さすがの沖縄もこの連休は寒かったですね~。
風邪などひいていらっしゃいませんでしょうか。

昨日は建国記念の日でしたので、日本という国についてちょっと考えて
おりました。

ハワイがアメリカ合衆国の50番目の州だということはみんな知っていること。
アメリカ建国の時には13州でしたが、次第にその数が増え、星条旗には現在
50個の星が描かれていることや、その数がもっと増える可能性があることも
みんな知っていること。さて次に合衆国に仲間入りするのは、つまり51番目の
州になるのは、プエルトリコではないか、という見方をする人や、
カストロ亡き後のキューバかも、などと穿った見方をする人もいます。
中には「ジャパン」という人もいます。無論、日本がアメリカの州の1つになる
なんてあり得ない話で、当然ジョークの1種なのでしょうが。
でも、「日本はほとんどアメリカの属国の1つだ」という政治・経済的現実の
いやみが込められている訳です。つまり「統治国なき植民地」だと。
確かに日本人は戦後のアメリカによる経営統治によって、かつてとは異なる
価値観を植え付けられ、元々私達が守り育ててきた国民性が大きく
変化したことは確かです。また、アメリカの国謀が戦後、唯一成功したのは
日本の教育をメチャクチャにしたことだとも言われています。

9・11のアルカイダによるニューヨーク攻撃以来、全体主義的な
ヒステリックさを尚更強めるアメリカ。断っておきますがアメリカという国は
「ペリー来航」以来、日本に対しての心のスタンスは何1つ変わっていない
のです。時折、渋々日本の力を容認しようとすることはあっても決して
尊敬することはありません。このような関係を「友人」と呼ぶのでしょうか?
そういういきさつはともあれ、私達の国「日本の心」がこれからどうなって
ゆくのか、ということ、いったいどうしたらこの国はかつてのように礼儀正しく
慎みのある気品の高い国に戻ることが出来るのだろうかということ、それら、
「日本の未来」への不安と希望は常に私の中にあるのです。

いつも書いてきましたように、いろいろな犯罪、教育や言葉などの文化の崩壊…
など、日本人の心は壊れつつありますが、日本の風土や、季節の美しさが必死で
日本を護っていることに、最近気付きました。
桜の季節には人々はそれぞれの心を抱いて花見に行きます。「花が咲いた」と
いうことがニュースになる、本当は心優しい国なのです。夏になった、と
海の美しさに心を開放し、秋には山々を彩る木々の美しさに心を癒やし、
冬は身体を寄せ合って寒さに耐え、また、雪の白さに心を洗い、
そうしてどれ程寒い冬でも次には必ず春が来る、と希望を捨てない国なのです。
実は私達はこれほど美しい国に住んでいるんですよね。

アインシュタインが大正11年に日本を訪れた時に講演された中の1節です。

「世界は進むだけ進んでその間、幾度も闘争が繰り返され、最後の闘争に疲れる
時が来るだろう。そのとき、世界の人類は必ず真の平和を求めて、
世界の盟主をあげねばならぬときが来るに違いない。その世界の盟主は武力や
金力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した最も古く、且つ、尊い家柄で
なければならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰り、それは、
アジアの高峰・日本に立ち戻らねばならぬ。我々は神に感謝する。
天が我ら人類に日本という国を造っておいてくれたことを。」

このアインシュタインの言葉に、この国の風土に、恥ずかしくない心を
取り戻そうではありませんか。

いつもみなさんとお話させていただいていて感じることですが、
「一人一人は本当に素晴らしい」って。戦争をしている人たちでも、きっと
一人一人は素晴らしい人なのでしょう。じゃあ何故、悲惨な出来事や事件が
起きてしまうのでしょう。
もう一度、その一人の素晴らしい人に立ち戻って、
まずは自分自身をうんと愛してあげることからはじめるべきなのかも
しれません。
一日に一度でもいいから心の中で自分に向かって「愛してる」と伝えましょう。
自分のために幸福を願いましょう。自分に幸福なものをたくさん贈るように、
あなたが幸福になることを願えば、新しい力があふれてきます。
そして、自分の身体を、心を、存在を慈しみましょう。感謝して大切に
扱いましょう。心のどんな小さな声も聞き、大切に大切にしましょう。
その優しさは必ず外に反映され、愛し愛されるあなたがそこにいるはずです。

