お元気ですか?
今日はクリスマスですね~!
クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日とされていて、
由来は諸説あるのですが、古代ローマ暦の冬至の日に行われていた太陽神への
収穫祭が最初で、のちにキリストの生誕祭と結びついてクリスマスになったと
言われています。冬至の頃は、日が短く寒く、古代の人々は闇への不安や恐れを
感じる一方で、不滅の太陽を信じて、盛大なお祭りを各地で行っていたようです。
クリスマスに様々なお料理を食べるのは、その年の収穫物をすべて食卓に
並べていた収穫祭の名残だとか。
クリスマスを厳かに過ごす習慣は、昔太陽が休んでいる時期に騒ぐと光が
戻ってこないと信じられていたためなのだそうです。
これらは現代のクリスマスにも引き継がれていますね。
恋人とロマンチックに過ごしたり、友達同士でワイワイ騒いだり…が主流の
ジャパニーズクリスマス、あなたは今夜はどんなふうにお過ごしに
なられるのでしょうか。それとも既にこの連休でたっぷりと楽しまれたかも
しれませんね。
さて、こんなふうに今年も季節の暦の折々にお便りをお送りさせて頂いて
きましたが(文章が長過ぎる!とお叱りを受けながらもしつこく…)、
今年も最後のお便りとなってしまいました。毎回お読みいただき、また、
たくさんご返信もいただきありがとうございました。
私は季節の暦が本当に好きです。
そして季節感を持って暮らしていくことがとても大切だと思っておりますので、
便りも季節の暦の度にお送りさせていただいているのです。
元々中国の季節感だった「二十四節気」が輸入され、少しずつ日本に合わせて
変化をし、すっかりこの国のリズムとして定着したのは一体いつ頃のこと
だったのでしょう。
農業に欠かせない「暦」は国民にとって重要な参考書であったことでしょう。
何日頃に種を蒔こうか、とか、そろそろ服を冬用に替えないとね、という具合に。
江戸時代、「暦」は毎年その年の季節に合わせ、きちんと修正されて売り出され、
人々は必ずそれを買い求めてそれぞれの生活を作りました。当時の農民や漁民に
とって「季節」は「生活」の重要な目安だったわけです。
科学の進歩によって暖房機や冷房機が普及し、私たちの肌の感受性は
退化してきました。今や日本人の多くは「暦」とは月日を確認する為のものとなり、
時計のように時を計るためだけのものとなってきつつあるようです。
でも、「季節感」は揺らいでも、「季節」そのものは厳然とこの国の風土を
この国らしく彩り続けています。どれ程暑い夏も永遠に続くことはなく、
どれ程美しい秋も永遠に続くわけではありません。季節は時とともに巡り、
この国の風土に美しい四季をもたらし続けています。
そうして、どれ程寒い冬に苦しんでいようとも、もう少し頑張れば、次には必ず
春がやってくるのだ、という安心感が、日本で住み暮らす人々の心根の
「負けるものか」という辛抱強さ、或いは「諦めない」という粘り強さを育てて
来たのではないかしら、と私は思うのです。
冬が厳しければ厳しいほど、やがて巡ってくる春に悦びは満ちます。
こうして季節に託して心を切り替えながら自分を励ましてきたのでしょう。
だから、日本人の生命は一年更新です。どれ程辛い一年であっても、大晦日で
区切るのです。綺麗さっぱり前の年のことは清算して一眠りし、元旦には枕元に
まっさらで綺麗な、新しい一年分の生命が訪れます。
現代人一人一人のDNAに眠っているこういう「日本人の心根」をこそ、「暦」に
刻むことが最も重要なことなのかも知れませんね。
今年もたくさんの方々との出逢いがありました。
たくさんお話させていただきました。いろいろな文章を読みました。
そうして感じたことです。
おそらく多くの人が自分の人生への不安におののきながら、なかなか自信を
持てないで恐る恐る生きている、そんなふうに伝わってきたのです。
でも、どれ程ささやかな人生であろうとも、他人の人生を代わりに生きることなど
あり得ません。派手に生きているように見えようとも、慎ましすぎる生き方に
見えようとも、自分自身の人生なのです。大きな人生など無いのです。
人の評判や評価などとは無関係に、実は皆、小さな人生を精一杯に
