本当に毎日暑いですね~。なんだかまた台風も近づいてきているようですよ~。
あなたはお元気にしておられますか?

10日の日曜日の夜のことなんですが、
自宅前のアラハビーチから北谷公園、ビーチタワーといつものように
ランニングをしていると、ドドーン!とすごい花火の連続。
そうなんです。北谷シーポートカーニバルの花火大会。
海上いっぱいに扇状に広がる花火はけっこう圧巻。
しばしビーチに座って見とれていると、周りの歓声やら拍手やらに混じって
こんな発言が。
「あぁ~、夏の終わりって感じやっさ~。」…
ぐふふふ。夏はこれからですよ~。

さて、
3・11の大震災以降、直接震災に遭われた方でなくとも、
気が滅入ってしまって…という方がとても多いですね。
震災直後はショック状態だったのが、4ヶ月経った今頃になってくると、
自分にどういった援助ができるのか、復興はどうなるのか、
私達への生活への影響はどうなのか、放射能はどういうことになっているのかなど
現実問題としていろいろな事が気になったりして、不安で暗い気分に
陥ってしまうのも無理はありません。
だからなのかはわかりませんが、ここのところいただくメールや皆さんとのお話は、
「すごく悩んでます…」「激しく落ち込んでるんです…」
「無力感でいっぱいなんです…」「自分の道が見つかりません…」といった話題が
よく出てきます。そして聞かれるんです。
「典子さんは、激しく落ち込んだ時、どうしますか?」って。

確かに、
落ち込んだ時、どう落ち込むか?
そこからどう抜け出すか?
あるいは抜け出せないままもがくのかどうか?
それ次第で人生、ずいぶんと変わってきます。

一見、能天気な楽天家に見える私も昔は、じつは「激しく落ち込むタチ」でした。
仕事の小さな失敗でも、その日一日心に重しがついているように、
暗幕がかかっているように、落ち込むだけ落ち込む。
人との関わりでも、ほんのわずかな言葉の行き違いを気に病んだりして、
しっかり落ち込む。
たった一度の不倫を経験した時なんて、ひたすら悩みに悩み、
他のことで気を紛らわすなどということさえできませんでした。
でもそんな狭く小さな自分に気づき、こんなことじゃ人生前に進まないなぁって
強く思った時期でもありました。

そして、私が立ち直る術として行き着いたのは、悩むのじゃなく「考える」こと
だったんです。
多くの人は、それまでの私も含め、悩んでいるだけで考えない。
考えないと、問題はいつまでたっても体から出て行ってはくれません。
つまり、何事も悩んでいるだけだと、問題はずっと胸のあたりに停滞していて、
何も状況は変わらず、延々同じことを悩み続けることになります。
でも、考えるということは、問題を胸から上に引きあげて頭にもっていく
ということで、立ち直るにはこれほどいいことはないんです。
あなたもぜひ試しにやってみてください。
胸から頭へ、問題を引っ張りあげる。
するとおわかりになるはずです。
「悩むのではなく考える」ってどういうことなのかが。
そして、問題はちゃんと頭の中で考えると、頭のてっぺんから外へ抜けていく
のだということにハッキリお気づきになるはずです。
だから私はみなさんにいつもこうお答えしているんです。
「私は落ち込んだりしそうになった時、
心で悩まないんです。頭まで引きあげて、逃げずにじっくり「考える」。
そうすると意外に楽になっちゃいますよ。」って。

じゃあ何を考えるのか?
もちろん「なぜこうなったのか?」。
でも結論はいつも同じ。「すべてのことに意味があるから」ということでした。
この試練は神さまが何かを教えようとしてわざわざもたらしたものなのだと。
また、やがて、本当に、なぜそうなったのかの理由が明らかになるから
不思議なものです。
「あぁ、あの時はこういうことを学ぶ必要があったのだな」
「自分にはこういう至らなさがあったのだな」
というように。
何があっても「必ず意味があること」なのです。そしてつまりは、
「毎日毎日の今ここをしっかりやっていれば、やがてすべて上手く行く」
っていう当たり前の結論に至るわけです。

また、悩みとまではいかなくとも「憂うつ」な気持ちも同じようなことが
言えます。
小さなことでもやらなければいけないことが2つ3つ4つ…と重なってくると
人ってどんどん憂うつになってきてしまうものですよね。
「あれもこれもやらなければ…」「でもこれも今日までにしなければ…」
「あ~、憂うつ!」という具合に。
これも私のモットーなのですが、
心の片隅に憂うつが3つ4つところがっているのなら、
たとえ明日まで延ばすことができる用事でも、今真っ先に目の前に憂うつを
グイっと引っ張ってきて、サッサと片付けてしまうのです。
やってみれば意外と早く終わってしまったり、楽しかったりするものですし、
何よりも憂うつが明日まで持ち越されることがなくなり、時間も有効に使えて
スッキリするものですよ~。とってもお勧めです。