それができたら、次は、あなたの周りの人達にもちゃんと愛を、気持ちを、
心の声を伝えてみましょう。
そんな愛の輪が広がれば争いはなくなるのではないでしょうか。
愛は生きる原動力です。
人間は風や海や太陽や原子のエネルギーを使うことができるようになりました。
でも、それと同じように、愛のエネルギーを使うことができるようになったなら
それは火の発見にも値し、素晴らしい世の中になるのではないでしょうか。
愛のエネルギーは枯渇しないのだから。

確かに愛を伝えるなんて、難しい、照れくさい、面倒くさい、という方も
いらっしゃることでしょう。
私も昔はそうでした。なんだか照れくさかったんです。
私が学生の時のことなのですが、大好きでたまらなかったおじいちゃんが
亡くなりました。胃ガンでした。冷たくなっていくおじいちゃんを前にして私は、
おじいちゃんが生きている時に、どうしてもっとちゃんと
「おじいちゃん大好きだよ」「とっても尊敬してる」「すごく大切な人
なんだからもっと一緒にいてね」と思いの丈を伝えてあげなかったんだろうと
すごくすごく悔やみました。そしておじいちゃんと約束しました。これからは
自分の想いを人にちゃんと伝えよう、言葉にしよう、行動で示そう、と。
それは時には誤解されたり、反省につながったりということももたらすのですが
私の一言でもしも、励まされたり、希望が持てたり、肩を押されたり、
元気になってくださる方がいてくださればいいなと思うからです。

明後日はバレンタインデー。
どうぞあなたの大切な人達に愛をたくさん伝えてあげてくださいね。
そしてあなたが愛いっぱいにいつもお幸せに満ち溢れておられますように。

【2008.2.12 末金典子】

こんにちは。
沖縄県だけがあまり冬らしくない暖かな冬のようですが、お変わりなくお元気に
お過ごしでしょうか。
日曜日は節分ですね~。

立春の前日が節分の日です。
立春が一年の始まりだった昔、新しい年神さまを招く前に、来る年の災いである
鬼を祓う行事として、前夜に行われていたそうです。
そう考えると「鬼は外、福は内」の理由がわかりますよね。
この日に、いり豆をまいたり、年の数だけ食べたりする風習は室町時代に広まり
豆が「魔滅」に通じ、邪気を祓うからとか。また「まめに=健康に」とか、
面白い説がいろいろ。
折りにふれ、季節にふれて健康を願う昔の人の豊かな心が感じられますね。

「鬼は外、福は内!」
子供の頃、そう言いながら、縁側から炒った豆をまいたことを
昨日のことのように思い出します。 「今日からは暦の上では春よ。」という
母の言葉に、なんでこんなに寒いのに春なの? と思いながらも、その言葉の
柔らかさには、妙に胸がわくわくしたものでした。今私に子供がいたら、
母と同じ台詞を投げかけるだろうと思います。 私、この「暦の上では」という
言葉が好きなんです。どんなに寒かろうが、そう声にするだけで、何だか
あったかくなる美しい日本語ですよね。

また、私はこの季節になると偉大な童話作家・濱田廣介の「泣いた赤鬼」という
名作を思い出すのですが、この話を知らない人が意外に多いと聞いて
吃驚するんです。是非とも読んでいただきたいので、ちょっと御紹介してみます。

