さすがの沖縄もひ~んやりとしてまいりました。
あなたは油断してカゼなどひいておられませんか?
どうぞお気をつけくださいね。

さて、
先月のお便りで、大人になると1年が早く感じる理由について書いたところ
「なるほどね~。」「非常に納得感がありました。」
「なんだかホッとしちゃいました。」…などのお声をいただきましたので、
今月は「ド忘れする」のは歳のせいなのか?について書こうと思います。

「ド忘れ」――あなたにも経験がおありでしょう?
物忘れは仕事上で困るだけでなく、精神的にも不快なものですよね~。
あまりにド忘れを連発すると「私ももう歳かなぁ」などと自己嫌悪に
陥ることさえあるものです。
ところが、私が大好きな、脳の研究者・池谷裕二さんの本を読んで
なんだかうれしくなっちゃいました。

「ド忘れは大人の脳だけに特有な現象ではない。」のだそうです!
大人になると、物忘れが増えたように感じるのは、
「歳をとると記憶力が低下する」という通俗的な思い込みがあるせい、
らしいのです。
あなたの周囲にいる子どもたちをよく観察してみてください。
子供も日常的にド忘れをしていることに気づくでしょう。
ただ、子どもたちは物忘れをいちいち気にしないのです。
一方の大人は、「歳のせいだ」と落ち込む。
人によっては歳のせいにして逃げているのかもしれません。
ド忘れして落胆する前に、まず心に留めてほしいことは、
子どもと大人ではそれまでの人生で蓄積した記憶量が異なるという点です。
100個の記憶から目的の一つの記憶を探し出すのと、
一万個の中から検索するのでは、かかる労力や時間に差があって当然と
言うもの。大人のほうが多くの記憶が脳に詰まっているのだから、
子どものようにすらすら思い出すことができなかったとしても
仕方がありません。これは大容量になった脳が抱える宿命なのです。
ド忘れしたときには
「それだけ私の脳にはたくさんの知識が詰まっているのだ」
と前向きに解釈するほうが健全ですよ~。

さらに解説いたしますと、
「いつでも思い出すことができる記憶」と「ときどきド忘れする記憶」の量を
比べてみると、はるかにド忘れの量のほうが少ないと思います。
私たちは好きな芸能人や歴史についてや、食べ物やスポーツの話もできますし、
歩き方やボタンのはめ方だって知っています。
脳に蓄えられている記憶は、よく考えてみれば実に膨大で、
私たちはその記憶を自在に活用しながら生活しているのです。
たまたまあの人の名前が出てこないといった「ド忘れ」は、
些細な量にすぎません。ですから、何かをたまに忘れてしまったからといって
落ち込む必要なんかありませんし、本来ならばむしろ、膨大な情報を
記憶している自分の脳の素晴らしさに目を向けて、「わーっ、すごいなあ」と
思ったほうがいいのです。健全だし、正しいわけです。

とにかく、ド忘れは、誰でも当然するもの。
脳は常に「ゆらぎ」を持っていて、たまたまタイミングが悪いときに
名前を訊かれたら出てこない、たまたまよいタイミングのときに訊かれたら
名前が出てくる、ド忘れとは、ただ、それだけのことなんです。

また、「人の名前がでてこない。なんという人だったっけ。」というときに
他の人から「それは○○さんでしょ。」と言われると、「あっ、そうそう。」
とその名前が今時分の探そうとしていた人であるかどうかがすぐにわかります。
つまり、「ド忘れ」は本当に忘れているわけではないのです。

本当に記憶がなくなってしまって、脳から消え去ってしまう場合は、いわば
病気で、「認知症」がそれに当たりますが、
ド忘れなどの「健忘症」は、記憶を呼び出すことができない状況をいい、
あくまでも呼び出すことができないだけです。
「健忘」とは、読んで字のごとく、「健やかに忘れる」こと。
つまり、ド忘れは健忘の証。記憶はちゃんと脳に残っています。
健忘なんて起こってもいい、ド忘れだってしてもいい、
怖れる必要なんかありませんよ~。

さぁ、ほっとしたところで、木曜日は今年のボジョレーヌーボーの解禁日。
オーガニックな真新しいワインを愉しみながら、
あなたのステキな記憶をゆっくり辿ってみてくださいね。

【2010.11.16 末金典子】

なにやら明日か明後日には大きな台風が来そうな感じの沖縄ですね~。
もうじき11月だというのに。

そして、誰かが「ええ~~っ? 今年も残すところあと2ヶ月なの~~っ?」
などと言い出すのがこの頃。
「早いね~」「子供の頃は1年が長かったね」などと後に続けるのが、
一種のお約束かもしれません。

私は今でも疑っているんです。
小学校の6年間がじつは9年間だったんじゃないかと。
あれほど長く感じた1日。あれほど遠く感じてた1年。
たまに遠足や運動会や参観日があろうとも、いっこうに生活は変化せず、
よどんだ川の流れのようにゆっくり過ぎる時が流れていました。
学校が終わるとランドセルを置くやいなや誰かの家に集まり、
リカちゃんごっこや、着せ替え人形や、人生ゲームや、ゴム飛びなどをして
日が暮れるまで遊んだものです。
リカちゃんのお洋服を何百回着替えさせたかわかりませんが、
なかなか1年は過ぎませんでした。
「子供のころは忙しくないからなかなか時間がたたないのよ」と、
お母さんは言ったけれど、大人になると1年が早く感じる理由については、
なんと、正式な学説が立っているそうです。
ひと言でいえば、「大人と子供では、人生における1年の割合が違うから」
だそうです。
たとえば10歳の子供の1年は、全人生の10分の1。
でも40歳の人の1年は全人生の40分の1。
大人の1年間は、自分の全記憶に対して比率が低い=印象が薄い=短く感じる、
ということなのだそうです。