これらの考え方はずっと私の生き方の軸になってくれています。

さあ、週末は海の日の連休ですね。
人間も自然界の一部。ぜひ沖縄の美しい海や自然に抱かれて、その力強さを
ぜひ感じましょう。そうすれば、自分の内に眠る、忘れ去られた強さのことを、
きっと思い出す時がくるはずです。そうすればきっと悩みや憂うつなんて
吹っ飛んじゃうはずですよ~。

目を閉じて聴いてみてください――寄せてはかえす波の音。
いのちのリズムを聴いてください。

寄せてはかえし、かえしてはまた打ち寄せる波の音。
そのリズムにすべてを委ねたら
人生にも満ちる時と引く時があるのだと
優しい波は教えてくれるでしょう。

例えば失敗してもいい。
落ちこむ日があってもいい。

ある日幸福が
あなたから離れていくかに見えたとしても
再び波は満ちてくる。
何度も何度も打ち寄せる。

【2011.7.14 末金典子】

いきなり沖縄の夏らしいカンカン照りの暑い毎日がやってきましたね~。
お元気にしていらっしゃいますか?

さて、週末は父の日ですね。
母の日と比べるとなんだか盛り上がりに欠けやすい父の日ですが、
父と母、両方あってこその私達。父の日はしっかり父を想う日に
したいものですね。

私の父は今年78歳で大阪で母や弟と共に元気で暮らしているのですが、
昔からおおらかと言いますか、なんとも、のんきな人なんです。
例えば、私が小学生の頃のこと。
朝学校に持っていくものがないと焦ってドタバタ探し回っている私に、
「物をなくしても落ち込んだり心配しなくていいのになぁ。
必ず地球の上にあるんだから。」とこんな具合なんです。
また、私が会社のことで悩んでいた時によく父が話してくれたたことは、
「今の世の中、恵まれすぎていてみんな贅沢になっているなぁ。
物が“ある”ことが当たり前なんだよねぇ。水道の水がそのまま飲めて、
ケーキが食べたかったらすぐに食べられる。
これって世界の中で見たら、かなりの少数派。
社会では、生きたくても生きられない人もいる。
今、生きていることだけですごいことなんだよ。
つまり生きてるだけでまるもうけ。
だから、お父さんはゴルフでOBをしても、スリーパットを打っても、
ヘコまない。なぜなら、ゴルフができること自体が幸せだから。
逆に、ゴルフをプレーできなければ、OBもスリーパットもできない。
そう考えれば、仕事のグチを言う必要もなくなるんじゃないか?
だって、会社に行くことができて、仕事があるだけでありがたいこと
なんだから。とにかく感謝が大事。“今、この瞬間に生きていることが幸せ”
ということを常に念頭に置いていれば、クヨクヨ悩むこともなくなるはずだよ」
と。
それでもまだ落ち込んだり悩んだりする私に、
「“ひとり偉人ごっこ”をしなさい。」
と言うのです。それは、自分が尊敬する歴史上の人物になりきること。
父の場合は、明治に生きた「日本の体育の父」とも言われる嘉納治五郎さん。
男気があって、心が広くていちいち小さいことにこだわらない。
だから、嫌なことがあった時は「嘉納さんだったら、この時どうする?」と
考えて、自分の小ささを反省するらしいのです。
だいたい偉人っていうのは、気持ちのスケールがものすごく大きくて、
偉業を成し遂げないといけないから、小さな事にいちいちかまっていられない。
だから彼らになりきると、大抵のことは「まぁ、いいか」って
思えるだろう、と。
私の場合は、マザー・テレサやナイチンゲールやヘレン・ケラーや
ジャンヌ・ダルクや青山光子で試してみたものです。
とにかく、一度きりの人生。バカでも、失敗してもいいから、
楽しく生きたもん勝ちだよ、と父はいつも言うわけです。

