今年は特に暑さが厳しくて、猛暑の毎日が続いておりますが、
暑さに負けずにがんばってお仕事にお励みでしょうか。
さて、過日のことですが、麗王でもお馴染みの沖縄大学准教授・樋口先生と
お話しようと、沖縄大学に息子さんを通わせておられるお母さま達が麗王に
いらっしゃいました。
(お母さま達と言っても私よりもうんと若くお美しい方達ですが。)
お話をうかがってみると、樋口先生の授業を受けてから息子さん達が
イキイキとし始め、前向きな人生を送るようになり、
態度も激変してきたのが嬉しくて、いったいどんな授業を受けているのかしらと
興味が湧いたので、樋口先生の社会人向け「次世代金融講座」を
受講しておられるとのこと。旦那様も巻き込んで一緒に受けておられる方も
いらっしゃいます。
私も学生時代に教育学を少しばかり齧った人間なので、この方達のお話を
うかがいながら、改めて教育っていったいどういうことなのだろうと
考えました。
教育(education)という言葉の意味は、ラテン語のエド(ed)、つまり何々から
というのと、ドゥカール(ducar)、引き出すという二つの言葉からできています。
つまり、何々から引き出す、または内部にあるものを引き出すという意味です。
ということは、ちょっと霊感少女もどきの私が考えるに、
教育とは、その人がもうすでに知っていることを引き出す、
その人本来のものを引き出す、ということなのではないのでしょうか。
私達が輪廻転生を繰り返しているとすれば、私達はもうすでに何回も
学んできたはず。だから私達はそれぞれ、ものすごい知識と経験を
前世から得ているに違いありません。
きっと昔の人は、教育とは人々がすでに知っていることを見つけるのを
手伝うだけだと知っていたのではないでしょうか。
本当の私達はすべてのことをすでに知っているのかもしれません。
今改めて読んでいるプラトンの「国家論」の最終章にも出てきますが、
どうもプラトンやソクラテスもそう信じていたようなのです。
また、あるお母さまは、息子さんのことで悩んだ時期もあったけれど、
親御さんの介護をしておられる時にウツも経験され苦しまれたということでした。
女の子ばかりの姉妹の末っ子に生まれた彼女は、介護をしてあげているお母様から
「男の子を期待していたのに、あなたなんて産まなければよかった」というような
内容のひどい言葉を投げられたそうなのです。
私も父から言葉の暴力を受けた思いがあるので胸に応えました。
これまた、ちょっと霊感少女もどきの私が考えるに、
時には、血のつながった家族が本当の家族ではないことがあるように思うのです。
あなたの両親、兄弟姉妹、親類が、あなたを理解しないこともあります。
あなたに愛と思いやりを示さない場合もあるでしょう。
あなたを拒否し、残酷に扱うかもしれません。
あなたには非人間的に扱われても仕方ないような負い目はありません。
家族であろうと何であろうと、その人達の虐待的行動のターゲットに
なることによって借りを返すといったカルマ的な責任はあり得ません。
誰かを虐待し傷つけるのは、虐待する人の選択や自由意志による行為です。
虐待が当然だということは、絶対にありません。
でも、もっと成長すると、自分を本当に愛してくれる友人や知人に囲まれるように
なります。尊敬と敬意をもって愛され、大切にされることによって
得ることができる安心感を、彼らはあなたに与えてくれます。
こうした友人や知人は本当の家族となります。彼らはあなたと同じ霊的な価値観を
持っているかもしれず、あなた方はお互いに助け合いながら、良き方向へと
成長してゆくこともできます。
こうした人々は、あなたの魂の家族です。血のつながった家族から拒否されると、
魂の家族があなたを受け入れ、育て、そしてあなたにとってとても大切な家族と
なります。
血は水よりも濃いという、昔の格言があります。
これはつらい時に、たとえ友人知人があなたを見捨てても、血のつながった親類は
助けてくれるとあてにできる、という意味です。もし、本当に血は水よりも
濃いのであれば、魂は血よりも濃いのです。あなたのためにそこにいる魂の家族は
どんな時にも頼りにできるのです。
じゃあどうして実の親子は傷つけ合ったりするのでしょう?