「鬼」と言えば人間を苦しめる「悪」の存在、のイメージですが、濱田廣介の
鬼はそうではありません。人間と仲良くしたくて仕方がないんです。それで、
「私はやさしい鬼ですからどうぞ皆さん遊びに来て下さい。美味しいお茶を
用意していますよ」という立て札を立てるんですが、そうなると人間は疑り深く
却って誰も寄ってこないんです。一旦嫌われると人間社会というものは
そんなふうに徹底して冷たいものですよね。この悩みを親友の青鬼に相談すると、
青鬼は赤鬼のために一役買おう、と言いました。僕が人間を虐めるから、そこへ
君が来て僕をやっつければ、人間は君を信頼するだろう、と青鬼は言うのです。
赤鬼のために自分が悪者になることを提案する。赤鬼はそれでは君に
申し訳ないと言うのですが、青鬼は君がそれで人間と仲良くなれたらそれは僕も
嬉しいと言うんです。それで言われた通りにすることにしました。
青鬼が人間の村で暴れているところへ赤鬼が駆けつけて、青鬼をやっつける。
「痛くないように」殴ろうとすると、青鬼は本気でやらなきゃ駄目だ、と諭す。
赤鬼が「本気」でぽかぽか殴ると、予定通り青鬼は逃げ出しました。
そしてこのことで赤鬼は人間と仲良くなることが出来ます。
ところが、人間と仲良くなって嬉しい日々が過ぎてゆくと、今度はふと、
自分のために犠牲になってくれた青鬼のことが気になりました。
そこで山を越えて青鬼に会いに行くと、青鬼の家は空き家になっていて、
立て札が立っていました。青鬼からの手紙でした。青鬼は赤鬼がきっと
自分のことを気にして訪ねてくるだろうと分かっていたのです。でも、万が一、
二人が仲良しでいるところを人間に見られると、赤鬼はまた疑られる。
だから僕はずっとずっと遠いところに行きます、と書いてありました。
そして最後に「ドコマデモキミノトモダチ」と結んでありました。
それを見て赤鬼はおいおいと泣き出すのでした。

この話は何度読んでも感動します。私は同じ所で泣いてしまうんです。
その理由は「情」なのだと思います。なさけに溢れた話だから。
義もあります。「自分が考える正しい行いをしよう」という誠意に
溢れているから。
感謝もあります。赤鬼の涙は青鬼への感謝と、これほど自分を思ってくれる
友達を失ってしまった後悔の涙なのでしょう。

まず青鬼は自分が赤鬼のために悪者になろうと決めたとき、既に赤鬼との
決別を決意した筈です。そして自分を犠牲にした後も、決して赤鬼に
「自分がしてやった」などという高慢な恩を着せることもなく、最後の最後まで
赤鬼の立場に立って物事を考えます。

相手のために本当に何かをする、ということはここまで考えて行動することでは
ないのでしょうか。
友情や善意は必ず存在するのです。
青鬼は赤鬼が自分のそういう思いを必ず分かってくれる、と信じているから
自分を犠牲に出来るわけです。
実は今、日本に一番欠けているものは、こういった「情」なのだと思います。
私は「泣いた赤鬼」に出てくる「青鬼」の赤鬼への真の友情を思うたび、
泣けて泣けて仕方がありません。そして、鬼が悪だと誰が決めたの?と
思ってしまうのです。そうですよね。余程今時の人間の方が「鬼」より
悪いのではないでしょうか。
相手がきっと自分の真意を分かってくれる、という信頼感は一朝一夕には
生まれません。長い時間をかけてお互いの人間関係の中で練り上げてゆくもの
です。自分の都合ばかりで人を恨んだり疎ましがったりする。これはエゴでしか
ありません。
私は青鬼ほどには「無私の心」で友人や日々お会いする方々と
向き合うことが出来てはいないけれど、こんなふうにありたい、と思うか
思わないかでは、相当な違いがあると思っています。

最近よく考えることなのですが、
「欲ってなんだろう?」って。
大人になりたい。いい学校に入りたい。運命の人と巡り会いたい。
スタイルがよくなりたい。……
つまりは幸せになりたいっていう欲です。
本当は、幸せになりたいなら、まず自分の好きな人を幸せにしてあげたりすると
いいのかもしれないなって思うようになりました。
青鬼ではないけれど、大切な人が幸せそうなら自分も幸せになれる。
誰かに幸せにしてほしいと思ううちはまだまだで、
幸せって、実は他人の中にこそあるんじゃないかと思うのです。

「日々お会いする人が少しでも幸せな気分になってくだされば」という
想いは、今でもずっと同じです。
すべてはそういう気持ちから始まりました。いろいろな経験を
させていただき、たくさんの思い出が出来ましたが、
「求めない」ということが、人間を一番豊かにするのでは、ということが
一番大きな学びとなりました。
さきほどの青鬼のようにはなかなかなれないけれど、
私今日はちゃんと周りの人に優しくしていたかなぁって、思う毎日です。

さあ、日曜日は節分。
大きな声で豆をまいて。「鬼は外、福は内。」
そして今年の恵方・南南東に向かって、幸運をおいしく呼び込む恵方巻き寿司を
ガブリとまるかぶりなさってくださいね。
今年一年の幸せを心から願って。

【2008.2.1 末金典子】

おめでとうございます!