さて今の世の中は、不況や犯罪や天災など波乱に満ちています。
それに伴い、私達の生活や気持ちにもいろいろな影響を及ぼしています。
波乱に満ちている時というのは、起きることそれぞれが印象深いもの。
さきほどの、印象が薄い=短く感じる、という説から考えると
今を長く感じる人が多いかもしれません。
「いつまでこの状態が続くの?」
「こんなことで悩んでいるのはきっと私だけ。」……。
あなたはこんなふうに思い詰めたりはしていませんよね?
もしもそんな気分なら…、あなただけではありません。
どうぞ元気を出してくださいね。

そして、多分台風も過ぎた後であろう週末のハロウィンの日には、
ゆっくり時を感じた子どもの時の気持ちに帰って、
「Trick or treat!(お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!)」と
わいわい楽しんじゃいましょうよ!
私も週末は魔女に変装しハロウィンの飾り付けやかぼちゃのお菓子とともに
あなたをお待ちしております。

【2010.10.27 末金典子】

まだまだ暑さの続く毎日ですがお元気にお過ごしですか?

私ごとで恐縮ですが、先月の19日に40代最後のお誕生日を迎えました。
えええ~~~っ、もう? っていう感じです。
あなたも自分の年齢ってそんなヘンな感じがしませんか~?

で、約半世紀の自分のこれまでの人生ってどんなだったかしらと
ちょい振り返ってみました。

私の人生とは……なもの!

あなたなら……には何を入れられますか?

私にとっては、「すべてが、今この瞬間の積み重ね」であったように思います。

例えば、人生の何かに立ち向うとき、自分を奮い立たせるためには、
今やるべきことに集中して一生懸命やるだけしかありません。
過ぎてしまった過去や、まだこない未来を思い煩っても仕方ありませんものね。
でも、たま~に孤独や寂しさを感じた時などは、逆に「何もしない」ようにも
しています。今必要だからあるんだと、敢えて感じ、受け入れるように
しているんです。
どちらも今を大切にすることだと思います。

そして…、今を積み重ねていって、いつかは、どの人の人生にも最後には
「死」がやってきます。

NHKのドキュメンタリーで「無縁死」という現象が取り上げられ、大反響を
呼びました。番組では、家族も友人もなく孤独に死に、無縁仏として葬られた
人たち、あるいはそんな最後を予期して怯える人たちの人生がクローズアップ
されていました。すると、30代、40代のまだ若い世代が「無縁死」という
キーワードに敏感に反応しました。日本では、この世代に独身者が圧倒的に
増えています。親が死ねば一人になってしまう。血縁、地縁から切り離されて、
都会の片隅でたった一人、死を迎える人の姿が「他人事じゃない」と、深刻に
受け止められたわけです。

私も含めお客さまの女性達や友人も、アラサー、アラフォー、
アラフィフの独身者だらけ。そういう人たちに、無縁死について聞いてみると…
これはまた意外にも数人から、「そんなのあたりまえ。別に恐くない」という
答えが返ってきたのです。
たとえば私の友人に、トルコ大学で教鞭をとっている同級生がいるのですが、
彼女には恋人もいるにはいるけれども、違う国に住んでいて、会うのは
三ヶ月に一度程度。二人の間に将来の話は全く出ないという状態なのです。
でも彼女はそれをよしとしていて、相手を縛る気も頼る気もないし、
今のままでいい。好きなことはやってきたし、いつ死んでもいい。――
そんなふうに言うんです。実際、何年か前トルコ大地震があった時、
何日か連絡が取れず、周囲を冷や冷やさせ、一ヵ月後に帰ってきて
「それで死んじゃったら、それはそれでしょう」とケロっとしていました。
そんな彼女のことを考えていたら、「無縁死」っていうのは、
実に主観的な言葉だなとすら思えてきました。
つまり、予期される自分の死を、「孤独で寂しい死」と捉えれば、それは
「無縁死」になりうるのですが、そう捉えなければ、そうではない

いうことですよね。

また、家族・親子という縦の繋がりを失っても、人には横の繋がりが残ります。
友人、知人、ご近所との、ささやかといえばささやかな繋がり。
家族を持たず、あるいは家族を失って年老いたとき、友人と濃く深い繋がりが
持てればそれに越したことはありませんが、たとえ淡いものであっても、
人との横の繋がりを大切にして、自分なりにその中で居心地良く生きられれば、
人は自分を孤独だと感じないですむのかもしれません。
98歳で天寿をまっとうされた宇野千代さんが、晩年、新聞のコラムの文章に、
「愛はいたるところにある」と書いておられました。
近所の人が朝、自分に挨拶してくれる、その気持ちの中にも愛はある。
隣の夫婦が月に一度くらい自分の髪を切りに来てくれる、その行為の中にも
愛はある。その愛に感謝しつつ生きていきたい」と文章は綴られていました。
たくさんの人が独身のまま老いを迎えるであろうこれからの日本では、
人との横の繋がりが何よりも大事なことであると思います。

そして、やっぱり最後には、自分を救うのは、自分自身の心でしかないのでは
ないでしょうか。
今、家族のいるあなたも私も、もしかしたら死ぬ時には一人かも
しれないのだから。
それまでに、周囲にあるささやかな愛を大切に育み、
心豊かに生きていけるように、今この瞬間の積み重ねを大事にしてゆきたいなと、
誕生日にあらためて思ったことでした。

心で手を繋いでくださるあなたに心からの感謝と愛をこめて。

P.S. 連休の敬老の日には、周りにいらっしゃるお年寄りに温かな気持ちを
注いであげてくださいね。私も昭和一桁生まれの両親を労いたいと
思っています。

【2010.9.17 末金典子】