生きているのだと思います。
この世は修行場のようなものですから、次々とつらいことが起きて、
生きていくのがイヤになることもあるかもしれません。
そんな時がもしもあるのなら、ぜひ鏡の前に立ってみてください。
そして、人生でつらかったことを思い出してください。
小さい時から、いじめにあったり、初恋が実らなかったり、友達に裏切られたり、
お金がなかったり、受験や就職で挫折したり、自信をなくしたり、
あなたにとっては血を吐くようなつらい思いをいろいろしてきたことでしょう。
でも今、あなたはそこにいる。生きています。あれだけのことがあったけれど、
生き抜いてきました。それはあなたに、それらのトラブルを乗り越える力が
あったからです。ちゃんと自分で戦い抜いて、打ち勝ってきたからこそ、
ここにこうしているのです。あなたは強いのです。生命の塊なのです。
鏡の中には、この宇宙にたったひとつしかない、尊い存在のあなた自身が、
いるはずです。何の心配もいりません。これからもちゃんと、生きていく力が
ある人なのです。どうぞ自信を持っていただきたいと思います。
自信という言葉は、“自分を信じる”と書きます。これはつまり、あなたを
認めるべき存在はあなた自身に他ならないということ。
もしも“私なんか…”と思っているのであれば、今すぐ、その考えを
おやめくださいね。
ネガティブ感情にとらわれやすい人は、とてもまじめな優等生タイプが
多いそうです。他人を慮るばかりに自分を引っ込めやすく、第三者の認知など、
何かしら“根拠”がないと、自分を素直に出せないのだそうです。
でも、他人の気持ちは、いくら悩んでみても、推し量ってみても、どうしようも
ありません。だったら、そんなことはきっぱり忘れて、どうせ考えるのであれば、
自分自身のいいところ探し、“私はいかに素晴らしいか”というところに思いを
馳せるほうが、よっぽど建設的だと思うのです。
また、あなたが自分自身を認められずにいるのは、自分がいかに幸福であるかを
実感しようとしていないからではありませんか?
例えば、昨日の出来事を振り返ってみてください。あなたにとってその日は、
どのような一日だったでしょうか?
もしも“いいこともなく、つまらなかった”と思うのであれば、
幸せの取りこぼしをしていませんか?
いいことや楽しいことは、一日のうちにたくさん存在します。
ご飯がおいしかったこと、残業なしで仕事を終えられたこと、時間通りに
待ち合わせ場所に到着できたこと…。些細なことかもしれないけれど、
これらだっていいことには違いありません。
それに、その日一日が無事に終わり、次の日へとバトンタッチできているんだもの、
これ以上の幸福ってないと思いませんか?
たとえ悪いことばかりが重なったとしても、どんなに小さくてもいいことに目を
向けていれば、マイナスに支配されたまま一日が終わることなんて
ほとんどないはずです。
さあ、もうすぐお正月休みが始まります。
一日でもいいから、何もしない日を作ってみてはいかがでしょうか。
私たちはとにかく忙しすぎます。だから小さな幸せを取りこぼしてしまうわけで、
たまには一人でボーッと、自分自身を見つめ直してみるのもいいのでは
ないでしょうか。せわしない日常から自分を切り離してぼんやりとしていると、
いろいろな人に手助けされたり、迷惑をかけながら、日々過ごしていたことを
知ることができ、私一人では何もできない、でも私はここにいられる…と、
自分がこの世に存在できているということを、単純に喜べるはずです。
あなたという存在は、世界にたった一人です。この世で唯一無二の存在。
あなたは他人に評価されたり、他人をうらやんだり…そんなことをする必要が
ないほど、スペシャルな人間。
あなたの人生の主人公なのです。
そのことを忘れていただきたくなくて今回は長々と書き綴ってしまいました。
今年も本当にありがとうございました。
あなたが穏やかに一年を締めくくることができますように、
そして何より、あなたがどうかこのうえもなくお幸せでありますよう、
心からお祈りいたします。
【2007.12.25 末金典子】
| 麗王だより 2007年
さすがの沖縄も随分ひんやりしてまいりました。
体調などお変わりございませんか?