お正月はいかがお過すごしでしたか~?
私はごくごくオーソドックスに、
年末に日頃気になっていた所のお掃除をし、手の込んだお料理をゆっくり作って
味わい、年越しそばをいただき、紅白歌合戦を観て今やもうついていけない
流行歌のお勉強をこなし、おせち料理を作り、
三が日は、お雑煮・お屠蘇をいただき、初詣に行き、ランニングもしっかり
こなし、ぐっすり眠って初夢を見たお正月でした。

そして、年末のお便りでご提案させていただいた通りに、自分でも
何もしない日を作ってみようと、ボーッと自分自身を見つめ直すがごとく
いろんなことを考えたり物思いに耽ったりして何日か過ごしてみました。
そうすると、以前にも書いて笑われてしまいましたが、小学校の時の
さんすうの問題で「ある人がリンゴを買おうとしたら…」なんて問題で
「ある人」のことがひどく気になり始めるという私の性質上、
普段とりあえず放っておいたいろんな気になることが出てくるわ出てくるわ…。
たくさんの方が思っていらっしゃることとだぶるかもしれませんが、
ご紹介してみます。

まずは「粒タイプ」のガムのこと。
いちどスキップしながらあれを口に放り込んで、気管に詰まらせてあやうく
死ぬところでした。あのような恐るべき殺人兵器が白昼堂々と
売られていることに慄然とします。スムーズに気管に吸い込まれるように
つるつるに仕上げた表面。両端を平たくつぶした流線型。ぴったり気管に
フィットする大きさと形。そこには明確な殺意が感じとれるではありませんか。
さらに恐ろしいのは、まったく同じような形と名前とパッケージのキャンディが
往々にして同じメーカーから発売されているという事実です。
キャンディをガムとまちがえて思い切り噛んだことによる歯及び顎への衝撃
および精神的ショック、といった惨事が、報道こそされないが全国で多数
発生していると思うのですが、その責任をクロレッツはどう取るつもり
なのでしょうか。
…なーどとまるでクレーマーのように大袈裟にブリブリしてみたり…。

「ロボコップ」について。
あの、顔の下半分だけ生身なところがいやです。境い目が何だか痛そうで
すごくいやなんです。なぜあんなむごいことをするのでしょうか。いっそ全部
ロボットにしたほうがすっきりするのに…。やっぱりあそこの部分は髭が
伸びるのでしょうか。だとしたら、毎日「ウィーン、カシャン、ウィーン」
などといいながら剃っているのでしょうか。……

「根掘り葉掘り」の「根掘り」はともかく、「葉掘り」って何なの?
それを言うなら「夕焼け小焼け」の「小焼け」とは、いったい何が
焼けているの?
「首の皮一枚でつながっている」って、それってすでに死んでいるのでは?
……

ある言葉を言ったり思い浮かべたりすると、頭のスクリーンに、ぜんぜん別の
イメージが現れることがありませんか?
先日も「オムニバス」という言葉を言うか聞くかした瞬間、巨大な蓮の上に
金髪の子供が乗っている絵が現れていることに気がつきました。どうやら
小学校時代より愛用していた植物図鑑の「世界のめずらしい植物」のページに
載っていた「オオオニバス」と関係があるらしいのです。
「まっしぐら」と言うときには、マグロが時速200キロぐらいの猛スピードで
泳ぐ映像と一緒に、マグロの赤身の味と匂いが鼻の奥に充満するのです。
また「ほとけさま」という言葉には、菊の形の落雁の映像が誘発されます。
これはたぶん子供の頃、祖母の家に遊びに行ったとき、祖母が「仏様が」と
言いながらお仏壇を指さす先にいつも落雁が供えられていて、幼い私は
しばらくその落雁を「ほとけさま」だと思い込んでいたからだと思います。
「眉毛」は西郷隆盛の顔を呼びます。これは、やはり「眉毛」と「睫毛」の
区別に長年苦しんだ幼い私が、「西郷さんの太い眉毛」とフレーズにして
覚えていたせいでしょうか。
言葉が無意識のうちに別の形に変換されていることもあります。
私の頭の中では以前「エリック・クラプトン」は「エリック・フランプトン」
に、「たかしまや」は「たかましや」に、「鉄筋コンクリート」は
「鉄筋キンクリート」に、「シフォンケーキ」は「マフィンケーキ」に、
常に置き換えられていて、どうやっても消去することができないので、いつか
実際に言ったり書いたりしてしまわないかと心配です。

