沖縄のあちらこちらのビーチではもう海開き!
春を満喫しないままにもう夏を迎えようとしていますが、
お元気にしていらっしゃいますか?
早いもので、もうゴールデンウィークがやってきますね~。
あなたはもう何かプランを立てておいででしょうか。
慌しく忙しい毎日です、ぜひともゆっくりとした休息の時間をとってくださいね。
そもそも私達はどこで間違ってしまったのでしょう。
たくさんの人々が、朝から晩まで働きづめで、のんびり休みも取れない日々の暮らし。
望みどおりの人生からは、とうていほど遠い。
身も心も疲れきり、自然と切り離された環境ではストレスもたまるばかり。
子供の頃のように、無邪気に笑いころげたのは、いったいいつのことでしょう。
自分の心をごまかして、無理を通して生きていれば、心も体もずれてきます。
少しずつ、少しずつ、じわりじわりと確実に。
だからこそ休息の時間を持つことは本当に大事なことだと思います。
じゃあ一体どんなふうに休めばいいんでしょう。
おうちでゴロゴロする? どこかにお出かけする? ……?
脳科学者の茂木健一郎さんの本を読んでいて、そのヒントをいただきました!
まず、人間の脳というのは、もともと、非常に「コントラスト」を好む傾向に
あるそうなんです。
明と暗、寒と暖、大と小…。
なぜなら、脳の中ではすべてが「コントラスト」で表現されているから。
「明」そのものにも、「暗」そのものにも情報はありません。ただ、明と暗の
コントラストにこそあるのです。
それは人間が、昼と夜という強烈なコントラストを描く地球という惑星の上で
脳を進化させてきた生物だから。
常に変化のない環境に暮らす生き物ならコントラストは必要ありませんが、
人間、そして地球上のあらゆる生き物は、コントラストを糧として
生命を養うように自身を作り上げてきたのです。
だから私達人間もまた、安逸と熱狂というコントラストを愛さずには
いられないのですね。ゆっくり休息する休日と、一生懸命働く日々と
いうように。
ニーチェが「舞踏」という言葉で神なき世の人間の営みを記述したように、
現代の人間は熱狂的な踊りのただ中で生きているようなものです。
でもその熱狂の本質を知り、生命学的な輝きを心ゆくまで味わうためには、
舞踏のただ中にいるだけではなく、魂を冷やし、身体を休息させて、
そのコントラストの中に、かつての熱狂を振り返る必要があるのです。
この休息の時間は、休息自体が目的なのではなく、生活や仕事が輝いていた
その時間の意味を自分の中で腑に落とす、落ち着きどころを見つけるためのもの
だとも思います。
そしてまた、休息のあり方にも注意が必要です。
例えば、徹底的に絶望すると、底に着くことができますよね。
そうすると、底が足がかりになって浮上していきます。それと同じように、
中途半端に休んでも上昇のためのエネルギーは発生しませんから、
休息の時間を持つなら、その前にまず、徹底的に踊り尽くさなければなりません。
そして休息もまた、底を打つくらい徹底しなければ、というわけです。
自分の中の低い、冷たい魂の硬質な手応えを感じるくらいでなければ
意味がないのです。
つまり、働く時も一生懸命なら、休む時も徹底して、というわけです。
でも、心地よく徹底した休息の時間を持つなんて意外と難しい。
例えば、携帯電話の電源を切ってみる、なんていうのはどうでしょう?
不可視の情報の網からオフラインになった瞬間、まさに安逸の底を打つ感覚が
あるかもしれませんね~。
そしてそれより遥かに深く、というか、遠く熱狂を離れるための対象が、
「宇宙」かもしれません。
宇宙のあり方や、地球の歴史について思いを巡らすことが、私にとって最大最強の
頭の休息の時間。だって、それ以上どうしようもないんですから!