私は20代の頃より毎日睡眠時間3・4時間という二足のわらじ生活を
送ってきたせいか、体調管理や、健康に関しては幾分か気を配ってきたつもりで
いるのですが、そうはいっても20・30代の時には、せいぜい、運動を
心がける、お休みの日にはしっかり眠る、保存料の入った食べ物は食べない、
栄養の偏りをサプリメントで補う、シャンプーや洗剤などは肌に優しい価格の
高いものを使うなどといった比較的安易なものでした。
長ずるにおよんで、そんなものではないなぁと思ってきました。
もっと体の中からしっかりと変えていかなければと思い始め、
食べるものはできる限りよい素材で手作りしたり
(例えば、おやつにホットケーキを焼く時だって、
市販のホットケーキミックスの中にはたくさんの添加物が入っていますので、
粉からふるうようにするなど)、入浴剤もキッチンで揃うような素材で
口に入れてもよいものを毎日調合したり…。
今、特に楽しいのは、毎日1時間のウォーキングから50分のランニングに
切り替えて走っていること。(自宅前のアラハビーチ近辺)
毎日走っていると、体重が減ったり筋肉がついたりと健康にいいのはもちろんの
ことですが、普段の車生活では気づかないことがたくさん見えてきて
とても新鮮なんです。
さて、その気づいたことの一つを記事にしてみました。(琉球新報さんと
沖縄タイムスさんには却下されましたが!)
************************************
今年、北谷町のアラハビーチに歩行者のための塩川橋が架かった。
毎日ウォーキングでこの橋を渡る度に哀しくなる。あまりにも思いやりの無い橋
だから。
アラハビーチは町中にあってもまだまだ美しい海が広がる。魚だってたくさん
泳いでいる。この塩川橋が架かるまではたくさんの人達が海を泳ぐ魚達を見て
歓声をあげものだ。
ところが、橋が架かったのはよしとしても、この塩川橋、大人の私でさえ
背伸びをして覗きこんでも下の海が見えない。分厚いコンクリートで味気なく
ガッチリ固められた壁のごとき美しくもない橋。柵のようであるなら海を
見ることもできるのに、コンクリートの壁のわずかな隙間からは到底見えない。
安全性というのなら、違う方法はいくらでもあったはず。
そればかりか、雨が降ると橋の両端に水が溜り水びたしに。まだ真新しい橋
なのに。
一体どんな人が設計したのだろう。海の美しさや魚になど興味も感じない人
なのかしら。仕事が取れればいいというお金が大切な人なのかしら。
それを許可したお役所の人はどんな人なのだろう。橋を渡る時に景色など
味わったことのない人なのかしら。全ては業者に委せておけばよいという
事なかれ主義の人なのかしら。
思いはそこに至ってしまう。どうぞそういう人達ではありませんように。
この橋に限ったことではない。どこの町にもそういう心ないものが溢れている。
みんなのお金は、みんなの気持ちを慮り、思いやって使ってほしい。みんなの
ために。
それが、仕事をする、働く、ということなのだと思うから。
「お前さんねえ、はたらくってのは傍が楽になるからハタラクってんだよ」
という落語の一説があるけれども、みんな働くのは自分のためだって思うから
辛くなる。欲得に走る。自分の身の回りの人を楽にさせるため、楽しませて
あげるために働くんだって考えたら、やる気も出るのではないだろうか。
つまり愛する人のために頑張るっていうのが人間一番元気が出るものだから。
人間は風や海や太陽や原子のエネルギーを使うことができるようになった。
でも、それと同じように、愛のエネルギーを使うことができるようになったら、
それは火の発見にも値し、素晴らしい世の中になるのではないだろうか。
このエネルギーは枯渇しないのだから。
私のモットーはいつも、「いま、愛なら何をするだろうか」。
先ほどの橋の話に当てはめてみるならば、橋の担当者の人達が「いま、愛なら
どんな橋を架けるのか」。その人は家族と一緒に美しい海を渡る時、
どんな橋を渡りたいのだろうか。思い浮かべてみてほしい。
そういう優しいものが町に溢れたなら、人の心も自然に優しくなり、歴史も
きっと変わる。
************************************
こんなふうに愛のエネルギーで働くことができれば、仕事に一種付き物の
「憂うつ感」はなくなるのではないでしょうか。
ただ、この仕事に立ち向う時の「憂うつ感」は、違う面では、今の教育にも
関係している気がするのです。
私もそうなのですが、仕事をしていると、トラブルが起こったり、人間関係が
いざこざしたり、体調がきつかったり、仕事が多く溜まってきたりと、本当に
辛い時があります。
でもその時こそ、社会で伸びていく人と、そうでない人の差がぐっと
