お元気ですか?
沖縄じゅうのあちらこちらの海開きももう終わり、夏本番に向かって若葉も
生き生きしていますね~。

前回お送りさせていただいたお便りの後に、選抜高校野球大会で沖縄県代表の
興南高校が見事に優勝を飾り、今やもう沖縄県のどこの高校が出たとしても
優勝できるのでは…と思うほど沖縄も強くなったものだな~と感慨一入でした。

その高校野球。
私には必ず思い出すゲームがあるんです。
それは昭和62年7月1日に岩手県営球場で、地方大会の開会式直後の2試合目に
行われた試合。岩手県の強豪・盛岡商業高校と無名の岩手橘高校との一戦でした。

結果は53対1という大差の5回コールドゲームで盛岡商が勝ちました。

勿論、私はその試合を目撃していた訳ではありません。翌朝、新聞の朝刊に
「歴史的大差」というトピックスとして小さな記事が載ったものを読んで
知りました。ただこの時私は、新聞に載ったこの試合のスコアボードの
写真を見て極めて強く興味を惹かれたんです。
いえ、53点の方ではなく1点の方にです。
今でも時々、地方大会の話題にこういう大差の試合が報じられることが
ありますが、ほとんど大差で負けた方のチームの得点は0点です。
力の差とはそういうものです。でもこの試合では、相手にたった5回で53点を
奪われるほど弱い岩手橘が何故か1点を奪っています。しかも、その1点は
なんと4回裏に得点していたのです。一体どうして得た1点なのでしょうか?
お情けで貰った点なら却って侮辱だし、哀れ過ぎます。
歴然とした力の差のある戦いでは考えられないほど重い「1点」ですよね。

野球が大好きな、さだまさしさんも、この試合に大いに興味を惹かれたそうで、
岩手の親友に無理を言って頼み、この試合のスコアのコピーを手に入れ、
マッチ箱を4つ、塁に見立ててテーブルの上に配置し、マッチ棒を
動かしながら、この試合を机上に再現してみられたそうなんです。
その時の感動を
「心が高鳴り、わくわくする様は上質のミステリーを読むようだった」と
表現なさっておられます。
その様子を雑誌に掲載なさっておられましたので、引用させていただきたいと
思います。あなたもぜひとも思い浮かべてみてください。

1回表、盛岡商は岩手橘の投手・藤原を攻め、
9安打7四球7盗塁に8つのエラーがからみ、打者25人で21点を奪う。
2回表、更に2安打と1エラーで2点。岩手橘はこの裏2安打を放つが0点。
既に23対0。
3回表は、15人の打者、6安打2四球5エラーで11点。岩手橘は3者凡退。
ここで34対0。手を抜かない盛岡商も立派だ。
4回表、3安打2エラーで3点を奪い、この回で既に37対0となる。

そして、いよいよ僕のこだわった4回裏が来る。岩手橘、1アウト後、
投手藤原がこの日盛岡商の記録した、たった一つのエラーで出塁する。
ここで5番セカンド下村が右中間3塁打を放ったのだ。後で聞いたことだが、
この時、球場全体がどよめき、大拍手が起きたそうである。それはそうだ。
正々堂々たる1点だ。僕も珈琲をひっくり返しそうになって拍手をした。
涙がこぼれそうになる。こいつら、ちゃんと出来るじゃねえか、と。しかし
5回表、盛岡商は13安打6盗塁に3エラーがからんで16点を加え、ついに
53対1というコールドゲームが成立した。
本来遊撃手だった藤原君はこの日、投手のいないチームにあって、
度胸が良いと言うだけで初登板し、5回で260球を投げた。
被安打33四球12奪三振2だった。神様は意地悪なのか優しいのかわからない。
投手がいなくて急遽登板した18歳の少年、藤原君をこれほど虐めなくとも
良いではないか、と思うが、それでもたった1点だけ返したホームを
踏んだのはその藤原君だった。

この暫く後、この一戦を揶揄する記事が週刊誌に出た時、私も激怒しました。
揶揄した筆者は余程野球を知らぬか冷酷で残忍な人です。繰り返しますが、
53対0なら凡戦です。でもこの、37点をリードされた後の4回裏の1点の重みは
野球好きでなくとも人間なら分かる筈なのです。この1点によってこの試合は
名勝負となり、私の胸に深く刻まれたのですから。

