バブル最盛期の野村證券の営業で地獄のような3年間を過ごした後、27歳で初めて米国へ。日本では肩で風を切っていたが、島国での営業成績が何の自慢にもならない世界で、自分がいかに金融を知らないか、いかにビジネスに無知であるかを、嫌というほど思い知らされて愕然とした。

昼間の仕事がどれほど膨大にあろうと、私には、夜学に通って、一刻も早く金融知識を身につける以外の選択肢はなかった。ウォール街では学位はともかく、MBA同等以上の知識がなければ、そもそもスタートラインにすら立てない。

日本の親会社から派遣されても、現場で役に立たなければ、完全に「お客様」扱いだ。表面上は礼儀正しく接してくれはするものの、ビジネスでは完全に子供扱い。6時間続く契約交渉の席に呼ばれはするが、英語は理解できても、一言もその意味が分からない。

丁々発止、知的なボクシングを続けるプロたちの中で、6時間、ぽつんと自分だけが異空間に存在する惨めさは、当時の私には本当にこたえた。日本では「飛び抜けた」英語力も、当然ながら米国では当たり前。自分の過去がまったく評価されない場所では、前を向く以外に生き残る道はない。

お陰で、学ぶということが、当時の私には本当にリアルだった。なぜ学ぶのだろう、という迷いも曖昧さもないことは幸福なことだ。昨晩授業で学んだことが、翌日、ダイナミックな現場での理解をまた少し深める。このことの繰り返し。新しい知識の一つ一つが、宝石のように感じられた。

正直なところ、日本での学部生の頃は、おもしろいと思える授業に一度も出会ったことがなかった。あるいは、出会っていたとしても、自分がまったく気がつかなかったのかも知れない。学ぶということは、楽しみというよりも、自分に課した大事な課題のようなものだった。

それが一転、NYUでは学ぶということを純粋に楽しむことができた。私は、その時から、学ぶということの意味と目的が、学ぶことの内容以上に重要なのではないかと考えるようになっている。

そんな経験をしたのは、もう20年近く前の話だが、期せずして自分が沖縄大学で教える立場になり、この想いが蘇ってきた。

現在大学が直面している最大の問題の一つが、意味と目的を失っているということではないだろうか。高度経済成長期から現代までの学生は、学ぶということそのものに迷いがあっても、学位を取得すれば、ある程度将来が約束された。

誰にとっても、学ぶ理由は、学ぶことそのものも然ることながら、学位とキャリアがもたらす、実質的な結果によって明瞭だったのだ。

しかしながら、今や誰しもの目に明らかなように、そんな社会は既に存在しない。どれだけ良い大学の良い学位を取得しても、どれだけ資格を持っていても、それが生活や地位を殆ど保証しない。

確かに、この変化は重大なものだが、一方で、私たちにとって、近代において初めて、学ぶということの本当の意味に向き合う、最高の機会が到来していると思うのだ。

日本の高等教育の現場は、今まで、学ぶということの本質に向き合わずに来たのだが、その裏返しとして、今後先端を走る大学とは、偏差値の高さも然ることながら、学ぶことの意味を見いだし、形にし、伝えることのできる大学だろう。

それはすなわち、生きることの意味、考えることの意味、人と関わることの意味、事業ということの意味、経営ということの意味・・・人の役に立つということの意味、自分であるということの意味、地域を豊かにするということの意味・・・に向き合うということだろう。

立場がリーダーシップではない。規定が運営ではない。組織が人事ではない。取得した単位が学びではない。科目が専攻ではない。財務が経営ではない。私たちの未来には、新たな大学教育のパラダイムが必要とされている。

【樋口耕太郎】