たとえば今、温暖化の問題が騒がれていますが、全球凍結時代、地球全体が赤道に
至るまで完全に氷床に覆われた時代もあれば、そこから温度が100度も上昇し、
生物の形態が爆発的に多様化した、という時代もある。そういう地球の地質学的な
スケールの歴史に思いを馳せると、魂が冷却されませんか~?
要はどれほど大きな客観性を持てるかということ。そうして、直面している生活や
仕事を離れて、自分自身を眺めてみる。それはつまり、現在進行中の自分の思考や
行動そのものを対象化して認識するということです。
海をどこまでも潜っていって、到達した底にあるのは、地球かもしれないし、
宇宙かもしれません。その揺るぎがたい、大きなものに突き当たったとき、人間は
再び、熱狂の陽の下へ浮上することができるのだと思います。
あと、休息するには「距離感」も大切かもしれません。
現在ただいまの生活から、時間的にも空間的にも可能な限り距離を取ることも、
私達にとって休息の時間になります。
だから、あなたもこのゴールデンウィーク、頭の中の休息とともに、身体ごと
どこか遠くに行っちゃいませんか~?
いつも懸命に頑張っておられるあなたです。
ゆっくり休んで、う~んとしあわせな気持ちにひたって、
お休み明けからは、また優しい気持ちで、温かい世界に戻ってゆけるといいですね。
* わたくしの方は、出張も兼ねまして、
初めての、ベトナム(ホーチミン・ニャチャンビーチ)へ行ってまいります。
【2009.4.24 末金典子】
| 麗王だより 2009年
お元気ですか?
今日は桃の節句ですね~。
この節句は中国から伝わったもので、この日に川で手足を洗って心身の穢れを
祓ったといいます。
日本では、穢れや邪気を、身代わりの人形に移し、川や海に流し、川原や海辺で
干し飯やあられを食べて楽しんだのだとか。
子供の頃、おばあちゃんが、飾ってくれたお雛さまの前で、
どうしてひな祭りの日には、はまぐりの潮汁・白酒・ひし餅・などを食するのか
という話をしてくれたことを思い出します。
お膳にはその他、ちらしずし・桜餅・桜漬け・鯛の尾頭付き・ひなあられ・
菜の花のおひたし・白酒などが並んでいましたっけ。
だから私にとってひな祭りの日は、10年前に逝ってしまったおばあちゃんを
思い出す日でもあるんです。
その私のおばあちゃん、よくこんなことを言いました。
「電車で出かけんねんて? 板チョコ、持って行きなさいや」
お楽しみのために板チョコを持たせようというのではありません。
電車が故障したり事故にあったりして止まってしまったときの備え。
車内に閉じこめられたとき、板チョコを食べてしのぐのです。
友達と遊びに行くときにも、小さなおむすびを作って追いかけてきましたっけ。
たくさんの子供を産み育て、戦争を始めさまざまな災難をくぐり抜けてきた祖母。
生き抜くための備えには敏感でした。口うるさい質ではなかったので、
その注意はもっぱらお転婆な私に向けられていたようです。
祖母は、寝る前には枕元に、明日身につける着物類のほかに、板チョコ、
水の入った小さな水筒、タオル、足袋、懐中電灯が入った巾着袋を置いて
いました。「赤ん坊がいたころには、おむつと肌着も入れてたもんやで」
子供ごころに、大げさな、と言って笑いました。
でも、祖母の備え癖は、私になんらかの影響をもたらしたものと思われます。
私の家には“災害時非常持ち出しリュック”がいつも置いてありますもの。
生活というものは、不意のことと驚きの連続です。
望ましいのも、望ましからぬのもあり、そのどちらもが、本当に突然、
やってきます。
大人になってから、その実感はいっそう大きく私の胸に住みつくように
なりました。そして、見えてきたのです。祖母は備えるだけ備えてしまうと、
あとはさっぱり先のことは考えませんでした。まだ起きていないことを
心配したって仕方ないと思っているみたいでした。
「心配事や災難が降り掛かったら、そのときは、ここにいるみんなで一緒に
困りましょう」
という佇まいです。
わが祖母ながら、なんだか素敵。
十年前に逝った祖母に今度会ったら、たくましくもたおやかな立ち姿を
見せてくれてありがとう、とおじきしなければなりません。
そのおばあちゃんがとても大切にしていたのが、「こんにちは」「さようなら」
といったあいさつの言葉でした。
きわめて基本的な、あいさつのひとつなのに、じつはあんまり使われていないのが
この「さようなら」。
お友達と会って別れる時は、「じゃあね」とか「またね」とか「バイバイ」と
言ってしまうから「さようなら」は出てきません。
また一方、仕事の時も、「では失礼します」「ではよろしくお願いします」
さもなければ「じゃあ、そういうことで…」一体何が「そういうこと」なのか
わかりませんが、とにかくそれが別れのあいさつになっています。
あなたは最近「さようなら」の言葉を使われましたか?
