「問題は、その問題を生み出した考え方と同じ考え方をしているうちは解けない」
アルバート・アインシュタイン

本稿は、日本の農業に関して、「I. 問題の本質」を特定し、その問題を「II. 治癒」するためのプランを明らかにします。現代の農業問題を混乱させている最大の原因は、その根源的な原因が特定されていないこと、そして、その根源的な問題を治癒するための具体的かつ実行可能な計画が存在しないこと、であり、この二点を明らかにすることこそが問題解決であるためです。

I. 問題の本質
根源的な原因を理解せずに行う「問題解決」は全て対症療法に過ぎず、長期的には病状を治癒するどころか却って悪化させることが珍しくありません。逆に、根源的な原因とは、「これが治癒されれば全体が健全さを取り戻す」、という波及効果の観点から特定されるべきであり、農業問題の本質は以下の二点に集約すると思います。

①  持続性がないこと
②  事業性がないこと

第一は、現在の農業生産方式は持続性がないこと*(1)、すなわち、過去60年間、農業が資本主義社会に組み込まれることによって実質的に工業化し、化学肥料、農薬、(遺伝子組み換え作物)、食糧の大量輸出入、家畜糞尿、などによって、土壌汚染、砂漠化、水質汚染を含む生態系のバランスが崩れ、農業が最大の環境問題のひとつとなりつつあること、そして、長期間に亘って食品の質が著しく低下し、栄養素を失った農薬漬けの作物を取り続けることによって、人間の生理的限界が近づいているように思えることです。平たく言えば、「農業がわれわれの環境と肉体を蝕んでいる」という問題です。第二は、農業が事業性を持たないこと、すなわち、一般的な農業は独立した事業として採算が取れず、国際競争力を失い、補助金や政治的な保護なしでは存続しえず、人財を引きつける魅力を失っていることです。これも平たく言えば、「農業が儲からない」という問題です。

しがって、農業の問題は、持続的な方式で生産される、質の高い農作物が、十分な収益を生み出すことで、その大半が解決します。持続的で環境に優しく、高品質で体に優れた農産物であっても、事業性がなければ社会に広まることはありませんし、事業性を優先した第一次産業の行き着く先は、環境破壊と疾病の蔓延であることは疑いがありません。重要な点は、農業問題の本質が第一次産業内部だけで生じたものではないため、従来の発想によって解決することが不可能だということです。具体的かつ実効性ある手順は、①上記の条件(バランス)を満たす社会のプロトタイプを実現し、②その収益性を梃子に、次第に社会全体へ広める、というプロセス以外にないと思われます。

「持続的な生産方式」、「高品質の農産物」、「事業性のある農業」、がバランスする社会は、環境問題、耕作放棄地の問題、後継者不足の問題、食糧自給率の問題を解消し、安全で栄養価の高い農産物を復活させ、そして、中長期的にはわれわれが健康になることによって、恐らく、花粉症やアレルギー、化学物質過敏症、生活習慣病の改善、ひいては社会全体の疾病率と医療費の削減、高齢者のライフスタイルと幸福度の向上に至るまで、広範囲な影響をもたらすでしょう。

II. 治癒
有機無農薬栽培*(2) は、ほんの数年前まで非現実的な理想論という見方が農業界の常識でしたが、現在では有機・特別栽培による野菜がプレミアムで取引され、インターネットを通じた直接販売はもちろん、スーパーなどの小売店舗でも当たり前のように販売されるようになりました。この急速な変化をもたらした理由のひとつは、有機無農薬栽培の事業採算が取れるようになったためであり、安全で質の良い農産物であれば、多少割高であっても消費者が積極的に選好するようになったこと、すなわち、「質の高い商品の単価が上昇したこと」によると思います。この現象は、「持続的な農業生産」、「高品質な農産物」、「農業の事業性」が農業問題の鍵であるという前項の仮説を裏付けています。逆に考えると、この業界においては、採算の取れない生産方式が「非常識」とされていた(る)に過ぎず、事業性を生み出すことで、農業の常識(パラダイム)が変化することはむしろ当然といえます。

