手であったJE.Robert Companyらとの合弁で始まっています。メリルリンチも、アメリカで最も有名な不動産/不良債権投資家、サミュエル・ゼル氏との合弁で、「Zell/Merrill Lynch Real Estate Opportunity Partners」を設立して不良債権などへの自己投資事業に参入しています。投資銀行がひとたび自己資本を投下したトレーディング事業を体験すると、いとも「簡単に」多額の収益を生み出すことが可能だということに気が付きます。特に、競争が激しくなる一方の、顧客相手の仲介ビジネスと比較すると、投下する労力に対する収益が破格に異なります。かくして、他人のお金で儲けるのがクールであった時代は終わりを告げ、1990年代以降、大量の自己資本を投下するプリンシパル・ビジネスが、一躍投資銀行の花形となるのです。

パンドラの箱
トレーディングの特徴は、…冗談ぽく聞こえますが…、儲かるときにはとにかく儲かる、ということでしょう。例えば、5%の利回りで投資物件を探している顧客がいたとします。10%の利回りで3億円の不動産を買い付けると同時に、5%の利回り、すなわち6億円でこの顧客に売却すると、3億円のトレーディング利益が生まれます(こう書くと、難しそうに聞こえますが、単に、3億円で買ってきたものを6億円で売る、という意味です)。同様の利益を仲介業務で稼ごうと思えば、手数料が3%としても100億円の大型取引を成立させなければなりません。3億円の自己売買取引と100億円の仲介取引では、物件に対するコントロール、対象顧客を得るまでの営業量と費用、営業をサポートするバックオフィスの能力、物件調査・市場調査などの精度と量、顧客への説明内容と段取り、契約書の複雑さと作成費用、顧客の資金調達の手間隙などにおいて、事業効率が格段に異なります。…要は、労少なくして、短時間で、驚くほどの収益を上げることが可能なのです(反面、トレーディングはある意味、パンドラの箱のようなものです。超資本主義の激しい競争環境で、これだけ容易に多額の利益を生む代替事業は稀であるため、市場の転換点でスムーズに撤退することは、収益的にも社内政治的にも不可能に近いと言えるほど困難です)。

トレーディングのメカニズム
投資銀行のトレーディングビジネスは多岐にわたり、「高度」な専門性を要するとされていて必要以上に複雑に見えますが、そのメカニズムを突き詰めて考えると、以下の3つの要素(とその組み合わせ)に収斂するように思います。反対に、超資本主義環境下の金融事業は、以下の3つが機能しなければ成り立たなくなっている状態です。一般に、市場の成熟と競争の増加に伴って、①~③の順に事業が変化する傾向があるのですが、この順番に事業リスクも急激に上昇し、最後にはクラッシュを迎える、というパターンを何度も繰り返す傾向が生じています。

①裁定
②レバレッジ
③請求権の拡大

裁定取引
投資銀行のトレーディングビジネスが、例えば単純な株式売買などと異なり、少なくとも一定の条件下において、ほぼ確実に利益を生み出すことができるのは、それが裁定(さいてい)取引であるためです。裁定取引とは、本来同等の価値を有する資産が、異なる状況において、異なる価格で売買可能であるとき、この資産を割安な価格で買うと同時に割高な価格で売却することによって、リスクを殆どとらずに利益を実現する手法です。この考え方はシンプルかつ汎用性があり、もともと金融に限った概念ではありません。大航海時代の商人が東インドやスマトラ島で買い付けた胡椒を西洋で売却して大きな利益を得たのも、西麻布の家具屋さんがインドネシアに家具を買い付けに行くのもこの原理によるもので、世の中には裁定機会が溢れています。裁定取引であることの特徴は、「買ってから売ろうとするのではなく」、「売れるものを買う」ということでしょう。6億円で売れると分かっているものを3億円で買ってくれば確実に利益になる、という単純な理屈です。「利は入りにあり」と言われますが、売るときに利益が確定するのが通常の売買、買うときに利益が確定しているものが裁定取引ということもできます。

