この間の台風も過ぎ、これから夏本番の沖縄。
この海の日の連休はあいにくの雨模様でしたが
あなたはいかがお過ごしでしたでしょうか?
過日の沖縄の新聞社に対する百田発言もきっかけとして、
ネット文化の急速な普及などもあり、
マスコミ、ジャーナリズムのあり方といったことに注目が集まっていますね。
ちょっと過激に言うと、
ジャーナリズムというものが、今のこの世の中にあるのでしょうか。
いろいろなインタビュー記事を読む時など、
インタビューを受けている方の立場に立つとなんだか虚しくなってしまうのです。
アングルはマンネリになり、同じようなことを繰り返し聞いている。
これでは答える側は馬鹿馬鹿しい気分になり最後には呆れてしまうのでは
ないかと思うのです。
インタビューする側に覚悟はあるのでしょうか。
引き出し方をどれだけもち、相手を理解しているのでしょうか。
それがないと、答える方は正直、その浅薄なやりとりに飽きてしまうのでは
ないかと思うのです。
「マス」コミュニケーションの性なのでしょうか。
最近、よく思い出す言葉があります。
「虚実皮膜」
芸の真実は虚構と現実とのはざまにあるとする、近松門左衛門の言葉です。
皮と膜の間、物質としては存在しないけれど、真実はそこにある、というのです。
真実がそこにあると感じ取ること、あるいは真実らしきものを感じ取る、
そんな見方にこそ力があるのではないでしょうか。
そして、それを言葉というものに置き換える。
それこそが、人間に残された力なのだと思います。
私も麗王であなたとお話させていただく時には、傾聴しつつ、
虚実皮膜な見方でうかがいたいなと、昨日の海の日の雨の合間に
海辺をランニングしながら思ったことでした。
今週もまた一日一日を丁寧に。
【末金典子】
| 麗王だより
週末には雷が激しく鳴り随分大雨が降りましたが、昨日は青空が広がり、
今日は1年で最も昼が長くなる夏至ですね。
お変わりございませんか?
昨日は父の日でしたね。
母の日に比べるとなんだか盛り上がりに欠ける父の日。
プレゼント選びもいつも迷いがちです。今年は父の方から
「野球帽が古くなったので送ってくれるとうれしい」と
リクエストしてくれましたのですんなり決まってほっとしました。
私の父は、子供達には叩いたりするほどとても厳しい人でしたが
母に対しては、昭和8年生まれにしては、
「行ってくるよ、チュッ」「愛してるよ、チュッ」、などと言葉やチュウを贈ったり、
ちょこちょことプレゼントを贈ったりするような人でした。
ところで。
「プレゼント仮説」という考え方を、ご存知ですか?
私はこの仮説を知った時、なんだか心があったかくなりました。
果物や木の実をとり、それを運搬することで、私達の祖先は、
直立二足歩行になったという話ですが、それはオスがメスに
自分を気に入ってもらうために、食料をプレゼントするためであり、
いわば人類は、恋愛がしたいがために直立二足歩行をしたということです。
それまでは、他のオスと争って自分のものにしていたメスを、
食べ物をプレゼントすることで気を引くという、まさに愛のはじまりが
そこにはありました。
それまで直立二足歩行などしたことがなかったのに、
プレゼントを両手で持って、メスのところに行きたいがために、
立って歩きはじめたというのが、なんだか人間らしくていいなあ。
その先に今の私達がいるんですから。メスを自分のものにしたいという下心が、
人類の大きな進化を生んだというのがすてきです。誰かのために何かをする、
この気持ちが人類を進行させたのが嬉しいですよね。
あなたはプレゼントするのが好きですか?
私はプレゼントするのが大好きです。
もしかしたらプレゼントするのが好きな人は、人よりも祖先に近い何かが、
頭なのか身体のどこかに残っているのかもしれませんね。
直立二足歩行をするようになった理由は、食料をたくさん持つためとか、
道具を持つようになったからとか、諸説あるけれど、私は「プレゼント仮説」を
信じようと思った父の日でした。
【末金典子】
| 麗王だより 2015年
GWはいかがお過ごしでしたでしょうか。
私はと言いますと、大阪の母が入院しているため10年ぶりに帰省しました。
随分久しぶりの大阪は、もうおのぼりさん状態で、見知らぬ商業ビルが
ガンガン建ち、どこの飲食店もいっぱい!
道行く街の人々の会話も漫才を聞いているかの如く。
飲み食いに、会話に、買い物にと、生きることに旺盛な大阪人が
なかなか新鮮でした。
さて、昨日は母の日でしたね。
毎年この日には母との想い出を書いているのですが、
あれは、いつのことだったでしょうか。
私が小学校の4年生ぐらいのことだったと思います。
朝、学校に着いて、給食袋を忘れてきたことに気づきました。
給食袋というのは、給食の時間に着る白衣のスモックと、白い三角巾帽子を
入れた巾着袋で、一週間使い、金曜日になると持ち帰ってお洗濯してもらい、
月曜日にまた持ってくるのが、たしか決まりだったと思います。
そのある月曜日の出来事です。
給食袋を忘れたことに気づいた私は職員室に行って電話を借り、
家に連絡を入れました。母は一駅離れた代々実家で経営している
洋食レストランに出勤しようとあまり慣れていない自転車をこいだ、
まさにそのときに家の中で電話が鳴ったようです。携帯電話などない時代。
借りてまでする電話はいまよりずっとおおごとで、何が起きたかと
震えたことでしょう。
「これから持っていくから。1時間目が終わったら門のところにいなさいね。」
ほっとした私は、アイロンのかかった清潔な白衣を思いながら
少し楽しい気持ちで授業を受け、終わるやいなや門まですっとんで、
母が来るのを待っていました。
考えてみれば、教科書でもないし、たいした忘れ物ではないのです。
白衣などなくても何とかなったでしょうに、真面目一筋の両親に育てられた
子どもにしてみれば、学校の決まりを破るなんてもってのほかだったように
思います。
小さく、道の彼方に危なっかしく自転車こぐ母の姿が見えてきました。
小さいけれど必死な様子が伝わってきます。
その姿が次第に大きくなるにつれ、母が血だらけになっているのがわかりました。
額や手や、レストランでいつも着ている白衣の上着に赤い血がこびりついています。
でも顔は、いつものようににこにこと笑っていて、私は意味がわからず、
呆然と立ちつくしていました。
あわてすぎて自転車ごと転び、車道で顔を強く打ったのです。
「そやけど、典子の休み時間にまにあうようにと必死やったから全然痛なかったよ。
あれまあ、すごい血やねえ。」
おでこをぬぐった自分の手を見て驚いた顔をしながらも、「ほら。」と給食袋を
さしだし、私がそれを抱えたときの母は心から安堵したようにまたにっこりと
笑ったのでした。
愛とは何かとは大げさですが、私は「愛」という言葉を聞くと、いまもこのときの
血まみれの母の笑顔を思い出すのです。
思い出し、そしてちょっと泣きたくなるのです。
今年80の母には、随分前に一度だけ、この思い出を話したことがありますが、
本人はまるでおぼえていませんでした。
母親として、それはあまりにあたりまえのことだったのでしょう。
そう思うとまた、胸の奥に小さな灯りがともるようなのです。
今回帰省することができて本当によかったなと思った昨日の母の日でした。
もう台風が迫ってきているようです。どうぞお気をつけくださいね。
【末金典子】
| 麗王だより 2015年