しかしながら、有機無農薬栽培と云えども、持続的な農業生産とは言えない可能性があり(*(2)参照下さい)、本当の意味で「持続的な農業生産」、「高品質な農産物」を実現するためには、自然農*(3)による、という農業生産第二のパラダイムシフトが待たれるかも知れません。語弊を怖れずに大掴みに表現すると、(i)化学肥料と農薬を使う慣行栽培、(ii)有機無農薬栽培、(iii)自然栽培、の順に、生態系に近い自然な農業生産方式であり、持続性が高く、高品質な農産物を収穫する栽培方法と言えます。反面、(単位あたりの収量にはそれ程の差はないものの)自然な農業ほど労働集約的で、一人あたりの耕作可能面積が急速に減少するため、商業的に成立するためのハードルが高くなります。実際に、商業的に成り立っている自然農家は、現状では日本に数えるほどしか存在していません。

以上の裏返しは、自然栽培で高い事業性を生み出すことができれば、農業問題を完全に解決するためのプロトタイプが誕生することを意味します。そして、自然栽培が高収益事業として成り立つためには、次の四点を満たすことで足ります。第一に、農産物を可能な限り高い単価で売却できる「出口」が存在すること。イメージとしては慣行栽培の2~3倍の実質単価で取引される感覚です。重要な点は、単に割り増し価格で販売するのではなく、質の高い顧客層にアクセスし、付加価値の高い事業性を生み出す経営力によって、これを実現する必要があります。なお、実質単価を決定する要素は、売却価格だけではなく、流通や小売によるロス・廃棄の水準も重要です。例えば、3割ロスを減らすことができれば、単価を3割増にしたと同様の経済効果が生じるため、多少不揃いな生産物であっても柔軟に取引ができるというようなことが有効です。第二に、消費・販売に合わせて農業生産を管理するのではなく、自然な農業生産に合わせて消費・販売がなされること。すなわち、第三次産業に食材を提供する、という従来の関係から、自然な形の第一次産業を第三次産業が支える、という産業バランスへの変容を意味します。第三に、労働集約的な自然栽培に対して、特に農繁期には(例えば、隣接するリゾートホテルなどの第三次産業から)援農のための労働力が提供されること。そして、この点が恐らく最も重要なポイントとなりますが、その前提として、日常的な援農を可能にするために、第三次産業の経営・人事・労働の根源的なあり方そのものが、人間関係を中心とした柔軟なものへと見直されることです。第四に、このような労働力のやり取りを可能にするためには、高付加価値、高品質、高単価事業が実現し、第三次産業における労働の概念が大きく変わり、労働生産性が飛躍的に向上した状態で事業全体の採算を取るという、新たな(「非常識」な?)経営バランスを必要とします*(4)。・・・すなわち、農業問題の解決は、以上のバランスを理解した、第三次産業の経営者にかかっているとも言えるのです。

【2009.7.7 樋口耕太郎】

*(1) この分野について知れば知るほど、現代農業の現状に対して根源的な疑問を抱かざるを得ません。この議論は、20世紀の前半で既に解決済みと考えられていた農業生産の問題が、社会の大問題として再浮上するという大事件であり、石油化学と動力に依拠して世界の人口を支えている、工業的な大規模農業のあり方が根本的に見直される可能性を示唆します。現代の農業生産を持続的な産業に変化させるためには、農業分野だけの変革では到底不可能です。資本主義が長い年月をかけて作り上げてきた現在の産業社会は、工業的な農業生産を前提として構築されているため、農業問題に向き合う一連のプロセスは、社会全体の産業構造、企業と経営のあり方、労働のパターン、社会インフラ、都市構造など、人々の生活と社会の全てにおいて革命的な変化をもたらします。特に、自給率が先進国中最低水準、農薬消費量が世界的に高く、農産物の(すなわち、窒素と水の)最大輸入国である日本は、世界で一番始めに、かつ最も大きな衝撃を伴って向き合う必要が生じます。