なるほどね。と思いつつも「生真面目にひたすら頑張る努力家」を
母に持つ私といたしましては、なんだかそんな父をいつもユル~く
感じていたのです。

ところがこの頃では、実は「のんき」でいられるっていうのは
すごい才能じゃないのかしらと秘かに認め始めているのです。
つまり、もっと自分に向いた生活があるんじゃないのかな?とか、
もっと自分らしい人生を送るべきなんじゃないのかな?と、
人は根拠のないことで悩んだりしますよね。
また、そもそもなかったものなのにお金が入ったり、恋人や子どもが
できたりするとそれが長もちし、うまくいくことばかり気になって
不安になったりもします。
だれもが一度限りの人生で、だれもが一度も経験したことのない未来を
送ることになっているので、それはしかたありません。
不安になって当然、暗闇を手探りで歩いているようなものだもの。
未来はだれにもわかりません。わかったところでどうすることも
できません。それでも知りたくなるのは今ある不安から抜け出し、
少しでも安心したいからです。
そもそも安心とは、不安メインの人生の単なる小休止にすぎません。
それでも人生は素晴らしいと言い切ることができる人は、
大概「のんき」なのです。
父のように、「なるようにしかならないんじゃないの」と、
基本どこか大きく人生をあきらめてらっしゃる。
(仏教では「あきらめる」は「明らかに観る」ということなので
なんだか辻褄も合うような…)
努力をしないというのではない。したけりゃ努力もしていいんじゃないと、
あくまで自分のこともひとごとのような。
「たまにいいことがあれば儲けもんじゃない」って感じで、
私も「のんき」にトライしてみようかな。

この感覚、実はうちなんちゅ~にはすんなり受け入れることが
できそうですよね~。
私が尊敬する芸術家の岡本太郎氏が初めて沖縄を訪れたときに感じた
この感覚の衝撃を素晴らしい表現で書いておられるので
引用させていただきます。

はじめて沖縄を訪れたときのことだ。沖縄の友人と約束して
待っていたが、二時間たっても来ない。こちらはセッカチだから、
ジリジリし、カンカンになっているのだが、やがて彼はにこにこ
笑いながら、人のよさそうな顔で、ゆったりとあらわれた。
そのとたんに、私はとても愉快になって思わず笑いだしてしまった。
時間など超越して、まったく悪気のない顔で再会を
喜んでいる彼の方が、人間的に本当ではないのかと
思ってしまったのだ。

近代的時間のシステムにまだまき込まれていない、悠々とした生活が
生きている世界。
その人間的時間を岡本太郎氏は嬉しく理解されたのでしょう。
彼は「沖縄文化論」を書かれたほど深く沖縄を愛し、鋭く観察した人でした。

私は、沖縄が「本土なみ」になったのではなく、
本土がむしろ「沖縄なみ」になるべきだ、と言いたい。
沖縄の自然と人間、この本土とは異質な、純粋な世界との
ぶつかりあいを、一つのショックとしてつかみ取る。
それは日本人として、人間として、何が本当の生きがいであるかを
つきつけてくる根源的な問いでもあるのだ。
とざされた日本からひらかれた日本へ。
だから沖縄の人に強烈に言いたい。沖縄が本土に復帰したなんて、
考えるな。本土が沖縄に復帰したのだ、と思うべきである。
そのような人間的プライド、文化的自負をもってほしい。
この時点で沖縄に対して感じる、もの足りなさがある。
とかく本土に何かやってほしい、どうしてくれるのか、と要求し
期待する方にばかり力を置いている人たちが多い。
何をやってくれますか、の前に、自分たちはこう生きる、
こうなるという、みずからの決定、選択が、今こそ緊急課題だ。
それに対して本土はどうなんだ、と問題をぶつけるべきなのである。
私は島ナショナリズムを強調するのではない。
島は小さくてもここは日本、いや世界の中心だという
人間的プライドを持って、豊かに生き抜いてほしいのだ。
沖縄の心の永遠のふくらみとともに、あの美しい透明な風土も
誇らかにひらかれるだろう。
岡本太郎

「岡本太郎生誕100年記念展」がまさに今沖縄県立博物・美術館で開催中です。
父の日に父子で美術鑑賞なんていかがでしょう。
26日までですのでぜひお見逃しなく!

【2011.6.16 末金典子】

お元気ですか?
今年はゴールデンウィークに早々に梅雨に入ってしまい、
じとじととした休日となりましたが、かえっておうちでのんびりできたのでは
ないでしょうか。

さて、日曜日は母の日でしたね。

あなたもそうだと思うのですが、お母さんから学んだことや受け継いだことが
多々あることと思います。
昨年のお便りでは母から学んだ「謝ること」「働くこと」などを書かせて
いただいたのですが、今年は「出し惜しみしないこと」について書こうと思います。