実はこの頃の私は、会社に入ってようやく仕事を覚え始めた時期で、
人間関係やら仕事のことやらいろいろなことで重みを感じ、途方に暮れていた頃
だったんです。だからこの岩手橘高校の1点は、何より「最後まであきらめるな」
という私への強いエールに思えました。37対0でも、たった1点を
取りに行こうとするのが「生きる」ことだよ。「捨てるな」と。

高校野球。それは、只の一度も負けなかったたった一つのチームと、
たった一度しか負けなかった4千幾つのチームで出来ています。
私は苦しい時いつもこの53対1のゲームを思い出します。
そして自分に言うのです。結果でなく中身だよ、と。

ゴールデンウィークの最終日はこどもの日。
童心に戻って、純粋な自分に返って、今のあなたの人生の中身を見つめてみて
くださいね。
そして忙しい毎日で磨り減った感性を取り戻し、
豊かな日々をお送りくださいますように。

【2010.4.27 末金典子】

お元気ですか?
長雨続きから晴れた~と思ったら、また今日から雨降りが続くようです。
それに先日の99年ぶりの大きな地震! みなさん大丈夫でしたでしょうか。

さて、明日は桃のお節句ですね。
このお節句は中国から伝わったもので、この日に川で手足を洗って心身の穢れを
祓ったといいます。
日本では、穢れや邪気を、身代わりの人形に移し、川や海に流し、川原や海辺で
干し飯やあられを食べて楽しんだのだとか。

私も子供の頃、おばあちゃんと母が、飾ってくれたお雛さまの前で、
どうしてひな祭りの日には、はまぐりの潮汁・白酒・ひし餅・などを食するのか
という話をしてくれたことを思い出します。
お膳にはその他、ちらしずし・桜餅・桜漬け・鯛の尾頭付き・ひなあられ・
菜の花のおひたし・白酒などが並んでいましたっけ。

大阪に住む母は今でも毎年私の代わりに、家に代々伝わるお雛さまを出して
飾ってくれていて、何年か前にその様子を写真にとって送ってくれました。
毎年その写真を見ながら思い出すのは、母や、亡くなったおばあちゃんのこと。
去年はおばあちゃんの「さよなら」の話を書きましたので、
今年は母との思い出を書こうと思います。
きっとどなたにでもあるような出来事ではないでしょうか。

思い出の焦点を合わせると…ぼやけている母の輪郭。次第に32歳の母の顔が
見えてきます。

母と一緒に百貨店に行った、私が5歳のときのことです。
私が迷子にならないようにと、ずっと母は私の手を握りしめて、
離しませんでした。
母がものすごい力で私の手を握りしめているものだから、私は痛くて、
ときどき母の手をふりほどきました。ふりほどくとなんだか嬉しくて、
私は走り出す。でもすぐに母に捕まえられて。まるで手錠をかけらるかのように
ガチャンとまた母の手におさまることになるわけです。
とにかく、じっとしていられない私は、ムズムズしていました。
だって、百貨店ってなんだか、わくわくするし楽しそうなんだもん。
おもちゃ売り場にも行きたいし、屋上には遊園地もあるし、大食堂で大きな
ホットケーキも食べたいし、本売り場で絵本も見たい…。
でも結局は、母とずっと一緒にいるはめとなり、母のお買い物をしただけで
帰ることとなりました。
母が売り場に忘れ物をしたことに気がつき、走って取りに行ってくるからと、
正面玄関のすみで「ここで待つように」「どこにも行かないように」
「ぜったい動かないように」と母は私に何度も念をおしました。
動かないように、と言われても、動かないワケがありません。
ずっとじっとしていた私の体はムズムズしていたんだもん。
母が走って行くうしろ姿をみながら、私は「自分一人で家まで帰ろう」という
大冒険を思いついてしまいました。
そこからの帰り道は、5歳の足をもってして30分ぐらい。
家路は、勝手知ったる線路沿いのまっすぐ道。私の名前を呼ぶ母の声が
聞こえたような気がしたけれど、大冒険に魅せられた私は、
その声をふりきるかのように家路へと歩を進めました。

