ここ沖縄でも随分秋の気配が濃くなりつつあり、クーラーも控えめとなって、
身体に優しい感じがいたしますね。
でもその分、酷暑だった夏の疲れが今頃出てきたりしますので、
充分お身体のケアをなさってくださいね。
さて、1970年代に、ローマクラブというヨーロッパのシンクタンクが、
「成長の限界」というレポートを発表し、世界的に大きな話題になった、
というお話を、年配の方からうかがったことがあります。
日本では、バブル経済の崩壊後、地に足の着いた暮らしを見直そうという
気運が高まりました。東日本大震災、ことに福島第一原発事故を契機に、
いま再び、「このまま物質的な豊かさを求める生活でよいのか」という問題が
注目されています。
最近、「歴史の巨大な曲がり角を私達は生きている」という
社会学者の見田宗介さんのお話を新聞記事で読みました。
深刻な環境問題を抱えつつも経済成長を求め続けるべきなのでしょうか。
「生きる歓びは、必ずしも大量の自然破壊も他者からの収奪も必要としない。
禁欲ではなく、感受性の解放という方向です。」と見田さんは言います。
原発事故の直後は、エネルギーの使い方、あり方を含め、私達一人一人の
生活のあり方を見直す時期だと言われました。4年以上経ったいま、
いわゆるパラダイムシフトは起きたと言うことができるでしょうか。脱原発か否か。
原発は一つの例ですが、例えば、普天間基地は辺野古に移設か否か。
大切な問題であるほど、賛成/反対の意見に大きく分かれます。
相容れない意見、異なる立場の人々が、どう折り合いをつけて
共生するべきでしょうか。
否定したり封じ込めるのではなく、ていねいな合意形成を目指す、
そうしたことが必要なのだと思います。
さて。
週末はハロウィンですね。
ハロウィンの始まりは、古代ヨーロッパの原住民ケルト族の宗教行事。
11月1日を新年とする彼らはその前夜に死者の霊が訪れると信じ、
充分な供物がないと悪霊に呪われると恐れていました。そのため魔よけをし、
同時に秋の収穫を祝う祭りを行っていたとか。
その後、多くの聖人たち(Hallow)を祝う万聖節となり、近年、欧米では
魔女やお化けなどの仮装をした子供たちが
「Trick or treat!(お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!)」と家々を回ったり
仮装をしたりして楽しむ日に変化しています。
日本でも注目されるようになったのはここ20年ほどのことで、
子供のお祭りのようになっていますが、ハロウィンの行事がポピュラーなアメリカでは
大人達も本格的な仮装に身を包み、街中はもちろん職場にまで登場。
仲間同士で集まり盛り上がります。
私達もたまには童心に戻って、子供の頃に感じていた単純な「生きる歓び」に
浸ってみるのも大切なことかもしれませんね。
麗王でもかぼちゃ料理や、パンプキンビールをご用意しておりますよ~。
「麗王に来てくれなきゃイタズラするぞ!」
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10月18日に那覇青年会議所(JC)の主催で開かれたパネルディスカッション
「沖縄経済ミッション2015〜現状から考える沖縄の未来〜」において
麗王でもお馴染みの沖縄大学・樋口先生が以下のテーマで話され、
沖縄タイムス・デジタル版で掲載され話題となっています。ぜひ御一読くださいね。
1. 県内格差の問題について
2. 基地返還後の跡地利用について
3. 沖縄振興一括交付金の使い道について
パネリストは元沖縄県副知事の上原良幸さん、
経済博士で評論家の篠原章さん、沖縄国際大学教授の前泊博盛さんと
沖縄大学准教授の樋口さんでした。
http://www.okinawatimes.co.jp/cross/?id=329&p=1
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麗王便りバックナンバー
http://www.trinityinc.jp/updated/?cat=87
弊社ホームページ・アップデイトのコーナー
http://www.trinityinc.jp/updated/
| 麗王だより 2015年
まだクーラーを必要とする暑さではありますが、風や日差しは、
確実に秋の訪れを知らせてくれている今日この頃ですね。
トマトやなす、冬瓜、そら豆、桃やスイカ…と、今年の夏も、
みずみずしくておいしい旬のものをたくさんお料理していただきました。
夏は、シンプルに、素材の力強い持ち味をそのままいただくのも
おいしい時季。さっと焼いたり、冷やしたり、薬味やスパイスもよく合い、
いただき方も多彩です。季節の恵みの豊かさに、ありがたみを
感じました。
弊社のHPのアップデイトでは我が家で作って食べているものを毎日
アップしたり、季節ごとの行事やエピソードや想い、社会で今起こっている
出来事に対する考えなどを綴っているのですが、先日も
「なんで食べているものを毎日載せたりしているんですか?」と
問われました。
これからも変わらずに続けていこうと思っていることですのでこの機会に
お答えしておこうと思います。
戦後70年という今、考えてみるとこうしたあたり前の日常生活も、
すべて、平和な世の中があってこそ、その上に成り立っているものだと