私の母は子供である私が言うのもなんなのですが、いつもすること言うことが
仏さま・観音さまのような人なんです。
例えば、私が子供の頃、母と一緒に一緒にゆうげのお買い物に行く途中、
お乞食さんに出会うということがありました。
すると母は自分のお財布の中の今日使えるお金を
惜しげもなく全部あげてしまうのです。
それも迷うことなく間髪をいれずにさっとあげてしまうのです。
私達の夕食のお買い物にあてるお金を全て、です。
私が「なんでぇ? 今日のお夕食はどうすんの~?」と聞くと、
母は決まって「お家にあるもんですませよね。」と言うのです。
「コロッケ作ってくれるって言うたのに~。」と恨めしく言う私に、
「こういうことを“お布施”って言うねんよ。
考えてごらん。もしもあのお乞食さんが神さまやったらどうすんのん?
それに、お布施はしてあげるんやないよ。させていただくんやで。
させていただくことによって私達の心の中に清々しい気持ちが湧いてきて
その気持ちを逆に恵んでいただいてるんやよ。
そういう世界に私達を導いてくれはるために神さまがお乞食さんの姿に
なってはるのかもしれへんやろ?
あげてるんやなくて、もらっていただいてるんやよ。」 と。

その後、母から繰り返し教わったことは、
「もらおうもらいたいと思うあなたは“無い人”。
でも、求めず与えていくときのあなたは“豊かな人”。」だよと。

そんなことを思い出していた時、どこかで目にする機会があって読んだ
新幹線の座席に置いてある無料雑誌「トランヴェール」の巻頭エッセイ・
脚本家の内館牧子さんの一文を連想しましたので引用させていただきます。

脚本家の橋田壽賀子先生が「おしん」を書かれている最中、
私は先生の熱海の仕事場に通っていた。膨大な資料を整理する程度の
手伝いだが、卵以下の私にとって、一流脚本家のそばにいられるのは、
何ものにも替えがたい幸せだった。
それから約十年後、私はNHK朝の連続テレビ小説「ひらり」を書くことに
なった。先生は大喜びされ、一席設けてくださった。私は暮色の熱海が
一望できる一室で、たったひとつだけアドバイスを頂いた。
「出し惜しみしちゃダメよ」
これは強烈だった。さらにおっしゃった。
「半年間も続くドラマだから、ついついこの話は後に取っておこうとか、
この展開はもう少ししてから使おうとか考えがちなの。でも、後のことは
考えないで、どんどん投入するの。出し惜しみしない姿勢で向かえば、
後で窮してもまた開けるものよ。」
実はそのとき、私はすでに半年分の大まかなストーリーをつくり終えていた。
出し惜しみと水増しのストーリーだった。熱海から帰った後、私はそれを
全部捨てた。向き合う姿勢が間違っていたと思った。
「出し惜しみしない」という姿勢は、人間の生き方全てに通ずる気がする。

また、私が社会人になりたての頃、スーパーウーマンのように仕事ができる
女性の先輩と一緒に長く仕事をしていたときに彼女の生きる姿勢から
学び取ったこともそうなんです。

彼女は当時の私から見て、何をやらせても何を語らせても広すぎて深すぎる
そんな人でした。彼女の前だと自分が卑小な存在に思えてきたものです。
登るべき山の高さに腰が抜けてしまうという感じ。いや、山と言うより、
もう山脈、といった感じ。あらゆる分野についての彼女の引き出しの多さに
驚愕するどころか、その引き出しすべてにわたってかなり極めているのだから
もう脱帽ものでした。

その彼女の根っこにある姿勢も「出し惜しみしない」だったのです。

例えばなにかを面白いと思ったら文字通り寝食を忘れて没頭する。
普通の人なら「そろそろ寝ないと明日にひびく」とか思って切り上げようと
するところを彼女は切り上げない。ヘタすると何日でも寝ずに没頭する。
そうやっているうちに引き出しが驚異的に増えていき、結果的に様々な分野を
極めているわけです。

こうして私自身の座右の銘は「出し惜しみしない」になっていきました。

私の母も、内館牧子さんが書いた橋田壽賀子さんの言葉も、先輩も同じです。
これは宗教の話や、脚本術の話や、キャリアウーマン成功術の話ではありません。
生き方を語っているのだと思います。

あなたはどうでしょう。「まぁこのへんでいいや」「あまりがんばる姿を
見せるのも格好悪いし」「身体に悪いからいい加減にしておこう」…。
こんな風に少しずつ自分を出し惜しんでないでしょうか?

でも、出し惜しみはあなたの明日を何も変えません。今日と違う明日を
生み出しはしません。あなたなりの、想像できる明日しかやって来ません。

出し惜しみせず生きてみましょうよ。長続きしないかもしれません。
でも挫折してもまたすぐ始めましょう。
思ってもみない明日が、きっと、やってくるはずだから。

よ~し、まず今日は、明日のことなど考えずに飲み明かすぞ~!
ナーンテ、ダメかしら?

【2011.5.11 末金典子】