出てくるように感じるのです。
それは多分、日本の教育に問題があると思うのですが、受験を筆頭にいい学校、
いい点数、いい成績をめざすために、今の人たちが何を教えられ、
何をやってきたかというと「効率のいい」勉強なんですね。
どういう意味かというと「限られた時間内に効率よく点を取る」ための勉強で、
「効率よく点を取る」ためには、わからないことは後に回して、わかるものから
優先的に点を取っていくんです。このやり方が身についてしまうと、
イヤなことはしない、面倒なことは後回し、楽なことから点数を稼ごうと
するようになる。しかも、興味のあることが「効率のよくない」ことなら
あきらめてしまったり、本当に好きなことを知る機会を持たないまま
大人になってしまうのです。
この考え方を社会に出ても続けようとする、つまり、自分が楽だと思うような
仕事から先にやって、面倒なことは後回しにしてしまうと、
それは正反対なんです。仕事というのは、イヤなことからこなしていかなければ
いけません。面倒なことから片づけていかないといけない。なぜなら、
楽なことは放っておいてもある程度まわるものだからです。
子供のころから勉強してきた処理判断と、社会に出てからしなくてはならない
処理の仕方では、まったく逆の思考をしなければなりません。
これが今の人たちはとても苦手なのだと私は思います。
また、これは仕事に関してだけではなく、
よく「なんとなくいつも憂うつなんです」とおっしゃる方が多いのですが、
それは、いつかはしなくてはならない事や、向き合わないといけないけれど
放ったままにしてある問題を、いつも心の片隅にしまっているからでは
ないでしょうか。いつも心のどこかに「憂うつ」を持っている。
そうではなくて、「憂うつ」っていうものは心の片隅からググッと眼の前に
引っ張り出してきて、真っ先に片づけちゃうべきなんです。やってみれば意外と
「あら、こんなに簡単だったの?」と思ったり、
「先にやっておいたら気が楽になった」ということになったりするもの
なのですから。
さて、今日はいよいよボジョレーヌーボーの解禁日!
ググッと憂うつに向き合った後で、いつもうんとがんばっているご自分への
御褒美に、ぜひやさしいひとときをプレゼントなさってあげてくださいね。
【2007.11.15 末金典子】
| 麗王だより 2007年
こんにちは。
お元気ですか?
今日はハロウィンですね~!
ハロウィンの始まりは、古代ヨーロッパの原住民ケルト族の宗教行事。
11月1日を新年とする彼らはその前夜に死者の霊が訪れると信じ、充分な供物が
ないと悪霊に呪われると恐れていました。そのため魔よけをし、同時に秋の
収穫を祝う祭りを行っていたとか。その後、多くの聖人たち(Hallow)を
祝う万聖節となり、近年、欧米では魔女やお化けなどの仮装をした子供たちが
「Trick or treat!(お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!)」と家々を
回ったり仮装をしたりして楽しむ日に変化しています。
日本でも注目されるようになったのはここ20年ほどのことです。
日本では子供のお祭りのようになっていますが、ハロウィンの行事が
ポピュラーなアメリカでは、大人たちも本格的な仮装に身を包み、
街中はもちろん職場にまで登場。友達や仲間同士で集まり、パーティで
盛り上がります。
大人もたまには子供に帰って遊ぶという気持ちは大切なことかも
しれませんね。
そこで私もちょっと童心に帰って……思い出したことがあります。
子供の時から引っ掛かっていたことがこれなんです……。
女の子は小さな時、ままごとをしますよね。
私も毎日のようにままごとをして遊んだものです。私がお母さん役になり、
人形を赤ん坊にして、ハンカチのおしめをとり変えたり、抱っこしたり。
お父さん役にはやはり男の子が望ましいと、私はお父さんになる男の子を
探しました。そして一つ年下のやさしくて静かな健ちゃんをままごとに
引っぱり込むことに成功した時、私はうれしくて、でもなぜだか
うしろめたかったんです。男の子がままごとを喜んでやるとは思えなかったので、
だまくらかした感じがして、いつ「やーめた」といわれるかハラハラしたから
なんだと思います。戦争ごっこをしている外の男の子に見られたら健ちゃんは
恥ずかしがるだろうとなと思いもしたり…。
それでも健ちゃんは泥まんじゅうがのっかっている木の葉を恥ずかしそうに
持ち上げて「パクパク。ああ、おいしかった」といってくれて、
私は酔ったように甘ったるい気分になりました。
ごはんを食べ終わると健ちゃんは会社へと出かけていきます。ござのへりに