あらためて気づきます。
先日、琉球新報さんの主催でノルウェーの平和学者、
ヨハン・ガルトゥング博士の講演会が開かれていましたが、
私は以前にこのヨハン・ガルトゥング博士の考えに触れたことが
ありましたので、戦後70年の節目の時ということもあって、ここのところ
よく雑誌などでも取り上げられたりして
やはり注目される考え方なのだなと思っておりました。
そうしたところに、麗王にもいらしてくださった日本政策学校・代表理事の
金野さまから、
「ノルウェーから来日中のヨハン・ガルトゥング博士が
(戦後の平和学の創始者、紛争解決の世界的パイオニア)、
六本木での田原総一朗氏との対談で、
「東アジアの共同体を作り、その首都は沖縄にすべし」と
熱弁されていました。
というメールをいただき、ますますその感を強くした次第です。
ヨハン・ガルトゥング博士は、戦争のない状態を、「消極的平和」とし、
それに加えて、貧困や抑圧、差別などがない状態を「積極的平和」として
唱え、本当の平和の意味、未来への道すじを示しました。
高度経済成長、バブル景気と崩壊、大震災、大災害などを経た現在、
「平和」とは、とても広く深いものであると思い至ります。
だれもが住みやすく、あたたかい世の中にするためには、どうしたら
よいでしょうか。
それには、私達の暮らしのあり方そのものが問われているように思うのです。
戦争や紛争だけでなく、自然環境やエネルギー問題、格差や貧困など、
いまあるさまざまな課題は、「暮らしの問題」です。
だからこそ私は毎日の生活の質や、季節や行事の細かなことや、
社会で人々の間で今起こっていることなどを、さまざまな主義の枠組みを
超えて、私達自身の我が事として考えたいという思いから始めました。
特に、その暮らしの中で大事なことが、「心身ともに健康であること」
なのだと思います。そのためには質の良い食は欠かせません。
今の世の中は、便利さ、手軽さ、安さなどが追い求められているために、
流通のため日持ちするよう保存料が加えられ、
見た目の良さのため着色料が加えられ、
材料のコストを抑えるため化学調味料が加えられ…と
いろいろと余計な添加物が加えられ、成人男性で年間5キロもの
化学性の合成添加物を摂っているといわれています。
そしてそれを消化するために身体は余計な労力を必要としますし
体外に排出されず体にどんどん溜まっていく添加物もあります。
当たり前のことですが、私達の身体は毎日の食べるものから
できています。
つまり、私達の身体は工場のようなもので、食べたものを材料に、
燃やして形を変え、新しい肉体となり、身体と心の健康に大きな
影響を与えているのです。
そして私達の肉体は新陳代謝という形で、常に新しく生まれ変わって
います。3ヶ月経つと体内の細胞がほとんど入れ替わるそうです。
健康的な肉体を保つには、
① いかによい材料を入れるか?
② いかに消化・吸収するか?
③ いかに不要なものを排出するか?
この3つが大切です。
つまりは自分の身体の材料を選ぶつもりで、食べるものを
選びたいものですね。
そして私達個々人が毎日を健やかに、小さな幸せを積み重ねて
丁寧に暮らしていく、そんななかから平和も生まれていくのではないでしょうか。
来週は秋分の日。
あなたにとっての秋は食欲の秋?読書の秋?スポーツの秋?…
どんな秋でしょうか。
私にとっては色気のない話ですが、やはり食欲の秋かしら。
だって、食べるということは、お腹がいっぱいになるだけじゃなくて、
暮らしの歓びそのものなのですから。
【末金典子】
| 麗王だより 2015年
この間の台風も過ぎ、これから夏本番の沖縄。
この海の日の連休はあいにくの雨模様でしたが
あなたはいかがお過ごしでしたでしょうか?
過日の沖縄の新聞社に対する百田発言もきっかけとして、
ネット文化の急速な普及などもあり、
マスコミ、ジャーナリズムのあり方といったことに注目が集まっていますね。
ちょっと過激に言うと、
ジャーナリズムというものが、今のこの世の中にあるのでしょうか。
いろいろなインタビュー記事を読む時など、
インタビューを受けている方の立場に立つとなんだか虚しくなってしまうのです。
アングルはマンネリになり、同じようなことを繰り返し聞いている。
これでは答える側は馬鹿馬鹿しい気分になり最後には呆れてしまうのでは
ないかと思うのです。
インタビューする側に覚悟はあるのでしょうか。
引き出し方をどれだけもち、相手を理解しているのでしょうか。
それがないと、答える方は正直、その浅薄なやりとりに飽きてしまうのでは
ないかと思うのです。
「マス」コミュニケーションの性なのでしょうか。
最近、よく思い出す言葉があります。
「虚実皮膜」
芸の真実は虚構と現実とのはざまにあるとする、近松門左衛門の言葉です。
皮と膜の間、物質としては存在しないけれど、真実はそこにある、というのです。
真実がそこにあると感じ取ること、あるいは真実らしきものを感じ取る、
そんな見方にこそ力があるのではないでしょうか。
そして、それを言葉というものに置き換える。
それこそが、人間に残された力なのだと思います。
私も麗王であなたとお話させていただく時には、傾聴しつつ、
虚実皮膜な見方でうかがいたいなと、昨日の海の日の雨の合間に
海辺をランニングしながら思ったことでした。
今週もまた一日一日を丁寧に。
| 麗王だより 2015年