無事家に辿り着いた私は、玄関先にちょこんと座って、母が帰ってくるのを
首を長くして待っていました。母は、きっと褒めてくれるに違いない。
私はあの長い道のりを一人で帰ることが出来たのだから。
そうこうしているうちに、母がすごい形相で走ってきました。
母は「良かったあ!」と笑ったかと思うと、「なにしてたん!」と怒ったり、
「ごめんなさいは?」と叱ったり、震える手で私を抱きしめたり。
母の矢継ぎ早の言葉とコロコロ変わる態度についていけず、私は固まったまま、
母を眺めていました。
私が消えた、そのあとの百貨店では大変な騒ぎとなり、母は気が狂わんばかりに
私を探したのだといいます。だから、近所のおっちゃんやおばちゃんたちや
百貨店の人や、おまわりさんまでもがうちの玄関先に集まっていて、
私は目を丸くして、母とみんなを交互に見つめていました。
だって最初は、みんなが私を褒めてくれるために集まっているのかとも
思ったんだもの。
でもそうではなくて、母はずっとみんなに頭を下げて謝っていました。
泣いたり笑ったりしながら、謝っていました。

私の記憶の中で「謝る」という光景を見たのは、このときが最初だったような
気がします。
母は自分も頭を下げながら「ほら、みなさんに謝んなさい!」と、
私に言いました。
褒められるはずの期待の光景が、全く違ったものとなり、私はかたくなに
言葉が出てきませんでした。なぜ謝らなければならないのか、
ちっとも分かりませんでした。
集まっていた人達がみんないなくなり、私は母と二人だけになりました。
母は「一人で帰ったら危ないやろ」「どんだけ心配したか」
「みんなに迷惑かけたんやで」と、まだ私を叱っていました。
自分がどんどん悪者になっていく。こうも叱られているところをみると、
どうも私はいけないことをしたようだ。
なんだか泣いているようなワケがわからない母がかわいそうになってきました。
さいごに母は
「ごめんなさいは?」
と、また私に言いました。
だから私は、
「ごめんなさい」
と、低い声で呟いたのでした。

その後も母は私が何か失敗するたびに、
「ごめんなさいは?」
の連続です。
私は、素直に「ごめんなさい」を言うときもあれば、口を一文字にして、
大粒の涙をポロポロと流すだけの時もありました。
そんなときは、
「言いたいこともあるやろうけど、まずはごめんなさい、をゆうてちょうだい」
と、母は厳しく私に言ったものでした。
たとえ子供といえども、なぜごめんなさいが言えないのか、
自分がいかに悪くないのか、理屈を言いたいものです。自己主張の始まりでも
あるのですが。
でも母は、謝ることの出来る大人になってほしいと、
かたくなにそこは譲りません。
そのかわり、言い訳をしたいのなら、謝った後で聞きましょうという具合です。
5歳の大冒険を「ごめんなさい」のあとで聞いてくれたように。

思い返せば、新入社員時代。
ここでも「謝る」ということを徹底的に教わりました。
たとえ自分に非がなかったとしても。まず、謝る。
それでも、謝る内容が理不尽なときは素直に謝ることのできない自分もいました。
でも上司は私にどんな理由があるにせよ、とにかく謝れといううわけです。
そのおかげで、私は実に様々なことを学ぶことが出来ました。
謝ることで、相手の気持ちを想像することが出来る。
なぜこの人は怒っているのか? なぜそれはいけないことなのか?
それらを想像することによって、自分自身にとって実のある訓示が
山ほどあることに気づきました。
なぜ?という疑問を持つ習慣も身につく。
謝ったことで知らないうちに相手を傷つけていたことを知るときもある。
人の痛みを知る、ということも知る。
いかに自分が井の中の蛙であったかを思い知ったりもする。
つまりは、「ごめんなさい」や「すみません」という言葉は、
その人の負けを意味した言葉ではなく、責任を追及しただけの言葉でもなく、
自分をより成長させてくれる言葉なのだということを、
私に気づかせてくれたのでした。

乳幼児教育の先駆者、井深大さんの著書に
「感謝や尊敬や謝罪は理屈で覚えるものではない。
親が率先してお手本を示しながら、くりかえし人間社会のルールや約束ごとを、
身につけさせていくこと。これが、しつけの根本的発想」だとありました。
母のしつけも、上司の教えも、理屈抜きでした。
その有無を言わせぬ「謝るということ」は、私の礎になったと感謝しています。