実は、私達は両親を選んで生まれてくるそうです。
このお母さんの子供に生まれよう、この人をお父さんにしようと決め、
相手と約束して生まれてくるのだそうです。
「こんな家族の下に生れてきていやだった」と言う人が時々いますが、
これはとんでもないことで、私達はこの世界に生まれたくて、自分で親を選び、
彼らにお願いしてここへと生れて来ているのです。
もちろん親のほうにしても、お願いされるだけではなく、
「このような子供がほしい。ついてはこの人に子供として生れてきてもらおう」
と決めていたわけですから、お互いさまだとも言うことができます。
そんなこと信じられないと言う人もいるかもしれませんね。でも、最近の子供達が
このことをどんどん証明しています。
「僕はお母さんを選んで生れてきたんだ。とても優しそうな人だったから」
「お空にいたころ、どの人がいいかなぁと思ってお母さんになってくれる人を
探していたよ」
などとお話しする、小さな子供達がいっぱいいるのです。
(こういう事例の研究は社会学者・飯田史彦さんの一連の著書「生きがいの創造」
などに詳しく書かれています)
両親と子供の関係が悪いこともよくありますが、そんな親子でさえも、お互いに
選び、頼み合って親子となり、この世にやってきたのです。
子供は、自分に必要な試練を与えてくれることを期待して親を選ぶことも
あるからです。
反対に、子供のことで苦労して成長したいと願って、子供と約束してくる
お母さんやお父さんもいっぱいいます。
とくに今は、多くの人達が自分の本質や魂の世界に目覚めようとしている時代です。
親子関係から魂の目覚めと探求を始めようと、親と子供がお互いに必要な
学びのために約束し合って生まれてきています。
そう考えると、親子の関係がどうあれ、お互いに感謝し合うことが大切だと
思うことができるような気がしますよね。
人は誰でも、人とのつながりを求めているのです。つながりを確かめるために、
人はマイナスの行動にでも出てしまう生き物ですから。
生理的未成熟で生まれてくる私達人間という生き物は、
生まれてからしばらくの間、誰かの優しさをもらわないと生存できない存在
なのです。
だから、赤ちゃんは、存在をかけて必死で泣きます。
大人になった私達は、泣かないまでも、心で叫びます。
「誰か、私のこと、知っていますか!」と。
絆。つながり。
自分で生きていくことができる大人になった今でも、他者とのつながりは、
根源的に大切なものであることを本能の部分で知っているのです。
そんなこんなを週末の七夕の空を見上げながら考えました。
さぁ~、これからまたありがたくも麗王で知り合うことができたみなさんのお話を
じっくりうかがうのが楽しみになってきました!
次の連休は海の日。あなたの大切な人とぜひお出かけくださいね。
【2013.7.11 末金典子】
| 麗王だより 2013年
あれ?梅雨ってもう終わったっけ?というほどいいお天気が続いていて
気持ちのいいうりずんの頃ですね~。
でもさすがに今日はちょっと雨模様って感じでしょうか。
あなたはお元気にしていらっしゃいますか? 素敵な毎日を過ごしておいでですか?
