いきなり沖縄の夏らしいカンカン照りの暑い毎日がやってきましたね~。
お元気にしていらっしゃいますか?

さて、週末は父の日ですね。
母の日と比べるとなんだか盛り上がりに欠けやすい父の日ですが、
父と母、両方あってこその私達。父の日はしっかり父を想う日に
したいものですね。

私の父は今年78歳で大阪で母や弟と共に元気で暮らしているのですが、
昔からおおらかと言いますか、なんとも、のんきな人なんです。
例えば、私が小学生の頃のこと。
朝学校に持っていくものがないと焦ってドタバタ探し回っている私に、
「物をなくしても落ち込んだり心配しなくていいのになぁ。
必ず地球の上にあるんだから。」とこんな具合なんです。
また、私が会社のことで悩んでいた時によく父が話してくれたたことは、
「今の世の中、恵まれすぎていてみんな贅沢になっているなぁ。
物が“ある”ことが当たり前なんだよねぇ。水道の水がそのまま飲めて、
ケーキが食べたかったらすぐに食べられる。
これって世界の中で見たら、かなりの少数派。
社会では、生きたくても生きられない人もいる。
今、生きていることだけですごいことなんだよ。
つまり生きてるだけでまるもうけ。
だから、お父さんはゴルフでOBをしても、スリーパットを打っても、
ヘコまない。なぜなら、ゴルフができること自体が幸せだから。
逆に、ゴルフをプレーできなければ、OBもスリーパットもできない。
そう考えれば、仕事のグチを言う必要もなくなるんじゃないか?
だって、会社に行くことができて、仕事があるだけでありがたいこと
なんだから。とにかく感謝が大事。“今、この瞬間に生きていることが幸せ”
ということを常に念頭に置いていれば、クヨクヨ悩むこともなくなるはずだよ」
と。
それでもまだ落ち込んだり悩んだりする私に、
「“ひとり偉人ごっこ”をしなさい。」
と言うのです。それは、自分が尊敬する歴史上の人物になりきること。
父の場合は、明治に生きた「日本の体育の父」とも言われる嘉納治五郎さん。
男気があって、心が広くていちいち小さいことにこだわらない。
だから、嫌なことがあった時は「嘉納さんだったら、この時どうする?」と
考えて、自分の小ささを反省するらしいのです。
だいたい偉人っていうのは、気持ちのスケールがものすごく大きくて、
偉業を成し遂げないといけないから、小さな事にいちいちかまっていられない。
だから彼らになりきると、大抵のことは「まぁ、いいか」って
思えるだろう、と。
私の場合は、マザー・テレサやナイチンゲールやヘレン・ケラーや
ジャンヌ・ダルクや青山光子で試してみたものです。
とにかく、一度きりの人生。バカでも、失敗してもいいから、
楽しく生きたもん勝ちだよ、と父はいつも言うわけです。

なるほどね。と思いつつも「生真面目にひたすら頑張る努力家」を
母に持つ私といたしましては、なんだかそんな父をいつもユル~く
感じていたのです。

ところがこの頃では、実は「のんき」でいられるっていうのは
すごい才能じゃないのかしらと秘かに認め始めているのです。
つまり、もっと自分に向いた生活があるんじゃないのかな?とか、
もっと自分らしい人生を送るべきなんじゃないのかな?と、
人は根拠のないことで悩んだりしますよね。
また、そもそもなかったものなのにお金が入ったり、恋人や子どもが
できたりするとそれが長もちし、うまくいくことばかり気になって
不安になったりもします。
だれもが一度限りの人生で、だれもが一度も経験したことのない未来を
送ることになっているので、それはしかたありません。
不安になって当然、暗闇を手探りで歩いているようなものだもの。
未来はだれにもわかりません。わかったところでどうすることも
できません。それでも知りたくなるのは今ある不安から抜け出し、
少しでも安心したいからです。
そもそも安心とは、不安メインの人生の単なる小休止にすぎません。
それでも人生は素晴らしいと言い切ることができる人は、
大概「のんき」なのです。
父のように、「なるようにしかならないんじゃないの」と、
基本どこか大きく人生をあきらめてらっしゃる。
(仏教では「あきらめる」は「明らかに観る」ということなので
なんだか辻褄も合うような…)
努力をしないというのではない。したけりゃ努力もしていいんじゃないと、
あくまで自分のこともひとごとのような。
「たまにいいことがあれば儲けもんじゃない」って感じで、
私も「のんき」にトライしてみようかな。

この感覚、実はうちなんちゅ~にはすんなり受け入れることが
できそうですよね~。
私が尊敬する芸術家の岡本太郎氏が初めて沖縄を訪れたときに感じた
この感覚の衝撃を素晴らしい表現で書いておられるので
引用させていただきます。

はじめて沖縄を訪れたときのことだ。沖縄の友人と約束して
待っていたが、二時間たっても来ない。こちらはセッカチだから、
ジリジリし、カンカンになっているのだが、やがて彼はにこにこ
笑いながら、人のよさそうな顔で、ゆったりとあらわれた。
そのとたんに、私はとても愉快になって思わず笑いだしてしまった。
時間など超越して、まったく悪気のない顔で再会を
喜んでいる彼の方が、人間的に本当ではないのかと
思ってしまったのだ。

近代的時間のシステムにまだまき込まれていない、悠々とした生活が
生きている世界。
その人間的時間を岡本太郎氏は嬉しく理解されたのでしょう。
彼は「沖縄文化論」を書かれたほど深く沖縄を愛し、鋭く観察した人でした。

私は、沖縄が「本土なみ」になったのではなく、
本土がむしろ「沖縄なみ」になるべきだ、と言いたい。
沖縄の自然と人間、この本土とは異質な、純粋な世界との
ぶつかりあいを、一つのショックとしてつかみ取る。
それは日本人として、人間として、何が本当の生きがいであるかを
つきつけてくる根源的な問いでもあるのだ。
とざされた日本からひらかれた日本へ。
だから沖縄の人に強烈に言いたい。沖縄が本土に復帰したなんて、
考えるな。本土が沖縄に復帰したのだ、と思うべきである。
そのような人間的プライド、文化的自負をもってほしい。
この時点で沖縄に対して感じる、もの足りなさがある。
とかく本土に何かやってほしい、どうしてくれるのか、と要求し
期待する方にばかり力を置いている人たちが多い。
何をやってくれますか、の前に、自分たちはこう生きる、
こうなるという、みずからの決定、選択が、今こそ緊急課題だ。
それに対して本土はどうなんだ、と問題をぶつけるべきなのである。
私は島ナショナリズムを強調するのではない。
島は小さくてもここは日本、いや世界の中心だという
人間的プライドを持って、豊かに生き抜いてほしいのだ。
沖縄の心の永遠のふくらみとともに、あの美しい透明な風土も
誇らかにひらかれるだろう。
岡本太郎

「岡本太郎生誕100年記念展」がまさに今沖縄県立博物・美術館で開催中です。
父の日に父子で美術鑑賞なんていかがでしょう。
26日までですのでぜひお見逃しなく!

【2011.6.16 末金典子】