ぬいだ靴をはいて「行ってくるぞ」と言い、私はござのはじに両手をついて
「お早くお帰りになって」とおじぎをし、健ちゃんは、すぐそばの木を
一回りして「ただいま」と帰ってくるのです。
ただそれだけのことでした。それだけだからすぐあきもしました。
あきても私はままごとが好きであり、健ちゃんをお父さんにする
うしろめたさとうれしさを何度も味わったものでした。
そして私が大人になり、初めて男の人に結婚を申し込まれた時(!)私は
ままごとに健ちゃんを引っぱり込んだのと同じような気がしたのです。
男は本当は結婚なんか望んでいないんじゃないか、戦争ごっこを
泥まみれになってやっていたいんじゃないか、と。
友だちの結婚式に出席してお祝いしているさなかも、はっとわれにかえって、
結婚式が大げさなごっこであり、集まって来た男たちは、木の葉っぱの上の
泥まんじゅうを「パクパク」といって食べている仲間をひやかしに
来ているようなそんな気がしたりしました。
つまりは、男って本当は結婚などせずに、ずっと自由に子供のままで
生きていたいのではないのかしら、ということを感じ続けてきたわけなんです。
それどころか、男って実は一生“子供そのもの”のままなのかもしれません。
梅佳代さんの写真集に「男子」というのがありますが、これがすごくおもしろくて、
小学生に「今から写真撮るよ~」と声をかけると、女子は可愛くちゃんと
カメラにポーズをとるのに、男子はというと、好奇心いっぱいの動物のように
レンズににじりより、定番が白眼をむいてのポーズ。あとは鼻に手を突っ込む、
道路に寝っころがる、など、とにかくおバカなポーズばかりとるんです。
この写真集はこのおバカな(つまりは照れ屋な)男子ばかりを愛情込めて
撮り集めてあるものなんですが、つまりは、男は大人になったってこういう
習性はさして変わらず、あいも変わらず照れ屋で、子どもの頃プラモデルに
熱中していた時そのままに、「へ? いまだにそんなことを?」なんてことに
熱中していたり、夢見続けていたりするものではという気が、いろいろな男性と
お話していると感じています。
そしてまた男は子供なだけではなく、とても繊細で脆くて弱い生き物だなぁと。
失恋となると、女は、別れるまでは「捨てないでぇ~」などと泣いてわめいて
大騒ぎするくせに、いざ別れてしまうと半年もするとケロッとしているもの。
でも男はそうはいきません。結構いつまでも引きずっている人が多いようです。
もしかして「女々しい」とは「男々しい」と書くのではないだろうか、
と思うぐらいに。まあ、神代の昔から、「原始、太陽は女であった」と
言われているのだもの。逆に、男はロマンティストで、神経が繊細で、生理的にも
精神的にも弱いからこそ、神様は男に腕力を与えたもうたのではないでしょうか。
自分が歳を重ねるにしたがって、自分より年上だったり、尊敬できるなと
思う人でも、何かのときにどうしてこんな子供なんだろうって感じることが
よくあります。私はそういう意味では男の人には大人を求めようとすることを
しなくなりました。そうなると逆に子供の部分がすごく愛おしくなったり
するんです。これは決して男の人をバカにしている意味ではなくて、
違う意味での尊敬感なんです。つまりは、女が「男は強いもの!」と決めつけず、
変に男に頼らずに求めずに「男は繊細で子供のように純粋で脆いもの」と
愛おしく想い、包むように愛すことができたなら、世の男女の関係って、
もっとスムーズで、素適なものになるような気がするのです。
でも、信頼できる大人の強い男性に愛されて、心から落ち着き、
安らげる関係こそ“心に優しい恋愛”だと多くの女は思ってしまうわけです。
私も以前はそう思っていました。でも今は、相手から癒されるために恋愛を
するのだとは捉えられなくなりました。
そもそも恋愛ってそんなに癒されるものじゃありませんよね。もちろん幸せな
恋愛もあるけれど、そこまでにはつらさや切なさを乗り越えなければ
ならなかったり、手に入れた後でもまた行き違いが起きたり…。
癒される瞬間があるとしたら、それは人を心から好きになれる自分に気づいた時。
その気持ち全体が、心を癒してくれるのではないかと思うんです。
つまり、他人に寄りかからず、自分の気持ちを純粋に信じた時、
「相手の愛情に癒されるのではなく、人を好きになった自分自身に癒される。」
のだと今は思います。
さてさて、今日は、純粋で子供な男性と一緒に、女性も優しく包み込むような
気持ちで、ハロウィンをわいわい楽しみましょう!
私も魔女に変装し、八ロウィンの飾り付けやかぼちゃのパイやケーキとともに
あなたをお待ちしております!
「麗王に来てくれなきゃイタズラするぞ!」
| 麗王だより 2007年