今日はまずまずいい一日だったなぁ。私は、一日の終わりに、そう思います。
毎日そう思うのですから、かなりのんきな人間だと思われるかもしれません。
私の暮らしは、ごく普通で、特に恵まれている訳でも、幸運ばかりの人生でも
ありません。いいこともあれば、悪いこともあります。ラッキーなこともあれば、
不運なこともあります。
疲れた日。うれしい日。何もなかった日。怒りがおさまらない日。くやしい日。
悲しかった日。楽しかった日。
毎日というのは、くるくる変わり、そこには、楽しいことも、嫌なことも、
いっぱい詰まっています。
けれども、どんな日であれ、一日の終わりには、今日もまずまずいい一日だったなぁ
と思います。たとえその日に嫌なことがあったとしても、私は何かを見たり、
聞いたり、感じたりしながら、今日一日をまるごと体験し、五感と思考、
喜怒哀楽の感情を持ったひとりの人間として、今日という一日を生きたのですもの。
以前にも書かせていただきましたが、私は麗王を始めた17年前から
「今日のいい事日記」を書いています。
一日の中で良かった事をひとつ捜して書くだけです。
今、その日記をパラパラとめくってみると、
「お天気が良くて、お洗たく物がカラッと乾いて気持ちがいいなぁ」
「お客さまに、やせたね、と言われて嬉しい」
など、些細なことが多いですが、それを幸せだと感じられる喜びを知り、
また心の持ち方ひとつで毎日が変わるんだとも学びました。
どんなにちっぽけなことでも、寝る前にひとついい事を見つけると、
あぁ今日もいい一日だったなと思うことができ、感謝する気持ちが大切だと
気づくのです。
こんな日もあります。「今日はほんとサイテーなことがあったなぁ。
でもサイテーを100%経験できたし、まずまずいい日だった。」
ちょっと理屈っぽいかもしれないけど、そんなふうに、ありのままの一日を
受け止めて、素直にいい日だったと思うことができるのです。
今あらためて「今日のいい事日記」を見てみると、
今日のいい事が集まって、あっという間に17年。
私って実は17年間毎日幸せだったんだなぁなんて単純に感動してしまいました。
幸せは自分の心の中にあるもの。
幸せがやってくるのをじっと待つだけではなく
見つけ出すことのほうが大切なのだとしみじみ思いました。
毎日というのは、虹みたいなものだなと思ったことがあります。
虹はいろんな色が集まってできています。仮に色がひとつしかなかったら、
たぶん虹を見るたびに感動することはないでしょう。どんないきれいな色でも、
いつもいつも同じ色だったら、きっとすぐにあきてしまうにちがいありません。
毎日というのもそれと同じで、いろんな出来事があって、いろんな感情が
湧いてきて、だからこそ、楽しいことを楽しいと思うことができ、
悲しいことを悲しいと思うことができるのではないでしょうか。
毎日が楽しい事だらけだったら、楽しいと感じることさえ
できなくなってしまうかもしれません。
今日一日を振り返ると、どんな一日だったでしょう。
一杯のお茶がおいしかった日。自分が無価値に感じた日。猫が甘えてきて
うれしかった日。涙がぼろぼろ止まらなかった日。穴があったら入りたい日。
空がとても青かった日。
小さな事から大きな事まで、毎日というのはいろんな色を持っています。
私達はたくさんの色を通り過ぎながら、ひとつの大きな虹をかけているのでは
ないでしょうか。
もうそろそろの梅雨明けの虹が楽しみですね。
そういえば、沖縄に引っ越してきた24年前、初めて空いっぱいにかかる大きな虹を
見た日が父の日でした。父に電話をかけてその話をしたことを覚えています。
今週末の父の日にはどんな話をしようかな…。
【2013.6.13 末金典子】
| 麗王だより 2013年
ゴールデンウィークはのんびりなさいましたか?
私はといいますと、おうちでひたすらのんびりと本を読んだりDVDを観たり
お料理を作ったりして過ごし、それだけでは太る~!っと、ランニングもしっかり
こなした連休でした。
さて、この週末は母の日ですが、あなたのお母さまはどんな方ですか?
私の母は、昭和9年生まれの79歳で、学校を卒業するとすぐに祖父の代からの
洋食レストランで働き、数年前に引退するまでずっとレストランの看板として
店を切り盛りしてきた「大阪下町のおばちゃんアイドル」のような女性なんです。
以前も書かせていただいたことですが、母は子供である私が言うのもなんなのですが、
いつもすること言うことが仏さま・観音さまのような人なのです。
例えば、私が子供の頃、母と一緒に一緒にゆうげのお買い物に行く途中、
道端のお乞食さんに出会うということがありました。
すると母は、自分のお財布の中に1000円しか入っていなくても、
今日使うことができるお金を惜しげもなく全部あげてしまうのです。
それも迷うことなく間髪をいれずにさっとあげてしまうのです。
私達の夕食のお買い物にあてるお金を全て、です。
私が「なんでぇ? 今日のお夕食はどうすんの?」と聞くと、
母は決まって「お家にあるもんですませよね。」と言うのです。
「コロッケ作ってくれるって言うたのにぃ。」と恨めしく言う私に、
「こういうことを“お布施”って言うねんよ。
考えてごらん。もしもあのお乞食さんが神さまやったらどうすんのん?