最後に使ったのはいつでしょうか?
自分ではもう、ほとんど使わなくなっている「さようなら」を
あらためて使う時ってどうだったかなぁ…と思い出してみると、
それは、もう二度と会わないかもしれない相手や、遠い外国に住んでいて、
当分会えなくなる相手との別れの時。そういう場面では、確かに自分も
しっかりとした「さようなら」を相手の目を見て言った記憶があります。
長い長い別れや、重い別れ、そしてまた永遠の別れ…。
人は今ではそういう時のために、究極の別れの言葉として「さようなら」を
とっておくのかもしれません。
こんなことも思い出しました。小学生の頃から通っていた茶道教室の先生は、
私達を送り出す時、いつも決まって「さようなら」と、ていねいに頭を下げて
おられました。その別れがなんだかとても心地よくて、うっとりした気持ちで
家路についたことを覚えています。
そしてまた、私が訪ねるといつも家の外まで見送りに出て、こちらの姿が
見えなくなるまで手をふりつづけるおばあちゃんも、「さようなら」を
美しく言う人。
お茶の先生は言うまでもなく、「一期一会」という茶の湯の心を毎回のあいさつに
こめていらっしゃったのだろうし、祖母は祖母で日頃から言葉のひとつひとつを
とりわけていねいに言う人だから、日常的な別れさえ手軽に扱わないわけです。
ひとつひとつの別れをていねいに心に刻みつけようとしていたに違いありません。
そのおばあちゃん、10年前に私に会いに沖縄に来てくれて、何泊かを一緒に過ごし
大阪に戻ってから私の家の留守電にこう吹き込んでくれていました。
「典ちゃん、おばあちゃんです。
沖縄ではお世話になりましたね。本当にありがとう。
今ね、お土産にいただいたケーキをおじいちゃんのお仏壇に供えて、
思い出話をしてるのよ。沖縄はとっても楽しかったわぁ。
いい思い出になりました。本当にありがとう。
これからも身体に気をつけて、自分で一番いいと思う道を
悔いなく生きなさいね。
典ちゃん……さよなら」
その1週間後におばあちゃんは本当に逝ってしまいました。
だから特別な響きのある「さようなら」。
ひとつひとつの出会いと別れを、今よりもっと大切に扱うようになった時、
私にも自然にそういう「さようなら」が日常的に言える人になるのでしょうか。
今月は卒業式や転勤など、別れの季節です。
素敵な「さようなら」を言いたいものですね。
長くなってしまいましたが、
今日は古式ゆかしく、ひな祭りを祝おうと思っています。
【2009.3.3 末金典子】
| 麗王だより 2009年
お元気ですか~?
明日はヴァレンタインデーですね。
あなたはどなたとお過ごしでしょうか。
そこで、明日を前にあなたに質問です。
あなたの愛は生きていますか?
あなたの愛する人は誰ですか?
その人を本気で愛していますか?