先進国の食糧が農薬・化学肥料など、実質的に石油によって生産されるようになってから約60年。現代の子供たちは母子間の生体濃縮の第三世代にあたります。最近急増している、生まれながらのアトピー、花粉アレルギー、化学物質過敏症、若年化する認知証、増加する鬱などの原因は「不明」とされており、近い将来も原因が特定されることはないと思いますが、我々が近年急速に体を害していることの重要な一因が食事 ・・・すなわち、農産物の生産・流通・保存に際して利用される大量の農薬、化学物質で汚染されている有機肥料、土壌と作物の自然の力を弱める化学肥料に加え、食品の加工生産過程、流通過程で大量に混入される食品添加物の数・・・、にあると疑い始めている人は少なくないと思います。今後、生体濃縮の第四世代、第五世代と進むにつれて、食と健康の問題は深刻さを増すことは確実であるように思われます。近い将来、子供たちの、例えば10%が化学物質過敏症や重度アレルギー体質生まれてくるような社会現象などをきっかけとして、世界中の慣行農業(化学肥料や農薬を使う、現在一般的な農業)が大きく見直される可能性はないでしょうか。それともミツバチの大量失踪と大量死現象(蜂群崩壊症候群: Colony Collapse Disorder*)など、もっと早い「引き金」が我々の資本主義社会に向けて引かれるのでしょうか。もし、現実になった場合、我々は代替する社会を構築することができるのでしょうか。

*Colony Collapse Disorder: ローワン・ジェイコブセン著『ハチはなぜ大量死したのか』中里京子訳、2009年1月、文藝春秋 (原題: “Fruitless Fall: The Collapse of the Bee and the Coming Agriculture Crisis”)などを参照しています。地球上に存在する約25万種の植物のうち、75%は花粉媒介者の手を借りて繁殖を行っていますが、巣箱一箱分のミツバチが、一日に2,500万個の花を受粉させることができるような、セイヨウミツバチの働きはその中でも突出しています。この受粉効率の高さ故、アメリカの大半のミツバチは、トラックの荷台に乗せられて一年中全国を駆け巡り、商業農作物の花粉交配を行っています。現代農業は、このような商業的季節労働ミツバチに大きく依存しており、一つの蜂群が、カリフォルニアのアーモンド(二月)、ワシントンのりんご園(三月)、サウスダコタのひまわりと菜種(五月)、ペンシルバニアのかぼちゃ(七月)などを回る強行軍を繰り返しています。その他、ブルーベリー、さくらんぼ、メロン、コーヒー、牛の飼料となるクローバーとアルファルファ、きゅうり、ズッキーニ、スクワッシュなどのウリ科植物、カカオ、マンゴーを始めとするトロピカルフルーツ、なし、プラム、桃、かんきつ類、キウィ、マカダミアナッツ、アボガド、キャロットシード、オニオンシード、ブロッコリー、綿花など、私たちが口にする食物や商業的に利用する植物の、実に80%が多かれ少なかれミツバチなどの花粉媒介者の手助けを必要としています。

ここ数年世界の大問題になりつつある蜂群崩壊症候群(「CCD」)は、世界の農業生産の根源的な矛盾が暴力的に顕在化することの引き金かも知れません。2006年冬、全米のミツバチのコロニー240万群のうち80万群が崩壊し、30億匹が死んだと推定・報告されています。2007年カナダではオンタリオ州のミツバチの35%、欧州ではフランス、スペイン、ポルトガル、イタリア、ギリシャ、ドイツ、ポーランド、スイス、スウェーデン、ウクライナ、ロシアのミツバチの40%近くが死滅、南米は壊滅状態、タイと中国も大きな被害に見舞われています(同期間に世界の食糧価格は37%上昇しています)。