それに、お布施はしてあげるんやないよ。させていただくんやで。
させていただくことによって私達の心の中に清々しい気持ちが湧いてきて
その気持ちを逆に恵んでいただいてるんやよ。
そういう世界に私達を導いてくれはるために神さまがお乞食さんの姿に
なってはるのかもしれへんやろ?
あげてるんやなくて、もらっていただいてるんやよ。」と。
はぁ~、お坊さんだったおじいちゃんにして、この娘あり、って感じですよね~。
まぁ、そんな母でしたので、レストランには、純粋に「布施名物のコロッケ」や
洋食を食べにいらしてくださる人達の他に、いろいろな悩み事を抱えた人達が、
相談やお話をなさりに連日わんさかといらして、母はただただみなさんのお話を
じっくりとうかがっていたものです。
母親がこのように家業でお商売をしていたものですから、私も子供の頃から必然
学校から帰ってきてランドセルを置いたらすぐにお手伝いです。
遊びにも行けません。限りないお皿洗いに、寸胴いっぱいのゆで卵や海老の殻むき、
ダンボール箱にいっぱいのじゃがいもやにんじんの皮むき、紙ナプキン折り、
フライ売り場の売り子さん、ウエイトレス…。
それが終わったら暖房も冷房もない倉庫で、みかん箱の机と裸電球で宿題です。
今思えば、けなげ~。 だから、私は子供の頃に誓ったことがあります。
「大人になったら絶対商売人になんてならないから!」と。
それが何の因果でしょう…。結果、自分もお商売をし、いろいろな方達のお話を
うかがわせていただく毎日を送ることになるとは…。
ただ、母と私の違うところは、私はお節介でせっかちなところがあって、
みなさんの悩みやお話をうかがううちに、解決してあげたいという想いから
「ではこうしたらどうでしょう?」なんてつい言ってしまうんです。
でも、母の日を前に、母の仕事をゆっくり思い出し気づいたことがあります。
悩みに押しつぶされそうになる人、心を病む人というのは、
もともと心が純粋で、繊細なのだと思います。
心に傷を負った時、すぐに家族や友人達の中に支えてくれる人を見つけることが
できればよいのですが、それができないと、どうしたらよいのか自分では
わからなくなって、精神状態が大変不安定になってしまいます。
そのような人達がレストランにいらっしゃると、母は、その人の話したいこと、
思っていることを全部うけとめて聞くようにしていました。
「あなたはそう言うけれど、それは間違っているわよ」とか、
「こうすればいいのよ」とか、途中で話をさえぎるようなことはしません。
そのようなことをすれば、相手は開きかけた心をまた閉ざしてしまいます。
また、ただぼんやりと聞いているだけでは、相手もなかなか話してはくれません。
そこを母は「そうやね」「それは大変やったね」と、自分をその人の身に置きかえ、
共に喜び、共に悲しむという気持ちで聞いてました。
そうすると、自分が受け入れられているという安心感からなのでしょう、
次から次へと、みなさん心の内を話しておられました。
そうして最後には、母がその人に最も伝えたいと思っていることに
自分で気がつかれ、自分で答を出しておられたように思います。
そうなのですよね。
悩みを抱える多くの人は、本当はどうすればいいのか、自分でわかっています。
ですから、ああしなさい、こうしなさいと、アドバイスめいた指示をするのではなく、
そばにいて共感し、その人が自分なりの解決の方法を見つけるのを
お手伝いすることが、私や麗王が、いらしてくださる方のためにできること、
もしくは少しでもお役にたつことができることなのではないかしらと
改めて感じました。
支えるとは共にいることであり、寄り添うこと。
そんなふうでありたいなと思っています。
あなたがお母さまから学ばれたことはなんですか?
【2013.5.9 末金典子】
| 麗王だより 2013年