ただし、単純な取引では裁定が働き、すぐに利益が生じない状態に価格が変動してしまうため、一定期間一定以上の収益を確保し事業化するためには、性質が大きく異なる二つの市場間の裁定を行うなどの工夫が必要で、このような複数市場間の裁定を目的として発達したのが証券化の技術です。例えば、1990年代の前半まで、アメリカの商業不動産市場と証券市場は全く分離した二つの市場でした。この時期、アメリカの商業不動産市場は大不況に見舞われ、不動産価格がピーク時の半値程度まで暴落します。一般的な不動産所有者は、投資額の70%~80%程度を銀行からの借り入れによって賄っていましたので、多くの所有者が破綻し、銀行は大量の不良債権処理に追われ、新たな貸付や借換に対応することが全くできなくなりました。シティバンクが破綻に瀕し、アラブのアルワリード王子の出資によって辛うじて生きながらえたのもこの頃です*(4)。担保余力の残っている一部の不動産所有者がローンの借換を行おうとしても、銀行は商業不動産市場から全面撤退中で、商業不動産市場は深刻な資金不足に陥っていました。もしこの裁定機会を理解し、自己資金に多少の余裕がある投資銀行がこの市場に存在すれば、安全な担保を取りながら利幅の厚い商業不動産担保ローンを貸し付けることは比較的容易でした。この機会を捉えて急成長を遂げ、ほぼ独占的な不動産証券化のフランチャイズを生み出したのが、ウォール街ではほぼ無名の弱小「外資系」証券だった米国野村證券不動産ファイナンス部門でした。1993年に僅か50億円程度の割り当て自己資金と7人の社員で始めたビジネスが、5年後の1998年のクラッシュ直前には、毎月1,000億円のファイナンスを実行し、450人の大部隊を擁し、年間600億円の利益を生み出す圧倒的な稼ぎ頭に成長します*(5)。商業不動産市場でこのようなローンを大量に実行して証券化するということは、金余りの(お金の価値の低い)証券市場から、お金不足の(お金の価値が高い)商業不動産市場へ資金を大量に流し込むことであり、ウォール街の投資銀行が広大な商業不動産市場を獲得した瞬間であり、実質的に同じ価値のローン資産を、割安な債権市場で「買い」、割高な債券市場で「売る」、裁定取引の実現を意味します(不動産担保融資の営業部門と証券化機能を有しながら、当時の不動産証券化が「ローントレーディング」ビジネスに分類されていたのは、このような理由によります)。

結局、商業不動産担保証券(CMBS)市場の裁定機会は1993年から1998年まで約5年間継続しました。ソロモンブラザーズのモーゲージ証券(1980年代前半)、ドレクセル・バーナム・ランベール証券のジャンクボンド(1980年代後半)、RTCを中心とした不良債権の大量処理と証券化(1980年代後半から1990年代前半)、ベンチャーファイナンスとインターネットバブル(2000年代前半)、住宅ローン証券化とサブプライム危機(2000年代)など、1980年代以降、アメリカの金融市場におけるバブルの発生と裁定機会は驚くほどの回数に上りますが、それぞれの隆盛と崩壊のサイクルはいずれも大方5年±α というイメージです。

【2008.9.5 樋口耕太郎】

*(1) 当たり前のように聞こえますが、売上から費用を差し引いたものが企業の利益ですので、苦労して売上を増やしてもそこから費用を差し引いた残りの部分しか利益になりませんが、費用を削減すると、削減した金額がそのまま企業の利益になるという単純な原理が働きます。このため、短期間で利益を確保する必要のある経営者は、一般に費用の削減を好みます。

*(2) 本稿で「金融」と表現する場合、広義の投資銀行事業を示しています。超資本主義を象徴し、金融のトレーディング的な変容を遂げ、国際金融に大きな影響を与え、社会経済の生態系分析に最も重要だと考えられるためです。

*(3) 本稿における「広義トレーディング」とは、自己勘定取引という、単に形式的な概念ではなく、顧客に対して買い向かう裁定取引を示します。この意味では、例えばノンバンク事業は、自己勘定ではありながら、銀行資金のリテール顧客への仲介業と考える方が実態に即していると思います。また、トレーディングという言葉のニュアンスから、証券などの頻繁な売り買いが連想されがちですが、自己勘定による裁定取引(広義トレーディング)の概念では、例えば、ローンを融資(経済的に「買い」)し、証券化(経済的に「売却」)する事業、ファンドのお金で不動産を買い集めて(「買い」)、一つの会社として上場する(「売り」)事業、上場会社を買収し(「買い」)5年間後に再上場(「売り」)するなど、長期的かつ事業的な資産売買を含みます。一般的な事業経営と見かけが似てきますが、トレーディングである以上、必ず買う行為と売る行為が存在することが決定的な相違点でしょう。

*(4) シティグループは、サブプライム危機においても破綻に瀕していますので、20年足らずの間に2度、実質的に破綻したことになります。これは本稿の趣旨でもありますが、それほど国際金融市場は不安定になっていると言えるのです。

*(5) 米国野村證券の不動産ファイナンス部門を率いたのが、当時30歳になったばかりのモルガン・スタンレー出身の債券トレーダー、イーサン・ペナー氏(Ethan Penner)でした。不動産ファイナンス部門は、全世界の野村證券の利益の約半分を生み出していた時期もあり、危なっかしいほどの勢いがありました(実際1998年のモーゲージ市場のクラッシュで、部隊は壊滅状態になります)。毎年リゾートを借り切って、1,000人規模の顧客・従業員とその家族を招待してコンファレンス兼パーティを開催し、趣を凝らしたディナーの後のエンターテイメントには、ダイアナロス、ボブディラン、ロッドスチュワート、イーグルスなどのミュージシャンが演奏を行いました。当時の米国野村證券は、完全な現地化戦略に転換し、自己資金をフル稼働させたトレーディングビジネスに大きく舵を切り、経営陣から末端に到るまでアメリカの会社以上に米国的で、日本人社員は全従業員の4%以下でした。当時の不動産ファイナンス部隊の大躍進と崩壊に到るまでの顛末は、僕が知る限りにおいてこちら(英文)が最も詳しい資料だと思います。