TVをボーッと観ていると大相撲の映像。ここでもまた何十年来の疑問である
「男性の乳首問題」について否応なしに考えさせられました。
思えば、人体においてこれほど役に立たない部位もちょっと他にありません。
男女の役割が未分化だった頃の名残りだとかいう説もありますが、男は狩猟、
女は育児という役割分担ができてからいったい何千年経ったと
思っているのでしょうか。いい加減あきらめて退化してもよさそうなものでは
ないでしょうか。だいたいこの手の一見もっともらしい説は、どれも怪しい。
髪の毛は頭を守るためにあるとか、乳房は前からみたお尻であるとかいう説に
したって、それらなしで立派に幸せにやっている人が大勢いらっしゃることを
思うと、どうも説得力に欠けるのです。

胃薬のコマーシャルで、胃の中に茶色くもやもやした悪の部分が描かれていて、
そこに顆粒状の薬が流し込まれると悪いもやもやが押し流されるのですが、
それが完全にはなくならずに、必ずちょっとだけ残る。
あれがひどく気になるんです。「ああ、あそこのところがまだなのに」と、
いつももどかしく思うのです。どうやらどんな薬でも、薬関係の
コマーシャルでは悪の部分は必ずちょっとだけ残すのが作法であるようです。
いったい何を彼らは恐れているのでしょうか。全部きれいになくしてしまうと、
「本当にあんなに完璧に治るんだろうな」と絡んでくる消費者でもいるので
しょうか。たぶんいるんでしょう、私のようなのが。ナーンテ!

同じようなものでありながら、「髪」に比べて「毛」は不遇ですよね~。
「髪」は豊かだったりたなびいたり女の命だったりと、総じていいイメージを
担当しているのに、「毛」ははみ出ていたりワイセツだったりムダだったりと
ろくなことがありません。「剃髪」には厳かな響きがありますが、「剃毛」は
なんだか恥ずかしい。「亜麻色の髪の乙女」とは言っても、誰も「亜麻色の
毛の乙女」とは言ってくれません。「毛」は体毛の総称であり、「髪」は言わば
その一部署にすぎないのだから、「毛」はもっと優遇されてしかるべき
ですよね…。

ここからは私のお友達のお話ですが。
彼女は「おおよその見当」というものがつけられない人なんです。
お料理のレシピで「適量」とか「あとは適当に味をみながら」などと
書いてあるともうそれだけでパニックになるんです。どれくらいが「適量」
なのかが、まるでわからないから。「ここから200メートルほど先を右」などと
言われると、茫然とするしかないそうです。なぜ200メートルなどという、
自分の身長の100倍以上もあるような距離が実感としてわかるの?と。
彼女に体感できる距離は25メートルまでで、それはお察しのとおり、小学校の
プールの長さです。そこでまず小学校のプールの大きさを記憶の中から呼び出し
(それと一緒に、思い出さなくてもいい塩素の匂いや、紫色の唇や、
進級検定のときのドキドキまで蘇らせつつ、だそう。
さすが私の友達だけあるなぁ)、それを目測で道路の上に一つ、二つ、三つ…
と並べていくそうですが、五つあたりでもう目がわからなくなるそうで、
人はいったいどうやって「だいたいこんなものであろう」という判断を
つけるのだろうかといつも思っているんだとか。