でも、大人になるほど「ごめんなさい」が言えなかったりしませんか?
子供の頃にはなかった見栄やプライド。そして凝り固まった思考回路。
それらが「謝る」ということに歯止めをかけている場合が多いものだから
でしょうか。
大人になればなるほど理屈っぽくもなっていくから、
大人ほど心してかからないといけないのかもしれませんね。
本当は、大人になるって、いらないものを剥ぎとって、
スマートな心になるってことでしょう?
それを怠ると、なにかにしがみついて、頭の固い、融通のきかない、
大人になってゆき、終いには「がんこおやじ」「おばちゃん化」とかと
言われてしまうんでしょうね。
そんなことを考えると、これからも、柔らかい理性を持ちたいと思うし、
いつもまっさらな自分でいたいと思います。

あなたにとっての、まっさらな自分ってどんな人ですか?

素直な心。
優しい気持ち。
謙虚な態度。
そして謝ることの出来る人。

そんな人に、私はなりたい。

長くなってしまいましたが、
明日は古式ゆかしく、まっさらな気持ちで、ひな祭りを祝おうと思っています。
あなたもぜひ御一緒にお祝いくださいね。

【2010.3.2 末金典子】

お元気ですか?
寒くなったり、ゆるんだり、じとじとしたりの毎日ですが、
体調を崩されたりなさっておられませんでしょうか。

明日は立春の前日で、節分ですね。

私はこの日がくるたびに、偉大な童話作家・濱田廣介の「泣いた赤鬼」という
名作を思い出し、いつも御紹介しているのですが、このお話を知らない人が
意外に多いと聞いて吃驚するんです。
私はこのお話がもう大好きで、毎年毎年この日がくると、自分の心に
思い起こさせるためにも、このお話を読み返すことにしています。
あなたも御存知であるかもしれませんが、是非新たな気持ちで
お読みいただけたらと改めて御紹介させていただきます。

「鬼」と言えば人間を苦しめる「悪」の存在、のイメージですが、
濱田廣介の鬼はそうではありません。
人間と仲良くしたくて仕方がないんです。
それで、
「私はやさしい鬼ですからどうぞ皆さん遊びに来て下さい。美味しいお茶を
用意していますよ」
という立て札を立てるんですが、そうなると人間は疑り深く、却って誰も
寄ってこないんです。一旦嫌われると、人間社会というものはそんなふうに
徹底して冷たいものですよね。
この悩みを親友の青鬼に相談すると、青鬼は赤鬼のために一役買おう、と
言いました。僕が人間を虐めるから、そこへ君が来て僕をやっつければ、人間は
君を信頼するだろう、と青鬼は言うのです。
赤鬼のために自分が悪者になることを提案する。
赤鬼はそれでは君に申し訳ないと言うのですが、青鬼は、君がそれで人間と
仲良くなれたらそれは僕も嬉しいと言うんです。
それで言われた通りにすることにしました。
青鬼が人間の村で暴れているところへ赤鬼が駆けつけて、青鬼をやっつける。
「痛くないように」殴ろうとすると、青鬼は本気でやらなきゃ駄目だ、と諭す。
赤鬼が「本気」でぽかぽか殴ると、予定通り青鬼は逃げ出しました。
そしてこのことで赤鬼は人間と仲良くなることが出来ます。
ところが、人間と仲良くなって嬉しい日々が過ぎてゆくと、今度はふと、
自分のために犠牲になってくれた青鬼のことが気になりました。
そこで山を越えて青鬼に会いに行くと、青鬼の家は空き家になっていて、
立て札が立っていました。青鬼からの手紙でした。青鬼は赤鬼がきっと
自分のことを気にして訪ねてくるだろうと分かっていたのです。
でも、万が一、二人が仲良しでいるところを人間に見られると、
赤鬼はまた疑られる。だから僕はずっとずっと遠いところに行きます、と
書いてありました。
そして最後に「ドコマデモキミノトモダチ」と結んでありました。
それを見て赤鬼はおいおいと泣き出すのでした。