愛だ恋だなんてバカバカしい、政治・経済や仕事の話を語るほうが意味があると、
したり顔で言う人がいらっしゃいますが、それは大きなマチガイですよ~。
恋愛も、政治・経済や仕事も、大もとは同じ。
つまり、人を愛することなんです。
政治にしたって、日本では政治をすることを政(まつりごと)をするといいます。
「まつりごと」というのは本来神や仏、ご先祖の御魂を大切にうやまい、それを
祀ることですが、政治の精神はそのまつりごとに発するといわれています。
また、仕事だって、人を憎み、嫉妬ばかりしていたら、絶対にいい仕事は
できません。悪い感情はどう取り繕っても表れてしまいますから。
愛情豊かな人でなければ、美しい仕事はできない。私はそう思います。
それに、寝不足や二日酔いで「今から仕事」となれば苦痛でぐずぐず出かける
ところでも、「今からデート!」となれば気持ちも浮き立つのでは
ないでしょうか。
愛は生きる原動力です。
人間が風や海や太陽や原子のエネルギーを使うことができるようになったのと
同じように、愛のエネルギーを使うことができるようになったなら
それは火の発見にも値し、素晴らしい世の中になるのではないでしょうか。
愛のエネルギーは枯渇しないのだから。
今、モノはあふれ、情報は持て余すくらいに満ちています。
けれども…。
心は、満たされていますか?
人は、前へ前へと急ぐうちに、大切な何かを置き忘れてきたのかもしれません。
でも、それは、わざわざ探さなくてもいいのです。
あなたのすぐ隣にある、と私は思うのです。
ただ近すぎて、見失っているだけ。
それは、あなたの奥さまや旦那さまやパートナーであり親であり子供であり
家族であり、きょうも職場で触れあった、あの人この人。
そして、あなたを包む街や自然、四季の移ろい…。
あなたという「いのち」は、ひとりで在るのではなく、あなたを取りまく
「いのち」と共に在るのです。
様々な「いのち」に生かされて在るのです。
もし、心からそう思えたら、人はきっと前を向き顔を上げて、また毎日を
歩き始められることと思います。
そして何よりも。
まずは、自分自身をうんと愛してあげることから始めてください。
一日に何度でも心の中で自分に向かって「愛してる」と伝えましょう。
自分のために幸福を願いましょう。自分に幸福なものをたくさん贈るように、
あなたが幸福になることを願えば、新しい力があふれてきます。
誰もが愛される大切な存在です。
自分の身体を、心を、存在を慈しみましょう。感謝して大切に扱いましょう。
心のどんな小さな声も聞き、大切に大切にしましょう。
その優しさは必ず外に反映され、愛し愛されるあなたがそこにいるはずです。
それができたなら、次は、あなたの周りの人達にもちゃんと愛を、気持ちを、
心の声を伝えてみましょう。
確かに愛を伝えるなんて、難しい、照れくさい、面倒くさい、という方も
いらっしゃることでしょう。
私も昔はそうでした。なんだか照れくさかったんです。
私が学生の時のことなのですが、大好きでたまらなかったおじいちゃんが
亡くなりました。胃ガンでした。冷たくなっていくおじいちゃんを前にして私は、
おじいちゃんが生きている時に、どうしてもっとちゃんと
「おじいちゃん大好きだよ」「とっても尊敬してる」「すごく大切な人
なんだからもっと一緒にいてね」と思いの丈を伝えてあげなかったんだろうと
すごくすごく悔やみました。そしておじいちゃんと約束しました。これからは
自分の想いを人にちゃんと伝えよう、言葉にしよう、行動で示そう、と。
それは時には誤解されたり、反省につながったりということももたらすのですが
私の一言でもしも、励まされたり、希望が持てたり、肩を押されたり、
元気になってくださる方がいらっしゃるのならばこんなに幸せなことは
ありません。
さあ、明日はバレンタインデー。
どうぞあなたの大切な人達に愛をたくさん伝えてあげてくださいね。
そしてあなたが愛いっぱいに、いつもお幸せに満ち溢れておられますように。
【2009.2.13 末金典子】
| 麗王だより 2009年