死んだ蜂を調べると、どの蜂もただ一つの病気ではなく、山のような病気を抱えていました。蜂の免疫系が崩壊し、あたかもエイズのようなものに侵されていたことを示しています。CCDの原因と病原体の正体はなお明らかではありませんが、当事者はその「原因は一つではない」という重大な事実に気が付きはじめています。すなわち、CCDは、大量の農薬散布、毒物遺伝子の組み込まれた食物、商業的な受粉作業、環境汚染など、商業化、工業化、化学化された現代農業の構造そのものが生み出した社会の「生活習慣病」であり、対症療法による治癒は不可能であり、農業のあり方そのものを再考し、社会と生態系の根源的なバランスを取り戻すことでしか解決できないように思われます。

なお、約45年前、アメリカの生物学者レイチェル・カーソン(1907~1964)は、世界的に有名となった1962年の著書『沈黙の春』で、ミツバチにとどまらず、野生のあらゆる受粉昆虫が消滅し、「花粉交配が行われず、果実の実らない秋」が来る可能性を警告していました。

農業生産の持続性に関わる第一の問題は、現代農業が大量の農薬に依存している点です。日本において、1950年には100億円足らずであった農薬生産額は、1990年代には4,000億円を超え、耕作面積あたりの消費量(1K㎡あたり1.27t)は韓国についで世界第2位、イタリアの2倍弱、フランスの3倍強の水準に達しています。例えば、北海道で一般的なじゃがいもの栽培方法では、①種イモの消毒、②雑草を枯らすための除草剤、③殺菌剤(10数回)、④殺虫剤(10数回)、⑤収穫期には機械で収穫しやすくするために枯凋剤がそれぞれ利用されていますし、宮崎県の農作物栽培「慣行基準」に基づく農薬散布回数は、多い作物から順に、ナス74回、トマト62回、ピーマン62回、いちご60回、きゅうり50回(以上、促成栽培)、という水準です。促成栽培とは、ビニールハウスや温室などを利用して温度や日照量を操作することで、出荷時期を早める栽培法です。これに対して、露地栽培・雨除け栽培では、ナス36回、トマト46回、ピーマン32回、きゅうり42回と、半減までは行きませんが減少します。旬をはずした作物が高いだけでなく、栄養価が低いだけでなく、農薬の面からもマイナス点が多いという現状が分かります(河名秀郎著『自然の野菜は腐らない』、2009年2月、朝日出版社、などを参照しています)。

反面、一般的な慣行農業に関わる殆どの人は、農薬なしで作物を育てることが事業的に成り立つとは考えていません。有機農法はまだしも、不施肥、不耕起、不除草を基本とする自然農などは、異端であるだけでなく、危険思想と捉える向きがこの業界の常識といえるでしょう。実際、近年根強い広がりを見せている、自然栽培の実践者の大半は自給農家に過ぎず、つまり産業として殆ど成立しておらず、社会の食糧生産を担うなどという議論は、完全に絵空事として片付けられているのも無理はありません。

第一の問題と不可分な第二の問題は、化学肥料の大量消費による土壌の衰退です。日本は農薬に加えて、肥料の消費量でも世界のトップクラスですが、農薬と肥料の使用量に強い相関があるのは偶然ではありません。現代農業の基本的な考え方において、畑の作物を収穫するということは、その分土壌から栄養分が減るということであり、収穫を続ければ次第に土地が痩せ、いずれは作物が育たなくなります。それを避けるために、肥料という形で畑に栄養素を人為的に戻す必要があります。肥料を投与して作物を栽培すると、始めのうちは収量が激増し、野菜の状態も抜群によくなります。しかし、土壌に栄養が豊富になりすぎるため、植物は根を深く広く伸ばす努力を放棄します。やがて土壌が固くなり、バクテリアなどの土壌生態系が衰退して土壌が痩せ、作物の根伸びが益々悪くなります。生命の根源である、根を張る力を失った植物は、自力で養分を吸収する力を失い、生育が悪く、害虫や病原菌に犯されやすくなり、これに対処するための農薬が大量に必要になるという、悪循環が生じるためです。農薬は、害虫や病原菌を殺しますが、同時に、作物にとって有益な虫や微生物も死んでしまいます。あたかも、畑が無菌室のようになるのですが、このような環境で育つ作物は、病原菌への抵抗力をなくしてしまいます。農薬を繰り返し投与すると、害虫や病原菌は農薬に対する耐性を獲得するために、さらにより強い農薬が必要になる、というサイクルを生んでいますが、この循環は、作物から栄養分が失われ、人体が薬品漬けで健康を害し、環境が後戻りできないところまで破壊尽くされるまで、必然的に継続する性質のものです。