ところで。
これまで書いてきたような事は、他愛ない新春お笑いネタのようなものばかり
でしたが、昨年もたくさん書かせていただいたような、
「今、この国の状況はかなり変だ」と真面目に思うようなことの数々についても
今年も、みなさんから「うざい」と思われても引き続き書いていこう、
話し合っていこう、と思っています。

勿論、話すことというのはそんな重たく、面倒くさい事ばかりでは
いけないと思います。こちらもくたびれます。生きる楽しさ(例えば愛、
遊び、こころ)を話し合うのは勿論のことです。でも生きる苦しさ(例えば生命、
生活苦、病気)から目をそらしてもまたいけませんよね。日常生活を思えば
解ります。私たちは一日中楽しいわけでも、一日中苦しいわけでもありません。
楽しみの中に時折苦しさや悲しさが訪れ、苦しい最中にふと、喜びが訪れたり
します。喜びの絶頂の時、既に悲しみの種は蒔かれていますが、よく見れば
絶望のどん底の時、既に喜びの芽は必ず芽吹いています。生きるということは
そういうことなのだと思うのです。

私は話したり書く勇気がある限り、たとえみなさんに届かなくても声を限りに
「生きる楽しさ」と「生きる苦しさ」を伝えようと思います。それは自分自身が
「生きる」ということと、きちんと一所懸命向かい合うことなのです。何故なら
自分が正面切って自分の命と向かい合っていなければその楽しさや苦しさを
表現できるはずなどないからです。

さて、では世の中にはそういう私の声がきちんと届くかというと残念ながら
そう簡単なことではありません。「選挙宣伝カー」の件も「しおかわ橋」の
件も「添加物」の件も徒労だったかもしれません。

言葉というものは「価値観」が違うと伝わらないからです。どれ程心を尽くし、
深い言葉を重ねたところで、価値観が違う人には理解しようがありません。
また、人の価値観を理解することは難しいものです。自分には自分の価値観が
あるからです。でも、あなたの価値観以外にもこういう考え方がありますよ、
と伝えることは大切なことのような気がします。そのことによって人生の目が
拡がることがあります。事実、私はお客さまやお友達の言葉から、また映画や
本や音楽などから凝り固まった自分の考え方以外にもこういう素敵な考え方、
感じ方があるのか、と目から鱗が落ちる思いでで教わることは多く、それが、
以後の自分の人生をうんと明るく強くしてくれていることも確かだからです。

普段いろいろな方達とお話させていただいているとそうでもないのに、
ここのところ、世間の価値観と、どうにも噛み合わないことが多いのです。
ことに生命について、心の有様について、お金に対する考え方、また、
遊びに対する感覚や意識。親、友達、恋愛について。どれもこれもです。
それは単に私が年齢が上がってきて理解できないということだけでは
ないはずです。人々自身もまた生命や心といった「自分」に迷い、
理解できていないのではないでしょうか。

今年もそんなことについてお伝えしてゆこうと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。

さあ、新しい年ですよ!

***********************************

今日は七草です。
歴史は平安時代にさかのぼります。朝廷では一月七日に若葉を摘み、冬の寒さを
打ち払おうとする習わしがありました。一方、海を隔てた中国でも、この日に
7種類の菜の煮物を食べれば、万病にかからないという言い伝えがありました。
七草がゆは、この日本と中国の風習が合体。一月七日に、一年の無病息災を願い
七草を入れたおかゆをいただいて、冬に不足しがちな野菜を補い、お正月の
暴飲暴食で疲れた胃袋をいたわるという古人の知恵が、現代に行き続けている
行事です。お休みモードからふだんの生活に切り替えるきっかけとして
おすすめです。
ぜひ召し上がってみてくださいね。

そして、金曜日は“鏡開き”の日。
供えておいた鏡餅をおろして、食べる祝儀のことをいいます。
「切る」という言葉を忌み嫌い、刃物では切らずに、手や槌で割って「開く」と
めでたい言葉を使います。
この言葉に対する細やかな感性は、まさに日本ならではのものですね。
この日に食べると、その年は無病息災であるという、
生命力が宿るといわれるこの鏡餅。
この日はおぜんざいにして、ぜひお召し上がりくださいね。

【2008.1.7 末金典子】