この話は何度読んでも感動します。私は同じ所で泣いてしまうんです。
その理由は「情」なのだと思います。なさけに溢れた話だからです。
「義」もあります。「自分が考える正しい行いをしよう」という誠意に
溢れているからです。
「感謝」もあります。赤鬼の涙は青鬼への感謝と、これほど自分を
思ってくれる友達を失ってしまった後悔の涙なのでしょう。

まず、青鬼は自分が赤鬼のために悪者になろうと決めたとき、既に赤鬼との
決別を決意した筈です。そして自分を犠牲にした後も、決して赤鬼に
「自分がしてやった」などという高慢な恩を着せることもなく、最後の最後まで
赤鬼の立場に立って物事を考えます。
相手のために本当に何かをする、ということはここまで考えて行動することでは
ないのでしょうか。
また、青鬼は赤鬼が自分の思いを必ず分かってくれる、と信じているから
自分を犠牲に出来るわけです。
相手がきっと自分の真意を分かってくれる、という信頼感は一朝一夕には
生まれません。長い時間をかけてお互いの人間関係の中で練り上げてゆくもの
です。自分の都合ばかりで人を恨んだり疎ましがったりするのはエゴでしか
ありませんよね。

実は今、日本に一番欠けているものは、こういった「情」なのだと思います。
暮らしの根幹が揺さぶられるような時代に、私達は生きています。
資本主義は疲弊し、アメリカの問題を日本が一番被り、10年以上も続くであろう
という不況の風が吹き荒れています。
それとともに、たくさんの人々が職を失い、異常な犯罪が増え続けている
今の世の中です。
私は「泣いた赤鬼」に出てくる「青鬼」の赤鬼への真の友情を思うたび、
泣けて泣けて仕方がありません。そして、鬼が悪だと誰が決めたの?と
思ってしまうのです。そうですよね。余程今時の人間の方が「鬼」より
悪いのではないでしょうか。

でも、そんな世にあっても、友情や善意は必ず存在するのです。
いえ、こんな時代だからこそ「情」や「義」や「愛」といった心を大切に
しなければならないのです。

確かにこんな世の中だからと、不安になったり、イヤなことが起こるような気が
したりしますよね。
それが世の常であり、人生とはそんなものですから。
でも、よくないことと同じくらい素晴らしいことが起こることも確かです。
ついては、建設的なことに焦点を合わせ、物事の明るい面を見たいものです。
青鬼のように、許し、思いやり、寛大になり、信じましょう。

私は青鬼ほどにはまだまだ「無私の心」で友人や多くの方々と
向き合うことが出来てはいないけれど、こんなふうにありたい、
と思うか思わないかでは、相当な違いがあると思っています。
私、今日はちゃんと周りの人に優しくしていたかなぁって、思う毎日です。

さあ、明日は節分。

立春が一年の始まりだった昔、新しい年神さまを招く前に、来る年の災いである
鬼を祓う行事として、前夜に行われていたそうです。
そう考えると「鬼は外、福は内」の理由がわかりますよね。
この日に、いり豆をまいたり、年の数だけ食べたりする風習は室町時代に広まり
豆が「魔滅」に通じ、邪気を祓うからとか。
また、「まめに=健康に」とか、面白い説がいろいろあります。
折りにふれ、季節にふれて、健康を願う昔の人の豊かな心が感じられますね。

「鬼は外、福は内!」
この日は、子供の頃、そう言いながら、縁側から炒った豆をまいたことを
昨日のことのように思い出します。
「今日からは暦の上では春よ。」という母の言葉に、
なんでこんなに寒いのに春なの? と思いながらも、その言葉の柔らかさには、
妙に胸がわくわくしたものでした。今私に子供がいたら、母と同じ台詞を
投げかけるだろうと思います。
私、この「暦の上では」という言葉が好きなんです。
どんなに寒かろうが、そう声にするだけで、何だかあったかくなる美しい日本語
ですよね。

明日はあなたも大きな声で豆をまいて。
「鬼は外、福は内。」
そして今年の恵方・西南西に向かって、幸運をおいしく呼び込む恵方巻き寿司を
ガブリ!とまるかぶりなさってくださいね。
今年一年の幸せを心から願って。

【2010.2.2 末金典子】