恐らく以上の結果として、野菜のミネラルや栄養素が驚くほど減少しています。例えば、ほうれん草の可食部100gあたりのビタミンC含有量は、1950年に150mgであったものが2000年には35mgと、50年間で5分の1(-77%)になってしまいました。同じく、この50年間で減少した栄養素は、ほうれん草のビタミンA:-71%、鉄分:-85%、にんじんのビタミンA:-63%、ビタミンC:-60%、トマトのビタミンA:-26%、ビタミンC:-25%、大根のビタミンC:-40%、キャベツのビタミンB1:-50%、ビタミンB2:-90%と、かつての野菜とは実質的に別の作物になってしまいました(河名秀郎前掲書)。

第三の問題は、昆虫を寄せ付けない「毒性」遺伝子を混入させた、いわゆる遺伝子組み換え作物の浸透です。例えば、遺伝子組み換えトウモロコシのDNAには、したがって、その全ての細胞には、「バチルス・チューリンゲンシス(Bt)」という土壌細菌が組み込まれています。Btは昆虫にとって毒性があり、ちょうど植物全体を天然の殺虫剤に浸したようなものでしょう。確かにひとつの考え方としては、作物に農薬を噴霧して土壌や地下水を汚染するよりも、「合理的」な方法なのかも知れませんが、反面、我々は、Btが自然界に存在する天然の農薬成分だとはいえ、洗い落とすことができない「有毒」成分が隅々まで混入したトウモロコシを食べることになるのです(前掲ジェイコブセン)。現在、遺伝子組み換え「技術」は、トウモロコシ、ナタネ、大豆、綿などで実用化され、2007年における遺伝子組み換え作物の世界の栽培面積は、日本国土面積の3倍に匹敵する、1億1430万haに達しています。

日本においては未だ「対岸の火事」という扱いですが、米農務省2007年の推計によると、栽培面積ベースで、トウモロコシの73%、大豆の91%が遺伝子組み換え作物であり、日本で消費するトウモロコシの約97%、大豆の75%が米国産である以上、相当量の遺伝子組み換え作物が既に日本で消費されているのは明らかでありながら、その事実や詳細は一般的に知らされていません。現に、醤油や食用油などには表示義務がなく、消費者はどのような原料が使用されているかを知る方法はありませんし、例え表示されていたとしても、法律上、5%までの混入は「不使用」の表示が認められています。また、2006年、9都道府県の大手スーパーで売られている「遺伝子組み換え大豆不使用」とされる豆腐のサンプリング調査では、約41%から遺伝子組み換え大豆が検出されたそうです。

なお、現在、遺伝子組み換え作物は人体に「全く悪影響はない」、とされています。

第四の問題は、今のところ殆ど問題にされていませんが、いずれ大問題となる可能性の高い「種苗」です。かつて農家では、収穫した野菜のうち性質の良いものを選別して種を取り、翌年その種を蒔いていました(「自家採取」といいます。)。自家採取が繰り返されて、地域の環境と土壌に適応した種子は「在来種」または「固定種」と呼ばれ、例えば「京野菜」や「沖縄の島野菜」のような、地域ごとに特色のある野菜を生み出してきました。基本的に、農作物は種と土壌と環境の産物で、種子には、その地域の風土に合わせて淘汰されることで、その土地に適した品種に変わっていく力があります。本来、野菜の味は土によって大きく異なり、その土地ならではの個性的で、独特な味わいが生まれるものです。

現代農業において、恐らく1960年代頃から、殆どの農家では自家採取によって種を取ることをしなくなりました。地産地消を前提とした産地中心の生産から、大消費地に農産物を提供する消費者中心の生産へと農業の機能が変化したためです。流通上の都合から、「(消費者にとって)おいしいか」「たくさん収穫できるか」「病気に罹りにくいか」「いかに効率よく遠くへ運べるか」が、農業生産における重要な要素になりました。発芽のタイミングが揃う品種を開発することで出荷にあわせた収穫が可能になり、トマトの皮を厚くし、きゅうりのとげを丸くすることで、輸送の段階で傷みにくくなり、形が均一であると、箱詰めが効率的になります。こうした消費者と流通主導の要求に応えるために、人工的な掛け合わせによる、「F1種」または「ハイブリッド種」と呼ばれる種が主流になり、現在の農業における大半の種子はF1種となっています。F1種は遺伝的に離れた種同士を掛け合わせることで生じる「雑種強勢」というしくみによって、両者の良い性質を受け継ぐ、強い種子を採取する手法です。例えば、収穫量が多い大根と病気に強い大根を掛け合わせて、収穫量が多く病気に強い大根の種を生産するイメージです。しかしながら、このF1種から育った作物の種を採取して翌年畑に植えると、メンデルの法則に基づいて、逆に両者の悪い性質だけを受け継いだ作物が育ち、とても商品にはなりません。F1種の採取は、資本、開発力、技術力、労働力が必要な大事業で、普通の農家がF1種を作ることは事実上不可能です。このため、市場で競争力のある野菜を作るために、農家は一代限りのF1種子を買い続けなければならなくなりました。同時に、市場原理においては「非効率」な伝統野菜や無農薬野菜の固定種は衰退・消滅し、現在では入手することも困難になってしまいました。

農業から自家採取の固定種が事実上消滅し、大半の農家は種子会社が生産するF1種子に依存している現実は、農業の根幹が種子会社の販売戦略と資本の論理によってコントロールされているということでもあります。仮に、種子会社の事業戦略によって、近い将来遺伝子組み換え作物の種子が中心になった場合、他に種子の生産手段を持たない農家がこれを拒むことは事実上不可能です。これらF1種子の生産に際しては、当然農薬・化学肥料が大量に使用されている可能性が高く、流通過程においてあらかじめ殺虫・殺菌処理がなされているものが大半です。さらに、大半の種は海外で生産されているため、食糧安全保障の観点からも、実質的な食糧自給率を大きく引き下げていることになります。

自然農(後述参照)は、自家採取による固定種を復活させ得る、恐らく唯一の現実的な方法です。この問題に対処するためには、現代の農業産業のあり方そのものを再構築する必要があり、逆に、現在とは質の異なる農業経営を実現することなしには、解決し得ない性質のものです。

*(2) 有機無農薬栽培による農産物が注目され始めています。私は有機無農薬栽培が社会で急速に普及している現状を心から喜んでいる一人でもあるのですが、持続性ある農業生産の観点から、いくつかの問題点が考えられるという事実を直視せざるを得ません。第一に、有機栽培であれば安全だとは限らない点です。有機肥料は牛糞、鶏糞、などの厩肥と植物性の堆肥などを混ぜて作られますが、この原料が汚染されている可能性があります。現在の日本の畜産業で利用されている一般的な飼料には、残留農薬、遺伝子操作作物、成長ホルモン剤などの残留薬物などが混入している可能性が高いと考えられるためです。これらの厩肥が産業廃棄物として処分に困っていたものを、有機農業に利用できないかと考えたという側面もあります。植物性の堆肥も、農作物の収穫後に残る葉や茎(農業残滓)を原料としていることがありますが、これにも残留農薬の心配があります。なお、「有機」という表示があれば無農薬であるとは全く限りません。現在の有機JAS法では、マシン油やボルドー液など29種類の農薬が認められ、「有機・無農薬」として表示されています。第二に、仮に安全な厩肥・堆肥を利用した有機農業であっても、肥料の使い過ぎは毒性を持つという点です。余剰分の肥料は土中に残留し土壌が窒素過多になり、窒素過多の土壌で育った野菜は毒性を持つ硝酸塩を多く含むことがあります。第三は、恐らくこれが最も重要な点だと思います。有機農業にも本当に多くの種類があり、農家の数だけ農業がある、といえるほどですが敢えて一般化すると、「経済生産性を優先した現代の工業的農業を、無農薬・無化学肥料の有機環境で行っている」、と表現すべき有機農業が一般的ではないかと思う点です。この場合、農薬などを多用する一般の「工業的農業」と比べると、圧倒的に安全な作物が生産されるとは言えるのですが、必ずしも循環的ではなく「自然の生態系から切り離された」という農業の枠組みは変わりません。害虫や雑草を敵とし、自然をコントロールする努力を通じて、市場で評価されるタイミングと規格に合致した農産物を生産することが主目的であり、効率を目指した単一栽培、農地の有効利用を目指した連作、ハウス栽培などによる市場対応、などの価値観は「工業的農業」とそれ程大きな差はありません。これは主観的なものですが、自然の生態系が生み出す土壌で栽培されるものではないため、安全でおいしいながらも、やはりハッとするほどの味の濃さに出会うことはないのです。

*(3) 「自然農」は他のどの農法よりも豊かな土壌で農業を営むため、「最高品質」の農産物を生産することが可能で、有機無農薬栽培の野菜などと比較してもその違いがはっきり分かります。「自然農」の基本的な手法は無農薬、無化学肥料であることはもちろん、害虫や雑草を敵とせず、最小限の除草、不耕起(ふこうき)、不施肥を基本とした少量多品目栽培を特徴とするため、農地は一見「草ぼうぼう」状態です。より重要なのはその価値観で、農業であると同時に「哲学」あるいは「生き方」と表現した方が適当かもしれません。農業が有史以来試みてきた、いかに自然をコントロールし効率的に生産するか、という考え方とは対極の発想により、自然の営みに寄り添い、害虫や雑草を敵とせず、自然がもともと有するありのままの力を肯定して生態系からの果実を収穫するものです。

自然農は、一般的な農業の価値観からは「非常識」と評価されがちですが、実際には科学的な根拠と合理性があります。自然農の農家は、自然をコントロールすることを止め、自然の営みを注意深く観察しサポートする役割を担うことになります。豊かな生態系と強い地力を持つ土壌で作物が育つため、高品質で健康的な農産物を生産し、環境に対して持続可能で、そして何よりも生産者と消費者にとって完全に安全であるため、最近では高学歴の知識層や元ビジネスマンなど、若手の新規知的就農者や、化学化・工業化した現代農業の合理性に疑問を持つ農家などの間で広まりつつあります。自然農で栽培された野菜や穀物は、完全有機無農薬であることはもちろん、「おいしい」以上に「迫力がある」という表現が適当です。甘いものは甘く、からいものはからく、同じ品種の野菜でも一つ一つが個性的でエネルギーに溢れ、ブランド品種が最もおいしいとされている常識を覆す迫力です。

これだけ高品質の作物を生産する手法でありながら、自然農の農産物が全くと言っていいほど流通していないのは、収量と労働効率の水準が生産・販売事業として成り立たないためです。不耕起栽培であるために、農地に機械を入れることが出来ず、基本的に作業の大半が手仕事となり、一般的な成人一人が3反から5反を耕作することが限度です。この程度の耕作面積では、家族の自給分+αの生産量に留まるため、現在自然農を実践する農家の大半が自給農家となっている現実があります。

このジレンマは、例えば、200名を越えるリゾートホテル従業員が必要に応じて農作業を手伝うなど、第一次産業と第三次産業の業態を組み合わせることで嘘のように解消するのですが、このようなプランが次世代農業のプロトタイプとして実現すれば、農業問題の解決に端緒をつけると同時に、日本と言わず恐らく世界的にも、商業的に殆ど入手不可能な最高品質の農作物が食材として必要なだけ供給されるリゾートが誕生し、世界最高の顧客層に対して新しい農業のあり方を広める絶好の「ショールーム」として機能することになります。

上記のように、農業生産における労働力のジレンマの解消方法は至ってシンプルですが、この「農作業助け合い」のシステムは、成果主義人事考課を採用する企業組織と組み合わせて機能させることは事実上不可能です。リゾートホテルなどの第三次産業従業員が農作業を頻繁かつストレスなく手伝うことができるための組織は、成果主義、部門主義、責任主義、収益主義の一切を放棄した人事方式を採用していることが実質的な要件となるかも知れません。

*(4) 最後に残る重大な問いは、第一に、熾烈な資本主義社会の競争に晒されている第三次産業が、自然農に対して余剰労働力を提供するだけの事業的付加価値と労働生産性を生みだすことは現実に可能か、という点です。例えば、一日6時間労働、週休二日制、一般的なホテル業の2倍の給与(といっても、沖縄を基準にすると500万円程度です)、という水準がこれを可能にする労働生産性の私のイメージですが、このため には労働生産性を一般的なホテルのおよそ2倍+α にする必要があります。・・・「常識的」には一笑に付されて議論にさえならない、と言ったところでしょうか。結論だけ申し上げると、私は十分に、というよりも容易に実現可能と考えているのですが、実際これほどの生産性はどのようにして実現可能か、という議論は本稿のテーマを超え、本ウェブサイトに関わるほぼすべての議論(未発表の稿を含みます)が正に該当することになります。残る問いの第二は、以上のような飛躍的な生産性が仮に実現したとして、そこから生まれる莫大な営業利益から多額の労働分配を行うということは、株主との大きな利益相反をほぼ確実に生じるため、資本主義社会のフレームワークにおいてそもそもそんなことが可能か、という点です。嘘のように聞こえるのは承知ですが、この問題の解決もそれほど困難ではありません。重要な点は、次世代社会への移行過程において、農業の変容が既存金融の根源的な枠組みに大きな影響を与える可能性があるということでしょう。同じく、この議論の詳細は本稿の範囲を超えており、「次世代金融論」の今後の議論にてその「解」をまとめる予定です(シリーズ原稿の完成までにはまだ暫くかかりそうです)。

ところで、現実には、近い将来慣行農業の機能不全が顕在化し、自然な農業の産業化が重大な社会的課題になるに従って、第三次産業のあり方そのものが上記のような「融合モデル」に適応せざるを得ない、という社会変容が同時並行的に生じるような気がします。その際、いち早くこの「融合モデル」によって採算を上げている事業体、その事業概念、地域経済が、次世代社会をリードすることになることになるでしょう。・・・農業問題の本質とは、現代社会と経営のあり方の根源を問う問題であるのです。以上を実現するプロトタイプの具体事例として、①自然農に最も適した、太陽光が豊富な南西(沖縄)地区において、②最も単価の高い「出口」を有するハイエ ンド・リゾートと自然農を経営的に組合せ、③同じく、豊富な労働力を有するリゾートの従業員が必要に応じていつでも援農を行う事業形態を有し、④人間関係 中心の、新しい労働観・事業観によって経営される事業が有効な一歩となるでしょう。詳細は、『トリニティリゾート事業計画』を参照下さい。別途、高単価「出口」の可能性としては、那覇空港ビルディングなどの施設も有力です。